『濫觴』




 見渡すかぎり島影も見えない大海原に、木の葉のように浮かぶ一艘の船。
 空も波もいたって穏やかな絶好の航海日和、小船は帆に受ける風にまかせ、波の上を滑ってゆく。
 この船の乗組員はたったのふたり。
 麦藁帽子をかぶった少年と、三本の刀を携えた青年である。
 彼らの人生が接点を持ったのは、ごく最近。
 とある町でふたりは出会い、少年が青年を仲間に引き入れ、今に至る。
 その間に交わした言葉はささやかなもので、知っているのは互いの名と、胸に抱える野望だけ。
 互いに口数の多い方ではなかったから、港を出てからというもの会話らしい会話はしていなかった。
 麦藁の少年、ルフィは舳先に陣取って海を眺め。
 三本刀の青年、ゾロは船べりにもたれて睡眠を貪っている。
 実にのどかな船旅であった。
 ―――彼らが、針路を見失って漂流していることを除けば。


 地獄の底から響いてくるような低音にうたた寝から起こされて、ゾロは切れ長の瞳を薄く開いた。
 視線を下げると、手狭な小船の底に転がっている少年と目が合う。
「おぉ、おはようゾロ」
「・・・朝か」
「知んねェ。おれもさっき起きた」
 それでこの腹の虫か、と腑に落ちる。
 最後に食糧を口にしてから、既に二日が経過していた。元より食事のペースが不規則である上、最近九日間の絶食をしたばかりのゾロは、この程度ではさほど辛さは感じない。
 しかし、つい先日ゾロの「船長」になったばかりのこの少年、ルフィにとって現状はいたって切実なものであるようだ。
「腹減ったァ〜・・・肉、食いてェ」
「ねェよ」
「肉、肉、肉!!」
「でけェ声出すな。余計腹減るぞ」
「に〜〜〜ぐ〜〜〜〜〜」
 小船に積み込んであった食糧は、港を出たその日のうちにルフィがほとんど食べ尽くしてしまい、残っているのは数日分の水だけだった。
 釣り道具でもあれば魚を獲ることもできるが、無いものねだりをしても仕方がない。
 ゾロはごきりと肩を鳴らすと、おもむろにオールを握った。
「おい、そっち座れ」
「んん?なんだ、漕ぐのか?」
「ああ。日が落ちる前にとっとと島、見つけようぜ」
 小船といえども近海の海図とコンパスぐらいは載せてあった。しかし航海術を持たない彼らにとっては持ち腐れでしかない。
 ひとまず風任せに漕いでゆくしかなさそうだった。
「なんかますます腹減りそうだな〜」
「いよいよ餓死しそうなら、おれの靴でも喰わせてやるよ」
「靴って喰えるのか?」
「普通は喰わねェけどな。革だから多分喰えるだろ」
 帯状の大陸の東に位置し、大小さまざまな島が連なるこの海域では、太陽が動く方角へひたすら進めばいずれどこかの島に着く。
 それが経験上分かっていたから、漂流する羽目になってもゾロは特に焦りを感じていなかった。
 無論、海流に流され外洋へと一直線、というおそれもあるが、自分が遭難した挙句餓死するなどと思ってもいない人間はそんな要素は計算に入れないものだ。
 空に輝く太陽は天の半ばを過ぎて、ゆるやかに落下を始めている。
 その軌跡を追いかけて、ふたりは船を漕ぎ始めた。


 真っ赤に燃える夕陽が、空と海の境目に融け消えてゆく。
 それに目を細めて見入っていたルフィが、ふと何かに気づいて声を上げた。
「あれ、何だ?」
 右舷方向、急速に明度を失っていく水平線に黒い点が生じていた。
 ゾロも手を止め、少年が指し示す方角に目を凝らした。色褪せていく空と海の狭間に、確かに何かの影が見える。
 行ってみるか、とゾロは視線で船長に問うた。
 今からなら、急げば本格的に暗くなる前に着けるかもしれない。
「島かもしんねェ。行ってみよう!」
「了解」
 再びオールを手にし、がむしゃらに漕ぐ。徐々に点は塊となり、一隻の帆船のかたちを取った。
「船か・・・」
「食いもんがあるならなんでもいいぞ、おれは」
 相対距離二百メートルを切ったあたりでゾロは漕ぐのをやめ、近づいてくる船をじっと見つめた。
 すでに落日の余光は失われ、頼りになるのは月明かりだけだ。
(なんか―――どっかで見たような)
 ふと過ぎった既視感に、ゾロは首を傾げた。
 月光の下に浮かび上がったのは、やや大型の堂々たるブリッグ船だった。だが大きさの割にひどくくたびれて見えるのは、三本のマストに架かった帆がどれもがところどころ裂けており、風を受ける用をなしていないせいだろうか。
 どうやらこの船は海流に流されて、彼らの方へと漂ってきたようだ。
 甲板の高さが違いすぎるため船上の様子は窺えないが、人の気配が感じられないようにゾロには思えた。
「でっかい船だなー。ひょっとして海賊船か?」
「さァな。それにしちゃボロくせェけどよ」
 ふたつの船の間の距離は百メートルを切っている。
 ふらふらと近づいてくる影を見上げて、ルフィはひとり頷いた。
「よし、あの船に食いもん分けてもらおう」
「結局そこかよ。まァいい、どこに接舷する?」
「いいよ、飛んでくから」
 そういうが早いか、ルフィは大きく振りかぶった腕を帆船めがけいっぱいに延ばした。ドラゴンを象ったフィギュアヘッドに取り付いた身体が、矢のようにそこへと吸い寄せられる。
「!!―――あの馬鹿!」
 反動でひっくり返りそうになった船の平衡を必死で取りながら、ゾロは短く毒づいた。
 知り合ってまだ間もないが、ルフィの唐突な行動に驚かされるのはもう何度目になるか分からない。
 食糧を平らげられてしまったときもそうだ。ことが起こってからでは万事手遅れなのだった。
 これが通りすがりの相手ならば、知ったことかと寝に入るところだ。しかし、あいにく彼はゾロにとって「船長」である。
 船乗りとしての常識など持たないゾロだが、船員が船長を放置するのは交わした約束に反するような気がして、渋々腰を上げる。
 いかなるときも手放さない愛刀達を腰に佩き、彼は船底に仕舞ってあったロープを物色し始めた。


「あらよっ、と」
 危なげなく甲板へと飛び降りたルフィは、頭上に視線を投げた。
 死神の衣の裾のように揺らめく帆にはいずれも何かの意匠が描かれた痕跡があり、メインマストには黒い布の切れ端が揺れているのが見える。
「ちぇ、マーク分かんねェや。海賊だったらよかったのに」
 航海者らしからぬ独り言を呟いて、彼は船の中央に位置する箱型の建物に歩み寄った。
 乗り移ったときから人ひとり出てこないことも、夜だというのに明かりが灯っていないこともルフィには気にならないようだ。
「おじゃましまーす!肉ください!」
 大声を張り上げたが、返答はない。
「あり?寝てんのか?」
 首をかしげて、ドアノブに手をかける。が、鍵がかかっているのか開かない。
「・・・・・留守かな?」
 そのとき不意に、誰何の声が響いた。
「誰だ!」
 しゃがれたその声は、建物の屋根から降ってきた。
「お。人がいたのか」
 帽子を押さえて振り仰いだルフィの周囲に、幾つもの影が落ちてくる。
 きょとんとする彼の鼻先を、刺激臭が過ぎった。
「うわっ、くせェ!」
 思わず鼻をつまんだルフィの周囲を、ばらばらと大柄な人影が取り囲んだ。月明かりに影の落ちた顔立ちまではっきりしないが、いずれも男。
 強烈な腐臭はどうやら、彼らの身体から放たれているようだった。
 ランタンを手にした男が、それを高くかざした。ルフィと彼らの姿が、淡い光の中に浮かび上がる。
 そこに映ったのは皮膚が腐りかけ常人とは様変わりしている男達の姿だった。年齢の見当もつかないほどに彼らの顔は崩れてしまっており、手足の一部からは皮下組織すら覗いている。
 麦藁帽子が、ひょこんと下がった。
「おジャマしてます」
 自分達の異相を目の当たりにしても呑気に挨拶してくる少年をどう思ったものか、彼らは小声で何事かを囁き交わした。ひとりは何かに気づいたように、舳先へと歩いてゆく。
 その数六、七人といったところだろう。何人かは武器を携えている。中でもひときわ厳つい大男が一歩進み出て、小柄な少年を見下ろした。
「何だオメェ、丸腰か」
 侵入者が手ぶらであることを確認すると、彼は拍子抜けしたような声でそう呟いた。
「なら用は無ェわ、さっさと帰んな」
「イヤら」
 間髪容れず答えた少年は、鼻をつまんだままであることに気づいて指を離した。
「あ、そうだ。肉くれ、肉。腹減ってんだ、おれ」
「あァ?ウチは肉屋じゃねェぞ。どっから迷い込んだか知らねェが、ガキは家に帰った帰った」
「ガキじゃねェ。海賊だ」
 そう答えた少年に、船首の方から戻ってきた男が声をかけた。
「お前さん、海賊かい」
「そうだ!」
 ふむ、と少し考えるようなそぶりを見せて、男は周囲の仲間を見回した。
「たまのお客さんだ。ここはひとつ、わしに任せてくれんか」
 年かさの―――といっても腐りかけなのでそれらしいのは声だけだが―――男がそう言うと、男達は素直に引き下がった。
 男は少年に向き直り、穏やかに話しかける。
「舳先に舫ってある小せェのは、お前さんの船か?」
 ゾロがそうしたのだろうと思い、頷く。
「おう」
「迷ったのか?」
「おう」
「そうか。まァ、わしらも似たようなもんだ。なんもねェ船だが、泊まってくか?坊主」
「おう!」
 くしゃっと破顔した少年は、男にずいと詰め寄る。
「なあなあ、食いもんあるか?」
「なんもねェって言ったろ。食糧はとっくにいかれちまってるよ」
「ないのか。ま、いいや。お世話にナリマス」
 帽子を取って礼を言う少年の様子に、男の崩れた皮膚が微笑の形に刻まれる。
「大したもてなしもできねェが、これも何かの縁だ。朝までゆっくりしてくといい」


 ドラゴンの頭に引っ掛けたロープを伝って舳先の小部屋に潜り込むと、ゾロは慎重に船内を移動した。
 突き当たった部屋をひとつひとつ丹念に調べたが、人の気配も物音もしない内部の荒れ果て具合にやはり難破船かと舌打ちする。
 この分では食糧も期待できそうにない。さっさと船長を回収して戻るか、と彼は判断した。
 ひとまずは甲板へ出ようと、視界ゼロの廊下を手探りで歩く。
 階段を探すものの、なかなか見つけられない。広すぎる船内は迷路のようで、元より方向感覚の狂いがちな彼はぐるぐると同じところを回った挙句、腐食していた床を踏み抜いてさらに下層に転落してしまった。
 積んであった荷物がクッションになって怪我はしなかったが、ますます脱出が遠ざかったことにうんざりと見えない天井を仰ぐ。
 静まり返った上の層と異なり、無数の羽虫が飛び交う音がぶんぶんと耳に煩い。
 そこで、彼は異状に気づいた。
 黴臭い船だとは思っていたが、それらとはまた違った異臭がその場に濃く立ち籠めている。
 この種の臭いを、彼の嗅覚は記憶していた。
 人里離れた土地で遭遇することはあまりない。けれど終日陽の差さない路地裏のゴミ捨て場あたりに足を止めれば、近しいものを嗅ぐ機会はあった。
 紛れもなく、葬る者もなく朽ちるに任された人間の骸が発する劇臭だった。それも、おびただしい数の。
 落下した彼を受け止めたのは、床に横たわった死体だったのだ。
 ぴたりとゾロは動きを止めた。
 骸の存在に気づいたからではない。
 虫の羽音に紛れて、囁き交わす声を聞いたからだ。
「三本・・・の・・・刀・・・・・」
「・・・本物・・・・・か?」
 声というより、水面で弾けるあぶくが人の囁きに聞こえるような、不確かなものにすぎなかったが。
 幻聴かと訝しむゾロの聴覚が、新たな音を捉えた。 ―――何かが、身じろぐ気配。
 ゾロは静かに、腰に佩いた刀の柄に手をかけた。
 小動物が走り回る音とは異なる重みを伴って、それは床を這いずるようにして近づいてきた。
 耐え難い悪臭に知らず短くなる呼吸を落ち着ける。と、そのとき。
 澱んだ空気を切り裂いて、それがゾロに襲いかかった。闇の中に突然、蒼い光が閃く。
 考えるより先に、ゾロの身体は迅速に反応した。それを抜き放った二刀で十字に薙ぐ。
 水びたしの布でも斬ったかのような手応えが刃先から伝わり、悪臭を放つ液体が飛び散った。
 闇に蒼い尾を引いて、光は消えた。
 刃に付着した滴を見当で振るい落とし、鞘におさめる。顔に散った液体を袖で拭った。
 ―――前触れもなく。
 ざわり、と全身が総毛立つ。
 殺気も呼吸もまるで感じられなかった。感じたのはまるで部屋全体が意思を持って、彼を押し潰そうとするかのような圧力。
 次の瞬間、圧倒的な質量が雪崩をうってゾロを呑み込み、沈黙した。


 何人かが細々とした物を取りに船室へ赴き、少年と残った男達はマストの脇に車座になって腰を下ろす。
 ささやかな明かりの下、年齢差はあれ同じ海賊同士で和気藹々と交わされる会話はまるで、どこかの街の食堂でテーブルを囲んででもいるようだった。
 小物を携えてきた者達が輪に加わり、会話はさらに弾んでゆく。
「ほう、その年で船長たァなかなかやるじゃねェか」
「仲間は何人だ?」
「今はひとりだけど、これからどんどん増やす!」
「どんな大物だって、最初は小っせェ船から始めるんだ、その意気だぜ坊主」
 少年が抱く「海賊」のイメージそのままの男達は、たったふたりの海賊団と聞いてもけして馬鹿にしたりせず、我が意を得たりとばかりに頷いた。
 元より言葉が多い方ではないルフィも、彼らの大らかさに囲まれいたって上機嫌に会話を紡いでゆく。
 男達と闖入者の少年の間に、不思議と温かい空気が流れ始めていた。
「そういやオメェは、おれらの身体がこうやって腐ってるワケは訊かねェんだな」
「うん。だって興味ねェし」
 あっさりとそう言って、ルフィは隣の男が木片をナイフで削る手許を興味津々で眺めている。
「ま、訊かれても答えようがねェんだがな。ハハッ」
「脳ミソが耳からこぼれたときに、一緒に落っことしちまったらしい」
 がはは、とルフィに最初に話しかけた大男が、巨体を揺すって屈託なく笑ったので、ルフィもまた
「ドジだなー、おっさん」
と言って弾けるように笑った。
 そこいらの子供にしか見えない形をしながら、妙に肝の据わった少年を男達は歓迎し、代わる代わるに隠し芸を披露した。
 細部にまで凝った木彫りの竜をもってして手先の器用さを示す者、後ろ向きに放ったダーツを並べて己の名を綴ってみせる者。
 若い頃画家を目指したこともあるというある男は、試しに少年に描かせた髑髏を見て、こうすりゃもっと男前になるぜと細かい指導を始める始末。男が描いた精巧な髑髏に素直に感心しながらも、あくまで少年はおれのが格好良いんだと言い張り譲らない。
 男達の隠し芸が出尽くした後は、ルフィが「悪魔の実」の能力を見せる番だった。自在に伸び縮みする手足に男達は驚き、次いでやんやの喝采を浴びせる。息を吸い込み風船のように膨れてみせれば、豪快な笑いが沸き起こった。
 酌み交わす酒も腹に詰め込む料理もないが、持ち前の気さくさだけで彼らはたやすく打ち解けた。
 いつしかそこは、各々が知っている歌を思い思いに口ずさむ場へと変わっていく。
 海賊は歌うんだ、が信条の少年はまるで十年来の友のように男達と肩を組み。夜空に向かい、少々調子の外れた声で朗らかに吼える。
 円く輝く月だけが、その陽気な宴を見守っていた。


 幾重にも重なる圧迫の下、ゾロは強情に抵抗を続けていた。刀三本はすでに腰から毟り取られている。
 羽虫の唸りに交じって話し声か物音らしきものも聞こえるが、それに聞き耳を立てるどころではない。
 いくらか利くようになった夜目と、触れてくる冷たい腕だけがすべてだった。
 その感覚を信じるならば、彼をいま拘束しているのは、文字通り死んだように動かなかったはずの骸だった。常人の力なら何人がかりだろうと苦もなく撥ね退けられる膂力を持つゾロを床に縫い止めている。一本の腕を振り払うたびに、新たな腕が二本伸びてくるという具合で、埒があかない。
 時折、暴れるゾロの手足にぶつかって崩れた箇所から、腐敗した組織に巣食う無数の小さな生き物がぼろりと溢れる。そして頭上を飛び回る羽虫の群れ。
 ―――こいつらの仲間入りなんぞごめんだ。
 ギリ、と奥歯を噛み締めて、ゾロは対応を切り替えた。あえて徐々に身体の力を抜いていく。
 完全に脱力した全身に、わずかな隙も逃さないよう神経を行き届かせる。
 と、不意にどさりと何かがゾロの上に倒れてきた。
「!?」
 虫の羽音が接近してきたということは、おそらく他の骸よりいっそう腐敗が進んでいるのだろう。緩慢な動きでゾロにのしかかり、腐りただれた手をべっとりと絡みつかせてくる。
 息もできないほどの悪臭に身を竦ませるゾロの視界に、再びあの蒼い光が灯る。
 さっき飛びかかってきた奴かと気づいた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
 着衣ごと胸の皮膚を裂かれたのだと気づいたときには、下衣までも引き千切られ肌を晒させられていた。
 露わになった胸に、太股に、餌に群がる犬のように周囲の骸達が取りつき、我先にと齧りつく。
「ぐッ・・・!」
 容赦なく噛まれる痛みに小さく呻く。腐っていても歯はまだ残っているとみえて、瑞々しい皮膚に幾つもの歯型が刻まれた。
(食糧探しに来て―――)
 だが、食いつくのに気を取られて拘束が留守になった隙を逃さず、ゾロは溜めておいた力を解放する。
「喰われてたまるかってんだよ!」
 爆発に巻き込まれでもしたかのように、ゾロの身体に群がっていた骸達が吹き飛ばされる。
 締めつけられて痛む手足を叱咤し、ゾロはその場に身を起こした。噛まれた傷が血を滲ませてひりつく痛みを訴えるが、そんなことに構ってはいられない。
 鋭い視線が刀を求めて宙を薙いだ、その先に。
「ちッ・・・しつけェぞ」
 またも浮かびあがった蒼い輝き。蛍のように儚い光だが、これが瞬くたびに骸達が攻撃してくるとなればおよそのパターンは読めてくる。
「てめェがゾンビの親玉ってわけかよ」
 迷信の中に存在する生ける屍の呼び名を、ゾロは口にした。
 その伝承に従うならば、ゾンビとは死者が蘇って生者を襲い、その肉を貪り喰うものであるという。
「ぴったりじゃねェか。どうすりゃ死体に戻せるんだったか覚えてねェのが残念だぜ」
 のそりと起き上がった彼らが距離をじりじり詰めてくるのを肌で感じながら、姿勢を低くする。
 忍耐強く待ち、彼らが一斉に飛びかかってきた瞬間、床を蹴る。その勢いで正面の何体かに体当たりを喰らわせ、突き飛ばした。壁にぶつかったところで手をつき、壁伝いに摺り足で移動していく。
(奪った武器ってのは、たいてい―――)
 壁際に放り出しておくものだ。
 突き当たった角を曲がった途端、がしゃんと硬いものを蹴り飛ばした感触に、素早く伏せてそれを拾う。 手に馴染んだ、絹糸の柄と漆塗りの鞘の感触。
「・・・ビンゴ」
 所定の位置に収めてずらりと抜刀し、壁を背にしたまま奥を見据える。
 蒼い蛍火は、見えなかった。


 知る限りの歌を歌い尽くし、さすがにルフィも疲れて騒ぐのをやめた。
 麦藁帽子を胸に抱き、胡座をかいたままうつらうつらしている少年に、年かさの男が声をかける。
「眠いか?坊主」
「・・・・・おぅ・・・ぐー」
 ばたり。
 答えるなり眠り込んでしまった少年のために、男は船室から毛布を持ってきてやった。
「ちっと臭ェが、我慢してくれな」
 そこへ。
「兄貴!」
 階下に通じる梯子を上ってきたひとりが、小走りに駆け寄ってきた。
「おお、どこ行ってた」
「ちょっと『下』に。したら、あの坊主の連れが迷い込んじまってて」
 それを聞いて、男は眉を寄せた。
「まさか、剣士じゃねェだろうな?」
「剣士です。で、こっからが本題なんですけど」
 声を潜めて耳打ちする。
「そいつが、当たりだったんです。ほら、例の」
「海賊狩りか!」
「ええ」
「何てこった・・・」
 思わず、背後の少年を振り返る。すうすうと寝息を立てている横顔が見えた。
「どうします、兄貴?」
 浮き足立っている弟分が言わんとすることを察しつつ、あえて男は答えた。
「―――手を出すな。坊主に返してやれ」
「え!?で、でも」
「よせ。仇討ちなんぞに意味はねェ。あの人は」
 哀しげに、男は頭を振った。
「・・・あの人はもういねェんだ。いるのは死に損なった挙句に流れ者を嬲り殺す化物だけだ。わしはもう見てられねェんだよ。―――オメェだって、分かってんだろう?」
 あの人が迷ってるから、わしらも死ぬことができずにここに繋がれてるってことを。
 その言葉に、弟分がうなだれるように頷いたのを見て、男は梯子に向かう。
「わしが行ってくる。オメェらは、坊主が起きねェよう見ててくれ」
「だめですよ!もうおれらしか正気なのは残ってねェんだ。『下』の連中とじゃ話になりませんって!」
 慌てて止めるその手からランタンをもぎ取って、男は下層へと潜っていった。
 傷んだ身体では常人のように走ることは叶わない。それでも急げる限り急いで最短ルートを駆け下りる。
 最下層の一角に位置する部屋の扉が淡い光に照らし出されたとき、何かが壁にぶつかる音が響いた。続いて、やや軽い乾いた音。
 咄嗟に固まっていた男は、急いで扉を押し開けた。手にした明かりを部屋の中へ突き出す。
 そこに照らし出されたのは、翠の髪の青年と、半数以上が床に倒れ伏した仲間達の姿。
 両手に刀を持ち、三本目を口に咥えた特徴的な出で立ちに、弟分の報告が正しかったことを男は知った。
「―――――チッ」
 急に視界を覆った光に振り向いたゾロは、眩しげに瞼を引き絞って舌打ちした。
 眼前に浮かび上がった半ば予想通りの骸の群れに、新たな一体が加わるかに見えたからである。
 だが、相手の口から明晰な言葉が流れるのを聞いて彼は目を丸くした。
「皆、動くな!そこのお前さんもだ!」
 その声に打たれたように、骸達が動きを止める。
 ゾロの鋭い視線に射抜かれて、男はランタンを持ったまま両手を挙げた。
「わしはお前さんに危害を加えに来たんじゃあねェ。話を聞いてくれ」
 そう言われても容易に信じられるものではない。男を視界の端に留めながら、ゾロは油断なく得物を構え直した。
 そこでようやく思い出したように、低く問う。
「・・・甲板から、麦藁かぶった奴が乗り込んできたか?」
「ああ」
「そいつをどうした」
「船長さんなら無事だ、安心しな。運がいいぜ、最初に会ったのがわしらだったんだからな」
 騒ぎ疲れて寝ていると聞かされて、ますます疑わしげな表情になったゾロの警戒を解こうと男は必死に言い募った。
「腹を空かせてて、手足が伸ばせる絵の下手な坊主だろ?」
「絵が下手かどうかは知らねェが・・・生きてるんならまァ、いい」
 そう嘯いてゾロは刀を鞘に収めた。男に一喝され、かかしのように立ち尽くしている骸達を指さす。
「で、何なんだこの連中は。見たとこアンタも腐りかけみてェだが、こいつらとは違うのか」
「・・・話せば長いことながら、聞けば短い話さ」
 そう前置きして、男は部屋の奥へとゾロを促した。まごつく仲間達を掻き分けて、奥にゆらりと立ち尽くす影にランタンをかざす。
「これが、わしらのお頭だった人だよ」
 淡い光に照らし出されたのは一体の、首から上が失われた骸だった。腐乱の進行がひどく、肩口から腹にかけて先刻ゾロが斬りつけた跡が刻まれている。
 その胴に半ばが残された首の付け根、そこに食い込むようにして纏いつく首飾りに填め込まれた蒼い石が、光源を反射してきらめいた。
 何度もちらついた蒼い光の正体はこれだったのだ。
 長くは立っていられないのか、男は床に腰を下ろした。ひとつひとつ言葉を確かめながら、ことの経緯を語り始める。
「この首飾りは、持ち主の魂を禍から守る念を込めたっていわくつきの品でな。もちろんそんな与太話、お頭だって信じちゃいなかっただろうが、気に入りで身につけてたのが仇になったのさ」
 ここからはわしの推測だが、と断って話を続ける。
 首飾りに埋め込まれた蒼い石は、持ち主が命を落とした時、その魂を閉じ込めてしまう代物だった。その上で、抜け殻の骸を使って殺した魂をも吸い取る。首を落とされて死んだこの船の船長は、その日のうちに部下を喰らい尽くしてしまったのだ。
 男を含めた七人ほどはたまたまその場に居合わせなかったのだが、幽霊船と化した船に戻ってきたところでかつての仲間の屍に囲まれ、犠牲者となった。
「わしらは喰われるのが遅かった分、まだ正気を保ってられてるが・・・尽きるのも時間の問題だろう。だんだんと頭が鈍ってきているのが分かるからな。いずれ、こいつらと同じになる」
 黙って聞いているゾロの表情を伺いながら、石に魂を喰われたせいでひとつだけ分かってることがある、と彼は言った。
「わしらが腐っても死にきれないのは、最初に喰われたお頭が恨みを残してるからだ。『海賊狩りのゾロ』に倒された恨みを、だ」
 その言葉にゾロの表情に微妙な変化が生じる。
 男は骸が羽織ったコートの袖に明かりを近づけ、そこに縫い取られた綴りを指し示した。
「この名に覚えがあるかね?」
「ああ。鎖鎌の使い手だろ。手配額は・・・八百万」
 男は小さく頷いた。
 ゾロが自分達の船長を忘れていなかったことにささやかな満足を覚えたのか、ふと付け足す。
「この船が目を覚ましているのは日が暮れてから夜明けまでの間だ。昼間のわしらはただの死体だからな。それでもお前さん達のように、鉢合わせするのがたまにいる。ほとんどがわしらのこの形を恐れて逃げ出すんだが、その中で剣士だけはどうにかとっ捕まえて、お頭に面通しするのさ」
 わしらはお前さんの顔を知らなかったからな、と男は話を締めくくった。
 ゾロはしばし無言だったが、ややあって口を開く。
「アンタの話を信じるなら、そいつが欲しがってるのはおれの首だろう。何故そうしない?」
「お前さん、あの坊主の仲間なんだってな」
「・・・・・ああ」
「わしらの腐れた面ぁ見ても驚かねェで、腹減ったから肉よこせとか言ってよ。面白ェ坊主だと思ったんで話してみりゃ、ついこないだ海賊になったばかりだって言うじゃねェか。そんな奴の仲間は、殺せねェよ」
「仇は取らなくていいのか?」
 ふふ、と男は寂しいような嬉しいような声で含み笑いを漏らした。
「お前さんだけなら迷わずそうしてたさ」
 何しろ自分がこうなったのも、元はといえばお前さんのせいだからな、と男は苦笑してみせた。
「けどあいつにとっちゃ、これから一緒に海を渡ってく大事な仲間だろ?返してやりてェと思ったんだよ」
「・・・・・」
「さ、話はこれでおしまいだ。坊主のところに案内するから、お前さん達の船に帰りな」
「アンタはどうするんだ?」
「さてね―――石の呪いが解けるか、船ごと引っくり返って海に還れるのを待つさ。どのみち死んだ身だ」
 諦観したようにそう言って、ゾロを手招く。
「それより、お前さんの服ずたずたじゃねェか。なんか羽織った方がいいだろ・・・って、おい!」
 呼びかけを無視して首飾りをつけた骸に近づくゾロの腕を、慌てて掴む。
「喰われてェのか!さっさとここを離れるんだ」
「こいつは、首がなくてもおれの言ってることが分かるのか?」
 そうだ、と返答を得てひとつ頷き、ゾロは幽鬼のように立ち尽くす骸に語りかけた。
「おい、アンタ。もういっぺんおれと勝負しようぜ」
 蒼い光が、石の内側に浮かび上がった。意思の疎通を確認して、返答を通訳しろと男を促す。
「お頭は・・・受けて立つそうだ。しかしお前さん、本気かい」
「ああ」
「―――わしらを、哀れんどるのかね?」
「別に。借りを作るのは性に合わねェだけだ」
 素っ気なく答えて、腕を組む。
「勝負のルールはそっちで決めてくれ。なんなら全員でかかってきてもいいぜ、さっきみてェに」
 しかし男が困った顔をして黙っているので、ゾロは訝しげに眉を寄せた。
「どうした」
「・・・いや、その、なんだ」
「早くしろよ。朝になったら死体に戻っちまうんだろ。次の夜まで待たねェぞ、おれは」
 渋々、白状する。
「それが・・・その、魂の代わりに身体を寄越せ、とお頭は言ってるんだが」
「いいぜ」
 あっさりと頷いたゾロに、男は二の句を継げずに口をぱくぱくさせる。
「それで成仏するってんなら、相手してやるよ」
 不敵に笑って、ゾロは裂けた着衣を脱ぎ捨てた。腹巻ごと刀を外して、その上に放り出す。
 もはや何を言っても無駄と悟ったのか、男は黙って他の骸達を引き連れ、その場を立ち去った。
 再び闇に閉ざされた部屋に裸身を晒し、ゾロは物言わぬ骸を挑発する。
「―――さっきは寸止めで悪かったな。来いよ」
 壁を背にして片膝立ちになったゾロに、首のない骸がゆっくりと覆いかぶさった。青年が埃じみたコートの襟を掴んで、するりと引き剥がす。
 噛み傷だらけの肌を溶け崩れた指が辿り、徐々に下肢へと下りてゆく。
 他人と肌を合わせる行為にそれなりの場数を踏んでいるゾロだが、死体相手というのはさすがに初めてである。体温が失われた手にじかに触れられる感覚は、お世辞にも気持ちが良いとは言い難い。
「んッ・・・焦んなって」
 しかし冷たい愛撫にもいつしか慣れ、性急な動きを揶揄する余裕が生まれてくる。相手の下衣を手探りで寛げ、存外形を留めている男の象徴を取り出した。
 ゾロは自分のペニスと男のそれを掌にかいこむと、擦り合わせて快楽を導き始める。ぐにゃりと力なかった塊が、徐々に硬度を増してくるのが分かって、口の端を吊り上げる。
「使いモンになるじゃねェか。驚いたぜ」
 先走りを零し始めた自身が熱く脈打って、剥き出しの肌がうっすらと汗ばんでくる。胸の突起をしつこく弄ぶ動きに掠れた喘ぎを洩らしていると、肩をぐいと掴まれた。そこに寄りかかるようにして骸が立ち上がり、半勃ちのモノをゾロの顔に押しつける。
 臭気を放つそれを口に含むと、舌を刺す刺激に思わず吐き出しそうになる。が、ゾロは嘔吐感に耐えながらそれに舌を這わせ、完全に仰向くまで粘膜に包んで転がしつづけた。
「・・・・・ぷはっ」
 口を解放されると、今度は膝を押し広げられて奥まった蕾に触れられる。女のように濡れないそこを抉じ開けようとする動きを制し、ゾロは自身の先端から溢れる滴を指に絡めて奥処になすりつけた。
「・・・ふっ・・・ん」
 最初は小指から。互いに硬く頭を擡げたモノを握り合って牽制をかけつつ、少しずつ指を増やしていく。
 三本の指を飲み込むようになったそこを、自らの手で見せつけるように広げてみせる。張り詰めた怒張が狭間にひたりと押し当てられた。
「―――――ッ!!」
 躊躇いなくずぶりとめり込んだモノの冷たさに、全身がぞくぞくと粟立った。腕を回すべき首のない相手に、仕方なく肩を抱き締めるようにして縋りつく。
 氷のような塊に熱い肉を掻き回される感触は、それだけでは快楽に変わるものではなかったが、著しい体温差は違和感からやがて奇妙な興奮へとすり替わる。
 肉の削げた身体に脚を絡ませてあられもない嬌声をあげながら、ゾロはどこか醒めた頭の隅でこれも一種の屍姦だろうかと埒もないことを思った。
 冷たい掌に嬲られびくびくと跳ねるゾロ自身は透明な涙をとめどなく垂れ流し、解放を待ち望んでいた。そこへ過敏になった先端に爪をこじ入れられて、急激に限界が押し寄せる。
「うぁッ・・・・・ああ!」
 全身を痙攣させて、ゾロは先端から白濁を吹き上げた。収斂した後孔が雄のモノをきつく締めつけるが、解放は訪れない。
 荒れた呼吸を整えるのを待たず、再び腰を打ちつけられて呻く。呼吸を合わせられないセックスは受け身にとって負担が大きい。
(ちったァ楽させやがれ)
 絡ませていた手足を解き、背後の壁を押しやる。そうして体重を前に移動し、雄のものに貫かれたまま相手を床に押し倒す。
「ンながっつかねェでも、じっくり相手してやるよ」
 仰向けになった骸に跨る形になり、ゾロは自身を慰めながら淫らに腰を振り始めた。
 そうして主導権を奪い奪われながら、ふたつの身体は獣のように互いを貪り合った。


 ルフィがふ、と目を覚ますと、甲板はさっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 体を包む温かさに、自分が毛布をかぶっているのに気づいて鼻を擦り寄せる。
「あはは、おっさん達のにおいがする」
 すっかり慣れてしまってあまり感じなくなった腐臭を嗅ぎ取り、少年は笑った。
「・・・ん?」
 誰もいない周囲に今更気づいたように、きょとんと辺りを見回す。
「みんなどこ行ったんだ?便所か?」
 帽子を頭に載せ、毛布を抱えて立ち上がる。
「おーい、おっさん達どこだー?」
「ここだここだ」
 声のする方を振り返ると、彼らが甲板の隅にある開き戸から出てくる所だった。
 小走りに駆け寄って、ルフィは毛布を突き出す。
「これ、返す。ありがとう」
「お、おう。・・・よく眠れたかい」
「うん。あー、腹減ったー」
 もう何十回目かの台詞を吐き出して、ルフィは空を仰いで腹をさすった。
「日が昇るまでにはまだ時間があるな。・・・どうだ坊主、見張り台に立ってみるか?」
「いいのか!?」
「ああ。好きなだけ海を見たらいい」
 その提案に少年は喜んで乗った。船首もそうだが、彼は高さがあって見晴らしのいい場所が好きだった。
 先頭のマストに猿のように身軽に登っていき、見張り台に潜り込む。
 視界いっぱいに雲ひとつない夜空と月を抱いた海とがどこまでも広がり、真下には船の甲板が見える。見上げたとき以上にそこは高く感じられ、彼をいたく満足させた。
 目覚めたばかりでまだ少し熱の籠もる身体に、潮風が心地良い。 
「―――――ゾロ」
 先日仲間に引き入れたばかりの男の名を、この夜初めて口にする。
「ゾロもここに来たら、このすっげェ眺め見られるのになあ」
 思いついたら即断即決の男である。手摺からひょいと身を乗り出して、舳先に繋がれているはずの小船を探した。
「・・・・・あれ?」
 彼らが乗ってきた船は確かにそこにあったが、その中に人影は見えない。船で寝ているだろうという予測は外れた。
「ゾロもこっちに来たんかな?」
 だが、ずっと甲板にいたルフィと男達の前には姿を現していない。
 考えるのが苦手な少年は、よし!とひとり頷いた。
「おっさん達に聞いてみよう」
 梯子を使わず、そのまま飛び降りようと手摺を乗り越えたそのとき。ベストの裾が木目のささくれに引っかかり、ルフィは空中でバランスを崩した。
 そのまま頭から落下する。
「うわっ、わわわっ!?」
 咄嗟に伸ばした腕は手がかりを掴み損ねた。
 危ねェ、という短い叫びが交差する。
 ルフィの身体は甲板に叩きつけられ、もんどりうって梯子の穴から転げ落ちる。
「おい、坊主!」
「大丈夫か!?」
 慌てて駆け寄る男達に、穴の中から元気な声が返ってきた。
「平気だ。おれゴムだから痛くね・・・おわっ!?」
 ばきっ、ごしゃっ。
 さらに深部まで落ちたらしい気配に、年かさの男は血の気のない顔をさらに青ざめさせた。
「・・・・・まずい」
 歩いて下りるならば遠回りだが、ここの最下層にはまだあの二人が残っているのだ。あれから半刻以上が経過しているが、まだ取り込み中のおそれもある。
 全裸の仲間が首無し死体と絡み合っている場面などに遭遇させるのは忍びなくて、その前に何とか少年を連れ戻そうと、男は自らも梯子を降りた。中層の床を穿った穴に明かりを降ろし、中を覗き込む。
 麦藁帽子が見えた。
 頭上から降ってわいた光に、つられて天井を見上げた少年に呼びかけようとして彼は狼狽した。その背後には、ゾロが立っていたのである。
 男の表情の変化を訝しみ、後ろを振り向いた少年の顔が喜色に染まる。
「ゾロ!」
 再会はごくあっさりしたものだった。
「なんだ、お前も来てたんだな」
「ああ」
「また迷ったんか?」
「そんなとこだ」
 ゾロのシャツとボトムは正面が縦に裂けており、それをかろうじて腹巻で押さえつけているような有様である。噛み傷や引っ掻き傷の残る肌が、破れ目から覗いていた。
 それについては特に何も言わず、少年は頭上の男を振り仰いであっけらかんと告げた。
「おっさん、こいつがおれの仲間のゾロだ」
「よろしく」
 しれっとそう言ってくるゾロに曖昧に会釈して、男はランタンを手に慎重に穴から飛び降りる。
 ふたりを扉へと先導しながら、さりげなく部屋をぐるりと照らした。見慣れたコートをかぶせられた塊を壁際に見出し、男はことの次第をゾロに確かめたい気持ちをぐっと堪える。
 甲板に戻った三人を、歓呼の声が出迎えた。
「お!」
「坊主、無事だったか―――」
 男達が見せた安堵の表情が、その背後から姿を現した青年を認めた途端、緊張を帯びたものに変わる。
 それを少年に気づかれる前に、年かさの男は素早く仲間達に目配せした。
 もっともらしく、客人を紹介する。
「こちら、坊主のお仲間だそうだ。船首の下から入り込んだはいいが、今までずっと迷ってたんだと」
 その言葉を受けて、ゾロもしおらしく頭を下げる。
「勝手に立ち入って、すまなかった。それと、うちの『船長』が世話をかけた」
 いやいや、と男達は気前良く笑ってみせた。
「いいってことよ、気にすんな」
「それより、怪我がなくて何よりだったぜ」
 和やかにまとまった場の話題は、そのままふたりの出立の準備に移る。
 何とかその場を誤魔化せたことに安堵した男がゾロに着替えを出そうかと申し出たが、自分で繕うから別にいい、という素っ気ない答え。そうしてゾロは適当に話題を流しながら連れに声を聞かれないところまでさりげなく男を伴って離れ、結果を簡潔に告げた。
「気ィ済んだ、ってよ」
 はっとする男に、ニヤリと笑んでみせる。
「これでゆっくり寝られるだろ、アンタ達も」
 その言葉の意味するところを悟り、男は深くゾロに頭を下げた。
 じきに、夜が明けようとしていた。


「どうも、お世話にナリマシタ」
 ルフィは直接、ゾロはロープを伝って小船に戻り、舳先に顔を並べて見送ってくれた男達に揃ってお辞儀をした。しっかりと帆を張り、オールを握る。
「おっさん達、ありがとう!またな!」
 笑顔と共に投げられた少年の言葉に、彼らの表情に一抹の寂しさが加わる。
 また、という日が彼らに訪れることはもうない。
 だがそれを、わざわざ告げる必要はなかった。
「ああ、お前さんがたも達者でな」
「オメェら、早いとこ航海士を仲間にしろよ〜」
「海賊王になる前に海に落ちんなよ、坊主!」
 口々に叫んで、別れがたい出会いを惜しむ。
 ふたつの船を繋いだロープがぷつりと断ち切られ、小船と帆船は進む方角を分かつ。
 一晩だけの友人同士と、過去の因縁はそうして彼等の前から永久に去った。


 ブリッグ船が水平線の向こうに消えても、ルフィはずっとその方角を見つめていた。彼が黙っているのでゾロもまた何を言うでもなく、破れた服をぞんざいな手つきで繕っている。
 別れ際の話し振りからしてずいぶんと気が合っていたようだから、それなりに思うところもあるのだろうと、ゾロは船長を放っておいた。
 服と手傷の応急処置を終え、やっと眠れるとばかりに仰向けに横たわったゾロの真上、空は白く蒼く澄み渡り、やがて訪れる光を待ち望んでいる。
 ふと、今頃彼らも眠りについただろうかと思った。
 ゾロがひとりの男を斬ったことに端を発し、船ごと失われた数多の未来。それは巡り巡って、報復という道を選ばずに終わりを迎えた。
 許されたとは、思わない。
 この夜の出来事はただ事実としてのみゾロの中に残り、彼が命を落とすまでそこに在り続ける。それだけのことだ。
 ―――しかして。
「腹、減った」
 背を向けたまま、ルフィがぼそりと呟いた。
「お前は、それしかねェのか」
「ゆうべ、たくさんしゃべったからかな。昨日の十倍くらい腹減ってる気がする・・・」
「―――喰うか?靴」
「喰いてェ!!」
 がばっと振り向いた顔に刻まれた本気の色に、べ、と舌を出して答える。
「まだ三日だ、そのくれェで死ぬかよ。水でも飲んで我慢してろ」
「何だよ、ケチ!」
 ブーイングを無視して、ゾロは瞼を閉ざした。
 が、思い出したように船長の目を見て、きっぱりと告げる。
「勝手に靴に噛みついたら、蹴り落とすからな」
 万一食糧にするとしてもそのまま口にするものではないが、こいつならやりかねないと釘を刺しておく。
「う〜〜〜。分かった」
 不承不承頷いたのを確認して、今度こそ完全に視界を閉ざす。
 そうしてすぐに寝入ってしまったゾロの隣に、ほどなくルフィも並んで横たわり、寝息を立て始めた。
 ふたりの朝寝坊を乗せ、船は明け初める空を映した海をゆらゆらと漂っていった。