倉橋ワールドへの誘い
今日倉橋由美子の名前を口にする人は少ない。現在倉橋の作品で一般の書店で手に入るものは、かなり数が限られている。おそらくキャリアのわりに決して多いとは言えない作品群の中でも3分の1、もしくはそれ以下だろう。幸いにして僕は比較的レアだと思われる倉橋の作品のおそらく8割以上をここ一年足らずの間に古本屋で手に入れて読むことができた。それにしても失礼千万なことを言うようだが、彼女の著作程レアなわりには、プレミアがつかない本はあまりないような気がする。それはともかく、そうして手に入れた倉橋のどの作品を読んでもその独創性、華麗にして知的で優雅な文体、強烈な風刺、幅広い教養、美的センスに一々唸らされざるをえなかった。高度な文学性と相反するかのようなエンターテイメント性をあそこまで盛り込ませた作家というのもそうそうお目にかかれないと僕は信じて疑わないのだが、しかしなぜか現在倉橋はマニアックな存在にとどまっている。残念なことだ。
とはいえ、その「なぜか」という疑問に対してそれなりに納得のいく答えを挙げるのは、そんなに難しいことではない。皮肉なことだが、僕が上で挙げた倉橋の諸作品の特徴すべてが、倉橋を一般の読者から受け入れられにくい要素になっているとさえ言えるのだ。まず知的な女性による知的なにおいのする作品という時点で、同性・異性双方から疎んじられ遠ざけられる決定的要因になってしまう。つまり倉橋の作品を楽しめるのは、ある程度の知的水準を保持しており、なおかつステレオタイプのセクシュアリティにあまり拘泥しないでいられる寛容さを持ち、一部偏狭なイデオロギーの持ち主からプチブル反動主義と罵倒されかねない世界観をも受け入れることができる人に限られてしまうということになるのではないだろうか?あれだけ読者を楽しませる要素を持ちながら、しかし同時になかなか一般に受け入れられにくい作品を書く人も珍しい。確かに『スミヤキストQの冒険』や『アマノン国往還記』を読み通すのは、それなりの読書経験を積んだ人に限られるだろう。特に前者は(倉橋本人は否定しているようだが)、当時(60年代後半)共産党への風刺がかなり盛り込まれており、その風刺のニュアンスが理解できなければ、この作品に込められた批判精神の理解が困難である。また『スミヤキストQの冒険』以前の作品の中でもカフカの影響が色濃いいくつかの作品は、比較的すっきりした読みやすい文体とは裏腹にその文学的テーマの暗さというか特殊性のためにいわゆる文学少年少女以外の人には受け入れられにくい。この特殊性を比較的わかりやすくデフォルメした『倉橋由美子の怪奇掌編』と『大人のための残酷童話』が今日一般の書店で手に入る倉橋による数少ない作品であるというのは、当然といえば当然の話である。
そして倉橋をそれまでの読者から遠ざけてしまったと推測されるのが、『夢の浮き橋』以降のいわゆる「桂子さんもの」。年代的に近いということもあってこの作品の発表まで、おそらく倉橋は、大江健三郎や高橋和己と同列に語られることが多かったと思われる。が、しかし全共闘運動に好意的であった後者二人とは反対に倉橋は徹底してこの運動を愚弄し軽蔑していたと言っていい。そしてそのことがあまり認識されず、自分たちに好意的であると勘違いした全共闘系の学生に援助を求められてよけいに全共闘嫌いになった倉橋による強烈な「しっぺ返し」が『夢の浮き橋』である。出版社を経営する裕福な家庭で育ち、大学で英文学を学び、和歌や漢詩を諳んじてみせる主人公桂子は、当然のことながら倉橋と同じく、彼女の大学内を闊歩する全共闘の学生を徹底して愚弄し軽蔑してみせる。
エッセイ集『わたしのなかのかれへ』においてある種の複雑さを伴ったシンパシーを大江に対して示す倉橋だが、実際に大学現場に身を置き日本赤軍との討論にさえ応じた高橋に対して、倉橋はかなり冷ややかな視線を送ったのではないかと想像される。各々の作品のトーンやテーマ、世相に対するスタンス、その悉くが互いに相反する倉橋由美子と高橋和己という二人の作家に、僕が同時に惹かれるというのも妙な話であり、そのある種矛盾した嗜好にあえてこだわってみるのも興味あるところだが、ここではあえて触れないでおこう。しかし高橋の暗く陰鬱な世界観に対して特に「桂子さんシリーズ」に顕著な倉橋の優雅、典雅、華麗と様々な形容が可能な世界とは見事なほどのコントラストを成しているということを今一度強調しておく。また生前高橋は、『孤立無援の思想』という彼らしい抜け穴のない絶望感を示すようなタイトルを冠したエッセイ集を出した。がしかし実際のところそのエッセイ集には徹底した孤立感はそれほど感じない。むしろ特にこれといった文学グループにも属さず、他の作家との個人的つきあいも皆無であり、またいかなる政治的党派にも組みしなかったと思われる倉橋のほうが孤立無援という点では、高橋以上だったのではないかと想像される。自分の孤立無援をあえて孤立無援だとは言わないところによく植物的と言われる彼女のたたずまいと裏腹になった倉橋の凛とした強さを感じる。
少々脱線したが、「桂子さんシリーズ」に話を戻す。僕が最初に読んだ「桂子さんシリーズ」はその第二作目『城の中の城』。この中でかつてはゼミの担当教授であった夫山田氏のキリスト入信を巡る夫婦間の確執が物語られている。こうやって大まかな話の筋だけを抜き出してみるとさぞかしドロドロとした愛憎劇が展開されると思いきや、さにあらず。それまで読んできたメタフィジカルな倉橋の作品にはないちょっと下世話な感じに少々とまどいもあった。しかしそこで繰り広げられるのは、知的な大人たちによる心理ゲームであり、そこでの勝ち負けはあくまでそれがゲームであるという前提に基づくものであって、決して恨み辛みの根源とはならない。初期のメタフィジカルな世界ではなく、ある程度現実世界に引き寄せた場所を舞台にしてもやはり倉橋の世界はどこか現実と遊離しており、しかし決して自閉した世界にはならないのである。
この『城の中の城』において夫の山田氏のキリスト教入信に反乱を起こす。その反乱の一戦略として、桂子さんはまずは敵を知ろうと我流でかなり徹底的にキリスト教を研究する。そこで得た結論がキリスト教を始めとするあらゆる宗教を信奉するものはすべからく病人であるというもの。その結論を得た桂子さんは、その病人の一人である山田氏を軽蔑し、そしてかつてはその山田氏を指導者として仰ぎ、ついには夫にさえしてしまった自分にある種の不甲斐なささえ覚えてしまうというくだりがある。途中のプロセスをはしょって結果だけを述べると、最終的にはこの桂子さんによる反乱は桂子さんの一人勝ちで幕を閉じる。しかし・・・・・・・
この『城の中の城』に直接繋がる作品『交歓』において、かつての桂子さんによる反乱に当時は見えなかった別の局面が顕わになってくる。夫山田氏の急死に見まわれた桂子さんは、亡き夫の身辺整理、特に山田氏が残した文書とフロッピーの整理に携わるようになる。その課程で桂子さんは夫山田氏の知られざる一面がだんだんとあらわになってくる。そしてその中で桂子さんは自分が一人勝ちを収めたかつての自分の反乱が結局は、主人にじゃれついていた猫がちょっとした気まぐれから主人の手にかみついたという程度のものであり、最終的に自分は夫の手の中にいたのではないかと思い当たるのだ。かつての反乱に関する桂子さんの「気づき」の描写はまことに見事なものであり、決してエキセントリックになったり装飾多加にならない格調高い文体とは裏腹に、非常なスリリングなものさえ感じさせ、僕などは改めて倉橋の書き手としての力量に敬意を惜しまない気持ちになった。作品の発表順に従えば、『交歓』のほうが後になるのだが、作品中の時代経過からすればその後の桂子さんを描いた(ただし話の中心になるのは桂子さんの孫の世代の人々である)『シュンポシオン』は、最終戦争を目前に控えた絶望を伴わない終末観を抱く人々によって繰り広げられる美しい恋愛絵巻である。
すでに述べたようにこの「桂子さんシリーズ」、文体そのものは平明でかつ格調高く、決して読みにくいものではない。しかし、そこで描かれる世界観がいわゆる「庶民」のそれとはあまりにもかけ離れたもので、そこに倉橋の世界があまり一般に受け入れられない要因がある。 逆に言えば、数少ない倉橋ファンには自分しか享受し得ない彼女の魅力があるという気持ちにますますさせられて、彼女を特別視するようになるのだろうが。
かつてはかの江藤淳にかみついた才気煥発型の才女も還暦をとうに過ぎ、古希を迎える折り返し地点に来ている。現在、彼女の執筆活動がどのようなものなのかは、僕は寡聞にして知らない。しかしもともと丈夫ではないという肉体を抱えた倉橋が今度そうたくさんの作品を世に送り出せるとは思えない。このまま彼女はひっそりとあまり人に注目されることなく、いなくなってしまうのだろうか?先に挙げた大江や高橋がこれまで何かと評論の対象になってきたのに比して、倉橋が人口に膾炙することはあまりに少ないように思える。要するに彼女の存在の特異性があまりに際だったものだということの証左なのだろうが、しかし彼女の文学性はたとえば島田雅彦や松浦理恵子の作品にかなりはっきりと受け継がれているのは明らかであって、まずはその系譜を正当に認識することから、彼女の作品の再評価をせねばならないと考える。