ロックン・ロールを奏でる逃げ水── ルースターズ

 いつも頭のどこかに引っかかり、何とはなしに気にはなりながらも、このバンドをちゃんと聞くことをずっとしてこなかった。高校入学と同時に購読し始めた『ロッキン・オン』でもしばしば取り上げられ、彼らを主題にした投稿もかなり多かった。というより、日本のミュージシャンで投稿の主題となった頻度は、五本の指に入るのではないかという気がする。別にオリコン・チャートの上位に入るようなバンドでもないし、武道館を一杯にしたことがあるわけでもない。天才的才能を持ったミュージシャンが在籍していたわけでもないし、高邁なメッセージを発してある種教祖的存在に祭り上げられたわけでもない。でもどうしてだか、ルースターズについて語ろうとする者は後を絶たず、その語られる言葉には独特の熱っぽさがあった。

 それこそ十数年も前からその存在を知りながらも、これまで聞いてこなかったルースターズをこの五月にファーストから辿ってずっと聞いてきた。そしてセカンド、サード、フォースへと聞き進めていくたびに、「一体大江慎也とは何者だったんだろう?」という永久に答えの見つからない問いを発せざるをえなくなる自分に気づく。そして答えが見つからないことを承知で、彼らについて語らずにはおれない気持になり、かつて『ロッキン・オン』で彼らについて語った幾多の文章を思い起こし、「ああそういうことだったのか。」というある思いに至る。

 個人的事情を述べると、ついこのあいだ『Good Dreams』と『φ』を手に入れ、とりあえず大江在籍時のルースターズの公式アルバムは全てそろえたことになるが、ルースターズ、というより大江に対する疑念、ある腑に落ちない気持は最高潮に達したと言って良いだろう。つまりこれまで聞いてきたアルバム以上に、このアルバムを聞いてこう言ってしまいたくなるのだ。「大江慎也よ、あなたは一体どこにいるのか?」と。特に大江が参加した最後のアルバム『φ』には、メンバーの写真が一切掲載されていないので、余計に大江の所在が気になってしょうがなくなってくる。いや、写真がどうだというだけの話ではない。何より、このアルバムで感じることができる大江は、まるで抜け殻のようなのだ。自分が書いた詩を歌っても、全然言葉がこちらに迫ってこないし、柴山俊之の詩を歌うときも、柴山特有のロマンティシズムと大江自身との違和がどうしても気になり、今一つ素直に聞けない。このあたりのことについては、また後で述べることにして、とりあえず彼らのファーストについて語ることから始めよう。

 最近いくつかの音楽系掲示板で彼らのファーストが話題になった。音の好みは別にして、やはり衝撃度という点から言ったら、このアルバムが頭一つ分抜きんでていると思う。そして何よりこの頃の大江の殺気だった面相がすごい。結局この周りをカミソリで切り裂かんばかりの目つきを持った大江は、セカンド以降全くなりをひそめ、無垢で弱々しく、それゆえの崇高さを兼ね備えた存在となっていく。そうした後の大江のことを考えなくても、この時点ですでに大江時代のルースターズが持っていたとらえどころの無さが際だち始めていることが分かる。

 ストーンズ、ヤードバーズ、フー、キンクスなどのブリティッシュ・ビート、そして彼らの先輩であるサンハウスの伝統を受け継いだビート・ロック。図式的にこう言えば、とりあえずは納得がいくのだが、しかし、それではわりきれない何かをうまく言葉にできないのが、どうにももどかしい。確かにどこも奇をてらった所は見受けられず、サウンド面で特に冒険を試みたというところもない(というよりやっている曲が曲なだけに、冒険なんぞ試みようもないと言えば、そうなのだが)。しかし、何かが決定的に違う。これはやはり大江の存在感に負うところが大きいとしか言いようがない。そして、また「大江とは一体・・・・・」という堂々巡りの問題につきあたるのだ。

 決して上手いとは言えない、むしろ声量に乏しく、弱々しさ(後年になるにつれ、その傾向が顕著になる)さえ感じられるヴォーカル。しかし、なぜか妙な説得力があり、その独自の詩の世界と相まって、他の追随を許さない世界を作り上げている。このアルバムの中では特に「ハリー・アップ」がその真骨頂だと言っていいだろう。それこそ小学生レベルの語彙でしかない単語をどうしてここまで衝撃的に響くようにさせるのか、聞くたびに不思議な気になる。

 

 「頭と体が別に動いている

 目玉は見えなくなってきて

 耳はつぶれ口はきけない

 そろそろわかってくるころ」 「ハリー・アップ」

 

 こんな言葉を目の当たりにすると、やはり大江はこの頃から「やばかった」のかなとつい思ってしまう。しかし、この「やばさ」、「危うさ」が彼らの熱狂的なファンを生み出す要素となっていたことは否定できないし、それらの要素と大江が提唱していたという「最新型ロックン・ロール」が分かちがたく結びついていたと言っても間違いではないだろう。

 そしてセカンド以降の彼らの動向・・・・・・セカンドまでは一応ファーストの延長上にあると言っていい。その後の『インセイン』から『φ』に至るまでの流れは、何やら目眩を覚えるほどの変化が展開される。これを大江が骨身を削って作り出した「最新型ロックン・ロール」の変遷の過程であると簡単に言い切ってしまうのは、さすがにためらわれる。ファーストのジャケットで、いかにも「俺がこのバンドの首領(ドン)だ」と言わんばかりの表情で映っていた大江は、その後新しいアルバムを出す毎に、その全面に押し出していたオーラを、もっと奥底から、聞く人々の背後からじわじわとせまってくるようなものに変えていったような気がする。その大江が発するオーラの変化とルースターズが実践してきた「最新型ロックン・ロール」の変遷との関係を、そのままパラレルに捉えることは可能だし、そうすることが一番納得しやすい。しかし・・・・・・・ここでもまた大江の所在が一瞬手元からすり抜け、半歩程向こうに行ってしまい、再び手元に引き戻そうとすると、さらに大江がもう半歩向こうに行ってしまったような感覚にとらわれる。さらにはこう自問せざるをえなくなる。「大江の描いた世界が手元にあると思っていたのは、結局全くの錯覚でしかなかったのではないか?」と。この思いは、いくら大江とルースターズに関する資料をかき集め、関係者達から直接話を聞いたところで、消えはしないだろう。例え、大江本人に会うことがかなったとしてでもある。

 大江がルースターズと共に歩んだ「最新型ロックン・ロール」の最終的な形は、やはり彼が参加した最後のアルバム『φ』に見られるというのが一般的な見解であるようだが、僕にはこの『φ』というアルバムで感じられる大江をルースターズでの最後の彼だと認めたくない気持を拭うことができない。『インセイン』で試みられたイギリス・ニューウエイブ・サウンドへの接近を『ニュールンベルグでささやいて』、『C.M..C』という二枚のミニアルバムで発展させ、『Dis』においては、大江が抱え込んでしまった内省的世界とその手法を幸か不幸か融合させ独自の世界を見せた彼らだが、『φ』での大江は、その前の『Good Dreams』とさえ大きな断絶を有している。一曲一曲のクオリティは高いのだが、いささか寄せ集め的な性格を持つこの『Good Dreams』では、まだ大江は自分の世界を表現できていると感じることができる。しかし、『φ』では花田と下山のギター・サウンド、そして柴山俊之の詩とが大江をカバーすることで、何とかルースターズのヴォーカルとして成り立っているに過ぎないという気がしてならない。

 しばしば言われているとおり、初期ルースターズはサンハウスの強い影響下にあり、大江のヴォーカルも柴山のそれとかなり似た寄ったタイプのものであると言える。しかし、そこから意識的にも無意識的にも逸脱してしまう部分がどうしようもなくルースターズをルースターズたらしめてきたのだ。『φ』で大江が柴山の書いた詩を歌うのを聞いていると、恐らく柴山が大江の世界を意識して書いたと思われるそれらの詩と、大江のそれとがある程度までは重なる部分があるものの、それゆえに余計大江の資質とは相容れない部分が際だってくるのが鼻についてしまう。そして大江が書いた詩も、こちらにひっかかってくるものがあまりに希薄だと感じざるをえない。このアルバム中、もっとも大江の特性が生きていると思われるのが、全編英語で歌われる「Come On」であるというのは、なんという皮肉だろう。

 大江の詩が持つ抽象性、柴山の詩が持つ抽象性。大江の詩が持つストーリー性、柴山の詩が持つストーリー性。大江のロマンチシズム、柴山のロマンチシズム。これらはある程度まで互いに歩み寄るのだが、しかし、もちろんのこと完全には重なり合うことがない。やはり大江のキャラクターがあまりにむき出しで、生々しく、そして無垢であるということなのだろう。そういえば、サンハウスにはルースターズが持っていた甘さを含んだ青臭さをあまり感じることができない。

 柴山の強い影響下にありながら、そこから逸脱しえた大江在籍時ルースターズの最後の代表作として僕は『Good Dreams』に収録された「Hard Rain」を挙げよう。この曲は大江がルースターズでギターを弾いた最後の作品でもある。この淡々とした場景描写、うつろなヴォーカル、印象的でありながら、しかし決して饒舌にはならないギター・アンサンブル、それらの要素が融合して展開される独自の音世界。これが大江が在籍していたルースターズ最後の光だと僕は信じて疑わない。この唯一無二の世界を発展させることなく、『φ』で大江は抜け殻となった我が身をさらしただけだったように少なくとも僕には思える。

 とりあえず『ロッキン・オン』周辺では、大江脱退後のルースターズに対しても、比較的好意的な意見が多かった。ある意味大江以上の求道者であるかのように花田が祭り上げられるようなところもあったような気さえする。その端正なルックスとも相まって、そのような取り上げられ方をした花田に対して僕自身もわりに良い印象を抱いていた。こうして大江在籍時のルースターズをまとめて聞いてみても、その当時の印象に基本的変化は無い。が、しかしより複雑な思いを抱いてしまうということもまた避けられない事実なのだ。

 『Good Dreams』の小松崎健郎氏によるライナーノートでも言及されていた、『ロッキン・オン・ジャパン』での新旧ルースターズ・リーダーの対談。この対談でかつては、ギターの弟子でもあったという花田を「花田さん」と呼び、対談の途中で調子が悪くなりいきなりその場でうずくまりさえする大江の様子が強烈に当時(一九八七年)の僕に迫ってきたのを覚えている。そしてそこに映った二人の姿・・・・・どちらも全く違う方向に視線を向け、微妙な距離を保つ花田と大江。思えば、僕はこの時点から密かに「大江はどこに?」という命題を背負わされていたような気がする。そしてこれからルースターズを聞き続ける限り、この命題から逃れられないだろう。さしあたっては、大江脱退後のルースターズの音を聞いたとき、再びこの命題が首を持ち上げるに違いない。  

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