第1番―第10番 | 第11番―第20番 | 第21番―第30番 | 第31番―第40番 | 第41番―第50番 |
第51番―第60番 | 第61番―第70番 | 第71番―第80番 | 第81番―第90番 | 第91番―第100番 |
『将棋図巧』について 門脇芳雄『將棊圖巧』(原書名『象棋圖式』)は江戸時代中期の伊藤看寿八段(贈名人)の献上図式で、古今で最も華麗な作品集である。『将棋図巧』は、作品の巧妙さと美しさで群を抜いた存在で、彼の兄の三代伊藤宗看の『将棋無双』と並んで、古今の詰将棋の双璧と言われている。 『将棋図巧』は巻末の611手詰や煙詰などの奇跡的な名作を含み、あまりのすばらしさに古来神局とさえ言われてきた作品集である。看寿が『将棋図巧』を幕府に献上したところ、あまりの巧妙さに役人が舌を巻いて「こんな天才を世に出しては危険」と、ことを構えて彼を閉門にしてしまったと言う、まことしやかな伝説すら存在するほどである。 伊藤看寿は将棋家元伊藤宗印五世名人の五男に生まれた。彼の兄は印達(五段)宗看(七世名人)、八代大橋宗桂(八段)、看恕(七段)と何れも将棋の高段者ばかりだった。彼は幼少時から神童と言われ、13歳で本書の巻末図を作ったことが、献上本の序文に書かれている。彼は兄の三代宗看名人の後継者として宗看の養子になり、兄の八代宗桂を追い抜いて八段に昇格して次期名人に格付けされ、宝暦5年(看寿37歳)にこの『将棋図巧』を幕府に献上した(もっとも彼が42歳で早世したので、名人は実現しなかった)。 国立公文書館に伝わる淺草文庫所蔵の版本『象棋百番奇巧図式』(請求番号199-0409) 伊藤看寿伊藤看寿は、享保四年(1719年)、二代伊藤宗印(五世名人)の五男に生まれた。 幼名は政福(まさとみ)。看寿が生まれた時、すでに長兄の印達(五段で夭折)は没していたが、次兄の印寿(十三歳年上で後の三代宗看)、三兄の 宗寿(4歳年上で後の八代宗桂)、四兄の看恕(七段)などにはぐくまれ、しごかれて看寿は生長した。 5歳で父に死別しているから、ほとんど三代宗看など兄たちの薫陶を得て育ったのであろう。彼は幼少の時から鬼才を発揮し、7歳の時詰将棋の本を調べていて非凡な意見を述べて宗看を驚嘆させたり、13歳で611手詰の大作を作ったりしたことが『図巧』の序文に述べられている。 元文元年(1736年)宗看の嗣子として、18歳四段で御城将棋に出場した。彼の上には三歳年上の兄、看恕がいたが、宗看は弟の看寿の才を愛でて、彼を抜擢したものと思われる。 御城将棋では、23局の棋譜を残しているが、特に兄の八代宗桂が好敵手で、14局の熱戦譜がある。八代宗桂の方が先輩格であるが、最後は看寿が平手で勝ち越して、八代宗桂に先んじて八段に昇格している。当時八段といえば準名人で、「次期名人」を意味するものであった。八段昇段の翌年の宝暦五年(1755年)37歳で『象棋圖式』を幕府に献上した。予定でいけば、彼は三代宗看の後を継いで八世名人に就位する筈であったが、宝暦十年(1760年)八月二十三日、名人に就位せぬまま、42歳の若さで宗看に先立って病没した。死後名人位を贈られている。 彼は晩年、実力では兄宗看より強く、当時の第一人者だったと言われる。27歳六段の時、四代大橋宗与と指した争将棋「金鉄底歩の局」や、晩年、「家元征服」と息ごんで上京してきた奥州の保原加茂左衛門を四枚落で指しこなした一局は、彼の実力を十二分に発揮した名局である。 橘仙斎は『将棋営中日記』の中で、十一代宗桂の談話として「素人にて百番作物を作り候者は余り無之侯、至って六ケ敷ものの由、作物の最上は伊藤看寿なり、実に百番共凡人の及ばざる手段にて、実に奇妙なりと言へり」と看寿の詰将棋を絶讃し、また「弟看寿と近世の名人宗英は古今の名人にて互に勝劣なく覚え、其実は宗看よりもカは之れ有る可く、実に名人なれども、悪カにて無理押しつけ侯場合も有之侯にて云々」と彼の棋カを讃えている。 彼の40歳の時の子供、二代看寿は、後に御城将棋に出場するが、五段で終り、大成しなかった。彼の墓は東京本所の本法寺にあり、位牌は船橋市の渡辺家に伝わっている。戒名は宝車院看寿常銀日龍居士である。 象棋百番奇巧図式序前代の際(織田信長時代)、大橋宗桂(初代宗桂)此の技に名あり、海内に独歩し神祖(家康)の幕下に給事す。また巧技の輩を募り各(おのおの)門戸を立てて以て世業と作(な)す。毎歳其の輩を召して以て棋勢を肄(なら)うを例とす(御城将棋のこと)。其の子たる者もまた焉(これ)に与(あずか)る。父子の告帰(京に帰る挨拶)するに、皆恩賞あり。爾来百余歳、未だ嘗て年を曠(むな)しうせざるなり(一度も休んだことがない)。 宗桂の子孫、蚤(はや)く卒し嗣(し)なし(大橋本家断絶)。伊藤宗看、其の後を立てんことを奏し(宗銀を養子におくり五代宗桂とする)、朝議して允(ゆるし)を得たり。宗看の子宗印、日省月試(間断なく)乃ち会業を設く。此れ則ち宗桂の創む所にして、中絶せしものなり。宗印の子宗看(三代宗看)、克(よ)く世業を守ること此に七十年、精思妙詣(せいしみょうけい)、当代に独歩す。其の弟看寿、年方(まさ)に七、八才、偶(たまたま)贏局(えいきょく・つめしょうぎ)の書を閲(けみ)し顧(かえりみ)て宗看に謂いて曰く、幸に二桂馬を獲(え)ば巧思千著(こうしせんちゃく)せんと。宗看驚愕し、非常の児たるを知るなり。年十三、贏局図(えいきょくのず)を作る。今此の巻尾に在り(十三歳で六百十一手詰創作説はここにある)。妙の又妙、天性より出ず。宗桂以来、未だこれを前(さき)に聞かざるなり。宗看数(しばしば)図式を著し以て奇策を示し、看寿またこの作あり。世(よよ)其の美を済(な)すと謂うべきなり。 宗看之を立てて嗣(し)と為す。其の志偉なるかな。蓋し、衆人広坐(人材が多い)の中に在りて南風競わず陳勢疲幣(宗看の子病弱で家業を継げず)せば則ち父子の親もまた未だ其の短を護る能わざるなり。宗看の内挙、私なきこと以て之を見るべし。是に於いて看寿に賜うて稟(家禄)をうけしむ。他、皆例によりて其の事を称するなり。 宝暦甲戍(宝暦四年)の冬、看寿朝命を拝して八等(八段)に陞(のぼ)る。因りて百番の図式を奉りて以て御覧に備う。乃ち老夫(この私)に属(しょく)して其の由を叙せ俾(し)むこと此(かく)の如し。 |