『ハンドメイドハピネス〜ブックマーカー』




 財布の奥から懐かしいものを見つけ、思わず作業の手が止まる。
 名刺ほどの小さな紙は、片側が引きちぎられていびつになっていた。表面に記されているのは、今やサンジにとって誰よりも近い存在となった男の筆跡である。
 名前と住所、それに電話番号――今とまったく変わらない、彼の個人情報。
 これを手に入れた経緯を、まざまざと思い出す。
「そういや・・・こんなこともあったっけなあ」
 あの日の出来事が、サンジの脳裏に蘇った。


 とっさにブレーキを踏んだが、間に合わなかった。
 鈍い音とわずかな衝撃の後、視界から消えたフルフェイスのヘルメットに心臓が跳ねる。
 すぐに道路わきに停車し、車外に飛び出す。
 目の前の交差点で、ありふれた型の原付が横倒しになっていた。運転手はすでに身を起こしている。
「大丈夫ですか!?」
 運転手はサンジに目もくれず、倒れた原付を片手で立て直して歩道に寄せた。その手がヘルメットにかかる。
 鮮やかなグリーンの短髪が現れた。サンジとそう年齢の変わらない、硬質な面差しの青年である。
 呆然とその場に立ち尽くしていたサンジは、ミラーに映した口許をなぞる青年の指が血に濡れているのを見てあわててポケットを探った。ハンカチをこれ、どうぞと相手の眼前に差し出す。
 サンジとハンカチを青年は感情の読みとれない目で交互に見やったが、黙ってそれを受け取った。
 口許と指先の血をぬぐい、血痕がにじんだそれをジーンズのポケットにねじ込むと、青年はヘルメットをかぶり直した。
 ショックで動転していたサンジの頭が、そのときになってようやく「警察」という単語を弾き出す。
「あ、あの」
 だがそれ以上何も言えずにいるうちに、青年が原付のエンジンをかけた。
 ブルルル・・・と弱々しく唸って、車体は沈黙した。
 もう一度。
 さらにもう一度。
 青年が舌打ちするのが唇の動きでわかった。
「あのっ――」
 交通量の多い通りだ。喧噪に負けぬよう大きな声で、身ぶりをまじえて意思表示する。
 すぐ傍のファミレスの駐車場を指し示し、ここに停めさせてもらって警察に届け出ようと伝える。と、青年は存外素直に頷いた。
 彼らが移動すると、車道は何事もなかったかのようにスムーズに流れはじめた。だが歩道を通りがかる人々はみな一様に足を止め、何事かとこちらに視線を向けてきている。そう酷い事故ではないと判断してか、興味津々な様子は野次馬そのものである。
 見せもんじゃねェぞクソ野郎!と心の中で絶叫しつつサンジはじりじりと警察の到着を待った。
 通報で駆けつけた五十がらみの警官が事故車両を見分するのを、青年と肩を並べて見守る。
 土曜の真っ昼間ということもあり、混雑するファミレスの客もパトカーのサイレンで異変に気づいたらしい。中でも物見高い連中は窓に張り付いてこちらの様子を窺っている有様だ。ますます、いたたまれない。
 警官は原付のタイヤの右寄りにシルバーの塗料が付着しているのを指し示し、青年に声をかけた。
「あんた、避けようとして左に転んだね」
 彼が頷くのを見て、今度はサンジの車に向き直る。
「バンパーのタイヤ痕も端のほうだし、ぎりぎり避けられなくて引っかけた格好だねえ。ふたりとも、前方見てたつもりで見てなかったろう」
 警官が指摘した通りだった。右折しようとしたサンジと交差点を直進してきた青年は、どちらも進路方向に気を取られていて互いに気づくのが一瞬遅れたのだ。
「あんた、怪我の具合はどうかね」
 問われて青年は大したことねェ、と答えた。初めて聞く彼の声だった。
「この程度の接触なら、お互いの合意があれば物損扱いで処理することもできるがね。治療費は・・・まあ個人で話し合うっちゅうことで」
「それでいい」
「・・・はい」
「ただし、後で症状が重くなっても人身扱いに変更は効かんが、それでもいいかね?」
 何度も念を押し、同意書にそれぞれサインさせると、警官は穏やかに解散を命じた。
 パトカーが立ち去った後は、やがて野次馬もまばらになっていく。サンジはようやく肩の力を抜いた。
 青年が帰り支度を始めている。原付のエンジンがかかったようだ。
 サンジは慌てて彼を引き止めた。
 ダッシュボードに置いていた文庫本から栞を抜き取り、余白に氏名と住所、携帯番号、それに車のナンバーを記してボールペンごと手渡す。
「怪我させてしまって本当にすみませんでした。これ、おれの連絡先です。そちらも教えてもらえますか」
 深々と頭を下げる。
 受け身を取ったときに傷めたのか、ことさらゆっくりと字を書く彼の左手を見ながらサンジは続けた。
「できたら今日中に医者に行ってきてください。治療代も、もし原付が壊れてたら修理代も、おれが払います」
 青年の連絡先が記された栞の半分を受け取る。
 そこには、癖のある字で「ロロノア・ゾロ」と記されていた。


 あれから紆余曲折を経たとはいえ、事故の相手が一時の連絡のために書いた住所にいずれ自分も住むことになろうとは、さすがに当時は想像もしなかった。人生どこで誰と袖がすり合っているやらわからないものだ。
 当時は事故を起こしたことで相当落ち込んだりもしたが、今となってはそう悪いばかりの思い出でもない。
 その後に再会したゾロが、自分のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたことを思い出して、サンジはひとり笑った。
 紙片を手にキッチンを覗く。と、両手にビール瓶を抱えたゾロと目が合った。
 おもむろに、紙片を突き出してみる。
「これ、なーんだ」
 眇めた視線の先に見間違えようのない自分の筆跡を認め、ゾロはわずかに目を瞠った。
「・・・そんなもん、よく後生大事に持ってたな」
「期限切れのカードなんかを整理してたら出てきたんだよ。あの後、結局お前からは何も連絡なかったし、こっちからかけた電話にも出やしねェし。捨てるに捨てらんなかったんだよ」
「そうだったか? 覚えてねェ」
 あの事故でゾロが負った怪我がごく軽い擦り傷にとどまったのは、双方にとって幸運だったと言えよう。一歩間違えば、今ここで共に寝起きする現在も、それぞれの未来も失われていたのである。
 あれ以来、サンジは安全運転第一になったし、乗り手以上に派手にボディを擦ったゾロの原付は今でも現役で彼の通勤の足となっている。
 ふと、この紙片の片割れのことを思い起こして、サンジは尋ねた。
「お前さ、おれが書いた残り半分まだ持ってる?」
 当然ながら返事はそっけない。
「さあ。捨てたんじゃねェか」
「サイフか何かに入れっぱにしてねェ? ちょっと探してみろよ」
 面倒くさそうにゾロは手を振った。早くビールが飲みたいらしい。
「サイフなら部屋にあるから勝手に探せ」
 その言葉を都合良く解釈して、サンジはゾロの部屋に踏み込んだ。財布や鞄を始めとして、それらしいところを荒らさない程度に漁ってみる。
 が、さして私物を持たないゾロの部屋だ。すぐに探せそうなところは探し尽くしてしまった。
 やはり捨ててしまったのだろうか。
 少しがっかりして部屋を出てきたところで、ふと玄関脇のファックス横に置かれた箱が目についた。請求書やチラシなどを放り込んでおく共用の箱だ。
 ひょっとしたら、と箱を手に取り、中身を床にばらまいてみる。
 はたして、探し物はその中に紛れていた。
「あった!」
 子供のようにはしゃいだ声をあげて、自分の筆跡が記された紙片を拾いあげる。裂け目を継ぎ合わせると、二枚の紙片は一枚の栞になった。
「ほれ、あったぞ」
 満面の笑顔で凱旋したサンジの手の中を見て、ひとことゾロが呟いた。
「こっちだけ、えらくヘタってんな」
「そこに注目すんのかよ! ったく、ここは素直に感動するトコだろうが」
 ゾロの筆跡が記されたサンジ所有の紙片は、おそらく手つかずのまま箱に放り込まれていたもう一方に比べて少し角が丸くなり、くたびれて見えた。
「ま、何度も取り出して番号見たからなァ」
 ふーん、と気のない相槌を打って、それからゾロは思い出したように言った。
「ところでなんかつまみてェんだけど。いつものあれ、作ってくれねェか」
「はいはい、あれね。ちょっと待ってな」
 ゾロがいつもオーダーするつまみと自分の好きなつまみとを手早く作ってしまうと、サンジはゾロの向かいに腰を下ろした。
 自分のグラスにもビールを満たして、掲げてみせる。
「なあ、乾杯しよう乾杯」
「あ? なんにだよ」
 訝るゾロに、紙片の隅を指さしてみせる。

 それは、三年前の今日の日付。

「・・・・・やっぱアホだろお前」
「いいよ、アホでも。おれはいま機嫌がいいの」


 今日という、この記念すべき日に――乾杯。