| トミー、ジミー、ピート、そして僕 |
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この文章は、僕が大学一回の冬に当時僕が所属していたサークルで出していたミニコミに載せてもらおうと思って書いたものです。その後何だかんだと日の目を見ることなしに(?)今日に到るのですが、自分の中でそれなりに感慨を抱いている文章なので今回当時の文章をなるべく手を加えないようにして、ホームページに載せることにしました。今よりもずっと青臭い文章ですが、ある種僕の中での原点でもあるものです。 |
ピート・タウンゼンドという人は決して歌がうまいとは言えないけれども、彼のナイーブさがそのまま声になったようで僕はとても好きである。うまいボーカルでボーカルではないとは言え、味のあるボーカルと言ってよいと思う。
“Can you see me the real me, doctor !, doctor !” フーのコンセプト・アルバム『四重人格』はこんな叫び声で始まる。「本当の僕が見えますか?」こういう問いを繰り返し精神科の医者や、自分の母親に投げかけるジミー。フーの『四重人格』と並び称されるコンセプト・アルバム『トミー』の主人公であるトミーは、おし・つんぼ・めくらという具体的な生涯のために自分と外界との間に壁を築き上げてしまうが、ジミーの場合は、内面的、精神的な要因から、外界との間に壁を作っていく。
ピート・タウンゼンドが自分のデカ鼻に悩み続けたのは有名な話である。またそのことは、フーの音楽を作っていくうえで大きなアイデンティティとなったことも周知の事実である。彼は自分が有名になって新聞に自分のデカ鼻が載るようになったら、誰も自分のデカ鼻について何も言わなくなるだろうと思ったそうである。好きだなあ。こういう考え方をする人は。
僕と喋っているとすぐにわかるが、僕は幾分舌をもてあましているために、「いきしちに」等の音があまりうまく発音できない。普段はそれ程気にしていないが、たまに人にそのことを指摘されたり、自分の言っていることが、うまく相手に伝わらなかったりすると、舌をかみ切りたくなったりする。そして自分にはものを言う資格などないのだと考えてしまう。幸か不幸か、このことによって対人恐怖症になったりするには、あまりに僕の性格はおめでたすぎたようである。このことによっておもいっきり屈折した。悪意に満ちた嫌な奴になっても良かったような気もするが、そうそう自分の生まれつきの性格に逆らえるものではない。
ピート・タウンゼンドが、初期のフーのステージで、ギターやアンプを壊しまくったのは、観客とのコミュニケーションをとる為ではなく、客との間に壁を作る為のものだったそうである。やっぱり好きだなこういう人は。
外の世界との壁
『人間失格』を読んだり、スミスを聞いたりと、若い間には、何がしか閉塞された「個」に憧れたり、自己を投影するものである。僕にとってそうした閉塞した「個」というのはトミーやジミーであったりした。浪人時代、もうそろそろ追い込みの時期に入ろうかという12月のある日、僕は『四重人格』を映画化した『さらば青春の光』を見に行った。かなり閉ざされたような情けない気持ちで日々を過ごしていた僕にとって、外界に対してうまく対応できずに、どうしようもなく右往左往しているジミーはかなり身近に感じられたものである。
モリシーや、エレ・カシの宮本浩次が自閉症であったというのは、僕には良くわかるような気がする。なまじっか外の世界で暮らすよりも自分の周りにはりめぐらした壁から、やぶにらみに世間を垣間見るほうが、ずっとある意味で世界がリアルに見えてくると思う。全てのものが許せなくなり、あらゆる物に対して八つ当たりしたくなっていく。そうして生まれたのが「クイーン・イズ・デッド」であり、「ぼーっと働く輩ども、お前こういう男を笑えるか」というような断定的なしかも根拠の無い表現だと思う。
トミーやジミーは外界に対する異化作用を外に発散させることはなかった。トミーはエンディングで「シー・ミー・フィール・ミー」と繰り返すだけだったし、ジミーは「愛が僕を支配する」という何やら悟りきったような境地にかなり強引であるが至ることになる。彼らにとっての外界への違和感や、苛立ちははたして何だったのであろうか?
アコースティックを手に
今日、フーの再結成ツアーでピート・タウンゼンドがエレキではなくアコースティック・ギターを弾くのは、彼の耳は難聴のために、PAから出る大音量のエレキの音に耐え切れない為だということを知った。でも僕は、彼は難聴の為にやむをえず、エレキからアコースティックに持ち替えたのではなく、彼はもう大音量でギターをかき鳴らし、フィードバックさせたり、ギターや、アンプをぶっ壊して、壁を作る必要がなくなったから、エレキを捨て、アコースティックを手にしたのだと思いたい。