山川健一と十九歳、そして僕
山川健一という小説家に出会ったのは、確か僕が高校2年くらいのことだったと思う。学校帰りに立ち寄った本屋の新刊の文庫本が平棚積みされている中に彼の『ローリング・キッズ』という本があった。何故にその本が目に付いたかというとミック・ジャガーがその本の表紙を飾っていたからだ。
ストーンズなんて大学に入ってすぐに四枚程まとめてレコードを買ったためにすっかりDRACの先輩達にストーンズ・フリークのレッテルを張り付けられ、その後幾度と無く、下手したら今現在に至るまでとやかく言われるのに嫌気がさして、いやそれ以前に何となしミック・ジャガーのあのボーカル・スタイルがなんとなく生理的に受け付けなくなって、本当に年に数える程しか聞いていない。
が、しかし少なくとも大学に入る前後くらいまでは、何かと「まじめでおとなしい」という評価を下されがちな自分の不健康な部分をアピールするためのある種必携アイテムとしてストーンズはどっかりと僕の中に腰を落ち着けていたのだ。
あまりこのあたりにこだわりだすと話が長くなるので適当なところで端折ることにするが、ともかく中学3年のときに見た彼らの全米ツアーを映像化した『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トウゲザー』と高校に入る直前に買った目茶目茶音が劣悪なのがかえって格好良く聞こえた初期のライブ盤『ガット・ライブ・イフ・ユー・ウオント・イット』は僕がロックにのめり込む上でかなり大きな役割を果たしたということだけは言っておこう。
ともかく話は山川健一である。ミック・ジャガーが表紙を飾るその本は僕にはかなり魅力的に見えた。自分が憧れていたなんだか自分でもよくわからない「ロック的なもの」を呈示しているように思えてならなかった。その後数年後くらいまで僕は彼の本をお金を出して買うことはなかったけれども、新刊書が出るたびに本屋の店頭でチェックするのは欠かさなかった筈である。今となってはほとんど逆転しているが、大学2回生の途中までは、本なんかよりもとにかくレコードとCDという感じで、あえてお金を出して本を買うという習慣がその当時はほとんどなかったのである。
人生のピーク
それでも本屋で立ち読みする彼の文章は音楽を別とすれば受験勉強やその他の煩わしい色々なことを一時でも忘れさせてくれる唯一の休息所的な位置づけが僕の中でなされていた。とはいえ本屋で手にする彼の本といえば前に挙げた『ローリング・キッズ』とキース・リチャーズのインタビューと彼が率いるロック・バンドルーディについてのエピソードを中心とした日記形式のエッセイによって構成された『ロックン・ロール・ゲームス』、それに今回主題的に取り上げようとする『みんな十九歳だった』というエッセイ集である。
特に後者二作は浪人時代の冬に何をやっても物足りない、あの当時独特のやりきれなさを少しでも押さえようとして、今となっては想像が出来ないほどの切実さを持って読んでいたような記憶がおぼろげながらある。そう山川健一が浪人という身分で十九という年齢を迎えたように、僕も彼が迎えたそれとは全然違った趣ではあったがともかく浪人という身分で十九という年齢を迎えたのだ。彼はそのエッセイ集の冒頭にこう書いている。「人は十九歳の時にそのピークに達するのだ、と僕は思う」
さて僕の十九歳はどうであったか?それはどう考えてもピークというには程遠いものであったと言わざるを得ない。勉強以外は何も充実していない、もっと言えば自分が存在しているということを勉強以外でアピールできないというような時であった。自分の中にたまったやり場のない何かを言葉で説明しようとして四苦八苦して、何かを伝えようとすればするほどドツボにはまるというようなどうしようもないジレンマを抱えていたような気がする。かくしてそのジレンマはその後数年間続くのであるが、それはともかくとして人生のピークに当たる筈のこの十九という歳をどうしてこうもしけた状態で迎えねばならないのかという苛立ちは常に僕を悩ましていたように思う。その苛立ちは二十を迎えるあたりでその頂点に達し、そろそろ二十九になろうとしている今となっては、おそらく自分は普通の人間に比べて十年遅れているんだと言い聞かせているという境地に(?)至った次第である。
そして、ストーンズは聞かなくなったが、しかし浪人時代に幾度と無く手に取ったその三冊の文庫本は今でも時折引っ張り出してはしばらく手元に置いて、手持ちぶさたな気分になったときには決まって手に取ることがある。正直言うと、僕は彼が特別才能のある作家だとは思っていない。本人も認めているとおりそんなに頭がいいとも思えない。しかし僕は彼の感性を百パーセント共有できないとしても、それにある程度共感でき、僕なりのやり方で敬意を払うのだ。その僕なりのやり方とは、言うまでもなく今でも時折彼が書いた物を手にとってその活字に目を走らせるというそれである。もっと言えば、実際にストーンズを聞くよりも、彼がストーンズについて綴った文章を読む方が余程ストーンズが魅力的に見えてきてしまう(これは要するに僕がストーンズに対して実質的に興味を失っているということの証左に他ならない)。
自分に向き合う
彼が十九の頃ノートに自分の印象に残った物を書き綴っていたように僕も十九の頃サークルの部室にあったノートにそして自分の日記帳に色々な雑文を書き散らしていた。僕が書き連ねていたほうのそれは、その九割以上が失われている。自分の過去を踏みにじってきてばかりいた僕は、二十九を迎えようとしている今になってその決算の一部でもなすことをせまられているのではないか?この頃そんなことが頭の中のどこかにこびりついて離れないのである。