その瞬間、教室中の空気がピリッとなって張り詰めたのを確かに感じた。

「え、亜久津……って、まさか……」
「”あの”3年の亜久津先輩の……」

隠せないだろうことはわかっていた。ありふれた名字ではないので、いつだってそう名乗れば気付かれてしまうし、顔だって自分ではちっとも似てないつもりでも、他人から見ればどことなく似て見えるのかもしれない。

「うん、そう。妹なの」

その告白はいつも、大きな緊張感と、小さな恐怖感とを抱きながらだった。瞬間、みんなの私に対する態度と感情がサッと一変するのを知りながらも、そう答えるしかない。

ずっと、そう。小学生の頃から、中学生になった今でも。

(だから、いいって言ったのに……)

だから、仁くんとは違う中学校でいいと言ったのに。
ママ……優紀ちゃんが、仁くんと一緒の学校のほうが安心だからって、どうしても譲らなかった。

(……どこが、安心なの)

新しい場所に行って、新しい人に出会って、今度こそ本当の友達を作りたかったのに。
せっかく中学校に入学したって、この名字がいつも私の邪魔をする。みんな、私の向こうに兄の姿を見る。 いつだって。











「あの、亜久津……さん」

クラスメイトの女子生徒におずおずと話しかけられて、返事をしながらそちらを向くと、なんだか怯えた顔をしている。

「明日の日直、亜久津さんなんで……お願いします」
「あ、うん。朝は花壇に水やりをするんだよね」
「は、はい、そうです……」

わかったありがとう、と言う前に彼女は逃げる様にいなくなってしまった。だけど、べつにそういう風なのは彼女だけじゃない。他のクラスメイトも、クラスメイト以外も、みんなそう。

何か私の気に触ることをしたら、不良の兄が出てきて、殴られると思っているのだろうか。

(でも、仕方ないか……)

確かに私だって、もし妹じゃなかったら絶対に仁くんになんて近づきたくないと思う。どう考えても怖いし。だから常に、クラスメイト達が私に怯えている雰囲気を感じながらも、ただ気にしないように普通にしているしかなかった。

聞こえなかったフリ。
見なかったフリ。

『亜久津は、思いの外マトモな生徒でほっとしましたよ』
『本当に。あの亜久津の妹が入学してくると聞いた時は、一体どんなのが来るかと思いましたけど』
『まあでも、しばらくは注意して様子を見た方がいいかもしれませんね』

先生の会話も。

『あの亜久津先輩の妹なんでしょ、ヤバくない?わりと大人しいけどさあ』
『突然キレたりするかもよ。裏では何やってるかわかんないし』
『あんまり関わらない方がいいって、みんな言ってるし私達もそうしようよ』

同級生の会話も。

(もう、慣れてるから)



気にしないようにしても、なかったことにしようとしても、それはいくらか疲れる。
人の群れから逃げ出すように、昼休みに一人で屋上の端の方に座ってぼんやりしていると、後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。



この学校で私のことをそう呼ぶ人なんて、一人しかいない。

「……仁くん」
「テメエ何やってんだ、んなとこで」
「べつに、ちょっと外見ながら休んでるだけ」

怒っているわけではないけれど、いつも不機嫌そうなその顔、低い声。でも、もうそれにも慣れている。ただ、そういう人なんだってわかってるから。

「メシは食ったのかよ」
「ううん……」
「は?馬鹿かお前、またババアにうるさく言われんぞ」

ごはんを食べないと、優紀ちゃんはすごく心配して、そんなのダメって怒る。
……って、わかってるけど。

「あんまり、食べたくなくて」
「……誰かに、何か言われたのかよ」
「違うよ、そんなんじゃない」
「言え、ブッ潰してやる」
「違うってば」

本当は、心根は、優しいところもあるって知ってる。意外と面倒見のいいところもあるって。それがちょっと乱暴な感じなだけで。

生まれてから、兄に一度も殴られたことがないと言えば、みんな驚くだろうか。

(でも……、)

もしも仁くんの妹じゃなかったらなら、どんな人生だったろう。
”あの”妹って言われない生活はどんなだろう。

違う、嫌いなんじゃない。いなくなって欲しいわけじゃない。だけど……。



怒ったみたいな顔しないで。睨んだりしないで。無愛想な話し方しないで。
本当は優しいところもあるのに、それを誰も知らなくたっていいって、思ったりしないで。

「オイ、
「何でもない。平気だよ、私、そんなに弱くない」

不良の妹らしく、いっそ自分も不良になってしまえば、悩むこともなくなるだろうか。











「亜久津です」

この学校に入学して、そう口にするのは一体何回目だろう。教科が変わるごとに先生も変わり、その度に自己紹介をさせられたりして、もうそんなの覚えていない。 「って呼んでください」なんて言ってみても、そんな風に呼ばれたことは一度もない。

「やっぱり!」

それは、となりのクラスと2クラス合同の授業の時のことだった。

私が立って名前を名乗ると、教室の少し後ろの方で突然男の子の声が聞こえて、一瞬みんながそちらを見る。同じ様に私も振り向くと、それは可愛らしい顔をした小柄な感じの男の子だった。

「あ、すみませんです……どうぞ、続けてくださいです!」

教室中の注目を浴びたせいか、彼は少し顔を赤くして言った。
続けて、と言われても今さらこの空気の中……と思いつつ半ばおざなりに「よろしくお願いします」とだけ付け加えると、椅子に腰を下ろした。

(やっぱり……って?)

しばらくしてその子の順番になると、彼は「壇太一」と名乗った。
その名前に聞き覚えはない。とくに会ったこともない。

(まあ、いいか……)

べつに気にしない、何を言われても。いつもみたいに。













(……?)

「オイ、テメエいつまで寝てやがんだ」

(……だれ、仁くん?)

「……、なに……」
「何じゃねえ、早く起きろっつってんだよ」
「……え、え?……うそ、もうこんな時間?!どうしよう」

朝、制服姿の仁くんに起こされて時計を見ると、起きなければいけない時間をとっくに過ぎていて呆然とした。優紀ちゃんは……?そういえば昨日、明日は朝早く出かけると言っていた。

起き抜けでまだぼうっとしている頭を必死に働かせてみても、答えは「遅刻」の二文字。
もう無理だ、間に合わない。いっそ諦めてしまおうかと一瞬思ったけれど、「やっぱり亜久津の妹だな」と周囲に思われるのは嫌で、何としても行かなければと考え直した。

とりあえず顔を洗って何とか制服に着替えてみたけれど、いつもどおり行ったので間に合わない。 どうしようかと思いつつ玄関まで行くと、そこには仁くんが私を待つように立っていた。

「行くぞ」
「行くぞって……」
「阿呆か遅刻すんだろうが、乗っけてってやるっつってんだよ」

乗っけてくって……、まさか、”アレ”で?

「……いい」
「あ?フザけんな、遅刻してもいいのかよ」
「だ、だって」

無免許運転のバイクで登校して怒られるくらいなら、遅刻して怒られたほうが到底マシに思える。不良と思われたくなくて間に合うように頑張って行っても、これではちっとも意味がない。

「トロトロすんな」
「わっ、」

結局、腕を掴まれて引きずるように連れて行かれ、気が付くと私はバイクの後部シートに座っていた。それから私には被れとヘルメットを渡すけれど、運転する本人は被らない。

(もうダメだ……)

最悪の場合、学校の先生どころか警察官に怒られることになるかもしれない。

そうしたら優紀ちゃん泣くかな……とか、退学になるかも……とか、色々生きた心地のしないままその大きな背中につかまっていると、「」という声で意識が現実に戻った。

「え?」
「着いたぞ、降りろ。走れ」

そこは校門から少し離れたところで、始業時間ギリギリのこともあってか周囲に先生や生徒の姿はなかった。てっきりバイクで校門の中まで乗り込んでいくのかと思っていたので、正直ほっとしたというか、驚いた。

「あと一分だぞ」
「あ、ありがとう。じゃあね仁くん」

外したヘルメットを渡して、私はそのまま校門に向かって走った。玄関に入って靴を履き替えている途中でそういえば……と思う。

仁くんはいつも遅刻して当然のような感じなのに、なんで。

『阿呆か遅刻すんだろうが』

本当は、優しいくせに、なんで。











「あのっ、亜久津さん!」
「……?」

廊下を歩いていると、名前を呼ばれたので振り向くとそこにいたのはこの前私に「やっぱり」と言った彼だった。

「僕、1組の壇太一っていうです!」
「うん、知ってる。この前自己紹介したよね」
「はい!あの、亜久津さんって、3年の亜久津先輩の妹さんですよね?」
「…………そうだけど」

彼は他の同級生とは違う感じで、怯えた風はまったくなく、目をキラキラとさせてただ純粋にそう聞いてきただけの様だった。悪意はない。冷やかしではない。そうわかってはいても、「そうだ」とそれを肯定するのは少し緊張した。

「僕、同級生に亜久津先輩の妹さんがいるって聞いて探してたです」
「……え?」
「きっときみだと思いました!そうしたら”亜久津”って名乗ったので嬉しくて、やっぱり!って……。この前はごめんなさい」

ぺこりと頭を下げられても、まったく現状が理解できない。なんで、彼が仁くんの妹を探していたのか、そして見つけて喜んでいたのか、こうして何の恐れもなく話し掛けてくるのか。

「なんで、私って思ったの」
「だって、似てるです!あ、顔じゃなくて、なんか雰囲気が……」
「……。壇くんて、仁く……兄と知り合いなの?」
「はい、亜久津先輩は僕の憧れです。とっても尊敬してるです!」
「……え、仁くんを?」

憧れ?尊敬?こんなに純粋そうなこの子が?

「だから妹さんにも会ってみたくて。でも、亜久津先輩、妹さんのこと聞いても何にも教えてくれなかったです」
「……へえ」
「あの、僕、ちゃんて呼んでもいいですか?」
「……うん」

何が何だかよくわからなくて、ちょっと呆然としていた。

仁くんにこんな後輩の知り合いがいたなんて、しかも慕われてるなんて、夢にも思わなかったし。こんなに躊躇なく私に話しかけてくる同級生がいるとも思わなかったし。

「亜久津先輩がお兄ちゃんなんて、かっこいいです!羨ましいです!」
「……そう、かな……」
「はい!」

そんな風に、兄を褒める人なんて初めてだった。昔からいつだって仁くんは不良の問題児と言われて、でもそれはたしかにそうだったし。優紀ちゃんは学校や、補導した警察に何度も呼び出しされたりして、周囲はそれを白い目で見てた。

「壇くん、仁くんのこと好き……?」
「はい、好きです!」

「好き」と、なんの迷いもなく答えられる彼のことが羨ましかった。私なら、誰かにそう聞かれて同じように即答できるだろうか?

兄が不良ならば、その妹もきっと不良に違いないって、ずっと決め付けられてきた。
周囲は”亜久津”という名に怯え、まるで腫れ物を触るように私を扱った。

ちゃんは、好きじゃないですか?」
「……私、は……」

(簡単に、好きなんて言えない……)

本当は優しいのも知ってる。それなりに家族を想ってくれてるのも知ってる。でも、今ここで、そんなこと言えない。純粋に仁くんを慕う壇くんの前でなんて、なおさら。

だって、壇くんはいいよ、仁くんと家族じゃないんだから。

(”あの”妹なんて言われたことないでしょ?)











「……明かりがついてる」

今日は放課後に委員会の仕事があって、家に帰る頃にはもう周囲は薄暗くなっていた。少し遠くから、自分の家を見上げると照明が点いている。

優紀ちゃんは今日は仕事で朝は早く夜は遅くなると言っていたし、まだ帰って来ていないはず、と思いながら玄関のドアを開けて中に上がるとそこにいたのは仁くんだった。

「仁くん、帰ってたの」
「帰っちゃワリぃのかよ」

いつもは夕ご飯の時間にいなかったりするし、夜遅く出掛けたりして、どこで何してるかよくわからない。何も言わないから、私は知らない。

「ううん、べつに。あ、今朝はありがとう。間に合ったよ」
「ハ、そうかよ」

仁くんは興味なさそうに言いながらソファに座ると、リモコンのスイッチを入れてテレビを点けた。一旦リビングを離れて自室で制服を着替えてから戻ると、テーブルの上にコンビニ弁当が2つ置かれていることに気がつく。

「これは?」
「晩メシに決まってんだろ。ババアがいねえんだ、お前料理できねえだろうが」
「買ってきてくれたの」

そうだ、私、夕ご飯のことなんて全然考えてなかった。昨日、優紀ちゃんに夕ご飯分のお金もらってたのに今朝寝坊して置いていっちゃって、そのままずっと忘れてたんだ。

「ありがとう」

仁くんは何も答えないまま、先にお弁当を食べ始めたので、私もプラスチックのフタをとる。実は今日もお昼は何も食べていなかったので、正直とってもお腹が空いていた。

テレビでは何か、クイズ番組みたいのをやっている。割り箸で付け合せの漬物をつつきながら、「そういえば」と口を開いた。

「今日、壇くんていう子に話しかけられたの」
「……」
「仁くんと知り合いなんだって?妹の私のこと、探してたって言ってた」

『亜久津先輩は僕の憧れです。とっても尊敬してるです!』

(……なんで?)

「仲良いの?」
「知らねえ」
「でも……」
「知らねえっつってんだろ」

また、そういう言い方する。

だから私はもうそれ以上何も言えなくなって、ただテレビの中の誰だかもよくわからないタレントの人のオーバーリアクションを眺めるしかなくなる。

慣れたつもりでも、こういう空気はいくらか気まずく感じる。普段は優紀ちゃんと二人で夕ご飯を食べるから、色々笑いながら話したりして楽しいのに。

仁くんと二人だと、何を話していいのかよくわからない。
たまに、二人で夕ご飯食べたりすると……、

……たまに、二人で……?

(……そういえば)

仁くんと二人きりで夕ご飯を食べるのは決まって優紀ちゃんの帰りが遅くなる時だ。今まで、あまり深く考えたことなかったけれど、私は一人で夕ご飯を食べた記憶がない。

なぜなら、そういう日は決まって仁くんが早く帰って来ていたから。「たまたま今日は早いなあ」くらいにしか思っていなかったけれど。もしかして、私が、一人にならないように……?

……まさか。……でも……。

(じゃあ、なんで)

本当は優しいのなら、どうしてそうやって冷たくしてみせるの?だから誤解されちゃうのに、それでもいいって思うから、周囲はみんな誤解したままじゃないか。

『はい、好きです!』

違う、私は壇くんみたいに、そんな風には答えられない。

どんなに優しくしてくれていたとしても、それ以上に、私は仁くんのせいで苦しんできた。
何もしていないのに、妹だからと、レッテルを貼られ続けてきた。


「仁くん」

優しいところと、冷たいところと、面倒見のいいところと、乱暴なところと。全部知ってるから私はそんなに簡単に「好き」なんて言えない。

…………でも、本当は、

「……」
「……あ?なんだよ」
「……なんでもない」


「好き」って、言えたらいいのに。






can not be honest