『将棋勇略』の真の作者は添田宗太夫か

二代宗印は「不成百番」の『将棋精妙』の合計二百番の作者として、また天才兄弟三代宗看と看寿の父として有名な存在である。ところがその『将棋勇略』は彼自身の創作でなく、添田宗太夫七段が代作したのではないかという疑惑がある。添田は曲詰集『象戯秘曲集』の作者で、曲詰の創始者として有名な存在であり、当時家元棋士を含めても5位ぐらいにランクされる強豪でもあった。彼の棋力と、『象戯秘曲集』の内容から考えて、超一流の詰将棋作家であったことは間違いない。
 疑惑の発端は、『勇略』第27番と第35番が、宝永三年に出版された『象戯洗濯作物集』第17番と第1番に添田宗太夫作として収録されていることである。『象戯洗濯作物集』は当時の諸家の詰将棋を集めた本で、(序文によると)福岡瀬平という愛棋家が長年かかって収集した作品集である。それが発行された宝永三年(1706年)は『将棋勇略』が献上された元禄十年(1700年)から数えて6年目に当り、時の名人五代宗桂は71歳、伊藤宗印は準名人(八段)で35歳前後、添田宗太夫は新進気鋭の五段の時(推定年齢ほ25歳から30歳ぐらい)である。
 同じ作品が別の作者名で、違う本に収録されているのであるが、真の作者は添田宗太夫の可能性が強い。それは、家元で時の実力第一人者宗印の作品を、新進高段者である添田が自作と僭称したとすれば、ただではすまないと思われるからである。それにしても、著作権を譲り渡した作品が実の作者名で発表されるのもおかしいが、添田が作品を宗印にゆずる前に何気なく披露した作品が『洗濯作物集』に収録されたと考えれば、説明はつく。
 添田は七段という棋力から判断して、当然将棋家元で修業を積んだもので、宗印(角落)との棋譜も残っている。
彼は曲詰の創始者であるぐらいの実力者で、『勇略』を創作したとしても矛盾はなく、『秘曲集』と『勇略』は作風も共通していて(曲詰と普通作なので比較しにくいが)、この点からも代作の可能性は濃い。
 もし前記2題の作品が添田の代作によるものとすれば『将棋勇略』は全部添田の作品と考えられる。しかし、以上述べたことは多くの推定を含んでいるので(疑惑は疑惑として)公式にはあくまで『将棋勇略』は宗印の作品としておくべきであろう。



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