「恥の多い生涯を送ってきました」とは御存じ太宰治の『人間失格』の冒頭を飾る言葉。「卒業論文を憶い出すと今でも冷や汗が流れる。だが、居直っていえば、徒為(いたずら)に馬齢を重ねてきた己のほうが一層愧(は)ずかしい。」とは戦後日本を代表する哲学者廣松渉が自分の卒論を述懐した短いエッセイの出だしである。この二人の言葉を引き合いに出すまでもなく、自分の半生なり一生なりを振り返るとき、どうしてもそこに一抹の気恥ずかしさが伴うのは、さけがたい。

 しかし思えば、このページに書いてきた文章にも気恥ずかしさなしでは語れない箇所は少なからずあるわけで、ここで今更自らについて語るのに、顔を赤らめることなど必要ないと思う人もいるかもしれない。なるほど、これまで書いてきた文章に、赤裸々に語ってきた部分も少なくない、しかしどうも蠍座の宿命といおうか自分について積極的に語ろうとしてもそこにどこか迂回と屈折、そして虚構性を伴ってしまう。自分が生きていく上でのどうしようもなく打ちけしがたい属性と言ってもいいかもしれない。一応断っておかねばならないが、ここでいう虚構性というのは、別にこれまで僕が書いてきた文章が現実をねじ曲げたものであるという意味ではない。ただ現実を描こうとしてもそこにどうしても遊離が生じてしまうということである。この遊離は僕自身は勝手に島尾敏雄氏の作品に近いものだと思っているのだが。

 それにしてもたかだかホームページに掲載する自己紹介を普通ここまで回りくどくは、書かないだろう。これも一種の病気である。つまり自分について語るための言葉を模索するために、ここまで試行錯誤をしながらしか進めないということだ。この調子で続けていくと、果てしなくグチャグチャと書いてしまいそうなので、オーソドックスな形式でプロフィールを紹介しよう。

 

名前 アマノン

性別 男

年齢 三十代前半

出身地 福岡

現住所 京都

職業 フリーター(現在京都市内のとある工場に勤務)

趣味 音楽鑑賞 読書 山登り 古本漁り

好きなミュージシャン フー、キンクス、ビートルズ、コルトレーン、マイルス・デイビス、ビリー・ホリデイ、バルバラ、小島麻由美、ミッシェル・ガン・エレファント、ローランド・カーク、フランク・ザッパその他もろもろ。今一番はまっているのは、ルースターズ。

好きな作家 大江健三郎、高橋和己、中上健次、倉橋由美子、島尾敏雄、ヴァージニア・ウルフその他もろもろ。またそんなに読んでないけれど今興味あるのは、高橋たか子、大庭みな子、古井由吉、バーセルミ、ノーマン・メイラー、ジョイスその他。後それなりに読んではいるが、特に好きでも嫌いでもないという人に島田雅彦がいる。ちなみにこの人と酒を飲んだことがあるというのが、数少ない自慢の一つ。

ハンドル・ネームの由来 この4月にプロバイダーを変えることにしたのだが、メールアカウントを決める際、最初音楽関係から名前をあやかろうとしたのを、それではありきたりだと考え直し、昨年からかなりはまっている作家倉橋由美子氏の後期の代表作の一つ『アマノン国往還記』から「アマノン」という言葉を頂いた。ちなみにそのストーリーを手短に紹介すると次のようになる。

 モノカミ国の宣教師Pは、長らく国交の途絶えていたアマノン国へモノカミ教(キリスト教をモデルにしていると思われる)の布教を言い渡される。そのアマノン国とは、今日の日本をモデルにした女性化した社会であり、そこには思想や観念を受け入れる土壌のようなものが全く欠落していた。一応宗教と呼べるものはあるにはあるが、それは金権政治と全く裏腹の関係にあるもはや狭義の宗教とは呼べない代物。その女性化した社会(男はいるにはいるが、それはある種のフリークスとみなされており、普通の意味での「男」という概念は存在せず、それゆえ男女間のセックスもまたタブーどころか、そのようなものがあるということさえ一般には全く認知されていない)に鉄槌(?)を与えるべく宣教者Pはモノカミ教の教義と男女間の関係、ひいては夫婦と家族のあり方についての教えをセックスを通して布教していく・・・・・というかなり荒唐無稽なもの。しかし柔らかい頭で読めば決して難解であったりすることはなく、数百ページのヴォリュームもあまり気にせず一気に読める。

 それはともかくこの「アマノン」という単語そのものの由来は何かというと、最初僕はギリシャ語かなにかと思っていたが、実は倉橋氏の出身地である高知の方言で「女っぽい男」という意味だとのこと。しかしただでさえ一筋縄ではいかない(?)倉橋氏のこと、ただたんにこの作品のタイトルに本来の意味合いを保たせるわけがない。そこにはなにかもう一ひねりした意味を込めているはずである。まあその意味を確定するなんてことはできないのだし、とりあえず僕はこの言葉に「両性具有」のイメージを込めてあえて「アマノン」と名乗ることにした。言葉本来の意味を抜きにして、この言葉の響きも独特の柔らかみがあって妙に気に入ったし、普通の人が「アマノン(amanon)」と聞いてもピンとこないような名前を自分のものにするというのも妙に小気味がよい。

 

我が半生(?) 恥の多い生涯というだけでなく、僕が自身の経歴について語るとき、どうも人に説明しにくい、どうしても歯に衣を着せたような物言いでお茶を濁してしまいがちにならざるをえないような過去を積み重ねてきたことに我ながら奇妙な感情にかられる。まずどうして地元の三流私立高から京都の一応は一流として名の通っている大学に、しかもその中でも一番の難関と言われる英文科に入ったのか?そしてどうしてその英文科から哲学科の大学院に入ったのか?また何よりも多くの人が首をかしげざるをえない素朴な疑問──せっかく大学院を出ていながら、どうして今現在工場でのアルバイトという立場に甘んじているのか?そのどれ一つをとっても説明しがたい複雑な内的外的な事情が絡んでくる。三十路を過ぎて改めてこれまでの過去を振り返ってみて、常にどこか一筋縄ではいかない何か混沌としたものを自らの内に抱え込まないでは、どうしても先に進めないのではないか、という気が強くしている。もう少し経ったらもっとニュートラルな状態で自分について語ることができるようになるかもしれないが。

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