第1番―第10番 | 第11番―第20番 | 第21番―第30番 | 第31番―第40番 | 第41番―第50番 |
第51番―第60番 | 第61番―第70番 | 第71番―第80番 | 第81番―第90番 | 第91番―第100番 |
第101番―第110番 | 第111番―第120番 | 第121番―第130番 | 第131番―第140番 | 第141番―第150番 |
酒井桂史彼に対する評価は当時の番付に如実に示されており、『将棋月報』大正15年1月号の別冊付録「第五回詰将棋解答者成蹟表」(番付)には、その頃の著名作家である四段加藤温水(与吉)、三段佐田真作、四段鞍馬山人(三井惣助)、高橋与三郎とともに「行司」として名を連ねている。 さらに1年後の誌上番付(昭和2年1月号)では最上段に顧問として名を記されている。 そして『将棋月報』が催した「優秀素人棋友人気投票」の中間発表では、一時トップにランクされた事もあった。彼に対する人気と評価がいかに高かったかを示すものであろう。 『将棋月報』大正15年8月号から、病気静養の九九生(加藤文卓)に代って、一時同誌の選者をしたこともあったが、病弱のためか、極めて短期間で山村兎月にバトンタッチされたのであった。 昭和3年(1928年)1月から約3年半、彼は作品を発表していない。『文藝倶楽部』昭和2年11月号発表の長編に、早詰みのあったことがショックだったのかも知れない。しかし、昭和6年5月から『将棋月報』誌上に再び彼の作品が掲載され始め、詰将棋ファンを魅了するのである。 だが『将棋月報』昭和10年2月号を最後に、その後は全く発表されなかった。 昭和18年(1943年)6月26日逝去したが、そのニュースは『将棋月報』18年9月号に極めて簡単に掲載されただけだった。享年44歳。狭心症であったという。 盤前漫筆将棋月報 大正15年8月号 掲載三代宗看図式禮讃 大空の果てなきに聴く秋の声 図巧禮讃 月光の身にしむ思ひうなだるる 斯の如く龍が面倒な手順を繰返して盤面をぐるぐる転回するのは、此の場合、詰の都合上、龍玉の活動にのみ視点を置く事にします。その目的が桂を捕獲するに在ります。 このことは、丁度、勤め人がその勤務先と自宅との間を寒暑晴雨に拘わらず毎日毎日時計の振子の如く往復し、その往復する目的が月給を得るに在ると見て見られなくははないのと趣きを等しくして居ます。詰将棋を単に詰将棋として味はう許りでなく、更に是を人世百般の事務にあてはめて味わってみますと、そのところに一種珍妙な面白味を感得する事が出来、此の世の種々相が盤面に彷彿するを覚えるでありましょう。 そこでやや誇張に失する訳ですけれど、「詰将棋即浮世」と云ってみたいのであります。 私の知っている範囲内では、将棋創成期時代の作図には入玉模様の作図は少なく、時代が進むにつれて追々と多くなり、三代宗看、看寿時代になると図式の約三分の一迄はそれのようです。 何故創成期時代に入玉模様の作図が少ないかと云えば、私の考えでは、この時代の作図は主として実戦より転化したもの、もしくは実戦に現われるような形を睨めて作為したものが多い所似で、実戦においては入玉模様となる事は余り多くないのですから、自然、図式にもその現われ方が少ないのではないでしょうか。 それが時代が進むにつれて棋界一般の技術も進歩し、実戦という事よりも趣向という事に重きを置くようになり、前人のあまり指を染めなかった入玉模様のものに追々とその開拓の鍬を進めていったため、自然図式にも其の結果が現われてきたという事になりはしないでしょうか。 斯く観来れば、今後詰将棋創作界の進むべき道が那辺にあるかが自ら暗示されているように思われるのであります。 一体、入玉模様の詰将棋は詰方にとって少々厄介で、大抵の場合、桂以下の小駒よりも銀以上の大駒にその活動を期待する事が多く、かつ王方の駒が一寸でも動けば直ちに「ナル」という脅威があって、其所にはかなりなハンディキャップが附せられてある訳であります。従って入王模様の作図を創作するに当たっては、然らざるものを創作するに比し、多分の苦心が必要となります。 併しそれだけ作者の手腕を発揮するの余地があると云うものです。 詰将棋に詰上りが形象をなすものがあるのは申す迄もありません。現に本誌に秘曲集と丸山正為氏作のイロハ字詰とが掲載されています。因に私もイロハ字詰を製作しましたが、これは私の独案になるものと許り思っていましたところ、丸山氏にも其の創作があります。 かく詰上りに形象を為さしむるという趣向をもう一歩進めて、初めも終りも然かせしめる、例えば最初盤面に並べた形がハの字になっている、それが詰の最後の於てルの字の形になり、二字合して「春」という意味を為すなど云う様なものはできないものか知らぬと私は常々空想しているのであります。 これは非常な難物でありましょう。が必ずできると保証し得ないと同時に、又必ずできないと保証する事もできないと思います。 現今より棋界の技術が遙に発達した暁には、天才が出現して、あるいは作り出さないものでもあるまいと思うのであります。 棋界に対する希望を申し述べたいと思います。 一、現在の高段名手、殊に関根名人、花田、木村両八段の創作せられた詰将棋を盛んに発表して頂きたいと思います。 私共は渇時に満水を望む思いに居るのであります。此の望みが達せられたならば、我々平凡作者は稗益を受ける事も定めし多いでしょうし、又非常な鞭撻ともなりましょう。 二、右香落の復活。現今、右香落を指さないのは別に大した理由がある訳でなく、左香落に比較して興味が少ないからだという事ですが、其の理由が何であろうと、濁り右香落のみを継子扱いにするのは、将棋道より見て何となく面白くないように思われます。 三、将棋古書の覆刻。近頃何々全集などと銘を打って古昔の書籍が盛に覆刻されるようですが、濁り我が将棋古書に関しては何等かかる企ての行わるるを聞及ばないのを遺憾に思います。此際月報社に於て他に率先して此の種の事を実行されては如何ですか。さしづめ八世宗桂図式出版の意義を延長し、九世宗桂図式の出版を企図せられては如何。 |