1999・7・1
「日記を書くこと」で触れたように、僕はこの数年の間、日記をいうものを書いてこなかった。再び日記を書くためには、ある種精神的リハビリのようなものが必要であるとは、明言していないが、僕としてはそのところを仄めかしたつもりだ。さてこの日記がそのリハビリになるかどうかは、分からないが、とりあえずここしばらく纏まった文章を書くことがなかったこともあり、このホームページに日記のようなものを載せようとふと思い付いたわけである。掲示板のほうにここしばらく古本屋で手に入れた文庫本について触れることが続いたが、そうした話題については、こちらで触れようと思うのだ。とりあえずは、今日の掲示板で触れた倉橋由美子の『聖少女』について。さてこの倉橋由美子という作家は、最初僕は吉本隆明の『マス・イメージ論』で知った。その頃(大学2年のときだ)あまり小説を読まなかったので、倉橋由美子という名前に具体性を与えた上で記憶することはなく、そこで取り上げられていた彼女の『スミヤキストQの冒険』という小説のタイトルをその奇妙さがゆえにおぼろげながら脳裏に止めていたに過ぎない。そしてそんな彼女に興味を抱いたのは、ここしばらく立て続けに読んでいた中上健次と『親指Pの修行時代』で名が知られる松浦理恵子との対談で彼女のことが話題に上がっていたからである。それからふと思い立って早川義夫の『ラブ・ジェネレーション』をひも解いてみると。中川五郎氏との交流について語った文章に、やはりとうの『聖少女』のタイトルが挙がっていた。そういえば、『聖少女』の終盤にこんな文章がある。「記憶を失っていたあたしの、くらい過去から出現した亡霊であるあなたは、最初、こわれた鏡にうつった像のようにみえました。鏡のひびわれがなおるにつれて、あなたの像もなめらかになり、あたしにはあなたが、あたしの最良のお医者様であることがわかったのです。」早川氏はこの文章にインスパイアされて名曲「われた鏡のなかから」を書いたと考えるのは、あまりに安直だろうか?それにしてもこの倉橋由美子という人、余程家族に愛されない、そして家族を愛することもない母親、そしてその母親のもとで育った娘がその後、自分が愛していない夫と契約とわりきって結婚するというお話しがお好きらしい。そしてその契約を契約としてわりきれない、理解できない男はそろいもそろって甚だしく無様だ。とりあえず倉橋由美子の小説もまた、今後古本屋でゲットすべきアイテムに加えられることになった。

1999・7・2
昨日の段階では、なるべくプライベートについて触れない日記という形態をとろうと思ったのだけれど、少々気が変わって、なるべく毎日書くつもりではあるが、特に日記という形態をとらないミニコラム集という感じにすることにした。そして10日分毎に掲載していくようにしていけたらと考えている。とりあえず今僕の頭にイメージされているのは、村上春樹の『村上朝日堂』である。しかし僕にはあそこまで軽妙洒脱には書けそうにないが。
ところで昨日は、下宿の側にある某国立大の生協がやってた古本セールで晶文社から出ていた『島尾敏雄作品集3』を買った。島尾敏雄を知ったのはなぜか岡崎京子の『Pink』によってである。このマンガの主人公ハルオの通う大学のキャンパスを歩く二人の学生が島尾とセリーヌの話をしていて、そのときハルオの友達から「暗い」と陰口をたたかれていたのが、妙に記憶に残っていたのだ。その場面のおかげでずっと島尾という人は、『Pink』に出ていた大学生みたいな人だと勝手に想像していた(ちなみにその大学生は、ペイネの『愛の本』に出てくる男の子とイメージがだぶっている。つまり華奢で繊細な感じ)。しかし実際の島尾は、思ったよりもがっちりした感じの人で僕が勝手に抱いていたイメージとは著しくかけ離れていた。確かに優しそうで、繊細そうではあるけれども、華奢というイメージからは程遠い。でも彼の奥さん島尾ミオの写真を見、彼女とのロマンスを絡めた彼の特攻隊員体験を小説化した幾つかの短編を読むと恐らくこの人かなり気障で優柔不断な人だったんだと想像できる。さぞかし一部の人間からは疎まれていたに違いない。そんな気がする。実際そのような事態があったことを、島尾は特効体験を綴ったいくつかの短編で書き記している。
話は変わるがここしばらく何冊かの小説を読んできて、どうも僕は情景描写の文章を読むのが苦手であることを改めて認識した。仮に僕が小説を書くことになったら、恐らく情景描写に一番苦労するか、いっそのことそれを最初から拒否することになるだろう。「右手に@@があり、左をふとみると彼は@@のような表情をしており…・」なんて文章が続くともう駄目である。島尾の特に特効体験についての短編には、そういう文章が多く、読んでいて若干辟易することがある。
後書き忘れたが、その『島尾敏雄作品集』を買った後その場で倉橋由美子の作品集で彼女の経歴をチェックしてみたら、彼女は歯医者の娘だったということを知ることができた。そういえば、彼女の小説には歯医者がよく出てくる。『聖少女』に出てくる女の子は、自分が一緒に暮らしているのは、じつは本当の父親ではなく、本当の父親は近所の歯医者であり、その歯医者の父親とインセスト・タブーを犯したのだと、自分のノートに偽りの告白をしている。本当のところは、彼女に義理の父親など存在せず、彼女が関係を持ってしまったのは、実際に同じ屋根の下に住んでいた父親である。しかしこんな小説を延々と書き連ねるとは、この人も相当に業が深いのだろう。父と娘との近親相姦をテーマにぜひセルジュ・ゲーンスブールと対談させてみたかった。ところで島田雅彦にこの人の影響を感じるのだがどうだろうか?

1999・7・3
遠藤みちろうの対談集『バターになりたい』が、ついにボロボロになり。ついには背表紙の真ん中のところから真っ二つに分かれてしまった。この本の奥付けには「1984年 12月 25日発行」とあり、その次の年の2月くらいに買った記憶があるから、もうかれこれ10数年幾度となくこの本を手にとってきたことになる。
遠藤みちろうというかスターリンを知ったのは、中学1年のとき、「11PM」と「トウナイト」によって。なんかケッタイな兄ちゃんが発狂したように歌っているのが印象的で、そのすぐ後に彼等の過激なパフォーマンスを取り上げた週刊誌を目にした。そして一年あまりの間をおいて、渋谷陽一の「サウンド・ストリート」で初めてスターリンの楽曲にまともに触れることになったのである。その時聞いたスターリンの幾つかの曲も強烈だったが、それ以上にショッキングだったのが、遠藤みちろうが影響を受けたバンドとしてとりあげたジャックスの「マリアンヌ」である。早川義夫の世界に足を踏み入れるあまりに大きなステップだったように、今にして思う。
それはともかくとして、その後僕はスターリン及び遠藤みちろうに対して、それなりの興味を覚えながらも結局彼等の音楽にのめり込むことはなかった。僕が持っている唯一のみちろう関係のアイテムである、スターリン解散ライブを収めた『For Never』を聞くと、みちろうのヴォーカルの弱さがやたら耳についてあまり聞く気になれない。要するに僕は彼については、ミュージシャンというよりも、パフォーマーと発言者としての資質を重視してきたということになる。そのスタンスの帰結が真っ二つに分かれた『バターになりたい』であるというのは、あまりに短絡的か?
それにしても『バターになりたい』とはまた奇妙なタイトルをつけたものだ。何を気負い、何を衒っていたのか、僕はよくくそおもしろくもなかった高校にこの本を持っていって授業の合間に読みふけっているところをアホなクラスメイトから「Sバターになりたいと(博多弁で)?」などとくだらない質問をされ、一瞬しらけた気持ちにさせられたものだ。ところで「バターになりたい」と言われると、僕はやはり『ちびくろサンボ』のトラが最後にはバターになってしまうというエピソードを思い出してしまう。そういえば浅田彰はドウルーズ=ガタリの重要な概念である「器官なき身体」をこの「ちびくろサンボ」のバターになぞらえていた。「運動が極限にまで達したときに、いわば運動の自乗としての静止、あるいは差異の自乗としての同一性の如きものが洗われる。」このイメージは確かに遠藤みちろうのそれと重なるものがある。もう一つドウルーズ=ガタリからの引用。「速くあれ、例えその場を動かぬときでも!」運動が静止であり、静止が運動であるという、何やら禅問答めいた命題であるが、はたしてみちろうはそのようなパラドックスをこの対談集の中で実践しているのだろうか?ということはまたいずれ。

1999・7・4
今日はしつこく横浜銀蝿の話題。このあいだ『クイック・ジャパン』でやっていたブルーハーツ特集を立ち読みしていたら、恐るべき(?)事実に出くわした。なんと、甲本ヒロトが大の銀蝿マニアであるとのこと。かつてハイロウズのファースト・アルバムの発売に合わせた『ロッキン・オン・ジャパン』でのインタビューにおいて「ハイロウズと銀蝿が同じロックン・ロールをやっていても云々」と発言していたのは何だったのか?それともあれは他のメンバーの発言だったのか?それともあの発言は、銀蝿への愛情の裏返しだったのか?いやもしかすると甲本ヒロトが銀蝿マニアであるというのは、銀蝿に対する侮蔑と憎悪の逆説的な発露かもしれない(こんなこと書くから誰かさんからイチャモンつけられるんだよな)。ここで僕もそろそろ彼らに対する認識を改めるべきなのだろうか?「再検証横浜銀蝿〜〜」の掲載をやめて謝罪の文章を載せるか?さあて困った困った。
それはともかくとして今一度あの「再検証横浜銀蝿〜〜」で僕が述べようとした基本的スタンスを明確にしておきたい。まず問題となるべき点は、彼らがあまりに音楽ジャーナリズムの俎上に載せられることが少なすぎたこと。そのことによって彼らに対する評価が非常に曖昧になり、未だに彼らについて語るときどこか奥歯にものが挟まったような言説ばかりがまかり通ってしまうような印象が拭えない。あの文章を書いたときに僕は、尾崎豊を引き合いに出したが、彼の場合そのある種非常に青臭い歌詞が時として真っ向から批判に晒され、そのことで尾崎自身も葛藤してきたというプロセスがあったように思う。そういう意味では、銀蝿と尾崎どちらが偉い?という次元ではなく、とりあえず双方をとりまく状況は少なくとも尾崎の場合の方が健全的だったような気がするのだ。とはいえ、尾崎の悪口を言うと真顔で怒る狂信的尾崎ファンには、正直言って辟易するが。このあたり尾崎をとりまく状況も決して健全とは言えないな。
ところでこのコラムで銀蝿について語ろうと思ったきっかけとして先の甲本ヒロトの件の他にもう二つ気になる文章を目にしたことがある。その一つは、日本のロックの紹介本。それに「銀蝿は常にシーンの鬼っ子であることを運命付けられていた。」というようなことが書かれてあった。もう一つは歌謡曲について論じられた本の中ではそろそろ銀蝿のリバイバルの兆しが見えてきてもよいのではないかとあった。確かに彼らはシーンの鬼っ子であったと言える。言わばロック村と歌謡曲村との間をフラフラしていたヌエ的存在もしくは、イソップ物語のこうもり的存在と言えるかも知れない。それゆえ彼らについての言説が歯に布きせぬ物になりにくかったのだろう。そうした意味で、ロック村と歌謡曲村との境界線がより曖昧になり、よりなんでもありという空気が濃厚になった今こそ、彼らが一体何であったのかということが問われるべきであり、そう考えると彼らのリバイバルも決して眉をひそめて嫌悪すべきものでは決してないようにも思う。ただあんまり度が過ぎるのも勿論困るけれども。

1999・7・5
今回は、一昨日から昨日にかけて読んでいた倉橋由美子の『城の中の城』という小説について。これまで読んだ『聖少女』、『妖女のように』、『ヴァージニア』などの小説からはすべて昭和四十年代の作品なのだが、この『城の中の城』は、昭和五十五年の作品。年代的に一番近い『ヴァージニア』所収の「霊魂」とでさえ、十年の開きがある。それゆえ読後の感触、というより最初の何ページかを読んだ段階においてででさえ、受ける印象にかなりの落差を感じる。前者三作が、いかにも文学少女が好きそうな、幻想的、あるいは非現実的な、どこかある浮遊感を感じさせるのに比して、この作品には、そのような要素は全くと言っていい程感じさせない。最初の二、三十ページを読んだときには、そこが不満で半ば読む気が失せかかったのだが、もうしばらく辛抱して読み薦めていくうちに俄然面白くなってきて、後は殆ど一気にという感じで読み終えた。初期にあった魅力は感じられなくなったとはいえ、やはりこの人の力量は並みのものではないようである。
話のあらましは、英文科の大学教授である夫の山田教授の洗礼とそれに反発し、「宣戦布告」し精神的戦いを挑むその妻佳子との葛藤ということになるのだが、予想に反して、この二人の戦いはそれほど熾烈なものにはならず、言わば夫婦が乗り越えるべき試練として、二人とも冷静に対処しているのが逆に面白かった(とはいえ、勿論奥さんのほうが二枚も三枚も上手なのだが)。そして何より興味深かったのは、作者がこの作品の主要人物の殆どに、キリスト教ならびにその他の宗教にすがるのをある種の病気だと言わせていること。何と最終的にはキリスト教を破棄する前段階の山田教授にさえ自分が病気であることを全面的に認めさせているのである。一貫してこのようなスタンスで宗教批判を繰り広げた小説は他にあまり類をみないのではないだろうか?僕が読んだ限りでは、このスタンスはかなりニーチェのそれに依拠しているようではあるが。
それにしてもこの年代、つまり戦前に生まれた人達の作品を読んでつくづく思い知らされるのは、彼らの古典に対する教養の豊富さである。確かに古典を沢山知っていれば、良い小説が書けるなんてことは、言わないが、それがあるのと無いのとでは、その基礎体力というか足腰の強さに格段の違いが生じるように思う。この作品においても古今東西の文学的古典を引き合いに出しながら会話を進める山田夫婦が幾度と無く描かれるが、それに半ばやっかみを感じながらも、どうしても太刀打ちできないものを感じてしまうのである。
ところでこの『城の中の城』というタイトルは、もちろんこの山田夫婦のそれぞれの人格のメタファーであるが、どちらの人格が「城」で、どちらが「中の城」なのかは、僕が読んだ限りでは明言されていない。そして解説によると作者はこの作品の続編を書くことがあったら、「城」の崩壊を描いてみたいと言っているそうで、そのときにより城の意味が明確になるのだろう。しかし、残念ながらその続編の存在を僕は今のところ知らない。
そして最後に…・・この作品を読んである種の安堵感を覚えたのは、山田教授がそれ程醜悪に、かつ無様に描かれていなかったこと。これまで読んだ三作の感じからすると、もっとトンチンカンな受け答えをして女を苛立たせ、より一層侮蔑のこもった視線を浴びせ掛けるような男性が描かれてしかるべき(?)だが、この作品ではそのように描かれていない。作者の大人の余裕の表われだとするのは、少々浅はかな見解だろうか?

1999・7・7
昨日は(7月 6日)、なぜかこのあいだの土曜日付けで仕事を首になった友人と東大文字山に登った。彼は僕より二つ下なのだが、いずれにしろ三十前後の職の無い男二人が平日に山に登るという、実に情けないシチュエーションを展開してしまったわけである。しかもただ単に空しかっただけ、というのなら、まだ逆説的に格好がつくのだが、これが結構充実したというのだがか、その何ともいえないトホホ度が天文学的にアップしてしまう。ちなみにこの彼とは数回大文字山に登っている。
さて、普段大文字山に登るときは銀閣寺の横から入り大文字(つまり盆に火を焚くところ)でちょっと一服して、鹿ヶ谷もしくは南禅寺に抜けるというのが定石なのだが、今回は、友人の提言により、頂上から三井寺のほうつまり滋賀県のほうに抜けるという計画を執った。職の無い駄目人間は、こんなアホなことをあえてしてしまうのである。これまで、大文字山に登るのは、基本的にちょっとした運動がてら(ちなみに2年前午前と午後と二回にわたって大文字山に登ったという快挙あるいは愚行をやり遂げたことがある)という心構えでやってたのだが、さすがに今回は、そういうわけにはいかない。これまでの経験からしても、かなりハードな体験だった。しかしここ洛東から歩いて琵琶湖が見えるところまで行けることを身を持って体験したというのは、なかなか得難いものがあった。しかし、そんなことをあえてしようというのは、勿論よほどの酔狂者あるいは、暇人に限られるのだろうけれど。つまりこの二人はその二つの条件にぴったりと合致してしまったということでもある。そういえば、山頂を抜けてから三井寺に出るまで、全く人影を目にすることはなく、また、われわれが歩いた道はしばらく人が通っていないことを思わせるのに充分なある種の空気を醸し出していた。そのような道を二人で延々と歩き続けるというのは、やはり孤独な作業ではあったと思う。
ところでこんな話がおちになるのかどうか分からないが、山のふもとまで出て、用を足すために友人が立ち寄った公演のトイレの側に寝そべっていた猫に、友人の忠告にもかかわらず、しばらくかまっていたら、その忠告通りに蚤をうつされてしまった。昨夜友人が最初の一匹を発見したときは、まだ何ともなかったのだが、今日の昼過ぎになって体全体が痛痒くなってきた。この夏中蚤に悩まされ続けないといけないのだろうか?今から憂うつになってきた。

『つげ義春全集』が筑摩書房から刊行され始めたのは、もう六年も前のことだったと記憶する。全部で何巻あったのかは記憶に定かではない。半ば闇雲に本を買い集め、下宿の本棚から溢れ出すのにまかせ、しまいには、収集がつかなくなるのを楽しんでいたころに、ちょうどこの『つげ義春全集』の刊行が始まったということになる。これと言った定収入もなく、主に日雇いのバイトで口に糊して生活していた頃にどうして、本だけは意味も無く増えていったかは、今となっては謎である。その謎の一つである『つげ義春全集』も、その二、三年後には、さすがにあまりに場所ふさぎになってしまうため、とあるサークルの部室に移したのだが、それを友人が強引に自分の下宿に持ってかえってしまったまま、今日に至っている。その『全集』を買い出すまでつげの作品は、ずっと立ち読みですましていたせいか、ある程度のお金を費やしてきたとはいえ、それが手元に無くなっても、それほどの喪失感は感じない。でも手元にあったらあったで、それなりに手に取ることはあるだろうが。
ところでつげとの出会いもやはり(?)渋谷陽一がからんでくる。『ロッキン・オン』で彼の日記の書評を渋谷が書いていたのに興味を覚えたのである。それが高一の春。その書評に挙げられていた「ねじ式」、「紅い花」を目にすることができたのが、確かその夏であった。それ以来気分が煮詰まると(それは特に夏休み中に顕著であった)本屋に行っては、つげの作品を立ち読みするというのが、定石となった。何とも救いようの無い話である。これはかつて友達がいない予備校で一人ロバート・ジョンソンを聞きながら、昼飯を食べていたのと全く同じ精神状態から派生している。つげ義春とロバート・ジョンソンに彩られた青春……・その後ろくな人生を送れないのは、僕が身を持って証明している。
今では新潮文庫に作品集が収められ、僕が彼に興味を持ちはじめた頃に比べるとかなり、世間での認知度は上がったのではないかと勝手に想像するのだが、彼がすごいのは、そのような認知度の低さにも拘わらず、彼の影響が多くの漫画家に見出せるということである。特に「ねじ式」、石渡治の『火の玉ボーイ』や、鴨川つばめの『マカロニほうれん壮』でネタとして使われていたし、それにあの江口寿史は、「ねじ式」の主人公をなんとわたせせいぞうの漫画に迷い込ませるという、とんでもない(しかしいつかが誰かがやらねばならなかった)ことを試みている。また高橋留美子の『めぞん一刻』における独特のセリフの間合いなどつげの影響を感じるのだがどうだろう?
そのしばらく手にしていなかったつげの作品を最近になって本屋の店頭で手に取ることが多くなってきている。言いようの無い不安を覚えるのだが…・・

1999・7・8
京都市内に住むようになって、かれこれ十年近くになる。その間何度か実家に戻ろうか、あるいは他の地方の大学院に身をよせようか(?)などと思ったこともあったが、なんだかんだと今日に至っている。今の住居に落ち着いからでさえ、もう丸八年になるのだ。これはもう京都に漂うある種の魔力のようなものに絡めとられている、としか思えない。特に僕が住んでいる百万遍界隈というのは、最もその魔力が濃厚に感じられるところである。つまり駄目人間養成地域というわけだ。以下その魔力の具体例について説明していこう。
京都の大きな特色の一つは、とにかく学生が多いということである。仮に、京都市内から主要大学のうち三校だけでも、完全に地方に移転してしまえば、京都の経済は相当な打撃を受けることは間違いないだろう。たとえ経済界にそれほどの影響を及ぼさなくても、それまで学生向けの食堂等を経営していた人達は軒並み首をくくるか、隠遁生活を送るか、商売かえをすることを余儀なくされてしまう。それくらい京都における学生の存在は良くも悪くも大きいのである。さて街に学生が多いとどのような効果が及ぼされるのか?僕にとってその効果の最たるものが、「無所属の人間に対する寛容」である。言うまでもなく大学生というのは、それぞれ大学という一つの組織に所属しているわけだがら、厳密には、決して「無所属」ではない。しかし、多くの大学生は、校則に縛られているわけでも、制服を強制されているわけでもなく、街中を歩いているときは、とりあえず「学生風の人間」という極めて曖昧なレッテル(?)を貼り付けられ認識されているわけである。このような人達の割合が多いか少ないかという差は、思ったよりも大きい。その差異の中に身をよせて、のらりくらりと今日まで暮らしている僕が言うのだから間違いない。つまりそのような「学生風」の人間を保護色にして、どこを行くにも所在の無さを分泌させ、意味も無くボソボソと喋り、適当にバイトをやっていれば、何となし、世間の目も言うほど冷たくない環境の中で生きていける、それが僕にとっての京都なのだ。そのような土地柄でフラフラと生きていてたまに「これではいけない!!」と思い立ち実家に戻って働こうかなどと思ったりもするのだが、一度濁った水に慣れてしまった者はなかなか清い水の中には、すめない。そんなこんなで大学院卒業後は、実家に戻ろうかと思いながらも、この濁ったと言えば聊か語弊はあるが、とにかくどこか濃密な空気が漂っているこの土地にとりあえずもう少し身を置くことになったわけである。では、このままこの土地に骨を埋めることになるか?それはさすがに断言できないが。

1999・7・9 その1
昨日に引き続き、京都の話。とりあえず、京都には学生が多いということである。そして僕が住む辺りは、芥川賞作家平野啓一郎が最近卒業したことで有名な某国立大のテリトリーということもあり、学生街の空気がとりわけ濃い地域である。かつてに比べてその軒数が減ったとはいえ、古本屋は多いし、もちろん学生向けの食堂には、事欠かない。これもまたその数は減ったとは言え、演劇、コンサート当のイベントも他の地方に比べるとかなり多い筈である。毎日学生向けの安い食堂で腹を満たし、それなりにバイトをこなし、各種イベントに顔を出していけば、何となし面白おかしく、日々を過ごしている気になるのが、京都の恐い所である。掲示板のほうにも何度か書いたが、古本屋が多いというのも、その筋の(?)人にはたまらない。具体例を挙げてくのは簡単だが、あまりにも「分かる人には分かる」的な話なので、詳しくは書かない。これは山下達郎がよくレコード・コレクトのトホホ話をラジオや雑誌で披露しているが、対象がレコードから本に変わっただけで、あれとほぼ同じことをやっていると思っていただければ、概ね間違いはない。全くもって独特の悲哀というかペーソスを交えてしか話ができないようなものなのだ。ただ、僕は貴重な本や、品薄な本を割にたやすく手に入れる才能に恵まれているらしく、それについては、誰に感謝すればいいのか良く分からないが、とにかく何かに手を合わせてもいいような気がしている。一度友人が数年来捜し求めていた女優長谷川泰子(中原中也を捨てて小林秀雄への元に去ったということで有名)の自叙伝『ゆきて帰らぬ』を見つけてその友人に非常に感謝されたことがある。この『ゆきて帰らぬ』については、これだけではとても言い尽くせないある種の感情を抱いているのだが、まだそれを言葉で整理できる段階ではないので、詳しくは触れない。
さて、その古本屋に関してだが、最近気になることがある。最近街中にやたら目につき出した量販店型の古本屋(正式名称が別にあった筈だが、今はちょっと分からないので、とりあえずこう呼んでおく)の存在である。確かにあれはあれで需要があってのものだから、そうそう悪し様には言えないのだが、やはり問題が無いわけではないと思う。勿論、いらなくなった本のリサイクルはすべきだし、旧態依然とした古本屋業界ではまかないきれない領域をあの手の本屋が着手したというのは、それなりに意味がある。しかしそうすることで、本と受け手との関係に変化が生じているように思えるのだ。
かつて本は貴重品であった。戦前の旧制中学の入学試験の面接の際、受験生が入ってくる前に床に本を置いて、入ってきた受験生がその落ちてある本に対してどのような反応をするかが、評価の対象になったことがあるという。別にそのような時代に帰れということは言わないが、このエピソードは、あの手の古本屋が乱立するこの御時世に対して、ある種の警鐘となりえるような気がするのだ。このことについては、また後日突っ込んで書いてみたい。

1999・7・9その2
古本業界について書こうとも思ったのだが、ちょっと気になることがあったので、いい加減にしつこいと思われるかもしれないけれど、またまた倉橋由美子の話。彼女に関して何がどう気になるのかと言えば、今日大学院浪人時代から何かとお世話になっているM氏が倉橋由美子を「古い」と評したことに端を発する。M氏が「古い」というのは、彼女の代表作「パルタイ」の問題である。遺憾ながらこの作品はまだ未読なのだが、要するにとある左翼党派(こういう言い方が今日に通じるか否かというところからして、問題ではあるのだが)に属する男性と、その男を愛しながらもその党派に対しては、かなり冷ややかな視線を有している女性との間の拮抗、あるいは葛藤という問題なのだと思う。確かに「党派」というものが今や前時代の屍と化した感のある今日では、それは今更俎上にあげられるべき問題ではないだろう。しかし、「党派」が例え疑問にふせられることの無い時代になったとは言え、決して「一体党派とは何であったか」という問題に決着がついたわけではない。要するにその問題は棚上げにされ、曖昧なままで今日に至っているというわけである。そういう意味では僕は決して倉橋由美子が「古い」とは思えない。いや、彼女が問題にしてきたのは、決して「党派」だけではない。例えば今僕が読んでいる『夢の浮橋』、そこで謡われている奔放な性の在り方についても今日まともな議論がなされているとはとうてい思えないのである。そうした意味で僕は彼女の感覚の鋭さを評価したいと思う。ただその『夢の浮橋』で度々言及されている彼女の全共闘に対する侮蔑を交えた視点というのは、かなり反発を感じるが。しかし、さらに逆を言えば、確かに彼女が嫌悪感を抱かざるを得なかった全共闘の醜悪さがどうしようもなくあったというのも否定できない事実であったろう。その醜悪さを告発したテキストとしても、この『夢の浮橋』は今日でも読まれる価値があると僕は確信する。このテキストの中で「全共闘」を言わば、幼稚で甘えた集団と規定した冷ややかな視線は、そのまま続編『城の中の城』において、キリスト教をはじめとする様々な宗教にすがるメンタリティを「病気」であると決め付けた精神性にそのまま連なる。このような集団や宗教に埋没する人間の在り方に対する倉橋の冷ややかな視線は、一部の人間にとっては、ある種の反面教師として、あるいは乗り越えるべき対象として今なおかなりの効力を持ちうるだろう。

1999・7・10
昨日の量販店型古本屋についての話の続き。確かにああいうタイプの古本屋の存在意義は、それなりに認めるというところから話は堂々巡りをしていたように思う。とりあえずは、あの手の古本屋の登場のおかげで(?)漫画や、入門書、文庫本、ベストセラー本など、いわば大量消費されるタイプの本とエンドユーザー間のサイクルがより速まったような気はする。かつて本が貴重品であった時代に、人々が回し読みをしていたのが、今日において、その人と人との間にあの手の古本屋が介入している、考えることもできる。しかし本そのものに対する認識に大きな差ができているということに、今一度注意を向けなければいけない。繰り返すが、かつて本の回し読みをしていた時代は、本が貴重で、月に何冊も買える代物ではなかったので、皆で順番を決めるなりして、一つの本を読んでいったのである。しかし、今日ではそのような憧憬を持って、書物に接することなど殆ど皆無であろう。というより、本来憧憬の眼差しを持って読まれた本が、今日あまりにも多く世に出まわったために、古本屋のワゴンに目を丸くするような値段で積まれ、店によっては、店先にワゴンが置かれているため、表紙が変色し、ますます購買意欲を失わせる代物となってしまっている。いわゆる古本屋でそのようなワゴンに積んだ文庫本や新書、それに文学全集等を異様に安い値段で投げ売りするのは、恐らく量販店型の古本屋への対抗策ではないかと僕は勝手に想像するのだが、どうだろうか?そのようなワゴンの中から今現在品切れになっている文庫本を引っ張り出し、買い求めるときには、ある種の優越感と悲哀という相反する二つの感情にしばしとらわれる。
確かに新刊で手に入らない本をこまめに古本屋に足を運んで、思ったよりも安価な値段で手に入れるのは、言葉にしがたい喜びがある。しかし、逆にそのべらぼうに安くなった分だけその本の内容まで値踏みされているような気がして、ふと一抹の悲しみを感じてしまうのである。ここでマルクスの使用価値と商品価値との差について一席ぶつのも一興ではあるが、残念ながら、僕はそれを出来るほどこの理論に精通しているわけではない。とはいえ、この二つの価値の矛盾がいまなおこのような形で露呈していることに目を向けるのにもそれなりの意味があるのではないか、と考えてしまう今日この頃である。とりあえず毎日のように新刊本が本屋の店頭に出回り、その分だけ売れなくなった本が絶版の憂き目にあうという状態を問題視する必要があるのではないか、ということは是非とも言っておきたい。

1999・7・11
しばらく固い話が続いたので、今回はやや四方山話的な話を。思うようにアルバイトができず、若干懐具合に不安が生じてきたので、今日88年からほぼ5年間分、冊数にして60冊近くの『レコード・コレクターズ』をとある中古レコード屋に売りに行った。10年以上前の『レコード・コレクターズ』だったら、それなりにレア度も高く、少しは高く買ってくれるだろう、と密かな期待を抱いて行ったら、ものの見事にその期待は外れ、結局1冊30円で買い取られることになった。別のところに行ったらもっと高く買い取ってくれていたかもしれない、などと思うと一抹の後悔が募る。しかし60冊の『レコード・コレクターズ』をスポーツ・バッグに入れて肩からぶらさげた状態で、そうそう方々をうろつけるわけじゃない。殆ど厄介ものを引き受けてもらう感じで、いやしかし一方では、断腸の思いも抱きつつ、60冊に及ぶ『レコード・コレクターズ』を売り払ったのである。
それにしてもこの一年あまりの間にかなりの本を売り払ったり、実家に送り返したり、人にあげたりして、処分した。もともと貧乏性で所有欲が強い方なので、なかなか本やレコードを売ったりは、できないのだが、「これはまだ手元においておきたいなあ…」と思っていた本も無いなら無いで結構後はさばさばするものである。おかげで、この一年でかなり物欲が減退した。人間あんまり物に執着し過ぎるとろくなことにならない。これは僕がこの一年の間に得た教訓の一つである。しかしどこまで行っても所詮人間は人間。全ての物欲を無くすことができるわけではない。というわけでレコード・CDは、殆ど売ったことがない。物に執着し過ぎるのは、問題だがその一方で客観的に見たら、どんな馬鹿馬鹿しい取るに足らないことでも、最終的なこだわりを捨ててしまうのもこれまた問題。皆さんこのあたりの兼ね合いの中で日々暮らしているということなんでしょうね。
閑話休題。一時期やや集中して島尾敏雄の作品を読んでいたが、彼の作品につげ義春との共通性を、特に抜きさしならない現状を妙に非日常的な視点で描いていくというところに感じていた。つげが井伏鱒二を愛読していたり、漫画仲間から小川国男を薦められたりするなど、文学への関心が深いということは知っていたので、島尾からの影響もあるかもしれないと思っていたのだが、今日非常に興味深い文章に出くわした。京都の叡山電鉄一乗寺駅の側にあるとある古本屋で立ち読みしていた島尾敏雄のエッセイ集につげ義春の作品についての評論が載っていたのである。これは思わぬ発見であり、恥ずかしながら、自分の目の付け所の確かさを自画自賛したくなった。

1999・7・12
高橋和己未亡人高橋たか子が高橋和己との思い出を語った文章で、「生前高橋は、よく虚無僧になりたいと言っていた」というようなことを述べていた。虚無僧という言葉を目にして、今現在どれだけの人間がこの言葉から具体的なイメージを喚起されるだろう。ここ十数年ばかり時代物とは、殆ど無縁で今の状況は分からないのだけれど、僕がまだ幼い頃にはテレビでときどき袈裟を着込み、編み笠を被り、尺八を吹きながら山中を歩く、怪しげなその姿を目にしたものだ。たいていそういう虚無僧は、何か一癖あって、悪玉にまわるにしても、善玉にまわるにしても、独特の存在感を醸し出していたように思う。確かに、アンチ・ヒーロー的な要素が無くも無い。しかし、ここで高橋が言う虚無僧というのは、はっきり言っておおよそポジティブなイメージとは程遠い、まさに虚無そのものを体現する存在である。そういえば、つげ義春の漫画でも親子三人で、貧乏旅行に赴き、行くところ行くところろくな目に会わず、最後にみすぼらしい宿の寝床でどこからともなく聞こえてくる虚無僧の尺八の音に耳を傾け、自分達という存在のはかなさを思うという非常に印象的な場面があった。そこで作者つげ義春自身がモデルになったと思われる主人公が言う。「俺達いっそのこと虚無僧になってしまおうか……」と。高橋もつげも常に世の中から隔離したところで、あらゆる物にも煩わされずに生きたいと願ったようだ。ただ前者はそう願う反面、大学闘争に深く関わり、それに心身を犯されながら、40にも満たずに亡くなってしまい、後者もまたそうありたいと願いながら世間がそれを許さず、未だにこの世知辛い世の中でひっそりと生きている筈という差があるだけだ。
言うまでもなく虚無僧になりたいなどと言うのは、基本的に甘え以外の何物でもない。高橋、つげ双方の作品を読んでも、その甘えはいやという程目に付く。例え、双方にそれぞれ他人の目には届かない諸般の事情があるということを差し引いた上ででも。しかし、それらの甘えをただ単に甘えと規定して断罪し、切り捨てることができないというところに彼らのそして彼らの作品を手にとってしまうわれわれの否定しがたい悲哀があるのだ。この悲哀を非難し。批判するのは簡単だ。弱者の思想とでも言えば、一件落着だろう。しかしどんなに非難と批判にさらされようともボソボソと頼りない声で「いやしかし、そんなことを言われても…・」と言いかけ、さらにまた黙りこくってしまうみっともないわれわれがいるのだ。その情けなさをスタート地点に据え、例えば似た者同士で寄り合い、理想を掲げながら、結局はその集団に埋没してしまう……そのような状態を病気であるとある人は言う。悲哀を背負えば、弱者と非難され、それを克服せんがためにある集団へと身を投じるとそれは病気と判断される。恐らくこれが多くの人間の現実であろう。しかし現実はあくまでも現実である。当たり前のことだが、これは非難し、批判される側にとっても、する側にとってもどうしようのない現実である。そして残念ながら僕は悲哀を間においた現実と僕自身との関係に未だに折り合いがつけられていない。

1999・7・13
昨日は、なれない仕事をやったためか、虚無僧だとか、高橋和己だとか、つげ義春だとか、おおよそ人をポジティブな方向に向かわせそうにない話題ばかりを振ってしまった。ポジティブで思い出したが、今の僕のモットーは、「ポジティブに堕落する。」である。そのモットーに則するかどうかは分からないが、フリーについて書いてみたくなった。投稿形式でディスク・レビューを募集しているとあるホーム・ページにフリーの『ファイアー・アンド・ウオーター』についてのレビューを投稿したことがある。それは今年の4月の上旬の話。それから間もなくであったかと思うが、ピーター・バラカン『僕が愛するロック名盤240』という本の中で、フリーの最高傑作として紹介されたこともあって、フリーのセカンド・アルバム、『フリー』の中古盤CDを購入した。僕はこのアルバムをずっとテープで聞いていたのだが、ここ数年来テープというソフトから遠ざかっていることもあって殆ど聞くことがなかった。それにこのアルバムのラスト・ナンバー「モーニング・モーニング」に対してあまり良い印象を持てず、それに引きずられたというべきかこのアルバム全体に対する印象もあまり芳しいものではなかったのである。また大好きな『フリー・ライブ』にこのアルバムからは一曲も選曲されていなかったという事実も大きかった。しかし……である。自分でも驚いたのだが、数年ぶりに聞いたこのアルバムにしばらくの間かなりはまってしまったのだ。ピーター・バラカンがこのアルバムを最高傑作だと評したのにもうなずける。このアルバムこそメンバー四人の個性がぶつかりあい独特のグルーブが醸し出された、最高の例ではないかと思う。どうもフリーというとまず「オールライト・ナウ」が頭に浮かぶが、この一曲でフリーを判断するのは、キンクスを「ユー・リアリー・ガット・ミー」一曲で判断するのに等しい浅はかな行為である。このアルバムで特筆すべきは、アンディ・フレイザーのベース。この若きベーシストが血肉化した独特のファンキーなのりが、このアルバムにそいて一番良い形で出ていると思う。また次のアルバムで大人しくなるポール・コゾフのギターもこのアルバムでは元気で、アルバム全体に緊張感を与えている。
ところでピーター・バラカンがフリーを聞いていたというのもかなり意外だったが、それ以上に意外だったのがかのポール・ウエラーがわりに最近になってフリーを評価するようになったということ。ポール・ウエラーとフリー、一見するとこの両者には、あまり共通するものはないように思えるが、要するにフリーが醸し出すグルーブにポール・ウエラーの触覚が反応したということだろう。これと言って大っぴらに取りざたにされることがないフリーだが、このあたりに視点をあてれば、新たな「フリー像」のようなものが垣間見れると思うのだが、どうだろう?

1999・7・14
今日はそれぞれ数十ページ程読んだままでその後頓挫していた倉橋由美子の『反悲劇』と『婚約』を一気に読み終えたために何となし頭がボーっとしている。30年以上生きてきて、これだけ読書に没頭した日々というのは、これまで無かったし、この状態が何時まで続くのか分からないが、今後もそうそうあることのようには思えない。今後の身のなりふりがどうなるか、未だ不透明だが、なまじ体力と気力があるために、それほどの不安も抱かずに、日々を過ごしている。とりあえず降って湧いたようなこの時間を有意義に過ごすために、なるべく多くの時間をまずは読書に費やそうと思っているわけだ。そういえば、この日々の様子をM氏に話すと本気で羨ましがられた。世にも希な有閑青年ということにでもなるだろうか?
話をガラっと変えよう。本日の主題である。今期のNHKの『フランス語講座入門編』は、毎週木曜に「今月の歌」といって毎月一曲シャンソンを流すのだが、今月はバルバラの「ナントに雨が降る」(ちなみに僕の耳には「ナント」がどうしても「ナンテ」に聞こえるのだが)。バルバラ、僕がビリー・ホリデイと同じくらいに愛してやまない女性ヴォーカリストである。3年前の11月に亡くなったが、新聞が小さな記事を載せただけで、音楽誌では特に取り上げられなかったようだ。かつては日本でもそれなりの人気があったようだが、今日では一部の好事家を除いては、殆ど関心を持たれることがないということなのか。極めて残念だ。
フランスの広い意味での大衆音楽に興味を抱いてはいるのだが、なかなかこれというものに出会うことが少ない。僕の独断では、童謡一つとってみても、フランスの童謡より、ドイツのそれのほうが、メロディーの起伏に富んでいて楽しめる。顰蹙を承知で言うが、時々「もしかしてフランス人というのは、基本的に音楽センスに乏しい人種(この言い方も問題を孕む)なのではないか」、と思ってしまうことさえある。そしてその例外の一つがバルバラというわけだ。
彼女が織り成すメロディー・ライン、独特の唱法、どれをとっても琴線に触れずにはいられない。彼女の歌声は確実にその場の空気を変えてしまう、希有なものだ。今のところ殆ど過去の人として忘れ去されてしまっているが、彼女の音楽に惹かれる人間はもっともっと潜在しているはずである。事実何人かの知人その他に聞かせるとたいてい良い反応を示している。彼女の歌声を過去のものにしてはいけない。シャンソンというとどうも一部の趣味人のなぐさみ物という印象をもたれるかもしれないが(これも偏見入ってるなあ)、バルバラはそんな枠組みからはみ出す部分を多く有している。普通は、入門用としてベスト盤を推するものだが、ここはあえてセカンド・アルバム(だと思われる)『Barbara N゜2』もしくはライブ盤『Une Soiree Avec Barbara』を推する。以前も書いたが音楽かくあるべし思わせる何かを確実に感じ取ることができる。

1999・7・16 その1
今朝いつもより若干遅めに起きて、まずは朝刊のテレビ欄に目をとおした。実際に目にすることはそうないのだけれど、『はなまるマーケット』の「はなまるカフェ」のゲストと『徹子の部屋』のゲストには、とりあえずチェックを入れる。すると今日の「はなまるカフェ」のゲストの欄になんとノーベル賞作家大江健三郎の名を見出したのだ。おりしも昨日から彼の『いかに木を殺すか』を読んでいてあまりにもの文体のくどさに若干辟易していてそのことについて書こうかと思っていたところだった。
そういえば、この人幾度と無く写真で顔をみたことはあるのだが、テレビで喋るところをみたのは、これが初めて。特に想像していた人と違うということもなく、わりに冷静になって見れた。最初彼が薬丸と岡江久美子相手にどんな話をするだろうというのが、気になったが、それなりに自然な流れであった。
おかしかったのが彼が薬丸に「貴方は、以前三人組みで歌っていた頃も良かったけれども、今のほうがずっと良い。」というようなことを言っていたこと。考えてみれば、僕とそんなに年の変わらない娘さんがおられる筈で、その娘さんを通じて多少は、80年代初頭のアイドルの状況を知っていたとしてもおかしくはない。そういえば、彼は僕の父親とほぼ同じ年(生まれた年は、違うがいわゆる同級生というやつ)である。大江の作品はここしばらく疎遠ではあったとは言え、しばらくは集中して読んでいた作家。そして、ついこのあいだまでかなりはまっていた倉橋由美子も大江と同じ昭和10年生まれであり、高橋和己は昭和6年生まれと僕の父親とほぼ同じ世代の作家の作品をかなり集中して読んできたというのは、我ながら面白いことだと思う。ちなみに中上健次は僕の母親と二つ違い。このあたり何か関連性があるのか?こじつければ、いくらでも話のネタにはなるのだろうけれど、それはまたの機会にとっておこう。
さて、これは今日初めて知ったのだが、大江のノーベル文学賞受賞に際して特に評価の対象となった作品の一つが『万延元年のフットボール』であるということだった。そういえば、この作品中上健次が大江のこれまでの作家活動の中で、評価できる最後の作品であるというようなことをどこかに書いていた。その後の例えば『洪水はわが魂におよび』についてはかなり否定的である。大江最後の長編小説と一時期言われていた『燃え上がる緑の木』の第一部を僕はわりに最近読んだのだが、かつての文体に潜む濃度というか密度のようなものが希薄で妙に上すべりな印象が残ったことを覚えている。そこには現実との抜きさしならぬ関係にたたされた人間の思いのようなものが欠落しているのだ。そして確かに『万延元年のフットボール』にはそれがあった。個人的には、『万延元年〜』よりも『我らが狂気の生きのびる道を教えよ』のほうが好きなのだが。なまじ若い頃にパッションに満ちた作品を書くと老年へと至る過程での円熟の仕方が難しいのかもしれない。その点、中上健次は良いときに死んだとも言えるのではないか?。

19999・7・16 その2
思えば、僕とジミヘンとの関係も微妙なものだ。正直言って僕は彼の音楽に興奮したり、感心したりしたことはあっても、彼の音楽を愛したことは、――例えばこれまでフーやキンクスの音楽を愛したようには――なかった。しかしときどきどうしても彼の音楽を聴きたくなるときがある。確かにフーやキンクスを日常的に聞くことは正直いってそんなにはなく、たとえ聞くことはあっても、たいていアルバム単位。ジミヘンみたいに集中して聞くことはない。僕とジミヘンとの関係は、少しだけコルトレーンに似ている。どちらも非常にテクニカルでありながら、しかし同時にプリミティブという点で似ているし、どこか聞く者を限定してしまう難解さ、あるいは崇高さを有しているという点でも似ている。しかし前者と後者との違いは、後者の音楽が決定的に僕の琴線に触れるということである。どちらも精神的であり肉体的であるが、ジミヘンのほうがコルトレーンよりずっと肉体的なものを感じるのだ。これには、ジミヘンがギターという楽器を通じて自らを表現しようとしたこと、そして楽器を演奏すると同時に、言語をも自分の音楽に介在させたということが関係しているように思う。そして時折、僕が彼らの音楽を渇望するとき、当然僕のほうにも肉体的でプリミティブな何かが溢れ出そうとしているのだ。
僕が見たジミヘンの映像で一番忘れがたいのが、かのモンタレー・ポップ・フェスティバルにおける「キリング・フロアー」の演奏シーン。あの何かにとりつかれたようにギターをかき鳴らし、やり場のない思いのその何分の一も表現できないことに苛立つようにマイクに向かい歌うその姿には、ある種の悲壮感さえ漂っていた。彼を有名にし、他のミュージシャンの度肝をぬくことになった当のイベントで、実は彼がどうしようもない悲壮感を分泌していたというのは、なんと皮肉なことか。
生い立ちの不幸や、突然降って湧いてきたような災難に見舞われたというような不幸はいくらでもあるが、彼のように自分が背負った巨大な才能のために不幸となったというのは、あまり前例がないのではないか。彼に近い例というのは、探せばあるが、彼のように極端な例は今のところちょっと思い付かない。
自分でも判別のつかない、処理しがたいどうしようもない情念のようなものに突き動かされて、死に急いだとしか思えない短い人生をいきたジミヘン。先に挙げた「キリング・フロアー」だけでなく、映像を通して見る彼は、どれをとっても何か刹那的なエネルギー、つまり死へと向かって放出されたエネルギーを感じてしまう。その死へのエネルギーを放出しながら作り出した音楽がとてつもなくポジティブな輝きを放っているというのは、なんというパラドックスだろう。僕はどうしたって彼みたいなギターを弾けないだろうし、決して彼みたいなギターを弾きたいとは思わない。

1999・7・17
ジミヘンとの関係も奇妙だが、マイルス・デイビスとの関係も我ながら良く分からない。とはいえ、マイルスとの関係はジミヘンへの関係ともまた違う奇妙さがある。正直言って、僕はマイルスの音楽に感心することはあっても心酔することはない。ジミヘン同様興奮したことはあったが、しかしどこか関係がクールなのだ。
自分で言うのも何だが、僕はとりあえず枚数的には、マイルスのCDを集めてきた。代表作の殆どはそれなりに聞き込んでいると思う。しかしこれと言った思い入れのようなものが希薄なのだ。マニアとかファンだったらもっと沢山のアルバムを聞いていると思うが、たいしてファンでもない人間が20枚近くのアルバムを手元におき、それなりに聞いているというのは、どう判断すべきなのか?
どうも僕はマイルスに対してどこか御勉強で聞いているという側面があるのは否めない。ジャズに興味を持ちはじめて、とりあえずマイルスとコルトレーンから攻めようと思って、この二人のCDを買ったのがジャズを聞くきっかけだったし。というか最初ジャズそのものに対して御勉強というスタンスがあったのだけれども。しかし当然のことながら、御勉強だけで音楽を聞けるわけではない。それはそれなりにその音楽に魅力を感じなければ、40分なり50分なりの時間をそれに割くことはないだろう。
極端な言い方をすれば、僕がマイルスに求めているのは、BGM的な音楽ということになる。こんなことを言うとコアなマイルス・ファンからおこられるかもしれないが、マイルスの音楽は結構サラっと聞き流せるものが多いのだ。何か作業をやっている間に流れていても、「ちょっとノリがいいかな?」と思う程度で特に気にならない。確かに『アガルタ』、『パンゲア』、『オン・ザ・コーナー』あたりだとちょっときついと思われるかもしれないが、これもその人の感性とシチュエーション次第で、それなりにBGMとして聞き流せる。実際僕は一時期『アガルタ』、『パンゲア』をバックに修士論文を書いていた時があった。
コルトレーンについての文章でも書いたことだけれど、やはり渡辺亨氏が書いているとおり、「マイルスはポップ・アートで、コルトレーンは純粋芸術」なのだと思う。つまり時代に一歩先んじることはあっても、決して時代から逸脱したり、時代を超越することがないのだ。時代を超越することがないと言っても、しかしそれはマイルスの音楽に普遍性が感じられないということを意味しない。要するにジミヘンやコルトレーンみたいにいわば「行っちゃった」ところがない、もしくは希薄というだけ、あるいは例えある種の「危うさ」や「危なさ」があっても、常人の域を越えることがないという話である。このあたり突っ込んで考えだすとけっこうややこしいので機会があったらまた改めて触れてみたい。

1999・7・18
故人の遺作をこきおろすというのも、少々気がひけるが高橋和己の長編小説の中で一番の駄作は、未完に終った『黄昏の橋』だろう。彼のそれまでの小説の設定のつぎはぎではないかという気さえする、シチュエーションの安直さ、それに加えて主人公時枝正一の魅力の無さがあまりに甚だしくて、読んでいて苛立ちさえ覚える。彼の優柔不断さと、突発的に何かをやろうとするが、常に気ばかり焦って空回りするというのは、『憂鬱なる党派』の主人公西村の性格をほぼそのまま受け継いでいるが、時枝の場合その性格がより徹底している。
西村の場合結局徒労に終ったとは言え、自分と同じく原爆体験を経た人達の口述の体験記を出版しようという意志は持っていた分だけ、まだましだが、この時枝という男、おおよそ確固たる意志を持っているとは言い難い、読み手にとって殆どシンパシーの持ちようの無い駄目人間。しかしなぜか下宿先の女主人矢野駒から妙に気に入られているらしく、かなり寛大に扱われている。このあたりは『日本の悪霊』を想わせる。ちなみに『日本の悪霊』の主人公の一人村瀬は、学生時代未亡人が営む下宿屋に情人と一緒に住み、しかも月に何度かその未亡人と性的関係を持つことで、下宿代の支払いを幾分免除してもらうという、異常な生活をしていた。そして駒の二人の娘徳子と恵子は、『邪宗門』の阿礼と阿貴の姉妹の性格を色濃くうけついでいると言っていいだろう。言わば、この作品はそれまでの高橋の作品にありがちな設定をデフォルメしたものをつなぎあわせた、もしくは使いまわしをして出来上がった代物と言えなくも無い。そして個人的には、『邪宗門』の主人公千葉潔(ちなみに彼は、高橋の作品の主人公としては、例外的にある種超人的な意志と行動力を持った人物であった)が阿礼と阿貴の両方の女性から愛されるのとほぼ同様に、時枝もまた徳子と恵子の姉妹に愛される徴候が読み取れるのである。例えばこんなエピソードがあった……
大学闘争に身を投じ、そのために負傷を負うことになった女子大生恵子。彼女の元に大学関係者がとってつけたような謝罪の挨拶に来たことに憤った時枝は、自ら大学関係者が持参した見舞いの品を返しに、大学へと赴き、そこで一悶着を起こす。それが新たな火種となり、そのことを駒に難詰される。恵子がその難詰の場に現れ、後ろから両手で時枝の目をそっと塞ぎこう言うのだ。「時枝さん。ずっとこの家にいてて。これからは、自分のことは自分でやるつもりですけれど、お願い、この家にずっといてて。」この個所を読んだとき、僕は「いいかげんにしろよ。」と突っ込みを入れたくなった。
さて一方徳子のほうだが、彼女は直接的に時枝に対して好意を表すことはない。というより読み手によっては、彼女が時枝に好意を持っているかどうかを疑いさえするかもしれない。しかし徳子を『邪宗門』の阿貴と二重映しで見る僕には、時枝に冷笑的な言葉ばかりを浴びせる徳子に、最初潔に何かと冷たくあたりながら、いざ彼がいなくなるととたんに機嫌が悪くなった阿礼を見てしまう。つまり徳子の時枝に対する態度は、愛情の裏返しではないかと。もしそうだったならば、この作品の一番安直な設定の一つになっていたかもしれない。
さて、なんだかんだといちゃもんをつけてきたが、結局のところ僕はこの作品を駄作だと感じながらも、それなりに楽しんで読んだし、話の顛末を最後まで知りたかった。この作品を書いていた時期、おそらく高橋は大学闘争のただ中で苦境に立たされ、心身を摩り減らして奔走していたのだと思う。そう考えるとこの作品に散漫さが漂っていても不思議ではない。恐らく高橋自身もこの作品がああした形で世に出るのを望まなかっただろう。今日あの作品を書こうとした高橋の意志を受け継ぎ、違った形で世に出そうと思う酔狂な人間などいるだろうか?僕はどこかにいることを望みたい。

1999・7・19
何が良く分からないと言って、ビーズ及びいわゆるビーイング系のアーティストが良く分からない。因みに僕の中で小室系というのもビーズと同一線上にあるのだが、これもやはり良く分からない。
ところで今さかんに言われているJポップなるものの大きな源流の一つがビーズと小室系にあると言っても概ね間違いではないと思う。そして双方ともとりあえず「ロッキン・オン的言説」の中では、基本的には否定的な見方をされている。別に「ロッキン・オン的言説」を御宣託としてあがめたてまつるわけでは毛頭無いが、良くも悪くも今日の音楽ジャーナリズムの中で、この「ロッキン・オン的言説」が果たす役割というか影響力がかなりのものなので、一つの参考として引き合いに出しているのだけれど、この現象は考察するに値すると思う。
かつて渋谷陽一は、ビーイング系のアーティストを批判して、もっともらしい顔をしている奴等にはムカつくということを書いていたが、まあそれはそれとして、彼らが売れているという背景の構造的問題というのがあるのは否めないだろうと思う。そこを棚上げにして、鬼の首をとったようにビーイング系のアーティストをあげつらうというのは、確かに大人気ない。問題にすべきは、あくまでアーティストの質ではなく(というかだけではなく)、構造的な問題だと思うのだ。そこをあえてアーティストの質という問題に目を向けると、僕個人としては、好き嫌いとか評価するか批判するかという範疇を超えて分からない、理解不可能というのが正直なところである。
確かに図式的なわかりやすさがあるというところでは、売れるのも理解できる。あの僕からすれば、とってつけたようなとさえ思えるような、ドラマティックな歌詞も広く受け入れられやすいのだろう。そういう売れるものを作るという意味では、ビーズの二人も小室もそれなりの才能があるのだと思う。しかし……どうしてある程度音楽を聞き込んできたものの多くが彼らの作品を留保付きでしか評価できないのか?そこを明らかにしなければ、やみくもな彼らへの批判は意味を為さないだろう。
僕にとってビーイング系および小室系に対する最大のマイナス要因は、白痴的なビートである。こんなことを書くと余計な物議を醸し出すかもしれないし、双方が織り成すリズムにかなりの違いがある以上こういう言い方で一括りにしてしまうことに問題があるのを百も承知であえて言わせてもらおう。どちらも僕にとっては、類型化された工夫の無いリズムに聞こえてしょうがない。それに加えてあの歌詞である(このまとめ方も問題あるが)。売れるのは理解できるが、どこが良いのか全く理解できないという少々矛盾した感想を抱かざるを得ないのが、未だにもどかしい。そういえば、小林亜星がビーイング系が売れるのは、日本人が基本的に農耕民族だからというようなことを発言していたが、この見解はある程度本質をついているだろう。しかしこの見解を結論にして話を終らせるべきではなく、この見解を出発点にして、話を展開していくのが、今後の課題だろう(って何のための課題だ?)。

1999・7・20
いきなり唐突だが、つい今し方NHKの『やさしいビジネス英語』を聞いていたら、"vandalize"なる単語についての説明がなされていた。意味は「破壊する」である。これまで全く知らなかった単語でしかも何やら曰くありげ。早速辞書で何か興味深い事実が浮き彫りになるのではないかと思い調べてみたら、予感的中。かつて5世紀にローマ
帝国を略奪したゲルマン族の中の一種族がこのヴァンダル族で、このことが"vandaline"という語の語源となったとのこと。こうやって今日まで、「破壊」というイメージと結び付けられて、しかもローマ帝国崩壊とは殆ど縁の無かった日本人の耳に入るくらいなのだから、余程そのヴァンダル族という種族は野蛮だったのだろうか?それより気になるのが、今日でもなおヴァンダル族という種族が、はっきりそれとわかる形でヨーロッパのどこかで集落をなしたりしているのかどうか、ということ。恐らくそんなことはないかと思うが。もしそうだったら問題だぜ。この語のおかげで下手したら彼らは一生「野蛮人」のそしりを受けねばならない。
 ところで日本でもほぼ日常語となっているフランクという言葉の語源は、やはりゲルマン族の一種族フランク族というのが、陽気で快活であったことに基づくのだったと思うけれど、ヴァンダル族のほうは、あまりにマイナス・イメージがまとわり過ぎている。いや、フランク族だって、その中に陰鬱で、気難しいタイプの人だっている筈で、そういう人が"frank"という単語が喚起するイメージのために、日陰者扱いされているかもしれないではないか?
なんだか今日は、いつになくおちゃらけたことを書いてしまったが、しかしある人種に対する偏見もしくはレッテルに基づいた単語が、その語源が忘れ去られたまま人々の口にのぼるという現象はいかがなものだろうか?このことについては、冗談ではなく考察する価値があるのではないだろうか?
話は変わるが、16日にちょっとだけ触れた大江健三郎の『いかに木を殺すか』を読み終えた。大江自身も自分は文章もしゃべりもまどろっこしいと認めていたが、本当に彼の書く文章は妙にもってまわった言い回しというか、のびきった餅のような文章で、時折嫌になってくる。ところがこれが読み薦めていくとそれなりに面白いのが、厄介といえば厄介である。だから僕は彼の作品を読むとき、そういう言い回しは、文字面だけを追って、あまり文体を鑑賞する余裕を持たず主に大まかなストーリーを辿るというスタンスをとっている。ディープなファンだったら、あの文体にドップリ浸かるということになるのだろうけれど、僕は彼の作品をそれなりに読んだが、幸か不幸かそこまではいかなかった。この連作では、『雨の木(レイン・ツリー)を聞く女たち』と『同時代ゲーム』への言及が多く、ある種この二つの作品と兄弟的な性質を持つものである。それにしても大江は、自分が書いた小説にあれだけ自分自身を登場させることに対してどのようなこだわりを持っているのだろうか?それから爆笑問題の太田光は、大江の子供と同じ名前を持つことに何がしかの感慨を抱いているのだろうか?(笑)

1999・7・21
先月に続いてアルチュセールの『哲学・政治著作集』の2巻目が書店に平棚積みされていた。ちなみにこのアルチュセールというのは、僕が修論で扱ったフランスのマルクス主義哲学者で、フランス共産党とずっと微妙な関係でいながら、しかし一貫して共産党党員であり続けたひとである。しかし、もともと熱心なカトリック信者であり、若い頃一時期は、共産党党員であると同時にカトリック系の青年団体にも名を連ねていたのだ。ここまで読んで「なんかややこしそうな人だなあ。」と感じた人は自分の直感力にちょっとは自信を持っていいかもしれない。あんまり詳しくは書かないが、とりあえずこの人はややこしい人だった。そのややこしさを端的に示すものとして、彼が後年鬱病による極度な精神錯乱のために妻を絞殺したという事件を挙げよう。
とにかく僕はこういうややこしい人が書いたややこしい書物を前にして何かと悪戦苦闘し、アルチュセールの「ア」の字を見るだけでアレルギー反応をおこしそうになるくらいに、意識的にか無意識的にか彼を避けよう、彼から遠ざかろうとしていたのだ。そうした中でも昨年の今頃から11月あたまあたりまでが、特に酷かった。何しろ修論のリミットは2ヶ月後に迫っているというのに、ただの一枚も書けないのだ。彼が長らく煩ったという鬱病が乗り移ったみたいに、僕は修論に対しておおよそ積極的になれなかった。その後教授から「やっつけ仕事」だの何だの嫌みを言われながらも、修論を書き上げることができた。厄払いができたと言えなくも無い。
さて、修論を提出し、とってつけたような哲学修士号を得たはずなのだが、そういう意識は正直言ってあまりない。修論を書き上げてしばらくは、拙いながらもその過程で見えてきた自分なりの何かみたいなものを更に発展させることを少々夢想することは、あったが今となってはそんな気持ちはこれっぽっちもおこらない。今、目の前に一千万円出されて「これをやるから、今後一切アルチュセールとは縁を切れ。」と言われたらためらいなくその用件をのむだろう。ここ3ヶ月ばかりの間、小説ばかりをむさぼるように読んできた僕は、すっかり文学の脈略で物事を考えることが多くなったように思う。もっとも高橋和己などは哲学にもかなり造詣が深く、高橋的文体でものを考えるといきおい哲学的にもなりがちなのだが。
しかし、まがりなりにも哲学科の院に身を置きながらも、結局のところ哲学とは何か?と聞かれても明快な答えを返せないでいる。もともと柄にもなく英文科なんかに入ってしまい、ものの見事に肌に合わなかったという人間である。そして、どうしてそれがそうなるのか自分でもよくわらかぬが、他の英文科の人間に対する嫌みとして哲学書を手にするようになり、幾つかの紆余曲折を経て、今日に至っている。そこでまた自分でも判断のつかぬある力学的作用によって、英文学にも少しだけ興味を持ちはじめているのである。
これまであまり自分をそんなふうに思ったことはないが、最近になってもしかして俺は非常に飽きっぽい奴なのではないかという気がしている。確かに何かにつけどっちかつかずの状態にいることは多かったけれども。

1999・7・22
評論家江藤淳が死んだ。しかも自殺だそうだ。今朝、朝日新聞のホームページでこの見出しを見たときは、かなり驚いたが、早朝だったために若干意識がもうろうとしていて、その内容まで把握するに至らなかった。それはともかく江藤と自殺とは僕の中でどうもイメージ的に結びつかなかった。何となしいつまでものうのうとふてぶてしく生き続けるというイメージのほうが強い。
ここまで書くと大体想像がつくかと思うが、僕はこの江藤淳という人物におおよそよい印象を抱いてこなかった。保守論壇の旗手。大江、柄谷等文壇に目新しい人間が登場するとよりそい適当に仲良くして、ちょっと気に入らないことがあると、手のひらを返すように袂を分かつ。文壇では絶大な権力を振るう。昭和天皇崩御の際の情緒でベタベタになったおおよそ読むに絶えないコラム等々。これらが彼に対する僕のイメージであり、どうしたって僕の志向と相容れるものではない。
そんな僕でも一冊だけだが、彼の代表的評論の一つ『成熟と喪失』を手にとり、それなりに興味深く読んだ記憶がある。殆どその内容は忘れてしまったが、要するに日本文学における母親の存在の大きさを論証するというのが、その主旨であったと思う。一見男尊女卑的社会と思われがちな日本だが、実はそのベースに母性がある種抑圧的に支配しているという複雑な構造を有しているというのは、よく言われているところ。4歳で母親を亡くした江藤はそれを身をもって示したということなのだろうか?
それはともかく今日の夕刊に掲載された、昨年亡くなったという彼の奥さんと仲睦まじそうに写った写真が妙に印象に残った。いかに思想的に相容れぬ部分が大きいとはいえ、あの写真を見せられて、この二人の不幸を願うというのはさすがにできない。最愛の妻に先立たれたというのも、彼の自殺の要因の一つのようだが、文壇で隠然たる権力を振るっていた人間とは思えない弱さを感じずにはいられない。
余談だが、今日母親からいきなり電話が入り、僕の小学校の担任の先生が亡くなったことを知らされた。何年か前に還暦を迎えられた筈ではあるが、まだまだ元気でいることと勝手に考えていたところへの突然の知らせである。ここ二、三年の間周りでよく人が死ぬ。確かに人はいつかは死ぬものなのだから、それなりに割り切らなければいけないことなのだが、しかし、死ぬには早い人が亡くなるのはやりきれない。このあいだから時折ミルクをやっている顔にかさぶたを作った近所の小猫は、何とか生き続けてくれるだろうか?

1999・7・24その1
このあいだから中央公論の『日本の文学 武田泰淳』を読んでいる。この作家を知ったのは、高3の現国の教科書においてである。題名は忘れたが、とにかく中国の話をもとにしたものだったと思う。中国の話をもとにしたということで、同じ時期に習った中島敦の『山月記』とカップルで記憶していた作家であり、短編小説であった。
なにゆえ今頃になってこの泰淳の作品を読もうかと思ったのか?その理由の一つとして、かつて柄谷行人が『マルクス可能性の中心』に収められた評論の一つに泰淳を論じたものがあったのを最近になってふと思い出したことがあげられる。おりしも哲学の呪縛(?)から解き放たれて、自分が面白そうだと思ったものを手当たり次第に読み散らかすことができるという建設性が欠落した意欲に燃えていた時期である。
最初に新潮の『日本文学全集 武田泰淳』を百円(!)で手に入れて読んでみた。思った以上に大衆文学的な匂いがあって、少々戸惑いと落胆が入り交じった複雑な気持ちになった。これで一つも面白くなければ、別にそれだけで済んでしまうところが、幸か不幸かそれなりに面白いのである。本来ならば、この本の中でメインとなるべきであろう、唯一の長編小説『森と湖のまつり』よりも僕は「蝮のすえ」のほうに惹かれるものを感じた。後で本屋でパラパラと『マルクスその可能性の中心』を読んでみると、この作品からの引用があって、何とも言えない感慨にしばしふけることになった。
ところでその評論において、柄谷は泰淳を死と重ねあわせて、語っている。泰淳は寺の生まれで、実際仏教や寺に関する作品は少なくない。とりもなおさず「死」と常に向き合って生きてきた人間の作品として、泰淳のそれを論じていたように記憶する。仮に泰淳の本質の一端が、その「死」との関係に表われているとするのなら、先にあげた『森と湖のまつり』に感ずる魅力がそれほどのものでないのも説明がつく。
そういえば『日本の文学』についている小冊子の中の寺田透との対談で、泰淳はこう言っている。「もちろん僕は創作なんて夢にも思わないもの。書く才能なんてぜんぜんないと思っているし。」僕が読んでいる限り、彼に創作の能力がないとは思えないが、確かにもっと厳密な意味での才能という点で言えば、それほどのものがあるとは思えない。良くも悪くも彼の作品というのは、基本的に「語り」という域に止まるものであって、「書き言葉」の可能性を示すものではないように思う。
そして彼のペンから出てくる言葉には、どこか鋭さに欠ける。全体的に丸みを帯びているような印象を受けるのだ。その「丸み」をあえてもっとわかりやすく言うと、全体的にホノボノとしか感触があるということになる。彼が具体的にどのような精神的遍歴を追ってきたのかは知らないが、なぜか達観した者の眼差しから小説を書いているように思える。
例えば彼の代表作の一つである『風媒花』。これは戦前から続いている中国文学の研究グループに属する人々の人間模様を描いた作品である。主人公峰はエロ小説家である。描く人によっては、たとえ同じ設定でももっとルサンチマンその他のネガティブな情念でドロドロとしそうなものを泰淳は、わりにサラリと書いている。これが彼の持ち味なのだろうか。もう一つの代表作(もっともこれは評論なのだが)『司馬遷』を近々読むことになるが、これを読むとまた違った印象を彼に持つかもしれないが。

1999・7・24その2
対象をスタジオ録音に限った場合、RCサクセションの最高傑作は『OK』だとずっと思っていた。最近あまり聞かないが、オープニングを飾る「ドライブ・マイ・カー」のイントロのギター・フレーズを聞くと、確実に頭のどこかが痺れてくるし、「Oh Baby」を聞くと否応無く胸がしめつけられる。各々の曲の粒が一番そろったアルバムだし、当の忌野清志郎もこのアルバムを気に入っていると発言している。
ところがである。急に初期のRCが聞きたくなって、中古盤屋で物色して手に入れた『シングル・マン』を聞いて僕の認識は大きく修正することを余儀なくされたのである。 このアルバムこそがRCの最高傑作ではないかと思う。個人的に仲井戸麗市が結構好きなので、彼がいないRCの作品を最高傑作と言うのは、少々後ろめたさみたいなものを感じるのだが、でもいいものはいいのだからしょうがない。
ところでこのアルバムの存在を知ったのは、実はかなり昔のことである。RCに興味を持った小6から中1にかけての頃に、僕はもうレコード屋の店先で既にこのアルバムの裏ジャケに掲載された歌詞にこれまで触れたことのない独特の世界を感じ取っていた。特に「大きな春子ちゃん」と「甲州街道はもう秋なのさ」が印象に残っていたように思う。それはともかくとして改めて歌詞カードを見ながらこのアルバムを聞いてみると、特に奇をてらったわけでもない一つ一つの言葉が今日でも充分に通ずる新鮮さをもって迫ってくるのに驚かされる。そういえば、このアルバムで使われている言葉は殆ど時代性を感じさせないものばかりである。あえて挙げれば「大きな春子ちゃん」におけるジャイアント馬場くらいであろう。しかし言うまでもなく、この言葉のために曲が与える印象が色褪せてしまうなんてことはまったくない。今聞いてもこの歌に込められた切実な思いは、普遍的である。
さらに僕の知り合いがRCのフェイバリットに挙げていた「夜の散歩をしないかね」の「窓に君の影が ゆれるのを見えたから ぼくは口笛に いつもの歌を吹く」というフレーズ。このフレーズが持つ深さを一体どれだけの人が理解できるだろうか?解釈を加えよう思えばいくらでもできるのだが、そんなことをすれば余計にこのフレーズが持つ深さから遠ざかるように思えてどうしようもないジレンマを感じる。本当に素直な気持ちで聞いて欲しい。この何気ない言葉に込められた、その言葉の単なる辞書的な意味の何百倍ものの「何か」を体全体で受け止めて欲しいと切に願う。
このアルバムがレコーディングされた時、忌野清志郎はまだ25になるかならないかの頃だったはず。この事実に直面した僕の友人は、彼を非常な早熟だと評していた。いや彼は後に『OK』に収められる「お墓」のような前人未踏の言語世界を高校時代に構築していたのだ。やはり彼は天才なのだと思う。「天才は生きているうちに認められない」と清志郎はよく言っていたそうだが、その受け入れかたに多少の問題を孕むにしても、今日彼がそれなりに世間で認識されているというのは、彼自身にとってだけではなく、彼と一緒の時代を生きた我々にとっても得難い幸運だと思う。

1999・7・26
最近気になることがある。スチャダラ・パーにいまいち元気がない。そもそもデビュー当時から「ダラダラやる」のを基本的信条としてきた彼らなのだから、今更彼らに血を吐くような努力を求めたってしょうがないのは承知している。しかしそれでももうちょっとメディアに露出してもいいんじゃないかと思えてしょうがないのは、僕だけだろうか?
思えば、オザケンと組んでヒットを飛ばした「今夜はブギー・バック」、その一年後にボーズは『ポンキッキーズ』の重要パーソナリティーの一人となり、お茶の間の人気者(死語)になる要素は充分にあった。しかもそれと前後してリリースされた『5th
Wheel 2 The Coach』は日本ラップ界の金字塔と一部で言われた程の傑作だった。あのときもっともっと盛り上がっていれば……・
意外に思われるかもしれないが、スチャダラ・パーは、デビュー以来ずっと進化してきた。進化という言葉がそぐわなければ、彼らなりにお勉強をし、前進してきたのだ。先に挙げた『5th Wheel〜〜』である種の頂点を極めたかに思え、彼ら独自のライムと言葉遊びを駆使した世界も、もうこれ以上の展開を見せないのではないか?と僕はちょっとだけ心配していた。しかし次の『偶然のアルバム』においては、バック・トラックはよりディープになり、言葉も言い意味で洗練されていた。その分初期からのファンには、少々きついものがあったかもしれないが、彼らが誠実な表現者(これって彼らにとって誉め言葉になりうるだろうか?)であることを示していた。そしてその傾向は最新アルバム『Funky Album』(残念ながらこのアルバム、まだ全編をとおして聞いていないのだが)においても十二分に発揮されている。しかし、世間での盛り上がりは相変わらず今一つ。同じ『ポンキッキーズ』に出てるよしみで、『ポップ・ジャム』に呼ぶように働きかけろよ爆笑問題。でもこの二組って面識あるのかな?
実生活においてはあまり同じ年の人間との付き合いがあまりない僕だけれど、いざ音楽関係になるとボーズやオザケン、そして誰よりミッシェルのチバ氏と言ってみれば同級生にあたる人間にシンパシーを感じることが多い。特にボーズが織り込む70年代後期から80年代前期にかけてのテレビや漫画その他をモチーフにした僕らの世代にしか理解できないとさえ思える用語やフレーズは、聞いているとなんだか嬉しくなってきさえする。
彼らがデビューした、そしてバブルで浮かれまくっていた1990年。僕はそんな世間の流れとはほとんど隔絶したところで日々を過ごし、ひたすら腐っていた。そうした世間の流れに片足を突っ込みながらも、そうした世間と自分達自身をせせら笑う(決して「嘲笑う」ではないところがみそだと思う)スチャダラ・パーは、ある意味ですごく格好良かったし、何がどう正しいのか分からないけれど「正しい」と思えた。バブルで浮かれてはいたが、しかし一皮むけば、その後の経済の破綻はたやすく見て取れたはずのあの時代。それを真っ向から批判したってしょうがない。それをあえて笑い飛ばそうというのがスチャダラ・パーのスタンスだったと僕は認識している。そしてこのスタンスは、今をもっても有効であるし、だからこそ彼らにはもっともっと大っぴらに世間をせせら笑って欲しいのだ。

1999・7・27
これまで20数年間以上に亙って様々な音楽を耳にしてきたが、その印象が最初聞いたときから良い意味で変わらずに、いつ聞いても最初聞いたときと同じ心地よさを与えてくれる音楽というのはそうそう無い。今僕の頭の中でそうした音楽の筆頭に挙げられるのがティラノザウルス・レックスの『ベアード・オブ・スターズ』である。
一体どれだけの人がこのアルバムの魅力を理解しうる要素を持ちながらも、「ティラノザウルス・レックスはマニアが聞く物」という先入観にとらわれたために、このアルバムを知ることなく今日に至っているのかと思うと、言いようのないもどかしさにとらわれる。かつてこのアルバムについては、『T.レックス』のことを書いた文章でも触れたが、「本当に良いんだから一度聞いてみてくれ!」と声を大にして言いたい。
何が良いと言って、『電気の武者』以降何となし魔力が水増しされたような感じを受けるマーク・ボランの独特のビブラートがかかったボーカルの魅力が「これでもか」と言わんばかりに爆発しまくっているのが何といっても捨て難い。そしてテクニックも何もあったものではない、センスでここまで聞かすか?という前人未踏のスタイルを誇るギター。そのバックをこれまたテクニック無視で駆け巡るミッキ・フィンのパーカッション。
また何よりも重要なのがアルバム全体を覆う何とも言いようのない切なさ。この点を見逃しては、このアルバムを理解したことにはならない、とあえて言い切ってしまおう。最近友人の発言で気づいたのだが、この切なさはデビッド・ボウイーに確実に受け継がれている。例えばアルバムのオープニングを飾るインスト・ナンバー「プレリュード」。この曲で聞けるギターの音だけでも、何かただ者ではないあえて言えば魔法のようなものが働いていることを感じずにはいられない。そして間髪を入れずに「ア・デイ・レイ」、「ウッドランド・バップ」へと続く流れは、以前もどこかで書いたけれど、本当に聞くたびに至福を感じることができる。後のコマーシャリズムに走る一歩手前で踏みとどまって、そういうところにも色気を見せつつ、しかも適度にマニアックな世界を構築したこのアルバムは僕にとっては、奇跡の産物である。
本来なら「シバデン思いでのアルバム」で取り上げるべきこの「ベアード・オブ・スターズ」だが、すでにこのコーナーでは『T.レックス』を取り上げたため、あえてこっちで取り上げることにした。本当にこのマーク・ボランの希有なセンスの結晶とも言えるこのアルバムは絶対一度は聞いておくべきアルバムである。こんなことを書いていたら急にタイムスリップしてこのアルバムのレコーディング風景を覗いてみたくなった。
それからやや蛇足ではあるが、このアルバムのジャケットのスタイルは、後に『頭脳警察3』に取り入れられている(つまり表ジャケにボーカル・ギター担当の顔写真。裏ジャケにパーカッション担当の顔写真)と思うのだがどうだろうか?

1999・7・28
 浪人時代からずっと、おそらくほんの2、3年前くらいまで、常に音楽が鳴っていないと落着かなかった。言ってみれば、軽度の強迫神経症みたいなものだと思う。そもそも中学の終りあたりからちょっとした対人恐怖症に陥っていたので、それとも少なからず関係していた。要するに他人との距離をとれない自分を持て余して、それで音楽に逃げていたということだ。
なんでそんなふうになったのかよく分からない。細かい理由が2、3思い付かないこともないけれど、しかしどれをとっても決定的な要因にはならない。自分の中ではかなり深刻な状態だったのだが、それを親にはなかなかわかってもらえず絶望的なもどかしさを感じたものだ。自意識が強い10代後半から20代前半にかけてよくありがちなこととして、片づけてしまえることなのだろうか?確かにこの症状(?)は、20代半ばを境にして、最初は段々と、しかしやがては急激に潮を引いていった。
このような状態は、二十歳になった頃に書いた「トミー、ジミー、ピート、そして僕」で描いたメンタリティーとも深く関係している。やはりこの頃一番切実な思いを持って『トミー』や『四重人格』を聞いていた。音楽を聞くことで能率が下がることを承知で、でも僕は基本的に音楽を聞きながらでしか、勉強ができなかった。その傾向は特に、予備校の自習室において顕著に伺われた。ピートがギターで大きな音を出すことによって、客と自分達との間に壁を作ったように、僕は自習室でフーやジャムやキンクスを聞くことで、他の予備校生から自分の存在を隔てそうして自分を守ってきたのだ(というかそういうふうに勘違いしてきた)。
大学に入ってそういう傾向が少しはマシになるかと思ったが、大して事態は改善せず。しかも大学というのは、予備校以上に一人でいることのリスクが大きい。あの頃どうしてあんなにも意固地になっていたのか、我ながら不思議に思う。みんながバブルで浮かれていた時期に一人ベルベット・アンダーグラウンドの『ホワイト・ライト・ホワイト・ヒート』を聞いて、「みんな死ね!!」と憎悪を辺りかまわず撒き散らしていたのだから、立派な社会不適応者である。あれから10年近くたったが、今の定職についてない自分を思うと、今の僕の境遇はこの頃すでに運命付けられていたのではないか、などと思えたりもする。
とりあえず暇な時間が多いこの数ヶ月の間に小学校の頃の読書熱が戻ってきたような様相を呈している今日この頃。かつては部屋にいるときには、のべつ間もなく音楽が鳴っていたが、今は読書疲れした合間に音楽を流すという傾向が強い。もし小学校の頃の僕が本来の在りうべき姿であるなら、今の状態は長い原点回帰への道のりを経た一つの到達点だと言えなくも無い。

1999・7・29
「恐怖の大魔王」が降ってくるはずの1999年7月も残すところ後わずか2日である。しかし『スパ』によると、終末論を唱える予言者や宗教の多くは、1999年の8月に終末が来ると見ているらしい。自分達の世代で世の中が終ると考えるのは、ある種の傲慢である、と誰かが言っていた。しかし逆に言えば、そのような傲慢を正当化してしまうような気にさせるところに終末論の魅力が潜んでいるのではないだろうか?
さて、当の僕はこの終末論をどう見ているかというと、実は結構楽しんでいるし、またどういう形でだかは分からないが、どこかで終末が来ることを信じている。いやむしろそれに密かな期待さえかけているが節がある。人間は多かれ少なかれ誰でも死への欲動を持っているらしいが、その欲動を一番魅惑するのが、この終末論というやつではないか?今ふと思い付いたのだが、キリスト教における終末論も、キリスト教において自殺が禁じられているためにどこかで蓄積された死への欲動を蕩尽させるために持ち出されたものではないだろうか?そんなことをふと考えてみたりする(これと同じようなことを他の誰かも言っていたかもしれませんが、それは単なる偶然ですのでその辺り御了承ください。またこれを読んで気を悪くなさったキリスト教関係の方々、あくまでシャレですんで、笑って許してやってください)。
ところで終末ということを強く感じはじめたのは、去年の今頃だったと思う。いや、どこかキナ臭い感じは、すでに一昨年の神戸の酒鬼薔薇事件のときに感じていたような気がする。あの事件の後連鎖反応を起こすように、各地で低年齢層の人間による殺人事件、暴力事件が相次いだように記憶する。酒鬼薔薇事件のショックが強かったために、その後の一連の事件にそれほどのインパクトを受けなかったが、逆を言えば、そのインパクトを受けなくなったところに、終末とまで言わなくとも、これまで我々がおぼろげながらも信じていた秩序や、倫理観が根本から崩れつつあることを見て取るべきだ。
当然のことながら、どこかで終末を期待しながら、一方でこの「何かが終りつつあること」を大いに憂慮する自分もいる。頭の中で何となし思い描く終末は美しいが、今具体的に目の前で展開されている何かが終っていく姿は決して美しくない。むしろ言いようもなく醜悪だということだろう。まったく人間ってやつは、わがままなんだから…・
もう一言付け加えておくが、例え終末を期待しなくとも、僕はこの2、3年のうちに事態はますますロクでもないものになっているのを、かなり強く確信している。どこぞの宗教家みたく、自分が世の中の全ての倫理にのっとってしゃべっているかのように語るのは、心底まっぴらだし、終りつつあるものをあえて面白がる余裕は持っていたいものだが、我々が知らないうちにためこんだ不穏なエネルギーがどこかで爆発する機会を伺っているような気がしてしょうがないのだ。

1999・7・31
やっとで少しは夏らしくなってきた。とは言ったものの、実はどちらかと言うと夏は苦手だ。暑いから嫌だというのではなく、どうも初夏から夏にかけては例年あまり調子がよくないことが多いのだ。下手したら、その調子が秋まで続いたりする。いつからそんなふうになってしまったのだろうか?とにかく僕にとって夏とは倦怠と停滞の季節なのだ、ずっと。
そういえば、暴力と死の匂いを充満させている北野武の映画の何本かはまさに夏を舞台においていたように思う。あれは僕の中で結びついた夏と死のイメージを具象化したものにかなり近いのかもしれない。夏は一人になるのが他の季節より恐い。だからみんな過剰な求愛意識が突発的に噴出してとんでもないことをおこしてしまうのではないか?そういえば、高校3年の夏だったと記憶するがこんなことがあった。
予備校の夏期講習の帰り勉強疲れで頭がボーっとした状態で、信号待ちをしていた。そのとき僕は一瞬、目の前を行き過ぎる車にはねられる自分を夢想し、それをなぜかとても美しいものだと錯覚してしまったのだ。そして次の瞬間その夢想の中の自分を再現すべく、ほんのわずかであるが、まだ信号の変わらない横断歩道を渡ろうとしたのだ。僕が夏と死とを結び付けるようになった決定的な思い出である。
夏といえば、もう一つ強烈な記憶がある。あの94年の殺人的な暑さである。幸いにもあの年は異様に元気で、何に対してもめげることなく、今となっては笑い話で済ませるようなエピソードしか思い付かないが、それでもとにかく暑かったという印象は強烈に残っている。一番酷いときは、最高気温39度が一週間程続いたということさえあったが、そうした中にあってさえ僕は団扇以外一切の冷房機具を持たず、喫茶店で涼むという習慣も持たぬまま基本的に下宿で過ごすというライフ・スタイルを貫き通した。誰も誉めてくれないだろうが、自分ではちょっと偉いと思う。そういえば、その夏の終り頃だったかに後輩が遊びに来て冷房機具が一切無い部屋と、勉強道具を広げた炬燵兼机を見て「まるで修行僧ですね。」ともらしたのも妙に印象に残っている。
さて少々安直だが、夏と言えばビーチ・ボーイズなのだが、これが不思議なことに真夏にビーチ・ボーイズを集中して聞いた記憶は全く無い。というより、精神状態が聞く音楽に影響を及ぼしても、気候が聞くものに影響を与えることは殆どない。ちなみに夏の午後これを書きながら聞いているのはバルバラである。良くも悪くもこういう奴なのだ僕は。

                                       戻る