2000・7・2・日
現役中、あるいは最盛期には、それなりの人気と評価を受けていたであろうに、その所在なさによってその後今一つ省みられることが少ないバンド・アーティストというのは、少なくない。今僕の中でその筆頭にあげられるのがビ・バップ・デラックスとコックニー・レベルである。そのどちらも今聞いても留保無しで聞くにたえるクオリティを持っていると言えるのだが、なぜか彼らについて語られることは決して多くない。特にコックニー・レベルは初期2枚のいささか色物的なカラーが災いしてか、キンクスやコステロあたりの流れをくむ後期のポップ・ソングはほとんど不当に無視されていると言っていい。僕が把握している限りでの唯一の例外は、九八年五月号の『レコード・コレクターズ』における「XTC特集」。その中の「XTCのルーツを知るための19枚」という記事で和久井光司氏がコックニー・レベルのラスト・スタジオ・アルバム『ラブ・イズ・ア・プリマドンナ」を取り上げているのだ。しかも「英国モダン・ポップ屈指の名盤」という太鼓判まで押しておられる。
残念ながら僕はこのアルバムをまだ手に入れていないのだが、一時期毎日のように聞いていたライブ盤『フェイス・トゥ・フェイス』(キンクスの同名アルバムにあやかったか?)でこのアルバムから何曲かやっていていずれもお気に入りの曲だったので、このアルバムの存在はそれなりに気になっていた。それからこの『ラブ・イズ・ア・プリマドンナ』の前のアルバム『タイムレス・フライト』もすごくコンテンポラリーな内容で時代性を全く感じさせないと言ってもいいくらいに、新鮮さを保っている。このあたりは不当に無視されているんじゃないかと、声を大にして言いたい。ちなみに彼らの最大のヒット曲「セバスチャン」は松浦理恵子氏の同名小説に出てくるので、それからコックニー・レベルに興味を持つ人の一人や二人出てきてもいいと思うのだが・・・・・ コックニー・レベルに思った以上に紙幅を費やしてしまった。本当はビ・バップ・デラックスについて書こうと思ったのだ。このバンドある意味、コックニー・レベル以上のわかりにくさがあるかもしれない。特に難しいことをやっているわけでもない。どこがエキセントリックかと言われると答えに窮してしまうが、でもやっぱり変なのだ。ギターは、ハードロック。曲調はポップ。んでリズムはファンクっぽかったりするし、ヴォーカルは妙に中性的。一体何をねらっていたのか、まったく理解に苦しむ。それこそどこがどうとは説明できないってところで生理的に受け付けないという人がいたとしても、納得できる。僕もあの大げさなギターがまず受け付けなくて、最初ほとんど聞いていなかった。特にあのファーストのジャケットがまさにB級ヘビ・メタみたいなノリで、一応ポップ・バンドという前情報を得ていた僕としては、購入するときかなり不安を感じたものだ。でもちゃんと聞いてみると、これがいいのだ。これを一聴して「良い」と言う人がどれだけいるか分からないけれど、とりあえずポップなメロディーにひたすら耳を傾ければ良さがわかるはず。後この人達と近い位置にいるバンドとしてスパークスなんかも挙げられるかもしれない。スパークスなんかクラブでかけたら受けそうだけどな。
2000・7・16・日
僕には二つ上のもうかれこれ七年近く会っていない兄がいる。彼と会っていないというのは、僕が実家に戻るときと彼が実家に戻るときとのタイミングが合わないというのもあるが、それと同じくらいに彼と会うことを僕が強烈に拒んでいるという事情にも因る。彼との関係が僕に及ぼした影響というのは、多少は積極的なものが認められるにしても、それはあくまで逆説的な意味が伴ってのことでしかない、と少なくとも僕は思っている。とりあえず今の僕にとっては、兄の存在は僕の人生に必要の無いものであり、彼と二十年近く同じ屋根の下で暮らしたのは、不可避的なことではあったとは言え、これまでの人生の中であってはいけないことの最筆頭にあげられるものの一つである。
ここまで自分の身内についてひどいことを言うか?と眉をひそめる人も少なくないだろう。しかし僕にとっての事実というのは曲げようがない。彼と僕とが同じ屋根に住むのがそもそも大きな間違いであったと思える要因の一つが、彼が非常に独占欲と所有欲が強いのに対して、僕が束縛されることをかなり極端に嫌うという性格であったことによるのではないか、と思う。彼は自分の弟特に自分と年齢が近い僕を自分の所有物だとみなしたが、その見方に対して僕は強行に拒絶の態度を示したということだ。そのような傾向を示すのに格好な次のようなエピソードがある。小学校の高学年から僕は四っつ下の弟を下にして二段ベットの上段に寝るようになり、兄はその下段の横にあつらえたベッドで寝るようになった。たまに弟が不在のとき兄は横に誰もいないのを異様に不安がり、執拗に弟のベッドに僕が寝ることを強要するのを僕は強行に拒み続けるということが幾度と無くあった。今にして思えばあれほどまでに拒み続けるようなことかと思わないでもないのだが、しかし、そうした見解とは裏腹に眠る前に自分の世界に浸るということを誰にも邪魔されたくなかったという当時も今も変わらぬ自分の性向を省みるとあれはあれで当然の反応であったとも思う。また夜中に時折寝付けぬ兄がしゃべりかけてくるのに対しても僕は幾度と無く拒絶の反応を示してきた。こうやって思い返すとつくづく因果な兄弟だと思う。正直言って今の時点で彼が死んだと聞かされたところで、悲しいという気持ちになれるかどうかかなり不安なものがある。殆ど会わない時間が蓄積されていくのを楽しんでいるかのような様相を呈してはいるが、しかし一生彼と顔を合わせないで済ませるわけにもいかない。次に彼にあうときは一体どんな顔をすればいいのか多少不安にかられないわけでもない。
2000・7・20・木
先週あたりからまとめてザッパの作品群を聞き直している。年に二度くらいこのような「ザッパどっぷりモード」に入ることがあるのだが、今回は滅多に手を伸ばすことがない『ジョーズ・ガレージ』や、ここ数年行方しれずで、このモードに入った矢先にひょんなことから見つかった『オン・ステージvol.1』、それに今から触れることになる『レザー』、僕より年季の入ったザッパ・ファンである院時代の先輩でさえあまり好きじゃないとコメントしていた『シヴィライゼーション文明第三期』まで聞き返しているので、これまでになくディープな「ザッパどっぷりモード」だと言える。
それはともかくとして、CD三枚組で発売された『レザー』だが、よく知られるように、本来はアナログ四枚組で店頭に並ぶはずだった。それが僕にはどうも納得がいかなかった。本当にこれがザッパが意図した「レザー」なのだろうか?と。とりあえず、アナログ四枚という企画の段階でどのような曲の配列になったいたか、を示す曲目表はないのだろうか、と本当はここで書くはずだったのだが、たった今『レザー』を聞きながらこれを書いている合間にふと『ラザー』のブックレットに目を通してみると、オリジナル仕様の曲目表がちゃんと掲載されていた。迂闊だった。CD版は二,三オリジナルと違ったところがあるようだ。それを一々指摘することはここではしないが。でもとりあえず、もしあるのならオリジナル仕様のアルバム・ジャケというのもぜひ見てみたいものだ。
ところでこの『レザー』がザッパが意図したとおりに発売されていたとしたらどうなっていただろうか?というのも若干気になるところではある。現在『レザー』の国内盤が廃盤という状況を見る限りでは、少なくともセールス面では芳しいものになっていたかどうかはかなり怪しい。また音楽的評価という点でも、他のザッパの名作群よりも特別に抜きんでているかというと決してそうとも言えないのではないかと思う。『レコード・コレクターズ』でこの『ラザー』をとりあげた記事の中で岡田敏一氏は、「当初の予定通り4枚組みで発売されていたら、ザッパは20世紀最高の音楽家として、今よりもっと幅広く認知されていただろう」とまでコメントしているが、それは少々大風呂敷を広げすぎではないだろうか?もしオリジナル仕様で発売されていたら、あの名作『ザッパ・イン・ニュー・ヨーク』もいずれはそのライブ音源がなにがしかの形で出ることになったにせよ、我々が長く親しんできたスタイルで店頭に並ぶことになっていたかどうかはかなり疑問である。そう考えると、なんだかんだ言って、ザッパが意図していたものより、ワーナーの判断のほうが結果的に正しかったのではないか?という気さえするが、どうだろうか。
2000・7・22・土
つい今しがた島尾敏雄の『日の移ろい』、その正と続をようやく読み終えた。全部で九百ページ近くもある代物で、全部読み終えるのにのべ一ヶ月半以上の日にちを要した。もちろん、読書といえば、まずはこの本という感じで読み進めてきたわけではなく、途中幾度と無く、他の本に浮気をしながらの結果である。それ程難しい内容でもなく、読みにくい文体でもない。むしろその逆である。島尾が奄美大島の図書館の館長を務めながら、いくつかの原稿を書きすすめ、出版社の人間を始めとする東京の文壇関係の人間とのいくつかのやりとりをこなし、その一方でかつて自分の不実が原因で精神に異常を来してしまった妻の、その異常の再発に怯えるといった日常が日記という形式を通して比較的淡々とした調子で書かれてある。
その淡々とした調子に途中で飽きがくるのか、それともやや世捨て人的な境遇に自分を追い込んでいこうとする島尾の傾向に、現在の自分をつい重ね合わせてしまうのが、しんどくなるのかなかなか一度に長い時間をかけて読み進めるということができず、正のほうを二十ページ程読んで、続を三十ページ程読み、そして他の小説を夕方から夜にかけて一気に読み終えた後、しばらくその両方ともをうっちゃらかして、忘れた頃にまた手に取るということを幾度と無く繰り返してきた。
島尾自身はそれ程エキセントリックでも、ある種の異常さを抱えている人間でもなさそうなのに、彼が書いた物に何か人が絶対まねのできない調子というかリズムのようなものが潜んでいるというのは、ある摩訶不思議なものを感じざるをえない。友人はこれをパラパラと読んで「詞みたいだ」と言っていたが、確かにそういう趣もある。往々にして詩集は、数時間かけて一挙に読み進めるようなものではなく、気が向いた時に、自分が好きな詩、自分が好きな箇所を読むものだが、この書物などかなりそういう読み方ができそうである。特に一つの完成した作品にしようという気負いも無しに書きつづった日記が一つの詩になりえるというのは、どう考えても特異な才能に違いない。しかし更におかしいのが、このような特異な才能に一番鈍感な人間の一人であると思われるのが、他ならぬ島尾自身ではないか、ということである。島尾はこの日記の中で次のように書いている。「自分の書いたものが文学論の対象になることが中々に信じられない。どうなっているのだろう。」こうした文章の中でも「中々」などとあまり常識的とは言えない言葉遣いをしているところが島尾の島尾たるゆえんではないだろうか。後「普段」という単語に「不断」という字を当てているのもかなり印象に残った。
かの安原顕氏は戦後日本文学における必読の書(だったと思う)の一つとして島尾敏雄全作品を挙げていたが、正直言うと、僕自身の読み方が浅いのか僕はそこまで島尾を持ち上げる気にはなれない。このあたりは安原、吉本隆明、埴谷雄高等が形成してきた独自のメンタリティに因るところが大きいのではないかという気がする。
後、続の中で学生によるデモ隊と機動隊との衝突を目の当たりにしたことについての記述があったが、当時そのようなデモ隊にも島尾の作品を読んだ人間はそれなりにいたのではないかと想像されるにも関わらず、島尾自身はそのような動きとは全く隔たったところにいたという事実が逆説的な形で顕わにされているように思えた。そういえば、島尾の作風とかなりの共通点を有し、島尾自身がエッセイの中でとりあげているつげ義春は、安保闘争をリアルタイムでは、全く知らなかったという事実とも、なにか呼応するものがあるのではないだろうか。
20007・28・金
最近、よく思うことがある。これまでの自分の人生が奇妙に分断されているのではないか、ということである。確かに人にはそれぞれの節目というものがあり、そこでなにがしかの変転を経ていくものではあるが、僕が抱えている分断というのは、そういったものとは微妙に違っている。例えば、地元との関係を省みても、大学入学のために関西に来たときから、地元と僕との間にあった空間的・時間的連続性が全面的にではなくても、かなりの部分が断ち切られたように思われる。これはもともと地元に根付く要素が希薄だった僕のある属性のためだったのか、どうかということを時折考えてみる。
元来、地元に友人がいない人だったので、大学に入ると余計に中学・高校の同級生の殆どと疎遠になり、また一応同窓会への誘いというのもあったらしいが、その当時の僕は自由に実家に帰れる境遇には無かったため、彼らと旧交を暖める機会にも恵まれなかった。また大学に入っても、特に学部生時代に知り合った友人・知人の類の悉くが、ある時はこちらから、ある時は相手から、決別を告げられるか、または自然に疎遠になるかして、縁が切れていった。こうした経歴を思うたびに自分がある種の業を背負っているのではないか、という気にさせられる。こうした他人との決別は、ただ単にその人達との別れだけを意味するだけでなく、その人達と過ごしてきた時間の記憶を共有できる機会を逸してしまうことをも意味する。つまりこれまでの自分の人生の記憶を自分の頭の中でだけに求めるということを余儀なくされるということである。ただでさえ人と共有できるような時を過ごしたことが少ないのに、そのわずかな時間の記憶さえをも誰とも共有できないというのはなかなか辛いものではある。その人と共有できる記憶があまりに少ないために、僕のこれまでの人生にある種の連続性が欠落していると言っていいだろう。
ついさっきまで読んでいた高橋たか子のエッセイ集にもし自分が死んだ後、自分の伝記が書かれるとしたら・・・・・・というテーマで書かれたものがあった。要するに誰にも人の内面に踏みいることができない以上、いかに緻密なリサーチをもってしても、その人の人生そのものを描ききるということは不可能である、という話である。高橋氏は自分についてそういう仮定を立てることは非常に僭越であると、最初に断り書きをしているが、それ以上にそうすることが僭越である僕が、あえてそういう事態を想像してみると、改めてこれまでの自分の経歴におけるつかみ所の無さのようなものを感じざるをえない。生まれた頃からこれまでの僕を知っているはずの両親でさえ、僕の生活をつぶさに見てきたわけではないし、大学に入ってから今現在に至るまでの僕を身近に見てきた人間というのも存在しない。大学に入ってからの僕の生活をかなり赤裸々に綴った日記ももう無い。僕という人間の成り立ちを知るために重要な資料、データ──特に大学に入ってから以降のものの殆どが失われている、と言っていいだろう。
思えば何時の頃からか、僕の頭の中と目の前とに薄いフィルターのようなものがずっと覆っていたような気がする。そのフィルターが何なのかわけがわからずに、何をやっても空回りしてしまう自分を持て余しながらどうにかこうにか生きてきたのが、二十代半ばあたりまでではなかったろうか?その間に背負った負債が未だに肩にのしかかっている状態ではあるが、目に見えないフィルターのためにがんじがらめになった状態よりは幾分ましではある。
つかず離れずの関係──島田雅彦について
2000・8・30・水
ついさっきまで島田雅彦のエッセイ集『偽作家のリアル・ライフ』を読んでいた。その後書きはこう締めくくられている。「読者のみなさんには十年間、愛想笑いを送り続けます。それではまたお会いしましょうね。一九八五年十二月 島田雅彦」十年どころか十五年もの月日が流れていることに、今更ながら時の流れの速さに翻弄されている我が身を感じざるを得ない。確か僕が彼の存在を知ったのは、この年からそう隔たっていなかったはずだ。その後彼の存在は、僕にとって気になるものではあったが、その距離が縮まる一瞬がありながらも、しかし、それが最終的に完遂することがないままに、十数年近くの年月が経ていた。
大学時代(向こうはどう思っていたか分からないが)一番仲が良かったと自分では思っていた友達(しかしその後向こうから一方的に関係を断たれてしまった)が島田ファンであり、島田の作品を読んだことはなかったが周辺の知識は多少なりともあったので、それなりに話に合わせることができ、ひいてはその二人にとって島田は共通コードと言っても良い存在になったし、彼女が大学を卒業した後、更にもう一年大学にいなければならなくなった僕は、彼の講演を聞く機会に恵まれ、あまつさえその後の島田を囲んでの飲み会で同席し、彼にビールを酌んでもらうという僥倖にあずかり、さらには「文壇で殺したい人はいますか?」などと無神経な質問をぶつけさえもした。しかし、一貫して彼の態度は淡々としたものだったという記憶がある。このようなことがあってもなお、僕は彼の作品を手にすることはなかった。
なんだかんだと彼の作品を読むようになったのは昨年大学院の先輩から、彼の初期作品を譲り受けたのを機にしてからのこと。その先輩(とは言っても年齢は僕と同じだ)によると島田を読んでいたという過去は、まさに自分の青臭さの証であり、自分ではそれを卒業したとのこと。いわばその先輩の恥辱とでも呼ぶべき代物を、僕は三十路を迎えた後に読むことになったのだ。
僕の島田についての印象はと言うと古井由吉の彼に対する評価とほぼ似たようなものになるだろうか。つまり以下のように・・・・・・「氏は僕の作品を持ち上げては下さらないが、文学的な意義は認めて下さっているようである。」ちなみにこれは島田のエッセイ『語らず、歌え』の中の一節で、蛇足を承知で言わせてもらうと、このエッセイを読んでから僕は古井の作品を手にするようになった。
確かに青二才であることをあえて売り物にする島田の物言いをそのまま我田引水的に標榜してみせるのは格好悪い。それを十年か、それ以上前にやっていた青二才もそれなりにいて、それぞれが恥辱に満ちた記憶として自らに留めている図は用意に想像できる。しかし三十路を過ぎてもなお漂泊者的生活を自らに課している僕には、十数年前に書かれたこの『偽作家のリアル・ライフ』で描かれた世界観はそれこそあるリアルさを持って迫ってきたことを否定できない。多分、僕は筋金入りの青二才か、その一歩あるいは二歩手前なのだろう。しかしこの青二才にあまりに固執することによって、その逆のものになってしまう可能性も少なくないだろう。それゆえ、今後とも僕と島田とはつかず離れずの関係でいつづけることになる。
『暗い日曜日』
2000・9・24・日
最初に手に入れた阿部薫の作品は、『ライブ・アット・騒 vol.7』は一九七八年の録音。次に手に入れた『彗星パルティータ』は七三年。そして今回手に入れた『暗い日曜日』は七一年と意図せずしてだんだん時代を遡るかたちで阿部の音を聞いてきたことになる。『彗星パルティータ』の衝撃もすさまじかったが、この『暗い日曜日』のショックも相当なものだ。このアルバムのライナーを執筆している大場周治氏が阿部のピークは七一年だというようなことを述べているのがよくわかる演奏である。そして何より阿部の何とも言えない底知れ無さを物語っているのが、ジャケットに写った彼の表情。顔立ちは童顔の部類に入るのだが、この目つきは何だろう?とても二十歳そこそこの人間とは思えない悲哀と諦念が入り交じった目つき。それでいて何かを訴えかけているかのような、どこか人なつっこさのようなものも伺える。
以前『彗星パルティータ』について書いた文章で、幾度と無く阿部薫という人間が一体どこに立ってどこを見つめていたのかということを問うてきたが、その思いはルースターズについて書いた文章で僕を「一体大江慎也は何者だったのか?」と問いかけさせずにはいられなかったものと似ているような気がする。というより今回『暗い日曜日』を聞きながらその音楽性の隔たりを飛び越えて、僕は幾度と無く大江のことを思い出さずにはいられなかったのだ。
天才サックス奏者と言われていた阿部薫。しかし僕がこれまで聞いてきた限り、天才という形容詞が彼に似つかわしいものだとはなぜか思えない。友人は大江慎也のことを実存の人、つまり自分の存在そのものを音楽に常人をはるかに越えたレベルでそそぎ込んだ人だと評していたが、阿部にもその形容が相応しく、天才とかなんとか言う前にその点こそがまず取りざたにされねばならないのではないかという気がしてならないのだ。
それにしてもジャケットに写った写真はもちろんのこと、この『暗い日曜日』に収められた音、もしこんな言い方が許されるのであれば音塊とでも言うべき物のすさまじさはとても二十歳過ぎの人間が出す音とは思えない。逆に二十二才の時点でこんな音を出してしまった後、死ぬまでの七年間彼は一体何を目指し、何を演奏すれば良かったのだろう?という余計なことさえ考えてしまう。
ひょっとするとこれからしばらくは大江について思いを巡らせたのと同じくらいに阿部について答えが出てこないことが前提となっている問いに思いを巡らすことになるかもしれない。
文章を書かなくなったことについて
2000・12・30・日
僕が今のところ最後に書いた比較的長めの評論「ロックン・ロールを奏でる逃げ水−ルースターズ」を書いてかれこれ三ヶ月以上が経つ。またこのコラムさえ、三カ月以上ほったらかしのまま。特に何かに追い立てられているわけでもなく、また何の感慨も探求心も無く、ただ無為な日々を過ごしているだけというわけでもないのにどうして文章を書くという行為に向かわないのだろうか?確かに日記のほうは毎日見る人が見れば、律儀とさえ言えるほどまめに書いてはいるが、しかし、一時期ほどのテンションが無いのが我ながらもどかしい。確かに先月バイト先で従事している作業に変化があったのが、かなり思考を妨げている、とは言える。が、それでもものを考える余裕は、普通のサラリーマンの比ではないはず。また思考の糧、あるいは鍵となりうるような本もそれなりに読んではいるので、ネタに不自由するということは無いと言っていい。
今のところは、文章を書くことを生業としているわけではないのだから、文章を書かないでいることにさほど焦りを感じる必然性は無いはずなのだけれど、しかし、身分的に何の拠り所もない現在の僕にとって文章を書くという行為が自分の自己同一性を維持する数少ない、いや唯一とさえ言っていい方法なのだ。人しれず・・・・とまで言うと大げさだが、しかし読む人が決して多いとは言えない地味なホームページに文章を書き続ける果てに何かがあるとはとても思えない。それでも表現する場を確保している以上は、何かを書き続けるのが、誰が課したのでもない、僕が自らに課した使命だと信じている。
今やインターネットがこれだけ普及し、毎日のように夥しい数の出版物が市場に、殆ど無意味と言っていいスピードと回転率で出回るようになっている時代に、僕が書くものがどれだけの意味を持ちうるのかと問われると、正直言ってそれほど積極的なものではないとうつむき加減に答える他は無い。でもだからこそ、ちょっとでも良い物を書きたいと思う。ほんの一行でもいい、本当に光る文章が書ければと思う。文体だけでなく、それを裏付けする(こう言ってよければだが)思想をも兼ね備えた一行が書ければ。
日本人によるグルーブについて
2000・12・31・日
成毛滋という名前を聞いてピンとくる人はそう多くはないと思う。かつてフライド・エッグというバンド(つのだひろがドラムだった)でギターを弾き、「100円コンサート」など商標ペースを度外視したライブを行い、高中正義にギターを教え、かつてグレコのギターについていたという教則用カセットで、日本のギタリストに空ピッキングの存在を伝授し、「日本のジミー・ペイジ」という今となってはあまりありがたみのない敬称で呼ばれたという人物である。そしてこの人は今もまだやっているのかどうか、寡聞にして知らないが、ラジオでギター講座をやっていて、僕はそれを高校時代結構真剣になって聞いていた。
その番組の中で成毛氏が繰り返し言っていたこと・・・・・・「日本のギタリストはみんなインチキだ」、「日本のギター雑誌に載っていることはみんなでたらめ」、「ギタリストを目指す人は、絶対に日本のギタリストのまねをしてはならず、ひたすら海外ギタリストのコピーに励むべし」、「日本人はリズム感が悪いから、海外ギタリスト並に弾こうと思ったら途方もない努力と時間をかけなばならない」等々。とにかく「海外ギタリスト=○」、「日本人ギタリスト=×」という図式の一点張りなのである。確かに日本のギター雑誌や教則本に掲載されている知識のでたらめさを告発したことには、かなりの意味はあると思うし、そのことによって多少なりとも日本人ギタリストへの育成に貢献した側面もあるかもしれない。がしかし・・・・・・
日本にロックが入ってきてもう四十年以上の月日が経ち、良くも悪くもロックという音楽は日本にそれなりに根付き、輸入文化という括り方に収まらない日本的ロックというものがほぼできあがっていると言っていいと思う。たとえリズム感の悪い日本人が奏でるロックがどれだけぎこちなく成毛氏から見ればみっともない代物でしかなくても、そこにある独自のノリ、あるいはグルーブがあり、それになにがしかの魅力があるという現実を認めるべきではないだろうか?いや昨今のロックの話だけではなく、例えば、海外に日本のグループ・サウンズ・マニアが多く存在するということを成毛氏はどう捉えているのだろうか?日本人が織りなすぎこちないグルーブが、ロック生誕の地であるアメリカやイギリスで受けているという事実は、多少なりとも成毛氏の前提を揺るがすものではないのか?またかつて成毛氏が自分たち日本人との決定的な「血」の違いを感じると述べていた山口冨士夫が、日本語の響きにこだわり、バンドを組むときもテクニックや音楽の知識に拘泥せずもっと人間としてのあり方やセンスにこだわったという事実を思い返してみてもいい。
現在英語という言語は世界中の様々な地域で話されており、それぞれの地域でその土地の言語と混ざり合い独特の言語体系を織りなしているという。それらの言語を誰もインチキだとか、正統の英語を話せとは言わない。例えそれが正統から大きく外れようとも、それが一つの文化であることを認めているということの証左に他あるまい。それと同じように英米のロックを過度に神聖視し、日本独自のロックのあり方を認めることができないというのは、あまりに片手落ちな見方と言うべきではないだろうか?