解 題
『将棋必勝法』は天野宗歩の四天王の一人渡瀬莊治郎六段の作品集で、大正4年9月12日に木見金治郎七段解説で文進堂書店および斯文館書店から出版されたものである。
『将棋必勝法』上編 下編は必至や必至逃れなど36題と詰将棋35題を収録したもので、一般には必至の方が有名である。
原本の序文の中で小野名人の直話として「これは渡瀬氏の作となっておりますが、その実は天野宗歩氏の作であるということを私は承知していたのです」と記述している。
詰将棋の内容は既著の『待宵』などとの重複もかなり多いが、これは出典が纏まった稿本でなく、「京都の某氏に秘蔵されていた渡瀬氏の遺稿」だったためと思われる。
必至図式第1番―第10番
必至図式第11番―第20番
必至図式第21番―第30番
必至図式第31番―第36番
実戦集
序
将棋即ち象戯を支那より伝来せるものと云うは可なり、しかれどもこれを支那において創作されたるものと云うは不可なり、けだしその創作は印度にあるべく、
後ようやく東西に伝わり西に入っては今の西洋将棋となり、東に入っては今の支那日本の将棋となることを知る。
しかして西洋支那の将棋はなお創作時代の面貌を存すること多く、したがってまた簡易浅薄を免れず日本の将棋もまた中将棋時代にあっては未だその巧妙をつくすに至らず。
すでにして現今行わるる小将棋に至ってその精巧玄妙を極め、遠く西洋支那のそのものに卓越するに至れり。
その余技にまた詰将棋あり代々の名匠によって作為され、互いに巧を競い妙を争い術斯に至って極まるの嘆あらしむるもの少なからず。
然り而して故渡瀬氏これをもってなお足れりとせず新たに必至図式数十番を作り未だ世に出さずして没す。思うに氏は之をして百番に満たしめ而して後に世に問わんとせしものなるべし。
このごろ木見金次郎氏之が解釈を述作し始めて之を世に公にするに至り、詰将棋以外において斯界に一生面を開き、この技に遊ぶものをして
嘆また嘆その巧妙を叫ぶに暇あらざしむるに及べり。予のこの技における極めて浅ししかれども之を見てなお興趣の忘れがたきを覚う。
もしこの技に深きものをして見せしむのば必ずや手を措くこと能わざるものあるべし。
支那の俗諺にいう。惺々は惺々を知ると、斯道に惺々なる人、ますますこの書の惺々なるを知るべし。
愛花仙史
凡 例
天野宗歩氏が将棋の技に卓絶したことは世のすでに知るところでありまして、その技は九段の名人といえども香車を落さるるほどの相違があったといいますから、もし九段の上に段級を置けば十一段に相当します。
然ればその門中にもこの技に卓絶した人物が輩出して現今の名人小野五平翁もかつてその門に学んだということであります。
而して宗歩氏は京都に住居せるために、その門弟も関西地方に多く、その四天王と称するものは京都の平井寅吉、渡瀬莊治郎、及び大阪の小林東伯、伊勢の田中光次郎であります。
そのうちで渡瀬氏は六段で終わりましたが、これは宗歩氏が大橋、伊藤両家元に従わざりし結果、七段で終わったために渡瀬氏も六段を越えなかったことと思います。
しかし常に天野氏と香落で手合わせしていたところを見ますと天野氏より二段落ちで実力はすでに名人の域に達したことと思います。
しかし渡瀬氏が四天王中で一番世に重んぜられておりますのは、ただその技腕ばかりでなく、どこかに頭脳の勝れたところがあったためと思います。
関東地方では所沢の東吉などが民間派で名高いようでありますが関西地方では渡瀬氏が最も重んぜられていたのであります。
しかして渡瀬氏の技腕の外に頭脳の勝れていたということは、その遺書で知られるのでありまして、同氏の遺書には六枚落より始まって平手に至る新定跡書があります。
これは天野氏の「精選」以外に新機軸を出したもので未だ刊行されていませんが頗る珍しきものであります。
その外に最も珍とすべきは、この度私が解説を付して印刷にいたしましたこの「必至」であります。
この「必至」及び詰将棋は併せて七十一番でありますが、京都の某氏に秘蔵されて世に出でずにおりましたのを京都の早川六段が手に入れて愛玩していたのを、
今回私が譲り受けて更に解説を付したものであります。
原書はただ図式のみでその解釈がありませんのでしたから、これが解説を付するには頗る苦心を要しました。
詰将棋は王手王手で詰めるものでありますから有段の棋士などには然まで解説に苦しむものでありませんが
「必至」は一手すきでありますから、その必至の懸け方、玉将の逃げ方に際限のないほど変化が多くあります。
それを、そのうちにつきて双方が最善をつくしたものを見いだして本筋の解説を付するのでありますから容易の業ではありません。
しかし未熟の私ながら幸いに解説の出来上がったところを見ますと渡瀬氏が遺されたる図式の如何に深遠巧妙であったかに驚かれるほどでありました。
これが百番もあったならばと思いますが、この三十余番でもこれを作り上げた勲功は前人未発の働きであります。
道は一なりと申しますから、これだけでもよく研究して頭に入れたらば数百番を見ると同様少なからぬ利益を得ることと思います。
附 言
必至ということは俗にいう「一手すき」ということであります。急に王手王手で詰めようとしては却って指し切る場合が多くあります。
これを一手すきにて縛っていくのが将棋の極意で、この書はこれを主としたもので今日まで一つも刊行されたものはありません。
詰将棋は他の作者も多くありますが、渡瀬氏の遺書として存在したのは、これだけであります。
実戦棋譜は「手鑑」などにも出ておりますが、渡瀬氏の遺書を刊行するついででありますから、末に添付いたしたのであります。
「必至逃れ」「両必至」は僅かに数局のみでありますが、これまた参考となるもので、特に両必至に至っては、我必至を逃れつつ敵に必至をかけていく面白味は
何ともいえぬほどの働きが見えまして興味津々であります。
木見金治郎
小野名人の直話
本書を出版するにつき名人小野五平先生がかつて天野宗歩氏に学びしという関係と先生が現今斯道の泰斗たるとの意義よりして、その校閲を先生に請いしに先生は語って曰く。
この必至図式は私も之を京都で度々尋ねましたが終に手に入れることを得ませんでした。
何ゆえ私が尋ねたかというに、これは渡瀬氏の作となっておりますが、その実は天野宗歩氏の作であるということを私は承知していたのです。
渡瀬氏は宗歩氏の家に小児のときから弟子となっていたので現今ならば勿論名人の手腕があったのでありますから渡瀬氏の作としても立派のものでありますが、
その実は宗歩氏の作であって、渡瀬氏に内授されたものと致しますれば一層の光輝あるものであります。
私の尋ねたときにも図式のみで解釈のないということは聞いておりましたが、その図式すらも容易に手に入り難かったのが、今回その解釈まで出来て出版になるということは、
誠に結構のことで私も喜ばしく思います云々。
以上はこの書に対する小野名人の直話なれば、これを附記してこの書の如何に価値あるかを証明す。
書肆しるす
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