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二代伊藤宗印五世名人。初代宗看の養子で、前名は、鶴田幻庵(文献によっては玄蔵)。肥後の出身で、生年は不詳、享保八年(1723)に没した。名人襲位は正徳三年(1713)である。碁・将棋家元の一般例とか、遺された棋譜の年代や彼の子供の年齢から、彼が養子入籍した元禄三年(1690)の年齢は18歳前後、従って生年は寛文十二年頃、名人襲位は39歳前後、没年は51歳前後と推定される(一説に69歳)。 彼は定期的に会を開いて子弟の教育に努め、5人の子供(印達=五段、印寿=名人、宗寿=八段、看恕=七段、看寿=贈名人)を将棋高段者に育て上げたほか、有浦和理、宮本印佐などの高段者を幕府旗本に堆挙するなどの功があった。 詰将棋は二百題作ったことになっており、『象戯図式』(俗称『将棋勇略』)は元禄十三年(名人襲位の13年前)に献上されたが、『将棋精妙』(別名『不成百番』)は作者の生存中は出版されなかったらしい。『勇略』には林信充の序文と宗印の跋があるが、『精妙』の初版本と思われる安政五年本には八代宗印の序文があるのみで、作者の跋は付いていない。 『象戯図式』は宝暦年間に再版されたらしく、『無双』『図巧』と合冊になったものが残っているが、他の版の存在は知られていない。『将棋精妙』は安政五年版が江戸時代唯一の刊本と思われる。 |