ジュリアン・グリーンという名前を初めて目にしたときから、僕は彼のことをずっとアメリカの作家だと誤解していたが、『アドリエンヌ・ムジュラ』を読み始めてからやっとで彼がフランスの作家であることを知るに至った。

 しかしその名前から察することができるように彼の両親はアメリカ人である。この アメリカ人の両親がどういういきさつでフランスに渡り、グリーンをそこで育てるに至ったのかは寡聞にして知らないが、この事実はグリーンの精神形成にかな りの影響を及ぼしているのではないかと想像してしまう。
 そしてアメリカ人の両親を持つフランスの作家がアメリカを舞台にして書いた小説というの がこの『モイラ』。アメリカ人の両親を持っているからどうだ、その小説家がアメリカを舞台にした小説を書いたからああだといった話は少々些末なもののよう な気はするが、しかし、今日のわれわれからしても少々奇異に思えることが、前世紀初頭の人々にとってどう映っていたかと考えるとかなり興味深い。

 実際舞台を異にしたことによるのか、フランスを舞台にした『アドリエンヌ・ムジュラ』や『漂流物』とは、確実に違う空気が読みとれるのだ。
  貧しい家出身であり、赤毛でしかも極度なまでに色白の肌を持っていることに羞恥心をいだいているジョセフ。しかも彼は深くキリスト教に傾倒しているため、 性的なものに対して潔癖であろうとし、そのことを周囲の人間から嘲笑の対象とされ、また本人もそのことに対し深く煩悶する。

 このような様々なわだかまりや強迫観念にさいなまれた青年像というのは、ある種普遍的なものであり、グリーンを単なるカトリック作家であるとみなし、頭から敬遠すべきものではないという一つの証左になるのではないだろうか?
 それはともかく『アドリエンヌ・ムジュラ』にもルグラのような特異な性格を持ついわば脇役が存在したが、この『モイラ』にはそれよりももっと多くの読者に少なからず印象を残す脇役が登場するということは、是非とも指摘しておかねばならないだろう。

 登場する場面は決して多いとは言えないが、常に不気味な輝きを主人公ジョセフに 投げかけているブレーローの存在は、その中でも少々抜きんでいると言ってよい。この作品の最初のほうで、ジョセフと取っ組み合いのケンカをした後も、彼は 一貫してジョセフに視線を送り続け、作品の終末では、殺人を犯したジョセフを他の州へと逃がす段取りをつけようとさえする。

 こうした不思議な人物像を描く筆力は、まさにグリーンの真骨頂といえるものだと思うのだがどうだろうか?また作品のタイトルに冠せられながら、その姿を作品が後半に至ってからしか主人公の前に現さないモイラの不思議な存在感は言うまでもないだろう。

 このあたりは、もっと色々な読み方が(それこそよりキリスト教を知ればなおさら)できるのかもしれないが、今の僕には、それだけの力量は残念ながら無い。おそらくまたしばらく経って読み直してみると色々な発見があるのかもしれない。

                         (2001年11月24日)