岡崎京子の新刊本『UNTITLED』によせて

 ここしばらく結局なんの効果ももたらさなかったらしい、不毛な思いをするだけに終わった文章(詳しくは、「再検証横浜銀蝿ーーその再結成の意味を問う…その後」参照)を書くためにずっとパソコンのキーボードを打ち続けていたような気がする。そのためか、右手の調子がおかしい。肩から肘にかけての部分がこわばったようになったり、しびれたりして、ひどく指先を動かすのが億劫になる。ちょっと自分のどこかが壊れぎみだ。壊れる………壊れるというと僕はほぼ決まって岡崎京子のことを思い浮かべる。『愛の生活』あたりからだろうか、彼女の漫画の登場人物が目にみえて壊れ始めたのは。この漫画に出てくる自分の兄に恋心(と書けばまだ微笑ましく響くのだが、その実状はそんな生易しいものではない)を抱いたエキセントリックな少女の壊れ方は、なぜかひどく僕の心をしめつけた。このあたりから彼女の単行本を買う度にその日から、むこう2、3日はその世界にどっぷりとはまり込むようになる。その壊れた人達が生きる日常…一見普通でいて、でもやっぱりどこかぶっ壊れていて、そしてもっと遠いところにいる誰かさんからみたら、結局何でもない日常にどっぷりはまり込む。

思えば、彼女の作品はどれをとってみてもぎりぎりのバランスを保ってなりたっていた。自販機系エロ漫画雑誌でデビューを果たすという、女性漫画家としてはかなり珍しい登場の仕方で、世に出てからもう十数年になる。そういえば中学だか高校のときに見ていたエロ雑誌に載っていた漫画を、大学生になって彼女の単行本で再発見して何だか言葉にできないような不思議な感慨を抱いたこともあった。桜沢エリカとともに「女の子エッチ漫画家」というレッテルを貼られていたのが、今や嘘のように思える。変な例えだが彼女たちがいなければ、西原理恵子だってどうどうとマンコなんて言葉を漫画の中で使えなかっただろう。まあこれは前者二人だけでなく原律子(彼女は今どこへ?)の貢献も大きかったような気もするが。それはともかく、おそらく誰よりも敏感に自分が感じた時代の空気を漫画に取り込み、一つの作品へと昇華させていった彼女の存在感は比類のないものだ。もしかすると彼女が「女の子エッチ漫画家」というレッテルを貼られていた頃は、彼女のことをそのうち誰からも相手にされなくなるだろうという予想をしていた人は案外多いのではないか?しかし彼女はその独自の感性をむしろ年を経るごとに研ぎ澄ませながら、ハイテンションの、下手したら音をたてながら疾走しそのままガラガラと音をたて崩れ落ちていくのではないか、とさえ思わせるような作品を……単行本にして年に2、3冊程だが発表していった。ファンとしてはどちらかというと佳作に属する(まあ高野文子なんて例外的な存在はいるけれども)そのペースに多少不満を抱いてはいたkれど。しかし、客観的に見れば例えば『リバーズ・エッジ』のような彼女の作品の中でも特に評価の高い物を年に5冊も10冊も出していくのは超人的なパワーが必要だと思う。僕はこの作品の中で付き合っていた男の子、というより惰性で付き合ってもらっていた実はホモセクシャルの男の子に決定的に冷たくあしらわれた女の子が、おそらくとうてい受け取ってもらえないであろうセーターを編んでいるのを友達に嬉しそうに語っていたときの表情を忘れることができない。実質的にはふられたと言ってもいいような仕打ちに合った直後に、さも自分達はラブラブだよというような話をしながらも、その目は完全に死んでいた……特に特殊な効果を施したわけではない。白地に黒い線だけで表現されたその世界は、掛け値なしで誰にも真似のできない有無を言わせないものだった。『愛の生活』で見せたどうしようもなくヘビーな世界の一つの完成がこの『リバーズ・エッジ』なのではないかと思う。そしてその後も彼女は、壊れた人間達を描いていく。時々息抜きのようにややおちゃらけた世界も垣間見せながら。そして『ヘルター・スケルター』でその壊れた世界の頂点を極めた。この後この人はどうなるんだろう?新しい作品を読むたびに、どっぷりその世界に浸りながらもそんな言いようのない不安がどこかに息づいていたように思う。そして2年前………

その後の彼女の織り成す世界を見せてくれないままでもう2年の月日が経ってしまった。書籍類にあまりにも多くのスペースを占領されていた下宿を整理するために、彼女の作品を含めた漫画類をとある所に寄付したのが、彼女が今の状態に陥ってしまう3、4ヶ月前だったと思う。おそらく最終的には処分しなければならなくなるだろうと分かっていながら、その後も僕は彼女の単行本を買い続けていくに違いないという確信をいだいていた。実際彼女の漫画を処分した後出た『ヘテロ・セクシャル』と『チワワちゃん』は今でも僕の手元にある。彼女の作品は麻薬かそれとも処方箋か?どちらでも構わない、とにかく僕に必要なものだ。最初読んだときの強烈さは薄れながらもその効果は確実に持続している。そして2年ぶりに彼女の単行本が出た。『UNTITLED』というタイトルを纏って……相変わらずどこか壊れた人達をハイテンションで描いている。最初読み通すのがちょっとしんどい。でも今回もまたどっぷり浸るのは、目にみえている。本人の承諾無しであえて出版に踏み切った関係者に感謝したい。僕にとって必要なものを世に出してくれたのだから。

右手がおかしいと言いながら、こうやってパソコンのキーを打っている。なるべく右手に負担をかけないためにそれまで右手で動かしていたマウスを左手で動かすようにした。もともと左利きなのでそんなに不便さは感じないが、でもやっぱり不自然な感じがする。「壊れる、壊れる、壊れる………」別に意味があるわけでもなく誰に聞かせるわけでもなく、小さな声で言ってみる。「壊れる、壊れる、壊れる………」どう考えても手によくないのにキーボードを打ちながら「壊れる、壊れる、壊れる……」


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