『spawning season』




 気づけば、朽ち葉の香りのわだかまる泥濘に膝上まで填まり込んでいた。


 癖の強い仲間達をことごとく手玉に取ってみせた年上の女の忠告を、ことさら無視したわけではない。おかしな鳴き声の鳥を探すために三つの班に分かれる際、彼女と組むことをそれとなく持ち出したのは、拭えない不信から出た行動であったにしろ。
 ただ、一分の隙さえも見せないその背を睨みつけて歩いていたら、足下への警戒が留守になっていただけのことで。
 それはそれとして、ゾロはまず現況を打破する必要に迫られていた。
 幸いさほど深くないぬかるみだが、このまま手をつかねて彼女―――ロビンとはぐれるに任せていたら、帰り道すら危うくなる。
 刀を汚さぬように用心しながら、彼は手の届く位置に生えていた低木に向かって身体を倒した。それにしがみつくようにして、名残惜しがる泥濘から脱出を果たす。
「・・・・・チッ」
 不快に粘りつくボトムと履き心地の悪くなったブーツに、舌打ちしながら周囲を見回すと。
 黒髪の美女の姿は、彼の視界から消え失せていた。
 雑木を踏み分ける音も聞こえず、足跡さえ残っていない。 嫌な歩き方をする女だと、ますます彼女への評価を辛くしたゾロだったが、こうなった以上焦っても仕方がない。
 ひとまずは当てずっぽうに歩を進めることにする。
 運良く川にでも行き当たったらそこで洗えばいい、そう考えて彼は再び歩き出した。


 行けども行けども、似たような夜の密林が広がるばかりだったが、濃い木陰の空気のうちにかすかな湿り気を嗅ぎ取って、ゾロは歩く速度を上げた。
 乾いた泥が、ボトムからパラパラと舞い落ちる。
 鬱蒼とした木々の途切れた先に、大型船の甲板ほどの大きさの泉が湧いているのを見つけて、彼はふ、と笑んだ。
 泉のほとりに集まった蝶の群れが、闖入者に驚いて逃げ散った後にざくざくと踏み込む。幹の周囲が大人十数人分はありそうな大樹が深い影を落とす泉は静かで、水は深く澄んで月を映し出していた。
 周囲の気配を探っても害意めいたものは感じられず、ここで用を済ませることにする。
 腹巻ごと腰に刷いていた三本の刀を外し、手にしていた網ごと水べりにそびえる大樹の幹に立てかける。
 汚れたボトムとブーツをまとめて脱いでしまうと、こびりついた泥や苔をこそぎ落として、きつく絞る。愛刀を預けた大樹の枝にボトムを広げて干し、ブーツをその隣に並べて、ゾロは泉にざぶざぶと分け入った。
 腰が浸かって潮風と埃にごわついた髪や顔に水を浴びせ、彼はつかの間の休息を楽しんだ。
 そうして冷たい水に身を晒していると、ふと泳ぎたくなってくる。
 しかし、今は急ぎの用がある。長居してはいられなかった。
 せめて洗濯物が気持ちだけでも乾くまでこうしていようかと、ゾロが泉の中心へ歩み出そうとしたとき。
 突然、先だってぬかるみに足止めされたときのように下肢の自由を奪われた。つんのめった体勢で何とか転倒は免れたが、不快な感触が彼の足を水底に縫い止めている。
 水面越しに目を凝らすと、蛇のようなモノが右足首に絡みついているのが見えた。白と黒のまだら模様のそれは、蔦というよりは無脊椎動物の触手のように思える。
 足を引き抜こうとすると、引いたほど伸びるだけで離れようとしない。仕方なく、右足を持ち上げて足首に手をかける。
 ゾロは踝を戒めるぬるりとした触手を掴んで、外そうと試みた。爪先に向けて靴を脱ぐように引き剥がすと、思いの外簡単にそれは外れた。
 そう思えたが。
 指先にチクリとした痛みを感じ、はっとして払い除けたときには鋭い痺れが肩まで貫いていた。
 電流が走ったような痛みにジンジンする肘を庇った隙を突くようにして、剥がした触手と同じようなモノが大量に、彼めがけて水中から湧き出してきた。
「!?」
 咄嗟に右腰に回った両手は空しく宙を掴み、何より腰まで水に浸かった状態ではろくな動きもできず、あっけなくゾロは触手の群れに捕らえられた。
「くっ―――」
 力任せに抵抗しても、自在に伸縮し、たわんで力を吸収してしまう触手達の前には無駄な足掻きでしかなく。
「・・・あ・・・?」
 それでも暴れるのをやめないゾロの動きが、徐々に鈍っていく。刺された左腕の自由が効かなくなったのだ。
 感覚を失った効き腕に、初めてゾロの表情に焦りが浮かぶ。
 未知の毒や細菌で身体を損ねることは、傷を負う以上に警戒せねばならない。
 軽率だったと唇を噛んでも、すべては遅かった。
 不自由が、左腕から発してひたひたと全身を覆い始める。 残る右腕と両足で試みられた最後の抵抗も、封じ込められて―――ゾロの身体は自らを支える力を失い、たゆたう水に委ねられた。
 水面に倒れ込んだ際に水を飲んでしまい、辛うじて水面から頭を出したゾロは激しく咳き込む。
「がはっ!・・・ゴホッ、ごほっ」
 苦しむゾロを触手達は水中に引きずり込むでもなく、むしろその水より比重の重い身体を水面に浮かぶように支えすらして妖しげに蠢き始めた。
 せめて溺れ死なないために、ゾロは残る力を振り絞って顔を仰向かせ、気道を確保しようとした。肺に水が入れば一巻の終わりだ。
 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すゾロの肌を、触手達は緩くきつく拘束して何かを探すように這い回る。冷水に晒された剥き出しの下半身をぬめりを帯びた触手にまさぐられる感触は、彼の生理的嫌悪を逆撫でした。ぞっと皮膚の張り詰める感覚すらも、徐々に霞みがかってくる。
 朦朧とする意識を叱咤しながら、ゾロは自分の意志で抵抗するのをやめた。少しでも毒の回りを遅くし、体力を温存しておくために。
 このまま大人しく餌食になるつもりなどないが、今は暴れるだけ無駄だった。
 ゾロが無抵抗になるのを合図にしたように、バラバラに動いていた触手達がそこではじめて統率された動きを見せた。
 幾重もの触手に覆われたゾロの身体が、水面を滑るようにある場所へと引き寄せられていく。そこは、彼が愛刀達を預けた大樹の水べりから隠れた側に口を開けている、巨大で虚ろな洞だった。
 その内部に、闇色の何かが巨きすぎる図体を押し込めるようにして息を潜めていた。獲物を捕えた触手はすべて、その体躯から伸びている。
 ゾロの視界の端に、蛾の幼虫を醜く太らせて何百倍にも巨大化させたような生き物が映った。鞣し革のような黒光りする体表に、毒々しいオレンジ色の斑点が散っている。
 昆虫嫌いの人間が目にすれば卒倒しかねない、その醜悪な造形には見覚えがあった。
 大きさこそ違ったものの、よく似た生き物が道すがら襲いかかってきたので迷わず返り討ちにしたのだ。思いの外硬い表皮に、少々てこずったのを覚えている。
 断末魔に飛沫いたその生き物の体液をゾロだけが浴びてしまっていたが、さして気に留めていなかった。
 泉の水を浴びたとき、溶け出した体液が同類を呼び寄せてしまったのだろうか。
 そんなことを考えている間に、ゾロは触手の本体に相対していた。
 最初に捕らえられた右足、次いで左足が触手の後退に従って引っ張り上げられ、彼を宙吊りにする。本体の頭部らしき位置からやや下が、顎を開くように大きな亀裂を生じた。
 やはり喰う気か、とゾロの心身に緊張が走る。
 しかし、その中から現れたのは牙ではなく、黒光りする突起物だった。歪に節くれだち、見るからに友好的ではない。
 警戒を緩めないゾロの視線など知らぬげに、その突起物は他の触手を一回り太くしたような胴体を従えて亀裂の内からずるずると這い出してくる。それに合わせて、再び触手の群れが彼の身体をまさぐり始めた。
 獲物を絡め取った際には単なる捕縛の用しかなしていなかったそれらはうっすらと熱を持ち、冷え切ったゾロの身体にかりそめの温もりを与える。
 冷水に体温を奪われた肉体が熱を取り戻すとともに、ゾロの裡で面妖な感覚が頭を擡げ始めた。
 こごえた身体には不快でしかなかった触手の動きが、人肌に近い熱を孕んで内股や脇腹をくすぐり、官能の端に時折触れる。
 引き締まった胸の上、ふたつの乳首はピンと尖ってシャツの布地を押し上げ、うなだれていたゾロの分身は半端な刺激をもどかしげに享受してゆるりと勃ちあがろうとしていた。
 致し方ない男の生理とはいえ、節操のない己の肉体に苛立ちを覚えつつ、ゾロは現状から脱出の途を探るべく四肢に力をこめた。
 毒が薄れてきたのか、彼の手足は緩慢になら動くものの、拘束を引きちぎるにはまだ程遠い。自由に動けるようになるまでの時間を稼ぐ必要があった。
 しかし、うかうかしているとそれこそ喰われてしまうかもしれない。
「―――痛っ!」
 逡巡していたゾロは、突然の痛みに目を見開いた。
 下肢の奥まで達していた黒い突起物に、開かされた双丘の狭間を突かれたのだ。
 本来は受け容れるための器官ではなく、何ら施しのされていない箇所は、頑なに異物を拒んだ。
 異形の生物に侵入される危険から身を守るべく、ゾロは強引な開脚を強いられている膝を引き寄せようと試みた。だが左右双方から吊られているために彼自身の体重が仇になり、どうしても脚を閉じることができない。
 ゾロは、人間から受ける攻撃ならば肉体へのダメージをやり過ごし、受け流す術を心得ている。現に、昼間のジャヤで遭遇した海賊達からの幼稚なリンチは彼に軽い打撲と擦過傷しか負わせることができなかった。
 しかし、人間外となれば話は異なる。野犬や海王類ならば対処のしようもあるが、こんな得体の知れない生き物、それも力任せに脱出できない相手となると、打てる手は少ない。
 募る焦りが濡れて張り付いたシャツの下に、嫌な汗をかかせた。
 強情に受け容れを拒むゾロの下肢を前にして、黒い突起は諦めたように其処から離れていく。だがほっと息をついたのもつかの間、ほとんど無防備だった彼の顔、その眼前に危険は迫っていた。
「んぐっ・・・!」
 咄嗟に噛み締めるより早く、口内へと容赦なく突起が侵入を開始した。
 巨大な塊に微塵の仮借なく踏み込まれて、反射的に嘔吐きそうになったゾロの目尻に涙が滲んだ。歯を立てようにも、すでに奥まで入り込まれ過ぎていてそれも適わない。
 口蓋に阻まれてなお奥へと進もうとする突起に呼吸を絶たれて思わず彼の両手は咽喉を掻き毟ろうとしたが、まとわりつく触手の束に阻まれてしまう。
 ぐ、と咽喉が鳴り。ゾロは堪え切れず嘔吐した。
 逆流する胃液とアルコールの混ざった液体に押し戻された突起は、慌てたようにゾロの口から退く。
 口の端から溢れて頬を流れ落ちていく刺激臭にさらなる吐き気を誘発され、ゾロは何度も上半身を痙攣させて嘔吐いた。
 退避した親玉を追うようにばらけた触手がやや力を失い、落下しかけたゾロの身体は臍のあたりまで水中に没した。
 あわや溺死かというところで、再び下肢に取り縋った触手達に引きずり上げられる。吐いたものは水に落ちた衝撃で流されてしまったが、代わりに水を吸ってしまい、鼻の奥が不快に痛む。咳き込みながら、涙が滲んだ。
 漸く息を落ち着けると、間断なく続く責めの中でも絶えず隙を窺っていたゾロの瞳に反抗の光が点った。自由になった両手の拳を固め、目の前の巨体に力の限り叩きつける。
 弱らされているとはいえ、人の身で魔獣と呼ばれた男の渾身の一撃である。金属の軋むような咆哮を轟かせ、異形の生命体は巨躯をのたうたせた。
 が、ゾロの反撃もそこまでだった。
 生意気な獲物を取り囲んだ触手達が、動きを封じるだけの拘束とは比べものにならない強さで彼の全身を絞る。四肢ばかりか首までもギリギリと締め上げられて、ゾロは悲鳴すら上げられず触手の繭の中で苦悶した。
 意識の途絶える寸前まで追い詰められた身体は、忍び寄る新たな危険を察知できない。
 ゾロの両足の狭間では、触手同士が縄をなうように撚り合わされ、一条の切っ先を成していた。
 その先端が、かたく扉を閉ざす奥処にするりとにじり寄った。まとった粘液を馴染ませるように入り口へとなすりつけて、やわやわと撫でる。
 わずかに緩んだ四肢への締めつけにゾロの身体が弛緩したその瞬間、生きた刀が一瞬にして内部への侵入を果たした。
「ひぅッ・・・!?」
 突破口を開いた先頭に続くようにして、何本もの触手が我先にとゾロの体内へ潜り込んだ。
「!あ、あ、アァ―――――っ!!」
 あられもない声をあげた唇を別の触手が次々に塞ぎにかかる。四肢を拘束する触手の群れも、入り込む場所を探すようにうねうねと蠢き出した。
 ろくに慣らされていない場所に捻じ込まれた異物はゾロにひどい苦痛を与え、次いで強引な快楽に落とし込む。
 それは彼を知る者ならば、目にしたとしても信じたくない光景だっただろう。
 張り裂けそうに広げられた奥を、聞くに堪えない生々しい音とともに醜悪な触手が出入りしている。異形の存在に犯される肉体は張り詰めた強靭さを失って、侵略者のなすがままに掻き乱されていた。
 前立腺も何もかもおかまいなしに内部を暴れ回る無慈悲な暴力には、いかにゾロだとてなす術はない。
 感じる場所を抉られるつど放たれる悲鳴も口腔を塞ぐ触手の束の前に塞き止められ、ごぼごぼと咽喉を鳴らすばかりで。
 強すぎる刺激に煽られて、ゾロ自身は腹につくほど反り返って苦しげに震えていたが、根元をきつく戒められているせいで精を吐き出すことができない。解放されない欲望は、己を苛む拷問でしかなかった。行き場を失くした熱が神経を焼き焦がし、ゾロの正気を削り取っていく。
 捕食者に屈した餌が生きながらにして腸を貪り喰われるように、己がただの肉塊になってしまったかのような錯覚。
 人ならぬ者の苛烈な責めはいつ果てるともなく続いた。


 気の遠くなるほど長い陵辱の果て、びくびくと跳ねる身体の悲壮な反応さえも途絶えた頃、ゾロは漸く解放された。
 やっと墜情を許された欲望から放たれた白濁が、自らの顔と身体に滴り落ちる。楽になった呼吸に、縋りつくようにしてゾロは忙しなく息を吸い込んだ。
 咽喉は間断なく上げさせられた喘ぎに掠れ、焦らされ続けた下腹は精を吐き出してもまだ鈍く重い。
「かはっ、はっ、はっ・・・はぁっ・・・」
 ゾロを縛った触手の群れは徐々に縮んで、彼の身体を本体の腹にある触手の根元に絡め取った。
 手足を縛る戒めはそのままだが、ずっと無理な体勢を強いられつづけていたために、体重を預ける余裕ができたことでその顔には若干の生色が戻ってきていた。
 触手達のまとう粘液、そして自身の涙と体液にまみれてはいたが、それでもまだ彼の眼には強靭な意思が宿っていた。
 強がることも、哀願することも無意味な敵を前にしてなお魂だけは屈していないことを示すように。
 だが、その最後の尊厳さえも、生物の本能の前に容赦なく踏み砕かれる。
「!?―――ぐ、ア、あぁぁああ!!」
 生きながら裂かれるような、痛みには強いはずのゾロでさえ耐えうる限度を超えた激痛が彼を襲った。
 黒光りする突起が、退いた触手達の代わりに彼の内部へと押し入ってきたのだ。
 嬲り尽くされた蕾はもはや異物を拒み切れず、従順に最奥への侵入を許す。
「アァ―――――――ッッッ!!」
 血を吐くような悲鳴が迸る。縋るもののない手が、触手の群れを掻き分けて表皮に爪を立てた。
 許容を超えるモノを捻じ込まれて、すでに散々傷めつけられ充血していた奥処は亀裂を生じて血を流す。
 初めて後孔を男のものに破瓜されたときですら、これほど凄惨な思いはしなかったはずだ。しかも今、彼を犯している異物は並みの男性器をはるかに凌ぐ太さに加えて、凶悪なまでの長さを持っている。それは徐々にだが奥へ侵入していきゾロの苦痛をじわじわと引き上げていった。
 体内深くまで串刺しにされた場所から、急速に身体の裡が冷えていく。ひどい悪寒に、ふつふつと脂汗が滲んだ。
 内臓を貫いているモノが熱く滾って脈打つのとは裏腹に、ゾロの手足は末端から熱を失いつつあった。
 視界が狭まり、黒い紗がかかっていく。意識を失おうとしている己に気づいて、ゾロは切れるほどに唇を噛み締めた。 弱々しく頭を振って、何とか正気を留めようとする。
 身じろぎするたび、腹腔をいっぱいに満たした異物がもたらす圧迫感に身体が軋むが、苦痛を感じていられるうちはまだ生きているのだ。
 何より、こんなところでこんな奴相手にむざむざ殺されるわけにはいかない。
 突破口を求めてさまようゾロの掌が、たまたま触れた違和感にその物体を咄嗟に掴み締めた。
 それは、彼を貫く醜悪な突起のだらりと長く伸びた胴の部分だった。
 ゾロは知る由もないことだが、この器官はこの生物の他ならぬ交接器だった。雌雄同体の彼らは本来ならば他の同族の誘引物質を感知して相手を見つけ出し、互いの精子と卵子を交換して生殖するのだが、発達した嗅覚と引き換えに視覚が退化してしまっていた。ゆえに体液を浴びたゾロを餌でなく同族と認識して、執拗に交尾を迫っていたのである。
 腹を犯している肉塊に繋がるそれを眼前まで手繰り寄せると、あろうことかゾロはその胴にしたたかに噛みついた。
 太刀を咥えて自在に操る強靭な顎にかかってはひとたまりもなく、それは胴の半ばから両断された。
 耳を劈く轟音を発して、巨体が激しく痙攣する。同時に、ゾロの体内に大量の熱い塊が吐き出された。
「っ!?」
 どくどくと内側を濡らす熱をすべて注ぎ込んでしまうと、あれほどゾロを苦しめた巨大な突起は見る影もなく萎んで動かなくなった。
 戒める力を失った触手達から、半ば転げ落ちるようにしてゾロは自由を取り戻した。萎えたモノが体内からずるりと抜け出ていく感触に、小さく肩が震える。
 彼は節々の痛む身体を起こし、つい先刻までの侵略者へと向き直った。
 月明かりの下、まじまじと見れば頭だと思えた箇所は尾部であったことが察せられる。本物の頭部は口らしき場所から泡のようなものを吐いて、どうやら絶命しているらしかった。
 危機を脱したらしいことに、ひとまずは安堵する。
 巨大な生物の墓標となった洞から水の中へと降り立つ。
 ゾロはふらつきながらも泉を横切り、最初に足を踏み入れた水辺まで戻った。
 這いずるようにして愛刀のもとまで辿り着き、その傍に仰向けに横たわる。
 腹の奥の不快な凝りは気になったが、今は少しでも眠って体力を取り戻したかった。
 泥のような眠りへと垂直に落下しようとしていた、まさにそのとき。
「ゾロ!」
 耳に馴染んだ声が、ゾロの意識を引き戻した。
「なんでこんなとこで寝てるんだ?」
「あ、ゾロだ。寝てるのか?」
 連れのトナカイの船医の声も聞こえる。
 当初の目的を忘れ、すっかり虫捕りに夢中になっていた彼らは、森の静寂を引き裂く凄まじい断末魔の咆哮を耳にしてルフィは興味津々、チョッパーはおっかなびっくりここまでやって来たのである。
 動こうとしないゾロの傍まで歩いてきたふたりは、同時に声を上げた。
「―――――あ」
 ゾロの内腿を汚す血の流れと両手足に残る無数の鬱血が、彼の遭遇した災難の一端を示していた。
「どっ、どどどどうしたんだゾロー!?」
 パニックに陥ったのは船医のほうで、船長はそっとゾロの傍に跪き、その身体を抱き起こして耳許に囁いた。
「動けるか?」
「・・・どうにかな」
「何があったか知らねェけど、手当てしたもらったほうがいいと思うぞ」
「医者ぁ―――――!!」
 当の医者がいつものように慌てているのを尻目に、ゾロは応えた。
「寝ててもいいんなら、そうしてくれ」


 気絶するように眠りに落ちたゾロの身体を、ルフィはそっと地面に横たえた。
「チョッパー。医者は、お前だろ」
 静かなその言葉に、ずっとそこいらを走り回っていたチョッパーはハッと我に返り、慌ててゾロの傍に駆け寄る。
 小さな船医はゾロの負った傷を手早く診て、ルフィとふたりでその身体を隅々まで洗い清めた。
 次いで、背中のリュックから取り出した脱脂綿や消毒薬で手際よく手当てを施していく。
 手ひどく陵辱を受けた箇所を細心の注意を払って探っていたチョッパーは、ふとその動きを止めた。一瞬、人型を取ったかと思うとすぐに人獣型に戻る。
 彼は傍らでじっと治療を見守る船長に、真剣な目をして言った。
「ルフィ、すまないけどここに指を入れてみてくれる?おれの指じゃ短すぎるんだ」
 唐突な依頼にルフィはきょとんと目を丸くしたが、心得たとばかりにゾロの奥処にそっと指を触れさせた。
「・・・あれ?」
 内部に残る粘液のぬめりを借りて根元まで入り込んだ指先に、何か軟らかいものが触れる。
「なんか変なもんに当たったぞ。ゼリー、みたいな」
 よく知っているはずの身体の内の慣れない感触に、ルフィは表情に疑問符を浮かべた。チョッパーが問う。
「破れないように取り出せる?」
「ん、やってみる」
 そっと指を抜き、ゆっくりと二本揃えてゾロの内に埋めていく。
「・・・・・ぅ」
 傷を広げられて、かすかにゾロが呻いた。
 軟らかい物体を包む膜を指先でつまむようにして、ルフィは慎重にゾロの中からそれを取り出した。
 出てきたのは、粘液と薄い膜に包まれた半透明の塊だった。鈴なりに幾つも連なってゾロの中から姿を現す。
 ルフィは訝しげに首を捻った。
「何だ?これ」
「分かんない・・・けど、全部出してしまったほうがいいと思う」
「たぶんこれで全部だろ。ほら、くっついてっしよこれ」
 ルフィは塊に鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅いだ。
「喰えるかな?」
「・・・食べちゃダメ」
 げんなりと返答しながら、チョッパーはゾロの中に残っていた粘液をきれいに拭った。
 刺激しないように消毒してから、干してあった腹巻とボトム、それにブーツを穿かせてやる。
「終わったよ」
「おう、ご苦労さん」
 眠るゾロを起こそうとしたチョッパーを制して、ルフィがゾロを抱えてその身体をひょいと背負った。
 そのまま元来た道へと歩いていく。
「そんじゃ、みんなを探しに行こうぜ」
「うん!」
 治療器具を仕舞いこんだリュックを背負って三本の刀と網を手にし、チョッパーは船長の後を追った。


 目が覚めたら、ルフィの髪の匂いがした。
 それ自体はたまに遭遇するシチュエーションではあるが、規則的に揺れる身体が「おんぶされてます」な状態をゾロに伝えて彼を慌てさせた。
「うわっ!?」
 唐突にゾロが背中で暴れだしたので、彼を背負っていたルフィはもんどりうって転倒した。背後のチョッパーはあえなく彼らの下敷きにされ、ふたりと一匹はもみくちゃになって地面に転がる。
「なんだよゾロ〜。降りたかったんなら口で言えよ」
 びっくりするだろ、とルフィはジーンズの土埃を払って立ち上がった。いつものように、笑っている。
 ゾロも同じ動作をして姿勢を立て直したが、こちらは憮然としか形容しようのない表情である。ルフィの背中と接してうっすらと汗ばんでいた胸の下では、まだ心臓が少し早い脈拍を刻んでいた。
 起き上がれなくてもがいているチョッパーに手を貸してやって、ゾロは地面に落ちた自分の刀を拾い上げた。そのまま定位置に納める。
 腰に馴染む感触に、漸く人心地ついたように大きく息を吐き出した。
「・・・自分で歩ける」
 そう呟く低音に、ルフィはあっけらかんと応えた。
「だってゾロ、寝たかったみたいだから。起こさないほうがいいかと思ってさ」
「・・・・・」
 咄嗟に反論できなくて、ゾロは口を噤んだ。
 別に恥ずかしいとか、嫌だったとかそういうわけではなくて、ただ単にびっくりしただけなのだ。
 それだけなのだが、正直に言うのもなんだかアホらしいように思えて、ゾロは別のことを口にした。
「ケツが痛ェんだよ。背負われると、響く」
 無意識に手が腰をさすっている。不快な感触は消えていたが、負ったダメージが早々に癒えるわけではない。
 チョッパーの心配そうな視線を感じて、手を下ろした高さにあるピンク色の帽子を優しく撫でてやる。
「大したこたねェよ。世話かけたな、チョッパー」
 ぱぁっと頬を赤らめるトナカイの後ろで、ルフィがポンと
手を叩いた。
「ああ、だったらこっちにすればよかったんだな!」
 そう言ってルフィが両手で示したのはどう見ても姫抱きのポーズだったので、ゾロはもう反論する気力さえなくしてしまった。
 そこでふと、本来の目的を思い出す。
「お前ら、例の鳥は捕まえたのかよ」
「いんや」
「まだなんだ。ルフィがカブトムシやクワガタを捕るほうが楽しいって」
「違うぞチョッパー。アトラスとヘラクレスだ!」
「うん、それはさっき聞いたよ」
「コーカサスとネプチューンと、あとミヤマも忘れちゃいけねェけどな!」
 どーんという効果音すら背負って、そう断言するルフィの瞳はきらきらと輝いていた。
「・・・・・あのな」
 呻いて、ゾロは片手で頭を抱えた。
 サウスバードとかいう、妙な鳴き声の鳥は空島に行くためにはどうしても必要な要素だというのに、一番行きたがっていた本人がこの有様では先が思いやられる。
 しかし、不思議と暗い気分にはならないのだった。
 何とかなる、というより何とかなろうとなるまいと、この男が望むままに進む先には、どのみち平穏な航海など存在しないのだ。
 ならば、なるようにしかならないだろうとゾロは思う。
 時には不本意な忍耐を共にすることもあるし、死にそうな目に遭わされたことも一度や二度ではない。ルフィのしでかす、あるいは呼び込むトラブルに比べれば、先刻の災難などそれこそ虫に刺されたようなものだ。
 ルフィという台風の目の周囲は常に嵐の内にある。その中で、せめて自力で立っていられるうちは、自分はこの男と歩いて行けるのだろう。
「どした?変な顔して」
「なんでもねェよ。さっさと行くぞ、夜が明けちまう」
 言うなり早足で先を行くゾロの後ろから、待てよ〜と呑気な声が追いかけてくる。


 新しい夜明けはもう、すぐそこだった。