富貴蘭の歴史
江戸期

文化・文政時代といえば、江戸時代の文化が爛熟した時代です。
将軍は十一代の徳川家斎。喜多川歌麿・与謝蕪村・小林一茶・
杉田玄白・良寛和尚などのでた時代で、幕府権力の盛んな頃でした。
この将軍家斎が、大の風蘭好きであったらしく、手当りしだいに風蘭をかき集め、
珍品貴品を探したから大変です。大名も小名も、お国の藩中におふれを出して、
風蘭はないか、珍しい品種はないかと騒ぎ出しました。たちまち、風蘭のブームと
なったわけです。江戸城の庭の一隅に、家斎自慢の風蘭棚が設けられ、二百種にも
及ぶ『富貴蘭』が可憐な姿を競ったのでした。
夏になり、風蘭が香り高い花を咲かせる頃ともなれば、参勤交代の大名たちは、
江戸への道中、篭に風蘭を吊して、旅を楽しんだということです。
城中では、家斎主催の風蘭鑑賞会が開かれます。珍品貴品は、金銀製の網でおおわれ、
黒檀・紫檀の台に載せられ、側近や大名といえども、間近く拝見するときは、
息がかからないようにと白い紙のマスクをかけなければならなかったようです。
想像を絶する家斎の風蘭好みのおかげで、風蘭の歴史はここに輝く絶頂期を迎えることが
できたのです。
その後風蘭は「不死草」「仙草」「桂蘭」とも呼ばれつつ、貴族や豪士・文人たちの間で園芸として広まり、江戸時代
を受け継がれていったのです。
明治・大正期
それほど珍重愛玩されていた風蘭ですが、明治維新は受難の時代でした。
数多い品種も、維新の兵火やどさくさにまみれて、どこへともなく姿を消していったのです。
しかし、「不死蘭」の名もあるように、きわめて生命力の強い植物でした。
やがて、新しい世の明け初める明治初年頃になると、四散していた珍品貴品は、
愛好者の手に戻ってきたのです。それから十数年、多少の盛衰はあったにしろ、明治三十年頃までは、
静かなブームが連続して、維新の危機を乗り越えたのでした。
しかし、世は文明開化の時代です。西洋文化とともに洋蘭が海を越えてやってきました。
華麗な姿の洋蘭が地味で渋い東洋蘭を圧倒したことは申すまでもなく、風蘭の珍品貴品も
どこかへ姿を消してしまいました。
昭和期
昭和になって三たび風蘭の流行が訪れ、愛好家たちが探し始めると、長い間虐待されていたにも
かかわらず、少しずつ珍品奇品が姿をあらわしました。
風蘭はラン科植物の原種とさえ思われているだけに、持ち前の生命力の強さによって
生き存えてきたわけです。と同時に、世の盛衰にかかわらず、凋落の季節といえども
ひっそりと風蘭を育て続けていった愛好家の努力も忘れてはならないでしょう。
