FEEL SO BAD!



ちゃん」

明るい声で私の名前を呼び、手を振りながら先輩の千石さんが近づいてくるのを立ち止まったまま見ていた。

「千石さん」
「やあちゃん。高校でもまた一緒になれるなんて嬉しいよ」

中学一年生の頃から、彼は校内で私を見掛ければ何かと話し掛けてきた。中学を卒業して、そのまま山吹の高校に進学した今も、それは変わらない。

はじめは、あの兄を持つ私のことを物珍しさでからかっているのかと思っていたけれど、べつにそんなことはなかった。

千石さんは、兄の仁くんにも物怖じしない数少ない人だ。

いつも誰にでも明るく優しい、こんな人は滅多にいない。他の人に対する態度と変わりなく私に接してくれることに、いつも心の中で感謝していた。

「どう?楽しい高校生活は」
「同級生もほぼ同じだし、今までと変わりません」
「そっかそっか。いやあ、それにしても今日も可愛いね。ほんと優紀ちゃんに似てるよ」
「……そうですか」
「亜久津にこんな激可愛い妹がいるなんて、未だに信じられないな〜」
「はあ」

こういうところを除けば……、だけど。どうやら女の子が大好きらしい千石さんは、私にだけじゃなくそこらじゅうの女子生徒に同じようなことを言って回っている。

べつに迷惑とか、嫌だなとかは感じない。ただ、仁くんとあまりにも違い過ぎるから、私はいつも少し戸惑ってしまう。仁くんは、可愛いとか、そんなこと死んでも絶対に言わないから。

世の男性を仁くん基準で考えてしまっていることが、まず間違いなんだろうけど。

ちゃん可愛いからモテるでしょ〜、彼氏とか出来ちゃったりして」
「そんなのいませんよ。私、全然モテないので」
「またまたあ〜謙遜しちゃって」
「いえ、本当に」

山吹の男子生徒はみんな私が仁くんの妹だと知っているから、怯えているのか必要以上に私に関わろうとはしなくて、モテるモテないとかいう次元の話ではなかった。

他校の男子生徒も、はじめは馴れ馴れしく話し掛けてきたりしても、私の名字が亜久津と知ると途端に青ざめて、謝りながらもの凄いスピードでその場を走り去っていく。

女子生徒はと言うと中学の頃より私を避けることはなくなったけど、それでも未だに仲良しと言える程の友達はできないまま。

べつにモテたりなんかしなくたって、いい。普通の女の子みたいに、友達とお喋りしたり、下校時に寄り道したりしたいだけなのに。

高校に進学するタイミングで別の高校に行こうかとも思ったけど、この辺りでは亜久津の名前は既に知れ渡っていて、結局どこへ行っても同じことだった。家を出て遠くの学校へ入るのは、優紀ちゃんが嫌がったし。

いっそ亜久津という名前を捨ててしまえたらどんなにいいだろうか。だけどそんなの無理だとわかっているから、いつもちょっと考えただけですぐに止める。

「あー千石先輩、またちゃんにちょっかい出してるですか?」

廊下で話していた私達の近くを通りすがった壇くんが、千石さんをたしなめながらやって来る。

小柄だった彼は、中学入学したばかりの頃よりかはいくらか背は伸びたけれど、それでも今も純粋で可愛らしい雰囲気のまま。変わらず仁くんのこと尊敬している。

私にとって、唯一、友達と呼べるのは壇くん一人だけだった。

「亜久津先輩に怒られるですよ」
「あ、そーいやそうだった。もう忘れてたよ」
「忘れないでくださいです……」

へらっと笑う千石さんに、壇くんは半ば呆れ顔をしている。

「兄が、怒ったんですか?」
「そうなんだよ〜。つい、いつも亜久津にちゃんの話しちゃうんだけど、その度にテメエぶっ殺されてえのかって怒られちゃうんだ」

仁くんに何と言われてもちっとも気にしないで笑っていられる千石さんは、やっぱりすごいと思った。普通の人なら話し掛けるどころかその視界に入ることすら怖がるというのに。

「亜久津ってばちゃんのこと好きだから、ヤキモチかな」
「違います。そんなわけありません」
「いやいや、ちゃん可愛いし、絶対大好きだよ〜」
「やめてください!」

明るくそう言って笑う千石さんの言葉に、思わず強く反発した私のことを、二人とも不思議そうに見てた。

「……ちゃん?」
ちゃん、どうしたですか?」

(仁くんが私のこと好きなわけない)

もしそうなのだったら、もっと身の振り方を考えてくれるはずだ。あの人のせいで私がこれまでどんな思いをしてきたか。どれだけ苦労して、どれだけ嫌な思いをしてきたか。

そんなこと、知りもしないで。
簡単に好きとか、そんなこと言わないで欲しい。

「千石先輩、ちゃんに謝ってくださいです!」
「いやーごめんね、俺何か気に障ること言っちゃったかな」

……違う、千石さんは悪くない。私にも臆さず話し掛けてくれる大事な人なのに、そんな風に言ってしまったことをすぐに反省した。

知らなくて、わからなくて当然だ。だって、彼らは仁くんと家族じゃないのだから。

「いえ……なんでもないんです。すみません」

(私には、壇くんと、千石さんしかいないのに)











「へえーちゃんっていうんだ。今日は一人?」

この頃私は、授業が終わった後もすぐに家に帰らずにファストフード店などで適当に夕ご飯を食べてから夜の繁華街をぶらぶら歩いたり、ゲームセンターへ行くことが時々あった。

今日も一人でゲームセンターの中を何となく見て回っていると、声を掛けてきた男の人がいた。他校の制服を着ている二人組の彼らは、私より少し年上のように見えるから、高校二年か三年だろうか。

「そうだけど」
「じゃあ、俺らと一緒に遊ばない?」
「べつにいいよ」

いつもなら、声を掛けられても誘いには乗らずに断るけど、今日は何だかどうでもいい気持ちでいっぱいで、それに頷くとその人はにやにやと笑った。

気易くべたべたと私の体に触り、肩を抱く様にされることに少し嫌悪感があったけど、振り払うのを我慢して何も言わずそのままでいた。

それから、クレーンゲームの景品をどれでもとってあげる、と言うので適当なぬいぐるみを指差した。軽快なリズムに合わせてアームが動くのを、二人に挟まれながらぼんやりと眺める。

ちゃんてすげー可愛いねー。彼氏いるでしょ?」
「いない」
「えーマジで?ちょうど俺も今彼女募集中でさー」

肩を掴んでいた手がするりと下がってきて、腰をぎゅっと抱いた。

私は一体何をやっているのだろう。クレーンゲームのガラスに映る制服姿の自分を見てそう思っても、ここから動くことが出来ずにいた。

例えば、このままこの人と付き合ったとしたら、どうだろうか。私の心の中の隙間は、埋まったりするのだろうか。騒がしい店の中で、そんなことを考える。

「じゃあさ、俺と……」

腰を抱いていた手がするすると次第に太ももへ下りていく途中で、さすがに「やめて」と言おうとしたら、その前に彼は誰かにいきなり肩を掴まれ、そのまま後ろへと倒れ込むと床に盛大に尻もちをついた。

その人は「おい、誰だ……」と言い掛けたけど、見上げる途中で固まってしまったので不思議に思い、私もそちらの方へ視線をやる。

そこには、あまりにも見知った顔があった。

「……仁、くん」

なんでこんなところにいるのだろう。

いつも以上に不機嫌そうな顔をして、床に座りこむ彼とクレーンゲームを動かす手の止まってしまったもう一人の彼を、凄い目付きで睨んでいる。

「ま、まさか……亜久津……!?」
「嘘だろ、なんでこんなとこに……」

二人は仁くんを知っているらしく、認識した途端、その顔色は真っ青になった。

「オイ、テメエらこいつに何してやがる」
「い、いえ俺らは何も……ま、まさか亜久津さんのお知り合いとは……」
「ぶっ殺されてえのか」
「ヒイッ」

仁くんが凄んだ顔とドスの利いた声でそう言うと、尻もちをついていた彼の襟元を掴んで引きずり上げ、もう片方の手を振り上げたので私はその手を掴んだ。

「何するの、やめてよ」
「うるせえ、テメエはすっこんでろ」

思わず仁くんの手の力が緩んだのを見計らって、掴まれていた彼は手から離れると、もう一人と一緒に必死の形相でこの場所から走り去っていなくなった。

チッ、と舌打ちしながら逃げ去った方向を見た後に、仁くんは私の方を向いた。

「おい、こんなとこで何してやがんだ」
「……べつに関係ないでしょ」
「あ?」
「ほっといてよ」

周囲を見ると、他の人達はみんなすっかり怯えてしまっている様子で、私達のことを恐る恐る遠巻きに見ていた。仁くんと一緒にいると、いつもこうだ。

掴んでいた手を離し、体をくるりと返して反対側へ歩いて行こうとすると、今度は向こうから手首をぎゅっと掴まれる。

「痛いな、離してよ」

べつに全然痛くなんてないけど、わざとそう言うと、すぐに仁くんの手の力が弱くなった。

「ふざけんな、帰んぞ。テメエがいねえとババアが騒ぐだろうが」
「うるさいな。どうでもいいでしょ」

自分はいつも好き勝手してるくせに。夜だって、何時になったって帰ってなんか来ないくせに。

もう、不良と思われたくなくて頑張ることが、ここにきて急に嫌になってしまった。
どうせ、どんなに真面目な良い子になろうとしたところで私は亜久津だから。この兄がいる限り、先生も、同級生も私自身を評価なんてしてくれない。

私が、不良になれば、みんなそれで満足なんでしょ。

「テメエ、ドタマかち割んぞ」
「やれるもんならやってみれば」

睨みつけるように仁くんのことを見上げる。もういっそ殴られたっていいやという気持ちで言ったけど、その手が私を傷つけることはなかった。

それはこれまでも同じだった。口では乱暴なことを言っても、絶対に私に暴力を振ったりしない。

「嫌だ、離してってば」

凄く手加減されてるのに、それでもどんなに抵抗したところで私が力で勝てるわけなんかなくて、結局店の外に停めてあったバイクの後ろに乗せられて、家に連れ帰られた。

(なんで)

私のことなんでどうでもいいくせに。いつだって、あんたのせいで私がどんな思いしてるかなんてこれっぽっちも知らないくせに。

(都合のいい時だけ兄貴面されたって……迷惑)

家の中に入るとまだ優紀ちゃんは帰ってないみたいだった。仁くんは何も言わないまま、さっさと自分の部屋へ入っていってしまう。

それからすぐに、ただいまという声とともに優紀ちゃんが帰って来た。私を見て、「まだ制服着替えてないの」と言ったのでそれには「うん」とだけ答える。

これまではいつも優紀ちゃんの仕事の帰りが遅い日に遊ぶことにしてたけど、今日はそこまで考えてなかった。もしここで私が家に帰っていなかったら、きっと優紀ちゃんは心配して泣いてたかもしれない。

そう思えば、少しだけ胸が痛んだ。











次の日、私は学校の廊下で壇くんを見掛けて声を掛けたけれど、振り向いた彼にはいつもの様な明るい笑顔がなくて、気になった。

「壇くん、何だか元気ないけど、どうかしたの」
「……」
「壇くん?」
「……あの、ちゃん。昨日の夜って、どこにいたですか……?」
「え?」

急にそんな質問をされて、私の心臓はドキリと音を立てた。壇くんは浮かない表情をしてどこか不安そうにしている。何だか嫌な予感がして、どうしてそんなこと聞くの、とは言えなかった。

昨日の夜……思い出すまでもない。私は遅くまで家に帰らず、ゲームセンターにいた。

(…………)

「家に……いたけど」

壇くんに嘘を吐くつもりなんてなかった。けれど、結局私はそう口にして嘘を吐いた。

それが、してはいけないことだとわかっていたから。素直で純粋な壇くんにそうだと言うのは何だか後ろめたく感じて、ずるいと知りながらも、正直には答えられなかった。

「そう、なんだ。そうだよね!変なこと聞いてごめんなさい」
「ねえ、それがどうかしたの」
「はい。僕、聞いちゃったです……ちゃんが、昨日の夜遅くゲームセンターで遊んでたって」
「……誰に聞いたの?」
「クラスの子が、塾の帰りに通り掛かって見た、って。他校の男の人達と一緒だったって、言ってました」
「……」

どうしてだろう。べつに、誰にどう思われてもいいと思っていたのに。いっそ不良になってしまうつもりでいたから、これくらい、何でもないことなのに。

「僕、そんなの嘘だと思いました!だって、ちゃんがそんなことするはずないですから」
「……」
「よかった。やっぱり何かの見間違いだよね」

壇くんは、ほっとしたように笑っていた。

どこまでも真っ直ぐな眼差しが、胸に突き刺さる。どうして、壇くんの笑顔を見るのはこんなにも苦しい様な思いがするのか。裏切っているような、罪悪感に襲われるのは、何故なのか。

不良になるつもりだったのに。亜久津の妹らしく、ルールなんて無視して、誰の言うことにも耳を貸さず、好き勝手するつもりだったのに。

(……どうして)

「あ、チャイムだ。じゃあちゃん、またね」

壇くんが手を振って去って行っても、それには何も答えられないまま。それからの授業中も、彼の笑顔が、いつまでもずっと頭から離れなかった。











放課後、今日は真っ直ぐ家に帰ろうと思いながら、たくさんの人で埋まる夕暮れの街を一人で歩いていた。

壇くんの笑顔を思い出せば、自分のことがこの上もなくくだらなく感じた。いっそ不良になってしまえば悩むこともなくなると思っていたのに、優紀ちゃんや壇くんのことを想うと何だか胸が痛くなって、ごめんと謝りたくなる。

歩きながらオレンジ色した空を見上げて、私はこれから一体どうしたらいいのかと考える。いっそ、家に帰っていく途中の鳥だっていいから、教えて欲しかった。

「あれーちゃん?」

後ろの方から聞き慣れた明るい声が聞こえて、見ればやっぱりそこにはいつもの様に笑った顔の千石さんがいた。

「今帰り?」
「はい」
「ぐーぜん、俺も今帰るとこなんだよ。途中まで一緒に帰ってもいいかなあ」
「いいですよ」

にこにこしながら隣を歩き、楽しそうに他愛もない世間話をしてくれる彼の横顔を眺めていた。オレンジ色したその髪の毛は、夕暮れの色と似ている。

「そういや今日、亜久津休みだったなあ。ちゃん何か知ってる?」
「……さあ。知りません」

そう聞かれて、昨日のことを思い出してしまう。自分はいつだって好きな様に振る舞って、人の言うことに耳も貸さないのに。それなのに、どうしてあんなことをしたのかわからなくて、思わず千石さんに答える声も素っ気なくなってしまった。

「そっかー。まあ、いつものことなんだけどね。家では亜久津と話したりしないの?」
「しません」
「えー仲良くないの〜?」
「あの人と仲良くできる人なんて、いませんよ」
「キビシイね〜ちゃん」

千石さんはちょっと苦笑いをしていた。それを見て、私はずっと疑問に思っていたことを口に出してみる。

「千石さんは、兄が怖くないんですか」
「ん?うん、べつに、怖くないかな〜。なんでだい」
「……普通は、怖いと思います」
「確かに中学の頃は結構荒れてたしねー、みんなが怖がるのも無理ないよ。でも、亜久津の奴、以前より随分丸くなったと思うけどな」
「……そうですか?」

記憶の中の仁くんの姿を思い起こしてみるけれど、よくわからなかった。顔も声もいつだって不機嫌そうで、べつに、そんな風には思わなかった。

ちゃんは亜久津のことが嫌い?」
「嫌いです」
「はは、即答かあ。うんうん、そっかそっかー」

千石さんは頷きながら笑っていた。本当は、家族だし、心の底から嫌っているわけじゃない。だけど、昨日のことがまだ頭の中に残ってて、思わずそう答えてしまった。

「でもアイツなりに、ちゃんのこと気に掛けてると思うけどなあ」
「そんなわけないです」
「そう?でもこんなに可愛い妹がいたら、いくらあの亜久津でもきっと大好きだと思ってるよ〜」

またその話か、と思って心の中で溜息を吐く。千石さんは、どうしても仁くんが私を好きなことにしたいらしいけど、そんなわけはないし、やめて欲しい。

それに、どうしてみんないつも仁くんのことを庇うのだろう。優紀ちゃんだって、いつも仁くんのせいで苦労してるのに、「本当は優しい子なの」とばかり言って、責めたりしない。

「あの人のせいで私、迷惑してるんです。小さい時からずっと」
「あはは、確かにそれはね。でもさ、亜久津の妹だからって色んな良くない噂が流れてたとしても、そんなの気にすることないよ」
「……」
ちゃんはこ〜んなにいい子なんだからさ。俺や壇くんはちゃんと知ってるよ?」

私についての噂を知ってか知らずか、優しく笑う千石さんの言葉が胸に痛かった。そうして、昼間の壇くんの笑顔を思い出して、もっと苦しくなる。だって私は、二人が思ってくれているような良い子なんかじゃないから。

「だから大丈夫大丈夫、そんな顔しないで」

いつの間にか立ち止まってしまっていた私の頭を、同じように歩くのを止めていた千石さんがポンポン、と撫でる。……だけどそうされても、私の心は、安心するよりもなんだか罪悪感に溢れていた。

「……私、良い子なんかじゃありません」
「そんなことないよ〜ちゃんはとっても良い子だよ」
「違うんです……」

いっそ、ごめんなさいと謝ってしまいたかった。どうして私は、あんなことをしたのだろう。
千石さんや、壇くんや、優紀ちゃん。こんなにも私のことを信じてくれている人がいるというのに、そんなことにも気がつかないで馬鹿なことを考えていた。

私のことをよく知りもせず、勝手なことを言う人達ばかり気にして、そばにいてくれる大事な人達の気持ちをわかってなかった。そんなの、本当にどうでもいいことだったのに、いつだって気にしてしまっていた。

ちゃんはちゃんらしくいればそれでいいんだよ」

(……千石さんは大人だ)

いつでも誰にでも明るく優しくて、一見お気楽そうに見えても実は色んなことに気付いていて、くだらない世間の噂に左右されず、きちんと自分の意見を持ってる。私もそうなれたら、どんなにいいかと思った。

「亜久津には俺からよく言っておくよ、って……あれ?」
「テメエが、誰に何を言うだと……?千石」

私の頭を撫でていた千石さんの手が急にぱっと離れたかと思えば、そのとなりにはいつの間か仁くんが立っていて驚いた。仁くんは、千石さんの腕を掴んでいる。

「なんだ亜久津じゃないか、こんなとこで何してるんだ?」
「そりゃあこっちのセリフだ」
「あーもしかして、俺がちゃんと一緒にいたから心配で見に来ちゃったのかな〜」
「ぶっ殺すぞテメエ」

千石さんは、仁くんを前にしてもいつもと変わらずに笑っている。どれだけ凄まれてもちっとも気にしていない。仁くんは学校にも行っていないというのに制服を着ていて、一体今までどこで何をしていたのだろう。

「俺はお邪魔みたいだから帰るよ〜。じゃあね、ちゃん、またね」

ちょっと待って、と言う間もなく千石さんは手を振りながら、さっさといなくなってしまった。そして後に残された私と仁くんは、少しの間無言でその場に立ち尽くす。

「……」

なんで、このタイミングでやって来るんだろう。顔を見ればまた昨日の出来事を思い出してしまって、何を言っていいのか咄嗟に考えることなんてできない。

仁くんが私のことを好きで、気に掛けている、と笑うさっきの千石さんの言葉が頭をよぎり、余計に気まずい思いがした。

結局お互い何も言わないままに、私は仁くんの横を素通りして歩き出した。そのまま家までひたすら黙って歩き続けて、仁くんがどうしたのかは一度も振り返らなかったからわからないけれど、ずっと足音が聞こえていたから後ろをついてきていたのだと思う。

家の中に入ると優紀ちゃんがいて、私が着いてから少しして今度は仁くんがやってくると、珍しく早く帰ってきたことを喜んでいた。

それから久しぶりに家族三人で夕ご飯を食べている間も、優紀ちゃんは楽しそうだったけど、私は何も言えないまま。それは、仁くんも同じことだった。











夜中、一度は眠りについたけれど目が覚めてしまった。なんだか喉が渇いて水でも飲もうと部屋を出ると、リビングは明かりがついていてテレビの音も聞こえる。通りがかり目をやると、ソファには仁くんが座っていてF1の番組を見ていた。

一度はそれを素通りしてキッチンへ行き、水を飲んだ後また部屋の前まで戻ってドアノブに手をかけたところで私は立ち止まる。

(…………)

信じていたと言ってくれた壇くんや、良い子だと頭を撫でてくれた千石さん、家族揃っての夕食を喜んでいた優紀ちゃんの顔を思い出して、なんだか胸がいっぱいになる。

私はドアノブから手を離すとリビングへ向かい、仁くんが座っているソファの、一番端の辺りに浅く腰掛けた。

「……仁くん」

その名前を呼ぶ間も、そっちの方を見られず、私はテレビ画面ばかり見ていたから仁くんがどんな顔をしていたのかはわからなかった。

きっと、私はこれまでずっと、全部仁くんのせいにしていた。自分に友達ができないのだって、みんなに悪く言われるのだって、全部が全部仁くんのせいじゃなかったのに。

悪い噂だって、嘘ばかりじゃなくて本当のこともあった。それなのに、私自身の問題も責任転嫁してそんな風にばかり考えていた自分がいることを、千石さんの笑顔を思い出し、くだらないことだと今さらになってやっと気付いた。

昨日だって、仁くんがいなかったら最終的にどうなってたかわからないし、優紀ちゃんを悲しませていたかもしれない。それなのに、意地を張ってあんな風にひどい態度をとってしまった。

どんなやり方だって、私を助けてくれたことには変わりなかったのに。

「……この前は、ごめんね」

そう言って視線を向けると、仁くんも私の方を見ていて目が合う。テレビからは車の走る音や実況の人の声が聞こえるけど、仁くんは何も答えないまま。

仁くんに本当は優しいところもあるって、知っていた。不器用なりに妹の私のことを気に掛けてるだろうことも、気付いていたはずなのに、気付かない振りをしていた。だって、嫌なことを全部仁くんのせいにするためには、そうするしかなったから。

きっと私は、仁くんのことを好きと思うのを怖いと思っていたし、好きと思われるのも怖かったのかもしれない。

「ごめん」

もう一度謝ってみても仁くんが何も言わないままだったけれど、それでもその視線はなんだか柔らかい様な気がして、テレビの音だけが騒がしいリビングの中、しばらくの間私たちは見つめ合っていた。