2000・5・16・火

 今日昼食時間、食堂で流していたテレビのニュースで、森首相が「日本の国は神を中心とした神の国」という発言したということを知った。今朝の朝刊にしっかりと掲載されていたのを見落としていたのだった。十年前だったらやり場の無い怒りで握り拳の一つくらい作っていたと思うのだが、不思議に腹はたたない。呆れると言えばこれ以上呆れ果てた話はないのだが、この発言に対して、積極的に無視するか、思い切って笑い飛ばすのが一番良いのではないか?個人的にはそう思っている。民主党の鳩山代表は、「アジア諸国に与える影響」を憂慮しているらしいが、一層のこと首相を始め閣僚全員がこの手の放言を連発して、ひんしゅくを買いまくったほうが面白いのではないだろうか?このあいだの石原発言にも顕著なように、保守系政治家なんて多少ソフトな語り口でごまかしたところで、考えていることはどうせこの程度のものだろうから、今更表面を取り繕ったところでしょうがない。これまでたまりにたまった膿を一挙に流してしまったほうが余程すっきりするし、後の議論もやりやすいのではないだろうか? あまりに無責任なことばかり書いているが、ここしばらく『モンティ・パイソン』のビデオを見ていてつくづく日本におけるこのての発言に対する過剰な反応のあり方に疑問を感じるようになってきたのだ。そのモンティ・パイソンについて、茂木健氏は「日本人にはどれほどヤバそうに見えるスケッチも、パイソン(および視聴者)と笑われる対象(および視聴者)とのあいだに、双方向作用する自己相対化が成立していることを、ぎりぎりの線上で前提としている」と述べておられる。つまりこの「双方向作用する自己相対化の成立」によって、パイソンは国営放送であるBBCで王室を始めとする日本でだったら確実にタブー視される現実をあえてネタにできたというわけだ。逆に言えば、この日本において、公然と皇室をネタにできる節度ある関係が一般化していれば、今回の森首相の発言にそれ程問題は生じなかったように思える。仮にこのような関係を結ぶことができることが、大人の関係であるとしたら、日本人と日本という国家は全く大人の領域に達していないことになる。この言い方はあえてマークス寿子氏(誤解無きよう言っておくが、僕は彼女の意見に対しては全面的に賛成というわけではないので。念のため)の言い方をもじったものだが、例えば何かと言えば「天誅」などと言ってテロをやらかす右翼なんていうのは、まさに自己相対化ができていない子供じみた集団の典型ではないだろうか。

 実際イギリスに住んだことがあるわけでもないので、その「自己相対化」の実態がどのようなものかは殆ど知りようはないし、一体そのような関係のあり方が一番ベターなものかは検討の余地があるかとは思うが、しかしこのようなあり方の有効性について今一度考えてみる必要はあるのではないだろうか?

 

2000・5・18・日

 案の定森首相の退陣を求める声が高まっている。前回のコラムでも述べたように、僕は色々なところで俎上に載せられている森首相の発言にそれ程の不快感を感じなかった。むしろ「今時よくこんなことを言えるよなあ。」と半ば面白がり、半ば感心(もちろん逆説的にではあるが)したくらいである。

 さて今回の森首相の発言をあえて肯定的に拡大解釈をすれば、彼は何も間違っていないのではないか?という気もするのである。とりあえず次の発言を元にして話を進めよう。「日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞということを。国民のみなさんにしっかりと承知していただく」戦後55年経った現在でも天皇と皇室は我々の生活のどこかで常に影響力を及ぼしているということは否定できない。また冠婚葬祭を始めとする様々な局面で我々は神道に乗っ取って物事を進めていくことに、我々はさして疑問を感じていない。そのことを素直に認めると、森首相の発言は極端に右傾化した発言だとは決して言えないのではないか?それを一国の宰相が述べることの是非は、ひとまず置くとして、国を統治していく上でのシンボルあるい拠り所としてその国に古来からある宗教や、王室を持ち出すことにさして問題があるとは思えない。

 とひとまず森首相の発言をあえて肯定的に検討してみたところで、本題に入ろう。考えようによっては、特に問題視されないような発言がなぜ問題になるかということが問題なのだ。戦後アメリカの力によって国家神道に基づく国家観が否定されたのは、いわば単純な武力の差によって、それが否定されたということであり、思想そのものが否定されつくしたわけではないのではないか?森首相の発言を巡る一連の記事を読んでいて、僕はそのことを一番強く思った。折しも戦後55年経った現在、これまでの日本のあり方が様々な形で問い直されるようになった時期であり、とりわけ教育における行き詰まりは、今更言うまでもない。そうした状況の中で、これまでと違ったより新しい教育モデルの思案の目途が立っていない以上、それを過去に求めるのは、むしろ自然な成り行きだと思われる。そしてその傾向は、森首相一人の発言に止まらず、水面下で様々な形で発展しているのではないだろうか?僕はむしろその可能性を危険視したい。

 森首相の発言を非難することで、良識派面するのは簡単だ。はっきり言ってそうした紋切り型の物言いに僕はかなり辟易している。僕は森首相を退陣させるのではなく、むしろその路線で突き進んでもらい、その結果がどのようなものであるかを身をもって体験してもらいたいと思う。そうすることによって、森首相の持つ国家観がどれだけ有効性を持つかが判明するだろう。

 とにかく今やるべきことは森首相を退陣させること、そしてそうすることによって、その思想を隠蔽することでは決してない。むしろその発言の元になった思想を徹底的に検討し、それを乗り越えようと試みることだ。それをやろうとせずして声高に森退陣を呼びかけるのは、思想的怠慢であると思う。

 

2000・5・21・日

 確か二月あたりからついこのあいだまで、あまり音楽を聞いていなかった。結構このコラム欄を含むいろんなところで言っていたけれど、音楽から遠ざかっていた間はもっぱら本ばかり読んでいた。それがここ二週間くらいでようやく音楽への興味が多少は再燃した。そのきっかけの一つとなったのが、ついこのあいだこの欄で少々否定的なニュアンスでとりあげたルースターズ。なんだかんだと言いながらはまってしまったのだ。これを友人に聞かせたら、その友人もやたら気に入って、一緒に酒を飲んでいるときに、僕が酔っぱらっているのをいいことに(笑)、半ば強引に借りて行ってしまった。彼はヴェルベットを聞いて踊っているというこの二月に満一歳を迎えたばかりの自分娘に聞かせると言っていたが・・・・・・・

 ところで今回のルースターズの例に顕著なように、忘れた頃の原点回帰というべきか、いわゆるストレートなロックというやつにしばらくはまってしまうことが、たまにある。そのモードに入っている状態で買ったのが、フーの『オッズ・アンド・ソッズ』。ミッシェル・ガン・エレファントのオマージュでも知られるアメ・フトのヘルメットを被ったメンバーが妙にインパクトあるジャケットがいつ見ても格好良い。しかもそれぞれのヘルメットには「R」、「O」、「C」、「K」(ミッシェルのそれには「FUCK」という文字がペイントされている)の文字。本当にバカ一歩手前というか、トホホ寸前のところで妙に格好良さを保っているところがこのバンドの大きな持ち味だ。元祖ダサ格好良い系のバンドの一つだと言っていい。一昨年拡大版で再発されたこのCDには、胸に「?」マークをつけたスーパーマン風の衣装を身につけた四人のメンバーが怪獣を相手に戦っているイラストが、印刷されている。このいかにもB級アメコミという感じのイラストがまた何とも情けなくていい。そして肝心の音もその印象を裏切らない。未発表曲を多く収録していることを謳い文句にしているこの再発盤だが、もともとジョン・エントウイッスルがレコード会社の要請から未発表曲を寄せ集めて半ばでっちあげたといってもいい代物でもあり、未発表曲収録によってよりその玉石混淆度が高まったと言える。でもそれが妙に気にならない。定番「マイ・ジェネレーション」、「キャント・エクスプレイン」等の曲で固められたベスト盤ではかいま見ることができないフーの重要な一面が覗くことができる、いわば裏ベストと呼んでもいいのではないかという気さえする。玉石混淆と書いてしまったが、どの曲もそれなりのクオリティを保っているので、それなりに安心して聞くことができるし。

 ところで私事で申し訳ないけれども、今回このアルバムを聞いて一番驚いたというか、目からウロコ落ちる思いさえしたのが、エディ・コクランのカバー「マイ・ウエイ」。僕はこれまでこの曲をずっとブートレッグで「イーズィー・ゴーイング・ガイ」という曲名で聞き親しんできたのだ。恐らくロックン・ロール・クラシックの一つなのだろうと推測しながらも、曲のクレジットの記載が不正確なため、オリジナルが分からず密かに気にはしていた。それがいきなり正規盤を通して、しかも違う題名で耳に飛び込んできたのだから驚いて当然だろう。長い間気になっていた謎が一挙に解決しただけでもこのアルバムを買って本当に良かったと思う。それにしてもこのアルバムの元の邦題『不死身のハード・ロック』というのも結構好きなんだけれどな。

 

2000・5・27・土

 大学に入る直前『ロッキン・オン・ジャパン・ファイル』というそれまで『ロッキン・オン・ジャパン』に掲載されていたロング・インタビューを再録した本が出た。雑誌掲載時にはカットされた部分も活字にしたその本は、かなり読み応えがあるもので、それ程興味が無いミュージシャンのインタビューでも結構楽しんで読めて、今でも時折引っ張りだして読んだりしている。そのいくつかのインタビューの中でも妙に印象に残ったのが、大滝詠一氏が自分のインタビューの末に寄せた新作ができていないことに対する弁明。そこで氏は自分のことを「一世一代の道楽者」と言って控えめに(?)開き直っているのが痛快だったのだ。この「一世一代の道楽者」というフレーズをつい最近になって思い出し、ここ半年ばかりの自分の生活と照らし合わせ、大学入学直前に印象に残ったフレーズをそれから十二年経った今他ならぬ自分が体現していることにある種の因縁みたいなものを感じてしまう。

 三十路を過ぎ、中途半端な専門的知識と、中途半端に自尊心を満足させる語学力を身につけ、常に頭の中で屁理屈をこねているような人間を世間はあまり必要としないという事実が、大学院を出て一年間を経てよりリアルなものとなって自分に迫っていることを実感せずにはおれない。幸いにして体力にそれなりの自信があるからまだいいものの、これが虚弱体質だったら本当に目もあてられない。親に文句を言い出したらキリがないけれども、とりあえず丈夫な体を授け、そして育ててくれたことには素直に感謝したいと思う。今の「道楽者」的生活もそれなりのパワーと自律性が無いとかなりきついからだ。ただ単にだらだらと過ごす道楽生活なんてすぐに行き詰まるのは目に見えている。それに道楽生活とは言っても、それなりに自分で食い扶持を稼いだ上での「道楽」なのだから、色々な側面でメリハリが必要になる。そしてもちろんそのメリハリは自分でつけていかねばならないわけで、放っておかれるとただダラダラしてしまうだけの人には結構きついことかもしれない。それに世間からの目にもある程度耐えていかねばならないわけだし。

 しかしそうは言ったものの今の生活をいつまで維持できるかは、皆目見当がつかない。

いくらこの縦型社会で世知辛い目にあうのは、まっぴらだと言ったところで、それをどうしてもあえて甘受しなければならなくなる状況に陥る可能性だってゼロではない。でもやはり色々なことがストレートにいかず、余計な夾雑物が介入しないことには何事も前に進まないことが当たり前になっている世界はどうしても受け入れることができない。いくらそれを現実逃避だとか、単なる社会不適応者の言い訳だと言われようが、やはり最後に笑って死ぬ者の勝ちではないだろうか?僕は縦型社会の中枢に入り込んで笑って死ねるとはとうてい思えない。だからあえて今の生活を選択するのだ。

 

2000・6・3・土

 この二月からほぼ月一本ペースで『モンティ・パイソン』のビデオを第一シリーズのヴォリューム1から順番に買いそろえているのだが、このあいだようやく第二シリーズへと突入することができた。解説にもあるように、確かに第一シリーズとはテンションの高さからして相当に違う。このシリーズからより高額の予算がおりるようになったとのことだが、それ以上に内容に八方破れのパワーのようなものが感じられる。また第一シリーズでは幾分明確だったいわゆる「ボケ」と「突っ込み」との関係が第二シリーズからどっちがボケでどっちが突っ込みだかよくわからないままにコントがめまぐるしく展開され、そのすさまじさに圧倒されてしまう。

 ところで最初この「モンティ・パイソン・シリーズ」を見たのは、旧シリーズ・ヴァージョンで、もちろんレンタル・ビデオ屋で借りた物であって、それは『モンティ・パイソン大全』にもあるようにオリジナルとはかなり収録順が異なっており、オリジナル仕様で最初から見ていくと、旧シリーズでは今一つ判然としなかったところも理解できるようになってきた。そういうプロセスを通して改めてこのシリーズを見ていてふと思うのは、「もしかしてこの『モンティ・パイソン』の一番大きなキーを握っているのは、実は最年少のマイケル・ペイリンではないのか?」ということ。オープニングに登場する例の「イッツ・マン」に扮するのが彼だということが何よりもそのことを象徴しているように思える。実は今回ビデオの解説を読むまで、このイッツ・マンがペイリンであることをちゃんと把握できていなかった。不覚である。そしてメンバー全員が芸達者な中でも彼の演技の幅が一番広い。先のイッツ・マンからいかにも胡散臭そうなイタリアン・マフィア風の男、アメリカのテレビ番組を皮肉ったかのような軽薄な話し方をするテレビ番組の司会者、こともあろうに結婚相談所の相談員に女房を目前で寝取られてしまう気弱で優柔不断野郎、またジョン・クリーズ扮するヒットラーに仕えるゲッペルス、それに僕が今まで見た彼がこなした役柄の中で一番好きなジョン・クリーズと一緒にやっているいんちきフランス人まで。一つ一つのコントを見比べてみると、これが果たして同一人物だろうか?とさえ思えるほど役柄にぴったりはまっている。ジョン・クリーズがあまりにノッポなため、またエリック・アイドルがなまじ二枚目系であるため、どうしてもある程度の制約を受けてしまいがちなのに比べると、マイケル・ペイリンの器用さというのは、そのルックス的条件(ある水準には達しているが、若干小柄であるため色々と化けやすい)ともあいまって、群を抜いていると思えるのは僕だけだろうか?また古今東西五本の指に入る(?)バカキャラ・ガンビー教授役もこの人が扮するそれが一番堂に入っている。こうして見ていくと、本当にこの人あなどれない。誰かマイケル・ペイリンの研究書を書いてくれないだろうか?・・・・・・・とこんなことを書いておきながら、実はパイソンのメンバーの中で一番好きなのはエリック・アイドルだったりするが(笑)。

 

2000・6・17・土

 皇后が亡くなった。皇室の存在を日頃苦々しく思っているとはいえ、皇后自身には何の恨みも無いので、皇后だから云々というのを抜きにしてただ一個人としての彼女が亡くなったことに哀悼の意を表明するとともに、長寿を全うしたことに対してもまた、喜びの気持ちを隠す気はない。ここで昭和天皇の戦争責任を取りざたにして、議論を蒸し返すなんてのはまさに無粋な人間がやることであって、そういう輩には、そんな百年一日のごとき紋切り型の議論の他にもっとやることがあるだろうと言っておけば事足りる。

 さて例の森首相の「神の国」発言は、今でも記憶に生々しい事件だが、僕はある意味この発言を歓迎した。そこから日本における象徴天皇制の意味と、それに対する国民の意識が改めて捉え返されるよい機会ではないか?と思ったからである。しかし以前にも述べたようにこれを巡る言説は相も変わらず戦争の記憶がどうだだの、発言を撤回するのしないだのと言った僕の意向からは全くかけ離れたレベルに終始しており、新聞を開くたびにウンザリさせられたものである。

 そして今回の皇后の死去に際して、あれだけ森首相の発言に対して批判的であった朝日も当然のごとく彼女の死去をトップ記事に持ってきた。確かにどんなに森発言を叩いて見せたところで、しょせんは象徴天皇制という摩訶不思議なシステムの中にいる以上、皇后の死を全く無視しての報道活動はありえないだろう。しかし、あのような発言の後で、新聞社自身が自らの皇室報道のあり方について自問自答をしてみせることなくして、あのような記事を載せるというのは、全くあきれ果てるという他はない。

 今一度言うが、森首相の発言は、あれを撤回させて済むという問題では決してない。本当に日本は天皇を中心とした国ではないのか、主権在民は本当に皇室の存在に先立って保証されているのか、ということはわれわれ一人一人に突きつけられた問題なのだ、ということを決して忘れてはならない。 

2000・6・25・日その1
このあいだの日記でもちょっとだけ触れたが、普段殆どテレビを見ない僕が、今唯一積極的に見るテレビ番組が『おジャ魔女ドレミ#(シャープ)』である。三十路を過ぎた独身男が日曜の朝にほぼかかさず女子供向けのアニメ番組を見る、というのはどこから見ても不気味としか思えないだろうが、しかし、これがはまるのだからしょうがない。 ほぼ毎回見ながらこの番組の魅力はどこにあるのだろうか、と幾度となく思いあぐねてきたが、今のところ決定的要因というのは見あたらない、とにかく「良い」のだ。とりあえず出てくる人達みんなが優しいのがいい。見方によっては、登場人物がみんな「いい人」というのはあまりに嫌味に映るかもしれないが、なぜかこの番組を見ていると、そういう感じはしない。また今はもう四年生になったが、旧シリーズの時にはまだ小学三年生だったというチャイドル瀬川おんぷの存在も妙に許せる。虚構はあくまで虚構であって、その中でストーリーを充実させていけばよい、という一貫した姿勢がこの番組からは感じられる。また変にアニメオタクに媚びたような感じが無いのも好感が持てる。つまりは本当に子供向けアニメが子供向けアニメとして成り立っていた頃のアニメ──一部の病的なアニメオタクの好奇の目に晒されることもなく、社会的現象の一環として分析の対象になることもないそのようなアニメとしてギリギリの線で成り立っているアニメ番組だと言える。
 またこの番組で特筆すべきなのは、音楽の良さ。よくありがちなビーイング系の歌手に番組の内容とは殆ど無関係な主題歌を歌わせるなんておざなりなものではなく、番組の内容の本質から決して逸脱せず、なおかつ音楽制作者のこだわりというか主張のようなものも伺えるものとなっている(これは主人公ドレミの母親が元ピアニストという設定がほのめかすように、始めから番組に使われる音楽にはある程度のこだわりを見せるというコンセプトが番組制作当初からあったのではないかと思われる。ちなみにドレミの妹の名前はポップ)。主題歌、エンディング・テーマもいいが、番組中に流れる挿入歌、ドレミが魔女に変身するときの音楽(これは視覚的効果も大きい)なども捨てがたい。密かにこの番組のサントラを探しているのだが、なかなか見つからない。というわけえで日曜の朝方にやっているこの番組、なかなかあなどれないものがあるので、気になる人はだまされたと思って一度見てみてください。 

2000・6・25・日その2
最近、音楽についてまとまった量の文章を書いていない。ただ例外的なものとして吉田寮ライブ実行委員会のページに載せることになるこのあいだの吉田寮ライブのレポートがあるくらいだが、これはあくまでレポートであって、一人のアーティストなり一枚のアルバムなりについて語ったものではないので、別枠に入れておくべきものだろう。そういえばかつてに比べると音楽系サイトを巡り歩いては、掲示板に書き込みをするということもめっきり少なくなった。どうも音楽について人と何かを共有しようという傾向が希薄になっているようだ。今のこのような状態の原因は大きく分けると二つに要約される。一つは現在孤独癖と人間嫌いの傾向が若干強まっているということ。もう一つは、音楽そのものに対してあまりリアリティを感じなくなってきているということである。前者についてはかなりプライベートなことだし、その字面から受ける印象程深刻なものではないので、多言を費やさないでおくとして、後者の傾向について少々述べておきたい。
 音楽にあまり興味を抱けない、何を聞いても大して面白いとは思えない、という状態は今よりもむしろ今年の二月、三月あたりが一番ひどかった。この頃は孤独癖、人間嫌いという傾向を差し引いても、やたら人と接触する機会が極端に乏しかったし、狂ったように本ばかり読んでいたような印象がある。またこの頃は前のパソコンの通信機能が完全にストップしており、ネットを通じてのコミュニケーションが全く閉ざされていたということも少なからず影響している。
 そして今再びネットを自由にほっつき回ることができるようになり、一頃よりは人と接触する機会も増えはしたし、音楽が生活に占める割合もかなり増大した。がしかし音楽について大っぴらに何かを語ろうか、という気には今一つなれない。それこそこういうコラム形式でだったらかなり自由な気持ちで色々と語ることができるのだが、それなりの紙幅を割いて音楽について語るときのあの息苦しさをあえて引き受けるための何か確固とした核のようなものが今の僕には抜けているらしい。それとは別に今の音楽をとりまく状況というのも、僕に音楽への興味を失わせる大きな要因となっているのは、否定できない。これは別のサイトに書いている日記でも何度か触れてきたことだが、お手軽に音楽が手に入れることができる状況というのが、必ずしも音楽業界並びに音楽そのものの活性化に貢献しているとは思えない、ということである。これはあくまで僕の個人的偏見に基づく見解だが、しかし僕はアクチュアルなものは必ずしもリアルなものではない、という考え方を決して忘れたくない。

2000・6・26・月
 昨年の段階からいつか書こう書こうと思っていた高橋和己の『邪宗門』についての文章を昨夜原稿用紙にして四枚程書いたのだけれど、間抜けなことに保存しそこなって、跡形もなく消えてしまった。まあ自分で書いたものだし、ある程度これまで頭の中で少しずつこさえてきたものでもあるのだから、それなりの復元は可能なのだが、やはり落胆の感情を消し去ることはできない。
 ところでその高橋氏の作品には、よく特攻帰りの人物が登場する。今手元のその作品が無いので、個人名までは特定できないが、『日本の悪霊』、『散華』、『憂鬱なる党派』などに主人公あるいは主人公に近い人物として登場している。そしてそのいずれもが、独特の厭世観や過去への負い目を抱え込んで生きているのが印象的であった。『日本の悪霊』に出てくる特攻出身の刑事は、徴兵のためにそれまで通っていた国立大学を辞めねばならず、終戦後刑事という職を得た後も、出世の道をあえて遠ざけ、自らやり場のない虚無を抱え日々をやり過ごしているし、残り二つの作品に出てくる特攻出身者もまた、人に言い得ぬ何かをそれぞれが抱えていた。
 僕のどのような過去がそうさせるのかは、今はまだ言える精神状態には無いが、しかし彼らが抱えた虚無──ある大義名分のために自らよかれと思い、身を投じてきたことが、実は大海への一滴にさえしかない、殆ど無意味というべきものであったという現実が突きつけられた後の虚無というのは、僕には妙に納得いくものに思えてしょうがない。実を言うと彼らのような特攻帰りの人物だけではなく、高橋氏の作品のほぼ全てにこのような挫折の後の虚無を抱えた人間が登場するのだと言ってよい。このあたりは氏の戦争体験に深く根付いたものなのであろう。思えば、戦後このような果てしなく無力な個人としての自分と戦争、いや戦争というだけでなくこの世で起こるあらゆる事象との対峙ということについてここまで自覚的であった人がどれだけいただろうか、ということをふと考える。
 それはともかくとして、高橋氏の作品の中で『邪宗門』がとりわけ異色であるのは、その人間としての無力さについての叙述が個人レベルではなく、世間から「邪宗」というレッテルを貼り付けられた宗教団体という集団レベルにまで及んでいるということである。そしてそれぞれは弱い葦にしか過ぎない信者達を統括するために、超人的、カリスマ的な人物、すなわち千葉潔を物語の中心に据えたところも、つねに自分の弱さと人間的醜さをもてあましている人物を描き続けてきた高橋氏の作品としては、異例と言える。できたらときどきこうやって、この日記の中で『邪宗門』について考えたことを小出しに書いていって、後でまとめることができればいいなと思ってはいるのだが、どうなることやら。

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