猫について

2001・1・7・日

 自らを半描人と称したのはジョイスの翻訳で名高い柳瀬尚紀氏だが、この言い回しは猫好きな人間の特性を非常に上手く言い表していると思う。僕個人の印象から言えば、犬好きな人が犬に対して抱く思い入れに比して、猫好きな人間が猫に対して抱くそれは、どこか病的な固執ぶりを発揮するように思える。これは犬と猫の動物としての決定的な資質の違いによるものであり、自然と犬猫各々に惹かれる人間にも資質の違いが出てくるのだろう。

 基本的には犬も好きな僕だが、しかし、あえてどちらかと問われれば、一も二もなく猫を取る。また街角で猫を見かけたときの反応も、犬に対するそれよりも、過剰になりがちである。それにしても一部の猫好き人間を狂わすあの猫が持つ魔力のようなものは一体何だろう?あの要素は絶対犬には無いものだ。その要因の一つは、単純に犬より猫のほうが手なずけることが困難だということだと思う。なかなか手なずけることができないから、余計になついてくる猫がいると異様なまでの思い入れを抱いてしまう。それにいったんなついたかのように思えた猫が、次に会うと妙にそっけない態度(?)をとることがあるのも、犬には考えられない。猫のそうした気まぐれが嫌いという人もいるだろうが、猫好きな人間にとっては、そういうところも猫の魅力ではないだろうか?

 さて、こうして猫について偉そうなことを述べている僕だが、実際に猫を飼っていたのは、のべ三ヶ月足らずというごく短い期間でしかない。それでもその三ヶ月弱の期間に色々と猫が持つ奥深さのようなものを学んだような気がする。その最たるものの一つが「猫語」の存在。かつて僕の担当教授であったK先生の授業に初めて出たとき、先生の持論として紹介されたのがこの「猫語」であった。K先生曰く、「フランス語(その授業とはフランス語の講読の授業だったので)を学ぶためには、猫語をマスターせねばなりません。私も色々研究していますが、本当に猫語は難しい。」こんなことをのたまわるくらいだから、ほぼ間違いなくこのK先生も半描人である。最初このことばを聞いたときは、「この人大丈夫かいな?」と思ったものだが、「フランス語習得には、猫語を学ぶことが必修」という極論はとりあえずおくとして、どうも「猫語」なるものが存在し、その猫語が非常に難解なものであるということは、その友人から預かった猫とつきあっているうちに、僕にもそれなりに理解できた。確かにその時の状態によって普段我々が「ニャー」と表記するだけに留まる猫の鳴き声も多様な表情を持つのだ。そしてこれは沢山の猫と接するより、一匹の猫ととことんまでつきあうことから始めねば、習得(?)できないと思われる。

 

スティーブ・マリオットについて

2001・1・22・月

 先々月と今月号の『レコード・コレクターズ』の新譜紹介欄にイミディエイト時代におけるハンブル・パイのアルバムが紹介されていたので、ちょっと気になり久しぶりに自分が持っているイミディエイト時代の『アズ・セイフ・アズ・イエスタデイ・イズ(確か邦題は『その日暮らし』というものだった気がする)』と『タウン&カントリー』を引っぱり出して聞いてみた。

 この二枚のアルバムは、確か大学一回の時に購入したはずだが、今一つのめり込めないものを感じて、たまにしか聞いてこなかった。それぞれのアルバムが持つクオリティは、決して低くない。ただあまりに作り込みすぎというか、スティーブ・マリオットが持つR&B志向と、後期スモール・フェイセスに特徴的だったサイケ志向がかなりアンバランスな形で同居しており、そのためにアルバムを通して聞くのが妙にしんどく感じられたのかもしれない。そして、今回この二枚のアルバムを耳にしてみて、初めて聞いた頃よりもずっと耳になじんできたし、また新たな発見も少なくなかった。

 スティーブ・マリオットと何かにつけ比較されるミュージシャンにスティービー・ウインウッドがいるが、特に『タウン&カントリー』は、ウインウッドがトラフィック時代に残した名盤『ミスター・ファンタジー』とねらっていたサウンドがかなり近いのではないかと思わせるところがある。しかし、いかんせんハンブル・パイのサウンドはあまりにとっちらかっていて、今一つアルバムのカラーを絞り込めていないという印象が拭えない。本当に曲のクオリティは高いし、音に対するセンスも際だっているし、あちこちにただ者でないことを匂わせる才気が感じられるのだが、そのただ者ではない才気が、スティーブの場合逆に災いしているという側面があると思われる。

 同じくスティーブという名を持ち(そういえば、以前ポール・ウエラーのインタビューでこの二人にスティービー・ワンダーの名前を引き合いに出し「スティーブという名前を持つ人とだったら誰とでも一緒にやりたい」みたいな発言をしていたのを読んだことがある)、どちらも早熟の天才と言われており、その他にも共通点は少なくないのに、しかし、それと同じくらいこの二人には著しい相違点があるのは、言うまでもないだろう。どうしてスティーブは晩年めっきり老け込んだあげくにあんな無様な死に方をして、スティービーのほうは、あれだけマイ・ペースに良い意味で「熟年」という形容が相応しい年の取り方をしてこれたのか?このことについて考えるだけでも、ちょっとした文章が書けそうだ。

 スティーブ・マリオットと言えば、同じく『レコ・コレ』の「スモール・フェイセス特集」に大鷹俊一氏が寄せた文章が印象的であり、また彼の本質をかなり的確に突いていると思う。その文章において氏が彼を「とびっきり不器用な人」と述べたのは、彼のアーティスト人生がいかに不遇だったかをものの見事に言い当てているのではないか、と今初期ハンブル・パイの二枚のアルバムを聞き直して改めて感じた次第。スモール・フェイセス時代にはロニー・レイン、ハンブル・パイ時代にはピーター・フランプトンと彼の才能と上手い具合にバランスを保てるパートナーを得ながら、しかし、どうしても闇雲な理想主義と刹那主義が災いして、その絶好のパートナーを手放し、結局は何もかも御破算にしてしまったのではないか?言っちゃ悪いが、あれだけの才能がありながら、しかも決定的に潰しの利かない人というのも珍しいのではないか?彼に必要だったのは、やはり身近な場所から彼をコントロールできる人間だったのではないだろうか。

 

モンティ・パイソンについての雑感

2001・2・4・日

 このあいだ第四シリーズの全エピソードが収録されたDVDを購入して、一年近くかけてテレビシリーズのモンティ・パイソンを全部揃えた。第一シリーズと第二シリーズの途中まではわりに繰り返し見たはずなのだけれど、それ以降はそれぞれ二回ずつくらいしか見ていないため、とてもモンティ・パイソンを包括的に論じた長文を書ける身分では無いが、とりあえず今の時点で気づいたことをいくつか書き留めておきたい。いずれはこのテレビ史上に残るテレビ番組について、まとまった物を書きたいとは思っているが、それをするには各ソフトを少なくとも後十回は見なければならないだろうし、また『モンティ・パイソン大全』も当然のことながら手元に置かねばなるまい。

 当然のことながら僕が最初に『空飛ぶモンティ・パイソン』を見たのは旧版のビデオシリーズで、近所のレンタル・ビデオ屋で借りて見た。もっと見ていないエピソードがあると思ったが、実は第四シリーズ以外は全部見ていた。がしかし、旧版ではオリジナルの放映順で収録されていないため、若干混乱してしまうところがあったが、今回改めて最初から見ていくことによって、旧版では見えてこなかった点がいくつか見えてきてなかなか興味深かった。もちろんこれには前述の『大全』を立ち読みして色々と知識を仕入れたことも起因しているのだけれど。

 そして新版の『モンティ・パイソン』を見る過程で特に強く印象づけられたのが、マイケル・ペイリンの演技力とグラハム・チャップマンの切れたキャラクターである。前者については以前日記か、このコラムで書いたのであまりくどくど書かないが、とにかくこの人の演技の幅は他のメンバーに比べても抜きんでている。ただプライベートでは真面目な人だったということを裏付けるかのように今一つ切れた演技はできなかったという印象を受けるが。

 そして切れた演技と言えばこのグラハム・チャップマンをおいては他にいないと言っていいだろう。特に印象的なのが第二シリーズのエピソード8で扮したペリング牧師。頭に斧を突き刺したまま「今の世の中みんなまともすぎる。もっと狂うべきだ。」とのたまい、自ら手本を示すべく奇声を発しまくり、しまいには床に仰向けになって手をバタバタさせるその様はまさに狂気。『大全』やビデオの解説には警察や軍人などの権力者の役がこの人の十八番と言っているけれど、僕はこの人の本領はむしろこうした切れたキャラや、ちょっと気の弱いオドオドとしたキャラなのではないかと思う。ただこれらのキャラはプライベートにおけるチャップマンの性格とあまりにかぶるためにいささか痛々しさを覚えてしまうのだけれど。そうしたこと考えあわせると、第三シリーズのエピソード4で陸軍兵募集事務所のコントは彼の持つやや両極端なキャラクターの双方が遺憾なく発揮された非常に貴重なものではないだろうか。軟弱な志願者エリック・アイドルに対して居丈高に振る舞うチャップマンが次第にエキセントリックさを増し、しまいには完全にアイドルをおもちゃにしてしまう様(ちなみにエリック・アイドルはあまりいじめの対象になることがない)は一見に値する。

 プライベートのチャップマンはゲイで大酒のみで気弱、しかも破滅志向が強いというかなりややこしい人だったとのこと。そんな性格じゃ長生きできないのももっともな話だけれども(八九年没)、彼のような類い希な個性の持ち主はもう少しでも長く生き延びて欲しかった。

 
やっぱり誰かが本を殺しているのだろう
2001・4・14
 世紀末はもう過ぎてしまったが、かといって終末観が拭い切れたわけでは全くないし、逆に世の中はその醜悪さを肥大させるばかり。あまりに悲観的になるのも考え物だが、何はともあれこの醜悪な現状を正確に認識しないことには、お話にならない・・・・・と言ったところで、今のところ何ができるというわけではないけれど。
 ともかく僕にとって「ああ何かが終わったんだな」と思わせる三つの大きな要素があって、それはテレビ番組の醜悪さ、もう一つがCDというメディアに神秘性を感じられなくなったこと、そして最後にこれから話をしようとする本を巡る状況である。
 テレビやCD、あるいは音楽についてと同様、この本を巡る状況についても、非力を承知でここで幾度と無く苦言を呈してきたが、しかし、何か言おうとしても結局は同じことの繰り返しでしかない、ということを承知していながらなおも、本屋に足を踏み入れると、数回に一回くらいの割合で、何かを言わねば気が済まないという気持ちにかられる。
 ここ数年ばかりのことだろうか、漫画本やいわゆるハウツーものなど軽めの書物が新しいシリーズの名の下に文庫化され、また色々な出版社がとってつけたような新書シリーズの刊行を始めた。仮にその新書シリーズとこれまで定番だと思われた岩波、中公、講談社などの新書までをもすべて一つの書店の書棚に収めようとするとそれだけで、その書店のスペースが占められてしまうのではないか?という気さえするほどだ。そして問題は、それらここ数年に発行された夥しい数の新書の中で、一体どれだけが十年後、二十年後も読み続けられうる価値を持つだろうか、ということ。
 今の時点ですでに大型チェーン式の古本屋に、誰からも見向きもされなくなった、かつての啓蒙書やハウツーものがあふれかえっているというのに、それでもなお似たような本を無責任に世に送ろうとする出版社の無神経さと無為無策ぶりには、あきれかえるというほかはない。
 確かに既存のテレビ放送だけでなく、インターネット、ケーブルテレビ、衛星放送等々といった受け身の娯楽が蔓延している中、書物だけが武士は食わねど的な態度でお高くとまってみても、行き着く先は破滅だというのは僕にだって分かる。しかし、それでも最低限の節操というものは守ってもらいたいのだ。
 ちなみに今日の昼近所の某国立大学の書籍部に行って新潮文庫の安部公房のコーナーを見てみたら、現在出ているはずの半分程度しか並んでいないのに愕然とさせられた。どうやら前述の最近刊行された幾多の文庫、新書シリーズに浸食された結果のようだ。ただ店頭に並んでいないだけでなく、現在どれだけの戦後文学の名作が手軽に書店で手に入らない状況になったいるかということを考慮すれば、出版を巡る状況のどうしようもなさが察せられるだろう。それらの品切れ絶版になった書物が、仮に装いも新たに文庫に加えられることになったとしても、講談社文芸文庫でちょっとした単行本と殆ど変わりない値段がつけられるのだから、心底嫌になってしまう。この状況に物申す人達がもっと増えてもいいのではないか、と思うのだけれど。

不乱苦雑派
2001・4・30・月
 先週あたりからやく一年ぶりの「ザッパどっぷりモード」に入りつつあるようで、しばらく聞いていなかった『アンクル・ミート』や『ホット・ラッツ』などのインスト主体のアルバムを中心に聞き返している。そのため、ザッパについて考えることも多くなり、久しぶりにザッパの死に伴って企画された『レコード・コレクターズ』一九九四年、三月号の「ザッパ特集」を読み直している。
 そうこうしているうちに−本当に馬鹿みたいな疑問だが−「果たしてどこまでザッパを聞き込んだらザッパ・ファンだと言えるのだろう」という疑問がふとわいてきた。かつて、「ザッパを知るためには、最低十枚はザッパのアルバムを聴かねば、その全体像はつかめないだろう」というようなことを書いたことがあるが、現在正規な形で手に入れることのできるザッパのアルバムのおそらく八割は所持している僕でも、はたしてザッパについて何がわかっているのかと問われると、少々心許ない気がしてしまう。
 たとえばフーやキンクスだったら、自分なりに「これが俺にとってのフー(あるいはキンクスだ)」と言えるのだけれど、相手がザッパだとそうもいかない。一つには僕よりずっと長いことザッパを聞き込んできたザッパ・ファン、ザッパ・マニア、ザッパ・おたくなどの先達に対する畏怖があるのかもしれないと自問自答してみたが・・・・・いや違う、そんなものではおそらくない。それでは結局ザッパが生み出した作品群があまりに膨大で、一見したところその音楽性があまりにとりとめもないもので、今ひとつ個人的思い入れ−その音楽性の高さへの純粋な感嘆とは別なところで−が抱きにくいということか?まあそれはあるだろう。しかし・・・・・
 今一度前述の『レコ・コレ』に掲載された全ザッパ作品のディスコ・グラフィーのジャケ写を見ていると、やはり「俺はいったいザッパの何を聞いていたんだろう」と思わせるようなオーラがその白黒ジャケから放たれているような気がしてしょうがないのだ。ある程度ザッパを聞き込んだと言っても大作『シング・フィッシュ』や『ジョーズ・ガレージ』をどれだけ理解できたかというとかなりあやしい。まあこのあたりは、ベテラン・ザッパ・ファンもこのあたりを苦手とする人は結構いるみたいだから、そんなものといえばそんなものかもしれないが、やはりザッパが残した作品について理解が曖昧な部分はなるべく残したくないという強迫観念はどうにもうち消しがたいのだ。本当この人は罪な人だ。
 そういえば、前々からザッパについて改めて何かをまとまったものを書きたいと思っていながら、ずっとそれを果たすことができないでいる。要するにいざ書こうとすると、まずはその作品群をある程度聞き直してからと何枚かのアルバムを聞き返し、そこで耳にする、彼が生み出した音楽性の多彩さのためにかえって混乱度は増すばかりという悪循環を起こすのだ。まあこうやって常に聞き手に好奇心を沸き立たせ、一生つきあうことになるだけの魅力を持った音楽家と出会うことができたのは何より幸福だったとも言えるか?(笑)
 
アマノンはどこへ?(笑)
2001・5・6・日
 アマノンというややふざけた人を食ったような(と少なくとも本人にはそういう意図があった)ハンドル・ネームを用いるようになってかれこれ一年が経とうとしている。自分のHPや時折訪れる他の掲示板ではアマノンで通っているし(いくつかの掲示板では、本名で通しているが)、二、三度京都のライブハウスなどで「アマノンさんですか」と言われたこともあるので、それなりにその名前が自分の属性になっているはずなのだが、未だにその名前には多少の違和感を覚えてしまう。
 自ら好きこのんで名乗っておきながら、違和感も何もあったもんじゃないだろうと言われても仕方ないが、でも実際にそうなのだからしょうがない。しかし、近々替えようとしている新しいプロバイダーでもハンドル・ネームはやはりアマノンにしようと思っているし、それなりにこの名前に対するこだわりはあるようではある。それに僕のHPを見た人で、「アマノン」という独特の語感と生身の僕との間になにがしかの親近性を感じ取っている人もそれなりにいるようだし。
 さてその「アマノン」という名前を名乗るのと同時に、それまでとある先輩の手にゆだねていたHPの作成を自ら行うようにもなったわけだが、ちょうどその頃を境にして、音楽について長めの文章を書くことがめっきり減ってしまった。今のところ最後に書いた音楽評論は去年の秋に書いた「ロックンロールを奏でる逃げ水」であって、他はもっぱらここで書いてきたごく短いものばかり。後、日記を掲載しているHPに載せているCD紹介文くらいか。かつて音楽について語る不毛性について語ってみせた渋谷陽一ではないが、確かに音楽についていくら詳細に語ったとしても、結局音楽にたどり着くことはない、というある種のやるせなさのような物が自分のどこかに巣くっているのは、否定しがたい。実際ここしばらくは、CD紹介文より、本紹介のほうに多くの字数を費やしているという状態が続いているのだから。
 もちろん音楽について思いを巡らすことが無くなったというわけではない。ただそれのどれもが断片的なものであって、そこから発展させるだけの熱情と根気強さが今の僕には欠けているということなのだ。いや、そこまで熱情をあおるような音楽との出会いがないということでもあるのかな?確かに最近聞いている音楽は、イージー・リスニング的な要素が強いものが比較的多いような気もする。やはりそういう聴き方をしているような音楽に対して殊更何かを語ろうという気にはなかなかなれないものだ。もしかすると今は僕自身が新しいスタイルなり、語るべき対象なりを模索している過渡期なのかもしれない。
 
再び『レザー』について
 いつにない持続力でもって未だ続いている「ザッパどっぷりモード」。すでに書いたことだが、手持ちのCDが四十枚を越えるため、なかなかその全体像を今一度見直すという感じにはなれない。同じ作品数が多いミュージシャンでも、ザッパの場合、マイルスやコルトレーンが残した作品を聞き直すという作業(?)とはどこか根本から違うような気がする。とりあえず一つの作品に収められた録音時間からしてかなりのヴォリュームを持つものが多いし、また録音時間だけではなく、そこに込められたメッセージみたいなものを把握するために強いられる努力というのも、そんじょそこらのミュージシャンが強いるそれとは格段に違う。
 そうした一筋縄ではいかない作品を多く残したザッパだが、とりあえずヴォリュームという点では三本の指に入ると思われるのが、これから触れる『レザー』。この作品については、去年の夏にもこのコラム欄で触れたが、今もこのアルバムをわりに良く聞いているので、再度とりあげたくなった。
 以前『レザー』触れたとき、「この作品が最初からザッパが意図したとおりに、世に問われたとしても、果たしてどれだけの効果が得られたかかなり怪しい」というようなことを書いたが、今一度この作品を聞き直してみても、その懸念はぬぐえない。確かに作品全体の統一感はあるものの、それはあくまで演奏者が一緒で、また録音期間も同時期だったというごくあたりまえの事情を越えるものではないような気がする。当初アナログ四枚組という形態で発売されるはずだったというが、やはりその必然性には首を傾げざるをえない。この作品に収められた録音のほぼすべてを、すで他のアルバムで聞いていたからだろうか?厳密に言えば、ザッパが意図した形のアルバムがオリジナルなのだろうけれど、こちらとしてはこれまで慣れ親しんできた『スリープ・ダート』や『ザッパ・イン・ニューヨーク』のほうがオリジナルなのだ。そう考えると「オリジナル」という言葉の意味するところさえが、なにやらあやふやになってしまう。
 この文章を書くに当たって、一九九六年十二月号に掲載された岡田敏一氏による「ジャンル分け不可能の超大作『レザー』」を読み返してみたが、各楽曲の解説に終始しており、やはり僕の疑念を払拭してくれるようなものではなく、過剰とさえ思われるようなほめ言葉の連続に、やや鼻白むような感じさえをも受けた。
 このようなうがった見方をしてしまう要因の一つには言葉の壁もあるのかもしれないと、今更ながらに思い当たった。特に二十分を超える大作「グレッガリー・ペッカリー」などは、そこに込められた皮肉やユーモアを理解しているのとしてないのとでは、相当に曲から受ける印象が変わってくるのではないだろうか?当然のことながらあまり英語に堪能ではない僕は、この曲が意味するところを殆ど把握できていないままだ。とはいっても、英語の歌詞が理解できないからといって、この曲を楽しめないというわけでは、もちろん無い。
 もしかして、国内盤には大山甲日氏か、八木康夫氏による詳細な解説が付けられているかと思い、前述の『レコ・コレ』でチェックしてみたが、それに添付されているのは、オリジナル盤のブック・レットの対訳のみ。
 前々から思っていたことだが、誰か─例えば前述の大山氏か八木氏(でもこの人はすでに『ザッパ・ボッククス』という大作を出しているか)──ザッパの全作品を網羅した詳細なディスコグラフィーを出してくれないだろうか?とりあえずそれまでは、自分なりにこの作品ととことんまで向き合うしか対策は無さそうだ。
 
ザッパ入門一歩手前後記──その音楽に慣れ親しむまで
2001・7・21・土
 六月に「ザッパ入門一歩手前」という文章をアップしてからも、相変わらずザッパのアルバムを毎日のように聞くという日々が続いている。その過程の中でザッパについてとりとめのないことを色々と考えることがあったので、そのいくつかをここに書き留めておきたい。まずは個人的な話から。
 最初に買ったザッパのCDは確か『アブソリュートリー・フリー』だったろうか?おそらく大学二年の時だったと思うが。御多分にもれずザッパに対して「難解」あるいは「怒号のごとくアルバムをリリースしているので、全体像を把握するのがこの上もなく大変」という前情報は嫌と言うほど(?)入ってきてはいた。しかし他の音楽雑誌に比べてわりに頻繁にザッパに言及し、またそのとらえ方も的確であった『レコード・コレクターズ』によって与えられたザッパのイメージは上で挙げたような偏見に収まりきれないまさに純音楽家としてのザッパであり、それによって僕のザッパに対する先入観も多少は緩和されていったはず。
 とはいえその『アブソリュートリー・フリー』はそうそうすんなりと聞き通せる代物ではなかったのも確か。変拍子を多用した音楽に対して元々許容性があるほうだとは思うが、それでもあの目の前がクラクラするような、音の洪水についていくにはかなりの体力と気力を要した。それでもなにがしかの魅力は感じていたし、また妙に負けん気も働いたのか年に一枚か二枚ずつザッパのCDを買って思い出した頃に半ば修行だと思って聞いていたように記憶する。
 そうしたザッパとのつきあい方を大幅に修正したのが「一歩手前」でもとりあげた『いたち野郎』。ちなみにこれは初めてザッパを聞いたその二年後に購入した。
 ザッパを鬼才と呼ぶ人は多いが、それに便乗して言えば、これはさしずめ「鬼作」といったところだろうか?とにかく「名作」だの「秀作」あるいは「佳作」だのといったありきたりな形容からはどうしてもはみ出てしまう。でもとんでもなく刺激に富んだ音がこれでもかというくらいに詰め込まれているのは、否定しがたい。これはまさに常人離れした「鬼才」が残した常人離れした「鬼作」と形容するのが一番ピッタリくると思う。
 それにしても最初『アブソリュートリー・フリー』にも『フリーク・アウト』にものめり込めなかった僕がなぜこの『いたち野郎』には敏感に反応したのか、改めてこのアルバムを聞き直すにつけ、何とも不思議な気持ちになる。そのエキセントリックさという点では、決して前に挙げた二作に引けをとらないはずなのだが。想像するに、それはおそらくこの『いたち野郎』に『アブソリュートリー・フリー』や『フリーク・アウト』には無い大らかさと自由な空気を感じ取っていたということだろう。
 そういえばこのアルバムにはジャケットが醸し出すそれとも相まって何とも言えないユーモラスな味わいがある。一見したところなかなかわかりにくい、しかしザッパの音楽において絶対に欠かせない重大な要素であるザッパのユーモラスな側面を感じ取れるかどうかというのは、ザッパに慣れ親しんで行く上でかなり大きなポイントとなるのではないだろうか?例えばこのアルバムを通して随所に聞かれる意味不明な咆哮、これもしかめ面で腕を組んで聞いたり、「なんじゃ?この変なの。」と眉をひそめたりせずにただただ笑ってやり過ごせばいいのだ。そうしているうちにザッパの音楽に踏み込むことができるようになるはず。
 それにしてもザッパについて語り出すときりがないな(笑)。まだいくつか書きたいことはあるが、それはまた別の機会にということにしたい。
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