ITバブル崩壊によせて
2001・9・5・水
先週のゲートウェイ日本事業撤退のニュースに引き続き、ヒューレット・カッパードによるコンパック買収のニュースが報じられた。まさにITバブル崩壊これに極めりという感じである。実のところIT革命が意味するところというのは、正確に把握していないままで今に至っているのだけれど、要するにインターネットとモバイル機器の発展・普及にともない、情報伝達のあり方が大きく変革し、ひいては様々な産業に影響を及ぼすことを指すのだと思う。
僕はおおよそモバイルの類とは無縁の人なので、話をネットに限って言うと、確かにネットを通じて得られる情報量は決して馬鹿にできないものだし、そこに情報伝達に関するパースペクティブの大きな変革の予兆を読みとることも不可能ではないだろう。しかしいかんせん情報の送り手、受け手ともにネットの可能性に対する意識があまりに低すぎるため、実際問題としては、大きな変革は絶望的ではないにしても、遠い先のことだと言わねばならないだろう。
個人的な話になるが、ネット・サーフィンをやっていてたびたび頭にくるのが、内容がないくせに意味もなくゴテゴテしてやたら重たいHPの存在。そんなに奇をてらって自分の頭の悪さを不特定多数の人間にさらけ出すのがそんなに楽しいか?と真顔で問いたくなる。そんな輩のために大容量ブロードバンドや、殆ど意味のない高スペックのパソコンの開発が行われているのかと考えると、思わず目が真っ暗になってくる。
近いうちにCPU2ギガバイトのPCが世に出るらしいが、そんなものをこれでもかと世に問うより、1ギガヘルツ以下のパソコンを二万から三万程度に抑えた値段で普及させ、それらパソコン用のソフトを色々開発していったほうが、後々のことを考えると有効ではないだろうか?こういう考え方はたぶんに岩谷宏氏の影響を受けていることを認めるのにやぶさかではないが、とにかくこれまで読んできた彼の著作で繰り返し述べられてきた主張を頭の中で反芻するにつれ、パソコン業界を巡る昨今の事情がとてつもなくばかばかしく思われてくるのだ。
いきなり日本から事業撤退したゲートウェイのやり方には、非常に憤りを感じるが、とりあえずCEOが述べている「箱売りPCの時代は終わった。」という意見には百パーセント賛成である。2ギガバイトのPCを作ったって殆どのPCユーザーには無用の長物だし、そんな高スペックが必要な状況なんて、おそらくろくでもないものに決まっている。僕自身は未だリナックスに手を出せないままでいるが、比較的低スペックのPC環境上でも安定した動きを示し、なおかつユーザーが主体的にPCに取り組むことを可能にするリナックスは、まさにこんなアホらしい状況に対する警鐘たりえるのではないだろうか?。
全ザッパ・ファンが帰り着く所──『フリーク・アウト』
2001・9・9・日
ザッパのキャリアの出発点であり、ザッパの代表作として誰もが認める『フリーク・アウト』。しかし、僕はこの作品に長いことなじめなかった。確か『アブソリュートリー・フリー』に次いで買った、二枚目のザッパのアルバムだった。おそらくこのアルバムにかの頭脳警察というバンド名のヒントとなった「フー・アー・ザ・ブレイン・ポリス」が収録されていたことが、こちらの購買欲を誘った要因の一つだったように思う。
確かに耳に馴染んだ曲もあるにはあったし、決して「駄作」や「失敗作」なんて的はずれな印象は抱かなかったはず。しかし、前述のようにこのアルバムは、その真価を今ひとつ理解できない作品として、思い出した頃に聞く程度のものに留まっていた。その後二年間程のブランクを挟み、ザッパに本格的にのめりこむようになっても、その印象に揺るぎはなかった。昨年どこかで書いたが、このアルバムをザッパのフェイバリットに挙げる人達に対しては、疑念を投げかけることさえ辞さなかった程である。そしてさらに一年後・・・・
これまでこのアルバムに抱いていた馴染め無さは、ひとえに僕の聞き込み不足によるものだと今ここではっきりと告白しよう。今年の初夏から始まった「ザッパどっぷりモード」の最中でもこのアルバムに食指がのびることはなかったが、ついこのあいだとあるイヴェントでかかっていた「エニイ・ウエイ・ザ・ウインド・ブロウズ」のカバーを聞いてこのアルバムを改めて聞き直してみると、これまでこのアルバムに感じていた重ったるさや、妙に耳障りに思えたところが、ものの見事に気にならなくなっていることに我ながら唖然とする。
今年の初夏の段階でかつてはなじめなかった『シーク・ヤプーティ』が、いつのまにか自分に近しいものと感じられたとき以上の驚きである。それよりももっと前には、『ワン・サイズ・フィッツ・イット・オール』にも同じ現象が起こったし、全くもってザッパが持つ無尽蔵のアーティスト・パワーには恐れ入るという他はない。
確かにこのアルバムには、一瞬エキセントリックだと感じられる要素は決して少なくない。しかし、今の時点でこのアルバムを聞いた印象は、ここに収められた楽曲は決して奇をてらって作られたものではなく、純粋音楽家ザッパによる純粋音楽であるというものだ。比較的耳に馴染みやすい前半の曲はもちろんのこと、かなり前衛的な音づくりがなされている後半でさえも、それが前衛芸術家なんてとってつけたような自意識によるものではなく、もっとプリミティブな音づくりへの衝動に基づいているということが、今になって感じ取ることができるようになった。
さて、このアルバムが果たしてザッパ初心者に勧められるものかどうか、というのは、僕にとっては微妙な問題である。いささか卑怯な言い方だが、僕はこの問いにこう答えるだろう。「ザッパ入門のために、このアルバムを勧めることはできないが、しかし、ザッパをこれからずっと聞き続けようと思うのなら、とりあえずは耳にしておいたほうがいい」と。例え最初このアルバムを聞いて、なじめなくてもその後色々とザッパのアルバムを聞き進めていくうちに、ザッパの原点としてのこのアルバムの真価がおのずと分かるようになると思うからだ。
ジェフ・ベック再評価への布石──第二期ジェフ・ベック・グループを聞く
2001・10・2・火
今日ジェフ・ベックを熱心に聞く、あるいはそこまでいかなくとも、ある程度彼が残した音源に意識的である人は、一体どういうタイプの人だろうか?実際に調査を行ったわけではないから、その根拠に乏しいが、かつてのギター・ヒーローとしての彼を神格化して語る人はどちらかというと年季の入ったロック・ファンあるいは、ややマニアックなギター少年に限られるのではないだろうか?
かつて三大ギタリストとして並び称されたクラプトン、ペイジに比べ経済的成功に恵まれていないとはかねてから言われてきたことだが、そうした経済的成功以上に、彼が残した業績そのものがやや軽んじられている傾向にあるのではないかという考えが、に三年程前から頭のどこかに巣くってはいた。つまりギタリストとしてだけではなく、もっとトータルな音楽家としての彼を俯瞰的に捉え直すべきではないかと。しかし、ベックについて語るには、あまりに手持ちの音源が少なすぎた。
「ブルースについて」において軽く触れておいたとおり、ギタリスト志望の高校時代には三大ギタリストの一人であるベックへの畏敬もそれなりにあり、それこそコピー譜を買い求めて、手頃なフレーズを弾いてみては悦に入っていたこともあったが、大学に入るのとほぼ時を同じくして、彼に対する興味をほとんど失ってしまい、彼のギターを聞けるものとしては、ブリティッシュ・ブルースの黎明期の音源を収録した『ブルース・エニイタイム』と例の「ジェフズ・ブギー」が収録されていることで有名な(ちなみにこの曲のいくつかのフレーズが僕の数少ないレパートリーである)『ジェフ・ベック&ヤード・バーズ』のみという状態が長らく続いた。
そしてつい先日、その長いキャリアに比べあまりに数少ない彼が残したリーダー・アルバムの中でも僕が一番気にかかっていた第二期ジェフ・ベック・グループのアルバム二枚を本当に久しぶり──おそらく十三年ぶりだと思う──に聞き直した。
実はこの二枚のアルバムを確か高校三年のときに購入してはいるのだが(ちなみに購入の最たる動機は、前述のコピー譜に収められている曲目当て)、当時はまだファンクっぽい曲に対しての受け皿が整っていなかったため、今ひとつなじめなかったのだ。特にいわゆるハード・ロック的なそれとは明らかに一線を画しているボブ・テンチの節回しには言いようのない違和感を覚えたものだ。
それから十年以上の月日を経て改めて耳にした第二期ジェフ・ベック・グループの音は、ある程度その感触が耳に残っていたとはいえ、予想以上の高揚感をもたらしてくれた。このグループが残した音が少々時代の先を行き過ぎていたということは、わりによく言われているようだが、それでもその音の革新性は特に今日において、過小評価されているような気がしてしょうがない。どうもその後に残した『ブロウ・バイ・ブロウ』あたりの音のイメージが強すぎるのだろうか?とにかくここで彼が試みているロック、ジャズ、ソウルの融合は、明らかに当時のツエッペリンやパープル等々といったハード・ロックの枠組みからは大きく逸脱しているし、ハード・ロック以外にもこの音と同じ感触を与えてくれる音楽は今のところ思いつかない。
ただ今回このグループの音に触れてみて、そのファンキーさという点で(少々安直かもしれないが)、リトル・フィートを思い浮かべたのだが、そのリトル・フィートの名盤『デキシー・キッチン』が七三年で、第二期ジェフ・ベック・グループは七二年に解散している。このグループの解散の要因の一つに、ライブ・ステージの際、ボブ・テンチのファンキーなヴォーカルに客がのれなかったことがあるというが、このリトル・フィートのような独自のファンキーなのりを出すバンドと同列に語られ、あるいはこれらのバンドが互いに意識しあうような雰囲気があれば、後の評価も大分違ったものになるのではないかという気がするのだが、これはあまりに飛躍がありすぎるか?
暗殺の哲学
2001・10・4
相変わらず新聞・ニュースには「テロ」という言葉が連呼されているが、一体この「テロ」とは何をもってして、そう呼ばれるのだろうか?どうもこの「テロ」という言葉の意味と本質が問われないままに、その言葉だけが一人歩きしているように思えてしょうがない。今手元にある国語辞典をひもといてみたら、政治的要人を暗殺する行為とあり、このあいだ起こったテロ行為とは、かなりその意味合いを異にする。さしずめ、現代風にテロを定義づけしなおすとすれば、あるイデオロギーに基づいて行う暴力的行為全般ということになるだろうか?あえてこの定義に基づいてテロ対策というものを考えた場合、小泉だのアメリカだのが連発するテロ撲滅に向けての政策は、どうもいささか的はずれなものになるような気がしてしょうがない。
今日の日記のタイトルに冠した「暗殺の哲学」とは、かつて高橋和己が古今東西にわたる様々な暗殺事件に解説と論考を施したもので、今回の事件について色々とりとめのないことを考えている折りに、ふと思い出した。残念ながらこのエッセイを収めた本が見あたらないので、改めてそれをひもといてみることができないが、あやふやな記憶をたどる限り、それはこのあいだここで触れた啄木による大逆事件に連座したとされる人々への哀悼の念とほぼ共通した思いが醸し出されていたような気がする。
とにかく小泉だのブッシュだのが言っていることのトンチンカンさというのは、ひとえにテロというのは、テロ集団とされるグループを壊滅に追い込めば、この世から一掃できると思っているという点につきる。極端なことを言えば、人間の体一つが武器になるし、それがテロ勃発の発端になりうる、そのことを上記の「暗殺の哲学」が示唆していたように思うのだが。つまりテロというのは、ある思想に基づいた行為であるし、そのこの世において異端とされる思想があり、それがなにがしかの形で世間の隅に追いやられているという状況が続く限り、おおよそテロ撲滅なんてことはありえないのではないだろうか?
では、それらの異端とされている思想なり宗教団体をことごとく、異端視するのを止めるならば、テロがなくなるか?というとまずそんなこともおおよそありそうなこととは思えない。 まずそうした思想や宗教に対する偏見を全く無くしてしまうということが、まず不可能だろうし、そう方向に世論を持っていこうとすると、どうしても既存のいわば本流に属する宗教との齟齬や軋轢が生じ、それこそ新たなテロ行為を生み出しかねないからだ。
ほとんど思いつきといきおいで、書き飛ばしてしまったが、とにかく「テロ」という行為とその言葉が持つ意味は、かくも複雑で厄介な問題だから、安易に「テロ撲滅」なんてことをマスメディアにばらまくのは、いい加減に止めてもらいたいと思う。
忘れた頃に足が向く安息地──オーティス・レディング
かつて「思い出のアルバム」で取り上げたオーティスの『ヨーロッパのオーティス・レディング』についての文章には、「基本的にオーティスにはのめり込めない」と書いた僕だが、二年か三年に一度だろうか、オーティスのほぼ全アルバムを引っ張り出して、まとめて聞き直すことがある。前述の文章でオーティスより自分にとって好ましいと書いたジェイムス・ブラウンに関して、そのようなことをすることは殆どないのに、我ながら不思議な現象だと思う。
渋谷陽一がよく言及しているとおり、オーティスの音楽は汗くさく泥臭く、もっと言えば、どこか野暮ったさのようなものさえ感じる。普段そう頻繁にオーティスのCDに手が延びないのは、おそらくそのせいだろう。またかつてJBのほうがオーティスより自分の感性に合うというようなことを書いたのは、当時の年齢がそうさせたのかもしれない。確かあの文章を書いたのが三年前だから、その間に音楽のとらえ方に多少の変化が起きたということは、充分に考えられることである。
ちなみに今オーティスのデビュー・アルバム『ペイン・イン・マイ・ハート』に耳を傾けながら、この文章を書いているところだが、おそらくこのアルバムを最初に聞いた十三年近く前の頃より確実に耳になじんでいるのを如実に感じている。それにしても当時の僕とそう変わらない、いやむしろ僕より若い時期にオーティスの音楽にまいってしまったというかの忌野清志郎の耳の構造は、一体どうなっていたのだろう?という疑念もわいてしまうが。
とにかくこの一聴したところ、やたら重ったるく、辛気くさく、野暮ったいという印象を受ける音楽が、こんなにも耳を捉えて離さないというのは、ある種のマジックがそこに働いているとしか思えない。ちょっとしたアレンジの違いで一昔前の安っぽい音に堕してしまいそうなブラスの音も、オーティスの歌声と混じり合うと何とも豊穣な味わいを醸し出す。その他ベースやギターなどの各パートの楽器については、言わずもがな。
決して出しゃばりはしないが、しかし、ここぞという自己主張はしっかりとしている絶妙のバッキングである。大量生産大量消費という波に乗る前の、音楽が音楽のマジックを素直に信じることができた時代の音楽が持つ何かがここには確実にある。