女性アーティストについて語る
別に女性アーティスト、もしくは女性ヴォーカリストが苦手というわけでは全然ない。しかし、これまでこのページで自分が好きな女性アーティストについて触れたことが全くと言っていい程なかったということに改めて気がついた。
男が女性アーティストについて語る、というのは意外に難しいように思う。例えば、これまで幾度と無く名前を挙げてきたフーやキンクスについてなら、今後いくらでも語ることが可能だ。それはそこに「言葉」が介入しやすいせいだろうか?論理的脈略の中に押し込めることが比較的容易だからか?「好き」だという感情になにがしかの大義名分のようなものを付加しやすいからか?
まあどれも当たらずとも遠からずだと思う。要するに女性アーティストの場合、自分にとってはっきりと異質と言えるものに惹かれているという事実を否定できない。そしてその事実と折り合えないものが、どうしても自分の中にあり、それを正当化できないということなのだろう。
なにゆえにこんなことをあえて書こうという気になったかというと、「シバデンの思い出のアルバム」でカルメン・マキ&OZのファースト・アルバムをとりあげようと思った事に端を発する。
このアルバムについての思い出その他については、「思い出のアルバム」で改めて触れることになるだろうから、ここでは端折ることにする。とりあえずここで言っておくべきことは、このアルバムについて語るための糸口をたぐりよせることが、思いの他難しいということに気づかされた、ということである。
おなじようなことが、僕のフェイバリット女性シンガーの一人であるビリー・ホリデイについても言える。ビリー・ホリデイ研究の第一人者と言っても過言ではないかの大和明氏のような大家には、遠く及ばないにしても、僕はそれなりに彼女の作品を聞き込んできたと思う。しかしやはりフーやキンクスについて語ったようには、彼女について語れない。全く不可能ではないが、彼らについて語るときより一層の緊張感と繊細さを要求されるということが、容易に想像できる。
彼女の悲惨な生い立ち、名声を得た後でも執拗なまでに様々な方面から迫害を受けてきたという経歴、彼女の代表作である「奇妙な果実」にまつわるエピソード……・これらについて触れながら、彼女の音楽について語ること。それはごく簡単なことだろうけれど、それはあまりに陳腐で、価値のないものになりがちのような気がする。
他のこれまで僕が好きになった女性アーティストあるいは、ヴォーカリスト……・小島麻由美、レインコーツ、バルバラ、フランソワーズ・アルディ、フェアポート・コンヴェンション時代のサンディー・デニー、スラップ・ハッピーのダグマー・クラウゼ、『チェルシー・ガール』の時のニコ等々。全てのアーティストにほぼ同じ事があてはまる。
それからこれらの名前を挙げてみて気づいたことだが、そのアーティストの全ての作品を網羅的に聞いているというより、特定のアルバムを愛聴しているという傾向が強い。もっと言えば、他の楽曲はよく知らないけれど、でもこの人のこの曲は好きというのも、女性ヴォーカルものに多い(例としては、木の実ナナの「うぬぼれワルツ」、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」、西田佐知子の「アカシアの雨」等が挙げられる)。この女性アーティストと僕との微妙で奇妙な距離、もう少し探求してみる必要がありそうだ。
例えば、現在進行形で聞いている小島麻由美。彼女の個々の曲について感想を述べることは、簡単だ。しかし一アーティストとしての彼女を包括的に語ることは難しい。前述のカルメン・マキやビリー・ホリデイとは違って、全ての作品が彼女のオリジナルであるだけ、幾分それが容易に思われるにもかかわらずである。
彼女は当初「平成の笠置シズ子」と称された。確かにイメージしやすい形容ではある。しかし彼女の本質をとらえたものだとは、とうてい思えない。なるほど、彼女の一枚目、二枚目のアルバムはそう言われても仕方のないと言えるようなノスタルジックなというか、昔の歌謡曲をイメージさせる曲が多かった。だがここで注意されるべきは、その「昔の歌謡曲」というのが、具体的にどの時代のどの曲に似ているとか、どの女性シンガーと歌いかたが似ているかという限定が恐らくできない、ということだ。(注:もし、そのようなことをしている研究熱心な方がいたら、御一報ください。今後の勉強の材料にさせていただきます。お礼のほうは……あまり期待しないでください。当方貧乏学生なもので。)
そして、今年待望の新作『さよならセシル』でブレイクを果たした彼女をかつてのように「平成の笠置シズ子」と呼ぶ人はいない(……んだろうな多分)。誰が彼女をそう呼び始めたのか知る由もないが、彼女がそう呼ばれていたことに、妙にムカっ腹もたってきて、「責任者出て来い」と言ってみたい気も少しだけする………・と冗談めかして書いてみたが、でもやはりこういうことは小さくて大きな問題だと思う。つまり上っ面だけのイメージをとらえたコピーが大手を振ってまかり通ってしまう事態が歴然としてあるということだ。
しかし、逆にそれだけ彼女の本質がなかなかつかみづらい、もっと言えばある種の得体の知れなさをも持っていたとも言えるのではないか?実際初めて彼女の音楽に触れたとき――それはCD屋の試聴盤によってだった――僕は最初、昔の歌謡曲の非常に質の高いパロディだとさえ感じ、苦笑を禁じ得なかった。そして、彼女の音楽の魅力とその奥の深さ、不思議さを認識したのは、その時に聞いた彼女のセカンド『二十歳の恋』とファースト『セシルのブルース』をちゃんと手に入れ、改めてじっくり聞き直したうえでのことだった。
前述したように例えば、彼女の個々の曲を取り出し、素朴に思える曲調と歌詞の中にも、ある種のエキセントリックさと、残酷さが伺えることを指摘することはできる。しかしそれで自分の中の何かが多少なりともクリアーになったと言えるだろうか?
そんなことを言い出したら、これまでここで書いてきた全ての文章についてだって同じ事が言えるかもしれない。しかし、彼女に限らず女性アーティストについて何かを語るとき、男性アーティストについて語るときにはないある種の気恥ずかしさと後ろめたさのようなものを感じざるを得ないと思うのだ。
とここまで書いてきて、さてどうオチをつけようかと思いあぐねているのですが…・・つまるところ女性アーティストについて語るとき、どうしてもそこには、一番自分の中で恥ずかしい部分を露呈することを強いられるがゆえに語ることが難しい、あるいはただ彼女達が「好き」もしくは「嫌いか」という以上のことを言うことはできない、というオチで勘弁してください。いやマジでこの問題難しいんですから。でも、とりあえずいつかはビリー・ホリデイについて、まとまった文章を書きたいと思います。それからもちろんカルメン・マキ&OZは、少なくともビリー・ホリデイよりも早く取り上げるつもりです。