「ちゃん!」 一人で学校の廊下を歩いていると、誰か、女の人に名前を呼ばれて振り返る。聞いたことのない声だから、知らない人だということはわかっているのだけれど、でも、名前を呼ばれたから振り返る。 すると2、3人の女の人たちが近づいてきて、私の周りを取り囲んだ。そして、なんだか私の顔を見てにこにこ笑っている。みんな先輩、みたいだ。 「ねえねえ、不二周助くんの妹ちゃんでしょ?」 「……?はい」 「可愛いー!」 「やっぱり似てるねちゃん、お兄ちゃんに」 「名前……、どうしてですか」 「みんな知ってるよ、有名だもん。不二くんの妹のちゃん。1年生でしょ?」 「……そうですけど、あの……」 たくさんの目にぎっと見つめられて私は何だか居心地が悪くて、早くいなくならないかなあと思っていた。 「私たちね、お兄ちゃんと同じクラスなんだよ。3年6組」 「……そうなんですか」 「ねえねえ不二くんて家だとどんな感じ?やっぱり優しいの?」 「お兄ちゃんのこと好き?」 「あの、えっと……」 「あっ、やば予鈴鳴った!次体育じゃん、行かなきゃ」 「じゃあね、ちゃんまたね!」 と、その人たちはバタバタと走っていってしまった。こういうのはべつに、いつものことなので驚かない。 お兄ちゃんの妹だからという理由で話しかけてくる人はいっぱいいる。だから気にしない。さっきみたいに取り囲まれてる時、近くを通りかかる人の視線も気にならない。べつに、気になんかしてない。 「ちゃんのお兄ちゃんって、かっこよくていいなあー」 「今度ちゃんのお家、遊びに行ってもいい?」 私の周りにいつも女の子が集まってきて、どんなときも一人ぼっちにならないでいられるのは、きっと、いや間違いなくお兄ちゃんのおかげなんだろう。この学園でのお兄ちゃんの存在感というか、影響力というのは私が思っているよりもずっと大きい。 (私は昔から、ずっと、お兄ちゃんに生かされている) お兄ちゃんは優しい。どんなときも優しい。少し怖いと言う人もいるけれど、私には怒ったりしないし、怖いと感じたことはない。私はお兄ちゃんが私のお兄ちゃんで自慢だと思ったことは数え切れないほどあるけど、お兄ちゃんはどうなんだろうか。私が妹で、嬉しいと思ったことはあるんだろうか。 そんなことを考えながら、ふらふらと家に帰った。 「ママ、私と周助お兄ちゃんは似てるの?」 「そうねえ、周助とあなたは私似だから、兄弟の中でも特に似てるかもしれないわね」 私とお兄ちゃんは似ている。みんなそう言う。そして私がお兄ちゃんに似ていると、みんな喜んでくれる。だからこの顔は大事にしなくちゃいけない。お兄ちゃんと顔が似ているって、それが、何よりも妹だという証明になるから。そうじゃなきゃ、私の存在する価値がなくなってしまう。 誰も、私の周りからいなくなってしまう。 「ねえママ。周助お兄ちゃんは、私のこと好きだと思う……?」 「まあ、なあに?お兄ちゃんとケンカでもしたの?」 「ううん、してない……」 「そうよねえ、今までケンカなんてしたことないものね。心配しなくても大丈夫よ、お兄ちゃんはのこと大好きだもの。ママが言うんだから間違いないわ」 ママはそう言って笑ったけれど、私はちっとも笑えなかった。確かに、私がお兄ちゃんに私のことを好きかとたずねたら間違いなく好きだと言うだろう。だけど私が本当に知りたいのはそれが本意なのかそうではないのか、そこなのだ。 お兄ちゃんが私に優しいのは私のことが好きだからじゃなくて、それはきっとお兄ちゃんが優しい人だからで。たまたま私が妹だったからで。 由美子お姉ちゃんや裕太くんのことも大好きだけど、でも、いつも周助お兄ちゃんは私の中で特別な存在のような気がしていた。それはきっと、生まれたときからずうっと。お兄ちゃんだけどお兄ちゃんではないような、そんな感覚がずっと続いていた。 お兄ちゃんに嫌われちゃいけない。私からお兄ちゃんをとったら、何も残らない。 どうしたらもっと好きなってもらえる?妹として、自慢に思ってくれる? 洗面所の鏡の前に立って、自分の顔をじっと見つめる。これは私の顔。だけど、私の顔じゃない。この顔はお兄ちゃんがいて初めて価値が生まれる顔。だから、私だけだったらなんの意味もない。 もしも私がお兄ちゃんの妹じゃなくて、不二じゃなくて、ほかの家の子に生まれていたら、こんな思いはしなかったのだろうか。みんなお兄ちゃんの妹としてじゃなくて、ちゃんと私自身の顔を見てくれたのだろうか。それとも、何の後ろ盾もない私は、寂しい生活を送るのだろうか。 「どうしたの、ぼうっと鏡なんか見て」 「お兄ちゃん……」 気付いたら、鏡に映っている私の後ろに、不思議そうな顔をしたお兄ちゃんが立っている。振り返って、じ、とお兄ちゃんの顔を見た。やっぱり似ているのか、自分ではよくわからない。何でもないの、と言ってそそくさと自分の部屋へ戻る。 ベッドに寝転がって、今日会った女の先輩たちのことを思い出す。あの人たち、お兄ちゃんと同じクラスだって言ってたな。仲いいのかな……どうして私に話しかけたりしたんだろう……あの人たち、お兄ちゃんのこと好きなのかな、そうだったらやだな……。 お兄ちゃんを好きな人はみんな私に近づこうとする。にこにこして、私の機嫌をとろうとする。 みんな同じだ、今日の人たちも、他の人たちも。みんなみんな、同じだ。 「、夕ご飯だよ。おいで」 いつの間にかうとうとしていたのか、コンコン、というノックの音と共にお兄ちゃんの声が聞こえてはっとする。急いでベッドから下りてドアを開けると、お兄ちゃんが優しく笑っていた。そして、「行こうか」と言って階段を降りるその背中を追いかける。 食卓について、ごはんを食べている時、向かいの席のお兄ちゃんの顔を何となく真っ直ぐ見られない。「、鶏の唐揚げ好きだよね」と言って自分の分を一個、私のお皿に乗せてくれた時も、その唐揚げを見ながら「ありがとう」と言った。 ねえ、私はお兄ちゃんの妹に生まれてもよかったの?それは間違いではなかったの?優しくて勉強もスポーツもできて、友達もたくさんいるお兄ちゃんと私とは、住む世界が違うはずなのに、どうして今こうして向かい合って食事をしているんだろう。 みんなお兄ちゃんに近づきたくて、でもできなくて、悲しんだり苦しんだりしているのに。何故私はこんなにも簡単にお兄ちゃんのそばにいることが出来ているんだろう。何の努力もしていないのに。 それは、私が妹だから。同じ血が流れているから。 結局はそれなの?言ってしまえば、それだけなの……? 本当は食欲がなかったけど、心配されるから何とか全部食べきって、いつもは見るはずのテレビ番組も見ずに、すぐに部屋へ戻った。椅子に座って少しぼんやりしたあと、アルバムを引っ張り出してきて昔の写真を眺める。 家族や兄弟で映っている写真、私はいつも周助お兄ちゃんのとなりにいる。写真を撮るよ、と言われるといつもお兄ちゃんが手を引いて連れて行ってくれたのだ。 お兄ちゃんはいつも末っ子の私のことを心配してくれて、気にかけてくれて、大切にしてくれていた。私は優しいお兄ちゃんのことが大好きで大好きで、いつも一緒にいた。あの頃は純粋にお兄ちゃんのことが好きで、嫌われたくないとか、自分の存在価値なんてそんなこと考えもしないで、どうしてあのまま大きくなれなかったのだろう…………。 パタン、とアルバムを閉じたとき、誰かがドアをノックした。ママだと思って「はい」と言ってからドアを開けると、そこにはお兄ちゃんが立っていた。 「……なあに?」 「の好きなテレビ番組やってるよ、見ないの?」 「うん、今日は見ないの……」 「元気ないね、何か嫌なことでもあった?」 「ううん、ないよ、大丈夫。私元気だもん」 「本当?でもちょっと疲れた顔してるよ」 「してないよ。疲れてない」 「なら、いいけど。姉さんが作ったチェリーパイがあるんだって。おいでよ、一緒に食べよう」 「……今日はいい、明日食べる」 ごめんなさい、と言ってドアを閉めた。ちょっと悪いことしたな、と思っても、今はお兄ちゃんの顔をみるのがつらい。優しくしてくれるからもっとつらくなる。ふらふらとベッドに倒れ込み、目を閉じたあとも、お兄ちゃんの気遣うような笑顔を思い出してしまって苦しい。 自慢の妹になりたい。お兄ちゃんに釣り合うような人間になりたい。でも、その術がわからない。この数年間、ずっとそう思いながら行ったり来たりを繰り返している。 「……ごめんなさい……」 迷路みたいになっていて、出口が見つからない。 「ごめんなさい……、おにいちゃん……」 −−−−− 「今日不二くんの妹ちゃんに会ったよ」 「すっごく可愛いね、お人形さんみたい」 体育の授業が終わって、更衣室に向かっていると同じクラスの数名の女子に話しかけられた。のことについてきゃあきゃあ言っている彼女たちに、となりを歩いていた英二が「あんまり不二の妹に構うと可哀想だろー」と釘を刺すと、「うるさいなあ、菊丸は!」と鬱陶しそうな顔をして、口々に英二の文句を言いながら「不二くんまた今度話すね」と去っていった。 「何なんだよ、あの俺と不二に対する態度の違いは」 「まあまあ、英二」 「俺も不二と同じ人間だっつーの!」 ぶつぶつ言っている英二をなだめながら、さっきの彼女たちの言葉を思い出す。がお人形か……、それはあながちはずれてはいないかもしれないな。もともと口数も決して多くなく、感情を顕著に現すことのなかった子だったけれど、最近はさらにその傾向が強くなってきている気がする。 無表情、なのだろうか。確かに人間だから、笑ったり怒ったりはするのだけれど、それほどその表情に変化がない。泣くときも、声も出さずに、涙がすうっと頬を伝っていくだけで。 「人形……、か」 「?ん、なに、不二。何か言った?」 「いや、何でもないよ。早く着替えようか」 は小さい頃からとにかく大人しくて、いたずらもしなければケンカもしないし、誰かにいじめられても誰にも何も言わない。いつも隠れて一人で遊んでいるような子だった。 僕はそんな妹のことが心配で、できるだけそばにいてあげるようにしたのだけれど、学年は違うし、テニススクールにも通っていたし、いつもそばにはいられない。 だから、自分が世間的に影響力のある人間になることで、妹を守れるようになりたいと思った。僕の妹であるということで、が周囲の人たちから守られるのなら。可愛がられるのなら。僕はそのために努力を惜しまない。 僕は妹が可愛かった。 それは、今も変わらない。 が幸せになるためなら何でもする。僕はを守るために生まれてきたのだから。 着替え終わって教室に戻る途中の廊下で、向かいから歩いてきた女子生徒二人組みのうちの一人が、僕を見て何かに気付いたらしくもう一人の女子に何ごとかを小声で話している。それからすれ違う直前で 「あの、ちゃんのお兄ちゃんですよね」 とおずおず話しかけてきた。どうやらと同級生の女の子のようだ。 「そうだよ、こんにちは。のお友達かな?妹がいつもお世話になってるね」 「はいっ、あの、同じクラスなんです。ちゃんのお兄ちゃんかっこよくていいねーっていつも言ってて……、ねっ」 「うんっ、うらやましいねって」 「はは、それはどうもありがとう。のことこれからもどうかよろしくね」 「はいっ」 二人はぺこりと頭を下げるときゃあきゃあ言いながら去っていった。それを見送ってからまた歩き出すと、ずっととなりで見ていた英二が「不二っていい兄の見本みたいだよなあ」と言ったので苦笑いをした。 いい兄、だろうか、僕は。にとって。少なくとも裕太にとってはいい兄ではなかった。だからわからないのだ、何が良くて何が悪いのか。裕太のように、僕は知らない間にのことを苦しめているのかもしれない。も、裕太と同じように僕から離れていったら、どうしようと、そんな考えがいつも頭から離れない。 あの可愛い笑顔が、声が、僕の手の届かないところへいってしまったら……? 「いい兄なんかじゃないよ、英二。僕は……」 その日の授業と部活が終わり、家に帰って玄関を上がると洗面所の明かりが扉の隙間から漏れている。何の物音もしないし、誰かが電気を点けっぱなしにしているのかと思って開けてみるとそこではが洗面台の鏡をの前に立ってぼんやりしていた。 どうしたのかと尋ねても何でもないと言って部屋に帰っていってしまった。そのあとの夕飯のときもどこか上の空だったし、食後にチェリーパイを食べようと誘っても今はいらないと言う。 最近のはこういうことが多かった。どうも元気がないし、僕にあまり関わりたがらないようだ。 避けられているのだろうか……? 自分の部屋で一人考えてみるけれど、原因がよくわからない。いや、本当はわかりたくないのかもしれない。宿題を片付けて、お風呂に入って、今日はもう寝てしまおうと早々とベッドに入って目を閉じるけれどちっとも眠くならない。 どうしてだろう、そういうときはいらないことばかり考えてしまうのだ。 もしも、を好きだという男が現われて、を連れて行ってしまったらどうしよう。 僕の知らない間にが大人になって、もう僕を必要としなくなったらどうしよう。 守るべきものを失ったとき、僕に存在する意味はあるのだろうか。 |