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岡田秋葭小学校は父の仕事の関係で小郡町、柳井市、下関市を転々とし、昭和11年3月、下関市立関西(かんせい)尋常小学校を卒業、同年4月、下関市立下関商業学校に入学、下商在学中は、珠算部の選手として活躍した。当時同級生であった岡田勝太郎氏は、秋葭は秀才で級長だったので、今でも良く覚えている、と語った。 4年生の時、病のため1年休学、昭和16年12月戦時繰り上げによって同校を卒業する。以後自宅で療養する。 このころから「将棋月報」誌上に、彼の傑作を多く見るようになるが、 昭和18年4月16日21時55分、下関市長崎八幡町の自宅で死去した。 享年わずか19歳。死因は結核だった。 彼の作品は「秋葭作品集」として、「詰棋界」第21号(昭和29年8月10日刊)、更に「続秋葭作品集」として、同誌第23号(昭和30年1月1日)に清水孝晏、棋村迷人の両氏によって紹介され、昭和46年8月には、『秋葭作品集』と題して、全日本詰将棋連盟から刊行、今に伝えられている。 なお、菩提寺は下関市椋野町円陵寺である。 |