第4回思い出のアルバム
ピンク・フロイド『夜明けの口笛吹き』&シド・バレット『帽子が笑う……・不気味に』
厳密に言うとこの二枚を「思い出のアルバム」とするのは、いささか正確さを逸する。これまでこのシリーズで取り上げたアルバムは、今でも聞くけれどある種自分の中で「終わったけれど愛しいもの」として聞くという要素が少なからずあるものだ。しかし、この二枚に関しては違う。これらのアルバムは過去のものではなく、れっきとして現在進行形という形で僕の体の至る所に、その音を刻み込んでいるのだ。
シド・バレットの存在を知ったのは、高一年の時『ロッキン・オン』で田辺弘美という人によるピンク・フロイドについての文章でだったと思う。ピンク・フロイドの初期のリーダーが相当にぶっ飛んだ天才だったが、あまりにものぶっ飛びかたがゆえにバンドを去る事を余儀なくされたというエピソードをその文章で知った。またそれからすぐ後に高校のクラス・メイトに借りた『ジミー・ペイジ語録』という本の中でペイジが、シドをジミ・ヘンと並ぶ天才、かれら二人は常人とはまったくかけ離れた世界を見ていたとまで賞賛していたのも深い印象を与えた。
これらのエピソードは常に僕の心のどこかに食らいついていた。さらにその印象を深めるものとしてその順序は記憶にないけれど、『T.レックス』の文章で触れた『ロック講談』でのピンク・フロイド特集、それに「ビーチ・ボーイズと日本」で触れたトッド・ラングレンとブライアン・ウイルソンとシド・バレットとの関係について言及した渋谷陽一の『サウンド・ストリート』がある。
ホテルの部屋に砂のお城を作ったブライアン、空ろな目つきで上を見上げ曲の進行を無視した目茶目茶なコードでギターをかきならしたシド。前者は何とか「向こうの世界」からの御帰還を果たし、後者は現在唯一の心の拠り所であるという母を亡くしたため、それはほぼ絶望的であるという。そして僕は二人が垣間見た世界に憧れながらも、幸か不幸かその世界に指一本触れることすらなくどうにか今日にまで至っている。その御帰還を果たさなかった方が残した音がより今の僕にリアルに響くという事態を一体どのように捉えたらよいものか?
実際に彼の世界に触れたのは、大学に入ってからだった。大学に入ってようやく自分のステレオを持つことができた嬉しさで、とにかくこれまで少しでも聞きたいと思っていた音楽を片っ端から聞いてやろうと意気込んで近くのレンタル屋から借りてきたCDの中の一つが『夜明けの口笛吹き』。
後のフロイドとは違ってサイケな内容であるということは、ラジオか雑誌を通して知ってはいた。しかしサイケの一言ではとても言い尽くせないような独特の音世界がそこにはあった。これまで何度かこの当時の彼らの音世界を「あらゆる時空を超えた」と形容してきたが、まさにそのようにしか言い表せない圧倒的な頭をクラクラさせるような音の洪水がそこには溢れかえっていたのだ。
学校の行き帰りにウオークマンで聞く『夜明けの口笛吹き』はほんの一瞬だけだけども、他では絶対為しえない(あえて近いものを上げるとザッパの『アブソリュートリー・フリー』だろうか)トリップ感を味あわせてくれた。一曲めのイントロが右のレシーバから左のそれへと、そしてその逆へとせわしなく移動するのを耳にする度に変わることのない高揚感を得ることが出来る。恐らくこれは今後も有効で有り続けるだろう。
そうやって『夜明けの口笛吹き』にはまってしまった以上、当然のことながらシド・バレットを聞いてみようという気になるのは言うまでもない。
もう二度と思い出したくないくらい煮詰まりまくっていたその年の夏の終わりがけのことだった。とうの昔に無くなってしまった難波のタワー・レコードで買った(はずの)『帽子が笑う…・』と『バレット』とのカップリング盤を八十分テープにダビングして、僕は救いを求めるような気持ちで繰り返し聞いていた。その状態はその後秋が幾分深まる頃まで続く。それと相前後するかのように彼の奇行に関してさらに幾つかのエピソードを知り、ますます彼に対する思い入れが増していった。
彼に対する思い入れの質は、他のミュージシャンに対するそれとはかなり趣を異にする。フーのピート・タウンゼンドやキンクスのレイ・デイビスに対するそれは憧れがその基本である。もちろんシンパシーもあるが、それは親しみ等といったものとはてんでかけ離れている。もし仮にインタビューが可能になったら質問事項を百くらい携えて満面の笑顔を浮かべ馳せ参じるだろう。
では、シドについてはどうか?まず現実問題として今の時点でまともなインタビューが絶望的だというのはある。しかしもし仮にインタビューが可能だとして、彼に聞いてみたいことなどあるだろうか?そういえばかつて早川義夫が『ジャックスの世界』によせたライナー・ノーツで次のように述べていた。「僕らの音楽が、ある時、鏡になって、暗やみで聞いているあなた自身を写しだしたら素晴らしいと思います。僕らの音楽を聞いて聞いて僕らをさぐろうなんてことは、つまらぬことだからおよしなさい。あなたはあなた自身を写し出すために、鏡の底に降りていってください。」
この冷徹なまでに自分たちの作品を見据えた早川の言葉には、恐れ入るしかないが、この言葉がほぼ『夜明けの口笛吹き』と『帽子が笑う…・』にも当てはまると思うのだ。
確かにある種のミーハー的心理でシドの奇行やその生い立ちには興味がある。しかしセラピストでもないし、彼に対応できるだけの精神世界も持たない人間がどうして彼とまともに向き合うことができるだろうか?結局のところわれわれの多くは彼の音楽を聞くという行為でしか彼のことを知ることを許されていないし、結局のところそれは、彼の音楽を通して自分の精神の陰の部分を垣間見るという行為でもあるのだ。
最初にも述べたように今回取り上げた二枚のアルバムは今でも、僕にとってリアルなものとして時折聴くことを否応無くせまってくるものだ。そのリアルさはこの今年の六月だかに亡くなったねこじるの漫画が見せるリアルさにも似ているのではないか?今日彼女の漫画を立ち読みしていたときにふとそんな思いがよぎった。生前の彼女は子供時代の鋭い感性を持ってそのまま大きくなったような人だったという。もしこの二人の間に精神の交感のようなものがあったなら……なぜだかそんな思いが僕の脳髄にまとわり続けている。