日記を書くこと
日記を書かなくなってもうかれこれ5年の月日が経とうとしている。最初日記をつけ始めたのは、高校受験の年の年末からだった。父親が仕事先から年末にもらってくる幾つかのダイアリーからノート形式のものを選んで日記をつけることにしたのだ。。それにはある人の(実はこの「ある人」というのは、ちゃんと記憶にあるのだが、その名前を出すのは、ちょっと恥ずかしいので記憶から遠のいたことにしておく)エッセイかなにかの中で、受験からその発表までの間日記をつけておくとそれが後になって、非常に大きな記録となるということを読んだのに影響されたというのもかなり大きく関係していた。それはともかくとして確かその年末からその次の年の3月にある公立高校の発表に至るまでの間、ほぼ休まずに日記をつけていた筈である(「筈である」というのは、後にまた触れることになるが、当時つけていた日記は、全て処分してしまったからだ)。そして高校に入ってからも断続的にではあったが、ずっと日記をつけていた。なんのために日記をつけていたのかと考えると、もう日記をつけなくなってから5年の月日を経た今となっては、我ながら不思議な気持ちになる。恐らく不毛でしかなかったあの日々をあえて文字にすることで、なにがしかの意味付けをするという意識が働いていたのではないか、などととってつけたようなことを考えてみたりもする。
その後高校生活を終え浪人時代に突入し、大学に入るまで恐らく同じノートに日記を書き続けたように思うが記憶が定かではない。それはともかくとして大学に入ってからは、母親の友人がく3年間分の日記をつけることができる日記帳を、大学の入学祝いにプレゼントしてくれて、それにずっと日記をつけていた。それは一日分に書くスペースが決められていたので、それに書ききれない部分は別のノートに書いてはいたがそう頻繁ではなかったように思う。その日記帳も大学3年目の終わりから、ワープロで日記をつけそれをルーズリーフにプリントアウトするようになって、引退を余儀なくされることとなる。しかも御丁寧に、ワープロでつけた日記はフロッピーにまで登録されていた。どうも当時の僕は、自分が過ごした日々を克明に記録することを好んでいたようだ。自分がもし有名人になったときにそれらが出版されるかもしれないなどと誇大妄想狂がかったふざけたことを考えていたのかもしれない。ワープロで日記を書くようになって一番良かったこと……・・それは、ワープロを打つのが早くなったことだろうか?というよりキーボードを打つという作業が僕の性に合っているのだろう。「それってどこか間違ってないか?」と突っ込みたくなる人もいるだろうが、それは僕の日記を書くという行為ならびに自分が書いた日記に対する愛憎入り交じった複雑な感情を反映するものだと理解していただきたい。
なぜそうやって書き続けてきた日記を書くのを止め、しかもこれまで書いてきた日記を全て処分してしまったのか?前述したフロッピーに保存した分の日記さえをも僕はこの世から抹殺してしまったのだ。正直言ってその理由をここに書き記すのは、かなりためらわれる。詳細な事実関係はボカすことにして、とりあえず述べておかねばならないこと。それは、おそらくいかにそれを人目に触れさえないように自らの手で隠蔽しようとしても所詮記録は、最終的には人の目に触れるべくして存在するものであるということだ。その証拠としてこれまでに作り手の了解を得ずして、どれだけの夥しい量の日記や、書簡、殴り書き、草稿、あるいは、デモテープ、プライベートでのセッション、ライブなどが公に出回ってきたかということを思い起せば、理解できると思う。当の本人にとってそれがどれだけ恥ずかしい赤裸々な内容であっても、いやそれだからこそ、それがある種の商品価値を持つ限り、もしくはそこまでいかなくとも、何がしかの好奇心を喚起させるものである限りそれを掘り返そう、明るみに出そう、白日の下にさらそうという欲望が起こるのは、無理からぬことである。要するにそうした欲望に自分が屈してしまうのを潔しとせず、それを自らの手で抹殺するに及んだ……・これだけでは何がどうしてどうなったのかさっぱり分からないかもしれないが、何とか想像力を働かして無理矢理にでも自分を納得させてみてください。
とここまで書いたところで、日記を処分したという行為には二つの段階があり、その二つの行為の間には、微妙な差異があるということを思い出した。まず、他人の目に触れられたくないために処分した分の日記。それが最初の段階。そしてその後しばらく性懲りもなく日記をつけていた。その頃はまだ日記をつけるという行為に積極的な何かを感じられたのだろう。新たな気持ちで(?)日記をつけ始めてから一年程経った後、僕は日記をつけることができなくなった。自分の醜悪な日常を文字にすることが耐えられなくなったのだ。文字にすること、つまり人の目に触れること、それを目にするのが例え当の自分一人だとしてもそれを残すことがどうしようもなく苦痛に思えてきたのである。その第二段階でつけ始めた日記は、それを書くのを止めてからも実はしばらく手元に残していて時折読み返してはいた。がしかし今となってはどういう心理状態がそうさせたのかは、自分でもよく分からないが、それも古新聞と一緒にちり紙交換に出してしまった。もうかれこれ二年前のことになるだろうか。ちり紙交換に出したその日記がもし何かの拍子で人の目に触れることになったとしたらと思うと、少しだけおかしい。
恐らく日記をつけなくなった頃に比べると今過ごしている日常はそれ程醜悪なものではないように思う。しかし、未だ日記をつける気には一向にならない。結局のところ自分が日記に対してでさえもどこか欺瞞的になることが自覚できてしまい、そのことがどうしようもなく自己嫌悪へと誘うであろうことが予想できるからだ。また今手元には無い日記を懐かしんだり、惜しんだりする気もあまり無い。くだらないことをやたらよく覚えている僕にしては、不思議なことだが、自分が書いた日記の内容を殆ど覚えていないのだから、懐かしみようがないのだ。この様子ではこれから先日記をつけることは当分の間ないだろう。もし日記を書く気になるとき……それは僕の中である種のステップをクリアーした時に違いない。