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『将棋無双』は七世名人三代伊藤宗看の献上図式で、俗称『詰むや詰まざるや』とも呼ばれ、古今で最も難解な作品集である。『将棋無双』は難しいだけでなく、作品の巧妙さ・美しさでも群を抜いた存在で、彼の弟である看寿の『将棋図巧』と並んで詰将棋の最高峰と言われている。 『将棋無双』は難しい上に解答本がほとんど世に伝わらなかったので、全部で何題詰むとか詰まないとか、作者がわざと解答を付けなかったのではないかなどと伝えられ、長年棋界の謎とされてきたいわく付きの難物である。昭和四十年代に献上本の原本が当時皇居内にあった内閣文庫で発見され、それに作者の解答本が付いてい たのでようやく原作者の意図が判り、やはり作者の見落としで最初から詰まない図が何題か含まれていたことなども明らかになった。 図面に関してはまだ幾らか問題がある。『将棋無双』の原本は、享保19年(1734)に家元から出版された美濃大判の原書が、稀観本ではあるが、全国各地に何冊か伝わっている。これらは(実際は享保以後に刷本されたのだろうが)何れも『享保版将棋無双』と呼ばれている。 ところが、同じ『享保版将棋無双』なのに、互いに幾らか違う図が伝わっている。 それらを完全に比較することは困難であるが、判っている限りでは、全ての本がいろいろ違っており、どれを「決定版」にすべきか決め手がないのである。 普通なら、徳川家に伝わった最も権威のある献上本原書を、定本にすれば良いのだが、皮肉なことに、献上本は最も作者の見落としによる不完全作が多く、今日一般に知られている図と違う図(不完全図)が多いため、これを「定本」とするのもどうかと思われる。他の本は作者が気が付いた不完全作を修正し、増刷の時に版木に 手を加え、図を修正していったものと思われる。 |
三代伊藤宗看(前名印寿、幼名政長)は、宝永三年(1706年)伊藤宗印名人の次男として生まれた。彼がものごころついた七歳の時、兄印達が大橋宗銀との三年にわたる争将棋がもとで早世し、さらに彼が十八歳の享保八年に父の宗印が病没したので、彼は継母と三人の幼い弟(宗寿は九歳、看恕は八歳、看寿は五歳であった)を抱えて伊藤家の家督を継ぎ、翌九年、名を宗看と改めて、若くして将棋家元となった。彼の棋カは抜群で、御城将棋の成績は享保元年(十歳)から名人就位まで12勝1敗、圧倒的な勝率であった。享保十三年、六世名人大橋宗与の死没により、わずか二十三歳の若さで名人に就位、以後宝暦十一年(1761年)五十六歳で病没するまで三十三年間、不世出の大名人として棋界に君臨した。 墓所は東京本所の本法寺にあり、法名は王将院宗看源立日盤居士である。 『将棋無双』は、享保十九年、名人就位後六年目に幕府に献上された。ふつう詰将棋の献上は準名人(八段)の時に行うのであるが、宗看はあまりに昇段が早く、名人就位が早すぎて、詰将棋の創作が間に合わなかったのである。 彼は実力名人として一世を風靡した。享保二十年、在野棋士の名村立摩六段がめきめきと頭角をあらわし、家元に七段位を要求した時、宗看は「実力未だ到らず」と首をたてに振らず、「さらば腕にかけて」言う立摩と、壮烈な争将棋を展開した。手合わせは香角交落で宗看が角落番を勝ち、香落番を敗れはしたが指し分けにして立摩の昇格を押さえ、家元の権威を全うしたのは有名な逸話である。 元文二年には、「碁将棋席次争い」訴訟を起こした。これは、伝統的に碁家を上とし、将棋家を下とする御城碁将棋の席順に異論を唱えたのであるが、問題が大きくなり、最後に大岡越前守の「第一席本因坊、他は相続順とする」という判決で終結した。これは彼の生涯で大きな波瀾を起こした歴史的事件である。 彼は晩年、看寿に名人位を譲ろうとしたらしいが、宝暦十年看寿が四十二歳で先立ってしまったので、伊藤看寿名人は実現しなかった。その宗看も、一年後に後継者も決定せぬうちに病没したので、将棋界も伊藤家も、全盛時代から一転して、名人不在の暗黒時代に沈潜したのである。 普通なら、徳川家に伝わった最も権威のある献上本原書を、定本にすれば良いのだが、皮肉なことに、献上本は最も作者の見落としによる不完全作が多く、今日一般に知られている図と違う図(不完全図)が多いため、これを「定本」とするのもどうかと思われる。他の本は作者が気が付いた不完全作を修正し、増刷の時に版木に 手を加え、図を修正していったものと思われる。 象戯図式序伊藤宗看は、故宗看(初代宗看)の孫にして、宗印の子なり。今の宗看は、年十一にして官挙に遇い(御城将棋に出場)、二十三歳特に命ありて象戯所に任ぜらる。当代の名人にして世間に独歩し、海内に敵なし。みずから象戯図式百件を著し公朝(幕府)に献ず。之を手に得、之を心に応ずれば、妙を極め、また奇を極。劉項(漢の高祖劉邦と楚の項羽。互いに天下を争った)を棋局に見(あら)わし、良平(漢の高祖の謀臣、張良と陳平)を牀席(しょうせき)に寄する者、諸(これ)を用兵に譬(たと)うるもまた宜(むべ)ならず乎(や)。 原(もと)より夫(か)の宗看の業に於ける也、薄禄(二十石余り)にして家口(かこう)を支うること難しと雖も、租考(亡祖父と亡父)の遺志を述べて、毎月聚会(しゅうかい)し、その実を蒐(あつ)め閲(けみ)し、徒弟を指教し、殿最(でんさい・成績の順序)を考課す。若し其の間に傑出せる者有らば、則ち之を己が舎中に寓せしめて(内弟子とする)其の術を激励するなり。是、乃(すなわ)ち涓挨(けんあい・わずか)の誠を以て広博の恩に報いんと欲するなり。乾乾(けんけん)として息(や)まず、以て嘉賞するに足るものと謂うべき焉(なり)。文照廟(六代家宣)の時、特にその高弟の徒、有浦印理、宮本和佐を挙げ以て土圭の間(時計の間詰めのことで将軍護衛の役)に列し、歯(よわい・年齢)を技芸の隊に被(こうむ)らしめざるは、此亦(これまた)宗看父子の教育の功にして他人の及ぶ所に非ざる也。 大凡(およそ)象戯の家の者は、流の始祖宗桂以降、其の名ある者、共の科の八級(八段)を踰(こ)ゆれば則ち作物の図式を著して之を献じ、然る後に象戯所為る者其の人を選択し、私(ひそか)に其の職を譲り(名人が次代の名人を指名すること)以て諸(これ)を有司(ここでは寺社奉行)に告ぐるのみ。然りと雖も、宗看一人は、未だ之を献ずるに及ばずして遂に公命有りて象戯所に任ぜらるは私議に渉(わた)らざるもの也。其の職を委任して妙手雙(なら)びなく、毎歳例に随って内殿に召され(御城将棋のこと)、或は不時にして官用を蒙(こうむ)る。休暇の期(春、京より江戸に出府し、御城将棋をすませて帰京するを例とした)に及べば則ち恩賞の賜有り。 祖考の遺緒を承(う)け嗣(つ)ぎ、徒弟の殿最を考課するなり。 是の故に、其の時を過ぐると雖も今図式を著し、以て之を献ず。且つ、身の象戯所と為りて図式を献ずる者、また唯宗看一人のみ。 序を余に請う。余、之に告げて日く、魯般(周の人、大工の名人)の匠が巧なる、造父(ぞうほ・周の人、馬術の達人)の御に精なる、人をして巧と精とたらしむる能わざるものなり。宗看は当代の妙手、海内に敵なし。徒弟を教練し、術業を激励す。其の声気の鼓舞する所、孰(いずれ)か之を跂望(きぼう・つまだちて眺める)すべけんや。方に今、進んで之が図式を献ず。偉なる哉、此の挙や。 |
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