軽蔑と本心



「げー……」

中学3年に進級した春。
校舎に張り出された新しいクラスの名簿を見て、私は思いっ切り嫌そうな声を出してしまった。

上から二段目に書かれている、その名前。


亜久津仁。


不良だかなんだか知らないが、あんな素行の悪い奴がクラスにいたのでは迷惑極まりない。だから、絶対に御免だ。あいつとだけは同じクラスになりたくない。

そう、クラスの違った1、2年の時から、ずっと思っていたのに。





、やってくれるよな」
「嫌です」

私に学級委員長になるように軽く言う担任に対して、毅然とした態度ではっきりと断った。

はず。

なのに、いつの間にか私は委員長にさせられていた。2年の時もやっていたから、などという意味のわからない理由により。

だけどそんなのは、まるで道理に合わない。

「これは横暴です」

反発してみても適当に流されてしまい、結局聞き入れてもらえることはなかった。仕方なく、私は納得できないながらも学級委員長としての任務を全うしなければならない立場になってしまった。





亜久津は、授業はもちろんのこと学校の行事などもサボってばかりいてちっとも参加せず、明らかにクラスの秩序を乱していた。

そうなれば責任を問われるのは、委員長であるこの私だ。だから、日に日にあいつに対する苛立ちは募っていくばかり。

「亜久津ってさ、危険な奴だけど……私結構好きかも」
「えー、実は私もー」

昼休みに友人達が、今日もサボりで不在の亜久津の席を眺めながら、突然そんなことを言い出した。

「はあ?」

それを聞いた私は眉をひそめ、口からは、「あんた達何言ってんの」という気持ちの目一杯籠った声が零れる。

「かっこよくない?」
「どこが」
、亜久津興味ないの」

あるわけないだろ。今すぐこのクラスから出て行って欲しいくらいなのに。

「私、あいつ嫌いなんだよね」

いつだって自分勝手に振る舞ってばかりいて、決められたルールなんて守らない。あいつには、まるでそんなもの、存在しないみたいに。

私が、好きで守ってるとでも思ってんのか。
あいつ見てると、真面目に生きてる自分が無性に馬鹿らしく思えて、イライラしてくる。

(お前なんかいなくなってしまえ)



私は、亜久津のことを心底軽蔑していた。









ある日、クラスの行事に参加しない亜久津のことを学校中探し回っていて、やっと旧校舎で見つけた時にはすでに走り疲れていた私は、随分と苛立っていた。

「亜久津」

なんで、私がお前のためにこんなことしなきゃならないんだよ。今にも喉から出そうな言葉を、なんとか呑み込んで耐える。

探して来い、と簡単に言い放つ担任や、亜久津にビビって動こうともしない男子の委員長にも腹が立って、だからその元凶となったこいつに、とにかくなんでもいいから当たってやりたい気持ちだった。

「こんなとこで何やってんだよ」

古びた教室の床に座り込む亜久津の前に立って、睨み付けながら見下ろした。だけど亜久津は私の存在なんて見えていないかのように、シカトする。

だから、余計に苛立ってきた。

私だって、お前のことなんか探したくて探してるんじゃない。


その口に咥えているのは煙草で、教室の中もなんだか煙臭かった。

非行に走る奴なんてみんな、やることは同じだ。髪染めてピアス開けて、煙草に手を出す。夜遊びして、真面目にやってる人間を馬鹿にして、すぐに暴力に訴える。

お前だって一緒だよ。

こんな奴、どこがかっこいいんだ。決められたルールもろくに守れない、クズじゃないか。男の趣味が悪いのもいいとこだ。

「ねえ、クラスの行事に参加して」
「……」
「あんたが出ないと、私が言われるんだけど」
「誰だ?テメー」

鬱陶しそうな顔して私のことを見る亜久津の言葉に、瞬間、怒りが込み上げる。
きっと冗談なんかじゃなく、こいつは私を知らないのだろう。

数ヶ月間、同じクラスに在籍していたって、私なんて亜久津の視界にも入っていなかったのだ、と思えば無性に腹が立つ。

こっちは、お前の存在に振り回され続けて、今だってこんなにも迷惑被っているというのに。

言い返してやろうと思っても、怒りのあまり何も頭に浮かんでこない。気が付けば、私は身をひるがえしてその場から駆け出していた。

旧校舎の廊下を走り、建物を出てからもずっと。


誰だ?テメー。


亜久津の言葉が耳にべっとりと張り付いて離れなくて、しつこい!と叫びたくなるくらいに延々と繰り返される。

……何が、誰だ。ふざけんな。


切らした息を整えた後、教室に戻ると亜久津はどうしたと担任に聞かれたけれど、それには「いませんでした」としれっと答えた。

あんな奴のことなど、もう知ったことか。

亜久津の顔を思い出せば、怒りで頭痛がしてくる。私は手で眉間を抑えながら、もう二度と顔も見たくない。そう思った。









それでも、亜久津に何かあればやっぱり世話を言い付けられるのは委員長である私だった。

「同じ男子なんだから、あんたやってよ」ともう一人の委員長に頼んでみても、「無理」の一点張りで全く役に立たない。

こっちだってあんな奴と関わるのなんてもう御免なんだよ、と苛立ちながらも教師から色々と言われるのも面倒で仕方なく対応していた。

もう二度と学級委員長などやるものかと心に誓いながら、校舎内を探し回る。そんなに学校が嫌いなら、もういっそのこと来るな、辞めてしまえ。と本当にあいつには腹が立つ。

旧校舎にも空き教室にもいなかった。それなら心辺りはあと一つだけ。

屋上に向かう階段を駆け上がり、怒りに任せて乱暴に鉄の扉を開けると、そいつは端の方で壁に寄り掛かりながら座っていた。


「亜久津!」

近付いて行って、白い煙を上げる口元に咥えた煙草をぱっと抜き取ると、コンクリートの上に放って上履きでぐりぐりと踏み付けた。

舌打ちをされた後、凄んだ目付きで睨まれたって、そんなの、こっちだって同じ気持ちだ。恐怖よりも怒りの感情の方が上回って、周囲の言うように「怖い」とはもう感じない。

「授業に出ろよ」
「……うるせえな」

亜久津は私の目も見ないまま、立ち上がるとさっさと屋上を出て行こうとする。その態度にも腹が立って、「おい!」と後ろ姿に投げ掛けてみてもやっぱり返事なんてないし、振り向きもしない。

なんで私があんな、最低な人間なんかのためにこんなこと。

胃が軋むようにイライラとするのに、それからも、亜久津のことを探して連れ戻しに行かなければならないことが度重なった。


「亜久津くんが言うこと聞いてくれないので困ってます」

いい加減うんざりして、職員室まで行き担任にそう漏らすと、そんなのちっとも真面目には受け止めてくれてはいない様子だった。

「お前、気が強いから大丈夫だろ」

何が大丈夫なのか。まあ頑張ってくれ、と適当にあしらわれると、彼はいなくなってしまった。その後ろ姿に、「担任だろ、お前がやれよ!」と喉まで出掛かったけれど我慢して、自分も教室へと戻った。




「亜久津のお母さんってさ、すごく若くて綺麗な人なんだよ。知ってる?」

時々友人には亜久津の話をされるけれど、それには素っ気なく返していた。

「知らない、どうでもいい」

去年、臨海学校について来て騒ぎになっていたあの母親か。私は見てないし、べつに興味もない。年齢や容姿なんてどうでもいいから、あのろくでもない息子のことなんとかしてくれないかな、とだけ思った。

、ほんと亜久津のこと嫌いだよね」
「当たり前でしょ、あんな奴」
「でも亜久津ってさ、他の男子とちょっと違うっていうか。ねえ?」

彼女はもう一人の友人に同意を求めると、その子もそれに「うん」と頷く。

「違うって、頭のヤバさのこと?」
「じゃなくて。なんか大人っぽい感じするじゃん、くだらない話で騒いだりしないしさ」
「そういうとこ、ちょっとかっこいいって思っちゃうよね」

何を言ってるんだろう。私には、あいつはまるで子どもにしか見えない。決められたルールも守れないし。みんなと足並みそろえて同じことができないなんて、ガキかっての。

「あっそ」

そんなに亜久津のことが好きなら世話する係代わってくれ、と心から思いながら雑に相槌を打った。





回数を重ねるうちに、探し回らずとも次第に亜久津がどこにいるのか大体の見当は付くようになった。

今日は、ほとんど人なんてやって来ない資料室にいる気がして来てみれば、やっぱりそこにいた。たまに気まぐれに授業に出ることもあるけれど、それでもやっぱりすぐにふらりといなくなってしまう。

この頃は、教師に頼まれなくとも先に自分で連れ戻しに来ていた。と言っても、私が来たことによって亜久津が授業に戻ったことはないから、もうこの行為が必要なのかどうかわからない。

放っておいてもそのうち来るのなら、私なんていらないのではないか。

そう思いながらも、探してしまう。初めはあんなに苛立っていたのに、最近はそこまででもない。無視されても、以前ほど腹も立たない。何故なのだろう。今でも大嫌いなことには変わりないのに。

「亜久津」

雨が降っていて、明かりも点いていないこの教室は薄暗い。本や何かが詰まっている壁一面の棚に寄り掛かって、今日も亜久津はだるそうに座り込んでいた。

「何してんの」

近付いて前まで行くと、ちらりと私の顔は見ても、すぐにふいと逸らす。

「授業に出なよ。なんで出ないわけ」
「……」
「あんたってさ、学校に何しに来てんの」
「……うるせえ女だな」

亜久津は、心底鬱陶しそうな声を出した。

「テメーなんなんだよ」
「知るか。お前のせいだよ」
「あ?」
「お前がいなくなるからだろ」

睨み付けられるように目が合って、急に胸がどきっと鳴る。なんで私、教師に言われてもいないのにこいつのこと探しに来てるんだろう。あんなに関わりたくないと思っていたのに。

亜久津は他の男子とは違う、と言う友人の言葉が何故か今、頭の中に響いている。

いかれてるという点では確かに違う。だから嫌いだった。1年の時からずっと、遠くで眺めながら、あいつと同じクラスになんて絶対になりたくないと思っていた。それなのに。

いつも亜久津のことを目で追ってしまう。席が空いていると気に掛かってしまう。


「……馬鹿野郎」

なんでお前のことなんか。

「お前なんか嫌いだ」

気が付くとそんな言葉を吐き出していた私は、亜久津が何か言う前にぱっとそこから逃げるように走った。

自分の気持ちがわからない。何を考えて、何のためにこんなことしてるのか。知らない。わからない。わかりたくない。









その日、委員会が長引いて帰るのが遅くなってしまった私は一度家に戻る時間がなくて、制服のまま通っている塾へ行った。

塾が終わって、もう夜も遅いしそのまま真っ直ぐ帰ればいいものの、つい友人と寄り道してしまった。だからその子と別れた後、私はいつもは通らない道を歩いていた。

何故いつもは通らないのか。それは、危ない場所だから。繁華街が近くにあって、昼間はまだ良くても夜になれば不良なんかがうろうろしてるから危険だって、噂で聞いた。それなのに、忘れていてうっかり、通り掛かってしまった。

気が付いた時にはもう遅い。

山吹の制服というのは良く目立つ。ただでさえしょっちゅう声を掛けられるというのに、こんな場所では、自分から絡んでくださいと言っているようなものだ。

案の定ガラの悪い男数名に囲まれてしまい、私は怖くて声も出せず、かといって足がすくんで逃げ出すこともできず。どうしたらいいのかわからなくて、なんだか泣きそうだった。




困っていると、突然、誰かが私の名前を呼ぶのが聞こえた。男達が声のした方を見るので、よくわからないまま私も同じように首を回す。

「お前、んなとこで何やってんだ」

そこにいたのは亜久津だった。

すると男達は、亜久津の顔を見るなり舌打ちし、口々に何か文句をいいながら早々にいなくなってしまった。もしかしたら、ケンカで亜久津に負けたことでもあるのだろうか。

ぽかん、として立ち尽くす私を尻目に、亜久津はさっさと歩き出してしまうので慌ててそれを追い掛けた。こいつになんかついて行ってどうするんだろう、と思うのに体が勝手にそう動く。

危ない通りを出た辺りで、ずっと黙ってたけどやっぱりお礼くらい言っておいたほうがいいのだろうか。と頭の中で少し悩んだ後、とりあえずそうすることにした。

「あの……、亜久津……」

おずおずと話し掛けると、亜久津が立ち止まったので私も同じく足を止めた。それから、振り向いて私の顔を見る亜久津に対して上手く言い出せずに「その……」と言葉に詰まっていると、フッと軽く笑う。

「いつもの威勢の良さはどうしたんだよ」

それだけ言うと、さっさと立ち去ってしまった。は?と思いながらも、その後ろ姿をぼんやりと眺めつつ私の胸はきゅっと音を立てる。


亜久津は他の男子とは違う。

……また、そんな言葉を思い出してしまった。

ガキだと思っていたのに。不良のどうしようもない問題児で、面倒くさい奴だと。心の底から大嫌いで、軽蔑していた。ずっと、あいつのことを。

だけど、あんな風に、ガラの悪い男達にも物怖じせずにいられるのは、あいつくらいしかいない。なんでもない平気そうな顔して、追っ払える奴なんて。

嫌いだと言ってしまったのに、助けてくれた。





そう呼んでた、私のこと。前は、誰だ?テメー、なんて言ってたのに。
亜久津、いつの間に、名前覚えたんだろう……。

夜の暗闇の中で一人立ち尽くして、通学鞄をぎゅっと握り締めながら、なんだかあいつのことがかっこよく思えてきてしまうそんな自分が嫌だった。あんな、あんな不良のあいつのことを。

嘘だ、そんなの。

それなのに、この胸はうるさくどきどきと音を立てて、ちっとも静かにならない。


あいつのこと、軽蔑していたのに。

……馬鹿野郎は、私の方だ。









それから教師には、もう亜久津を探しに行かなくていいと言われた。いい加減、無駄なことだと気が付いたのだろうか。

でも亜久津は以前よりは授業に出る回数も増えたし、それに最近は途中入部しているテニス部で、どうやら頑張っているらしい。

私はというと、あんなにうんざりとしていた亜久津の世話をもうやらなくていいと言われたことに、何故か素直には喜べずにいた。初めは確かに嫌で仕方なかった。でも、次第に、誰に頼まれるでもなく自分から勝手にやるようになっていた。

もしかしたら、私はそれを口実に亜久津と接点を作りたかっただけだったのだろうか。

……まさか。そんなわけない。

なんで、あんな奴のこと。なんのために。




あの夜以来、授業中亜久津を探しに行くこともなくなって、だから話す機会もなかった。たまに教室にいても私とは目も合わせない。

昼休みに、私は気が付けば亜久津の姿を探して校内を歩いていた。見つけたところでどうするつもりなのか、そんなの自分でもよくわからないけどとにかくそうしたかった。

恐らく屋上にいるのだろうな、と思って行ってみればやっぱり亜久津はそこにいた。

端の方で壁に寄り掛かって煙草吸ってるところへ寄って行って、そんな私に対する視線を感じるけど、だけどいつもみたいに呼び戻しに来たわけじゃない。

普段なら「亜久津!」って怒るとこなのに、今日は違う。

なんでここに来たのかよくわからないし、どうしたらいいのか若干戸惑いながらもとりあえずとなりに腰を下ろした。

亜久津も何も言わないから、他に誰もいないこの屋上で、風だけが通り抜けていく。しばらくすると静かな空気に耐え切れなくなって、私は思い付いた適当なことを口走った。

「亜久津、テニス頑張ってるらしいじゃん」
「……」
「千石がさ、亜久津、強いんだって言ってたけど。そうなんだ?」
「なんだお前」

なんだお前って、なんだ。

せっかく話し掛けてやってるんだから付き合えよ。とちょっとイラっとしつつ、今までこんな風に話したことないから私のことおかしいって思ってるのか、亜久津。おかしいのか、おかしいよな。

違う、こんなことが言いたいんじゃなくて。

「その……この前さ、」

言わなきゃ。ちゃんとお礼言わなきゃ、ってあれからずっと考えてた。だから。本当はお礼が言いたくてここに来たのに違いない。

何故か胸がどきどきしてきて、思わず制服のスカートの裾をきゅっと握り締める。

「この前……助けてくれて、ありがとう……」

思い切ってそう言った後に亜久津の方を向いてみれば、そんな私の顔を見てなんか鼻で笑ってる。

「お前みてーなブスに声掛けるとか、アイツら趣味変わってんな」
「……なんだよ!」

せっかく人がお礼言ってるのに、ふざけんな!と思わず手が出てしまい、亜久津の肩を強めに殴ってやったけど、それにはハハハと笑ってる。

……亜久津って、こんな風に笑うんだ。

私の胸にはまるで矢が突き刺さってきたみたい。「うっ!」と呻きたくなるけど、必死にそれを堪える。そしてやけにこいつにキラキラとしたエフェクトが掛かって見えて、瞬きしながら軽く首を振った。


やめろよ、そーゆーの!



1年の時から大嫌いだった。「かっこいい」という人がいれば、どうかしてると思ってた。

それでも本当は、こいつに憧れていたのだろうか。好き勝手、やりたい放題、あいつみたいにしてみたいと思ってて、だから羨ましかったのかもしれない。私とは違うから。嫉妬してただけだ。

だからいつも。
1年の時からずっと、亜久津のことを遠くから見ていたのかも……しれない。


本当に軽蔑すべきなのは、自分だ。




私はいつの間にか、亜久津のことを好きなってしまっていた。

嘘だ。

嘘だ。

そう思っても、その証拠にこの胸はこんなにもどきどきと脈打ってるし、もっと亜久津の近くにいたいって言ってる。悪いのがかっこいいなんて、そんなのおかしい。良いのが良いに決まってる。

それなのに、でもやっぱり亜久津のことが、かっこよく見えてしまう。

煙草の吸殻をぽい、と放った亜久津の顔に手を伸ばして頬をむにっと掴んでみると、当然「なんだよ」と眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をする。

煙草だのバイクだの、いけないことだからやめなよ。なんて言ってみたところでこいつにそんな常識通用しない。どう考えても危険な奴だ。おかしい、いかれてる。それなのに。

私は、亜久津のことが好きだ。

好きだ。




……好きだ。