周助お兄ちゃんの彼女を初めて見たのはいつだろうか。

記憶の中でランドセルを背負っている私は、まだ小学生だった。学校から帰る途中で、知らない女の子と並んで歩いている制服姿のお兄ちゃんを見つけて、いつもなら「お兄ちゃん」と喜んで寄っていくのに、その時は走って逃げてしまった。

お兄ちゃんが他の人にとられてしまったようで、怖くて、悲しくて、公園で一人ひとしきり泣いてから家に向かった。だけど途中で石につまづいて転んでしまって、傷が痛かったからなのかお兄ちゃんをとられたのが嫌だったからなのかわからないけれど、立ち上がれなくて、そのまま私は道に一人座り込んでまたわんわん泣いていた。

、どうしたんだよ、転んだのか?!」

そこにちょうど通りかかった裕太くんが、声を上げて泣いている私を見てびっくりして、おんぶして家まで連れて行ってくれた。家に着くと、ママと、先に帰っていたお兄ちゃんが玄関まで出てきて、「僕が代わるよ」とそこから抱っこしてリビングまで運んでくれたけれど、私はお兄ちゃんの顔が見られなかった。


あれからだろうか、なんとなくいつも不安を感じるようになったのは。自分はお兄ちゃんに助けられて生きているのだと知ったのも、この頃だった。

優しいお兄ちゃんはもう私だけのものじゃない。お兄ちゃんが一番好きな女の子は私じゃない。

(……そんなの、やだ……)

遠くへ行かないで。離れていかないで。お願い……、



「…………おねがい……」

ふ、と自分の声に目を開くと、世界は真っ暗闇だった。どうやら夜中に目を覚ましてしまったらしい。部屋の中は時計の針の音がコチコチと聞こえるくらいに静かで、カーテンの隙間から微かに月の光が漏れていた。

……嫌なことを思い出してしまった。お兄ちゃんが彼女と歩いているのを初めて見たときの、泣きながら一人で帰ったときの、あの記憶。あれからお兄ちゃんがまた別の彼女といるところを何度か見たことだってあるけれど、思い出すのはいつもあの時のことだ。

よほど嫌だったのだろうか、脳裏に焼きついて、私自身は拒否しているのに勝手に頭の中で何度もフィルム再生される。

(…………)

何だか寝付けなくなって、ベッドの上でころころと何度か寝返りを打ち、目をつむってみるけれど眠れない。何か飲もうかと思って音を立てないように部屋を出てそろそろと階段を降りる。

キッチンで水を一杯飲んでから帰り際トイレに立ち寄って手を洗っているとき、ふと鏡を見たら自分の目が赤くなっていることに気がついた。いつの間にか泣いていたのだろうか……。

階段を上って自分の部屋に戻る途中、お兄ちゃんの部屋の前を通りかかるとキイ、とドアが開いたのでびっくりして思わず立ち止まる。

「……、どうしたの」

部屋の中から漏れる薄暗い明かりに浮かぶお兄ちゃんの顔は、どことなく心配そうに見える。「ただトイレに起きただけだよ」と言って去ろうとしたけれど、もう一度「」と呼ばれたので足を止めて振り向く。

「何か、悲しいことがあるの?」

潜めるような声でお兄ちゃんは言った。

「ううん、ないよ……心配しないで」

そう無理に笑って、私は自分の部屋にそそくさと戻った。

(…………)

ベッドの上に横になってもやっぱり眠れなくて、ぼんやり天井を眺める。小さい頃は眠れないとよくお兄ちゃんの部屋に行って、一緒に寝させてもらった。お兄ちゃんのとなりにいるとなぜだかすごく安心してすぐに眠れちゃう。

が寝るまでずっと起きてるよ」って、優しく笑うお兄ちゃんの顔。髪を撫でる柔らかい手。

中学生になっても一緒に寝たいなんて言ったら笑われちゃうかな。でも、もう一度、お兄ちゃんの腕にぎゅってされてみたい。朝、目が覚めるまでずっとそばにいてほしい。


「……お兄ちゃん」

気が付くと私は、お兄ちゃんの部屋のドアをノックしていた。2、3回音を立てると静かにドアが少し開いて、部屋の中のぼんやりとした明かりが暗い廊下にもれた。

「どうしたの?」

眠れないの、と私が言う前に「眠れない?」と優しくお兄ちゃんが問いかけたので、ただそれにうなずく。それからドアが大きく開いて、吸い込まれるようにすうっとお兄ちゃんの部屋の中へと入っていった。

昔のように私は、そのままベッドの中へと潜り込む。サイドテーブルに置かれているオレンジ色したランプが、柔らかく部屋の中を包み込んでいる。ふと見ると、お兄ちゃんは、ベッドに腰掛けて私のことを見下ろしていた。

「寝るまで起きてるからね」
「一緒に寝たいの……」
「でも二人で入ったら、ちょっと狭いよ」
「いいの、お兄ちゃんと一緒がいい」

わがままを言って、お兄ちゃんがちょっと困ったような顔をして笑う。いくつになっても大人になれない私のことを、呆れているのだろうか。じゃあ、とお兄ちゃんがベッドの中に入ってきて、私はまるで子猫のようにすり寄る。

優しいお兄ちゃん。世界で一番大好き。誰にもとられたくない。

(このまま、時が止まってしまえばいいのに……)

目を閉じても消えてくれない、お兄ちゃんの彼女の姿。それはみんな綺麗な女の人。お兄ちゃんにはいつも絶え間なく彼女がいるみたいだ。 ママや由美子お姉ちゃんは、お兄ちゃんの彼女のこと知ってるみたいなのに、私にはいつも教えてくれない。それは、私が子どもだから?

でも私、お兄ちゃんの彼女のことを考えると、苦しくて息が出来なくなるし、お兄ちゃんがその彼女のことを抱きしめてるところを想像しただけで、涙が出来てくるのは、どうして?それも私が子どもだからなの?大人になればそうならなくなるの?

「ねえ、お兄ちゃん……」
「なに?
「お兄ちゃん、のこと好き……?」
「どうしたの、急に」
「……」
「もちろん、好きだよ」


綺麗な彼女よりも?


「じゃあ、お兄ちゃんは、がお兄ちゃんの妹じゃなかったとしても、のこと好きだった?」
「……何かあったの?」
「ううん……何でもない。おやすみ、なさ……」

おやすみなさいを言い終わる前に、なんだか涙が溢れてきて、それはぽろりとこぼれていった。お兄ちゃんは少し驚いた感じで、でもすぐいつもみたいに落ち着いた優しい笑顔になって、ティッシュで私の顔を拭いてくれた。

、何かあるなら言ってごらん」
「ううん……何もないの。泣いたりしてごめんなさい……」

本当は、胸が苦しくて苦しくて今にも張り裂けちゃいそう。
だけど目を瞑って、そのまま寝た振りをする。

お兄ちゃんのとなりで笑う綺麗な女の人。私も、もし妹じゃなかったなら、あんな風にとなりにいられたのかな。だけどきっと、妹でもなんでもなかったなら、この顔で生まれたのじゃなかったなら、お兄ちゃんは私を好きと言ってくれない。


(お願い、私からお兄ちゃんをとらないで)

叫びたくてもできない。ただ怖くて、小さく身を丸めているだけの私。嫌われたくなくて、何も言えない。
近頃私は、お兄ちゃんに妹として好かれたいのか、それとも……。よくわからなくなっていた。

お兄ちゃんと同じ顔をしている私。だから居場所がある。だから、みんな私のそばにいてくれる。

じゃあもし私がお兄ちゃんの妹じゃなかったら……?みんな離れていくけど、一人になるけど、でも、みんな私自身を見てくれるし、もしかしたらお兄ちゃんの彼女になれるかもしれない。
妹じゃないから、血が繋がってないから、顔が同じじゃないから。彼女に、なれるかもしれない。

(…………)

(何、考えてるんだろう、私……)



妹じゃなければ、好きになってくれることもないのに。


妹じゃない私に価値なんてないのに。



−−−−−



近頃、やはりどうにもの様子がおかしい。何も言わない子だから、きっと、悩んでることがあっても口に出したりはしないのだろうけど。原因を考えてみるにも今いちよくわからずに、ベッドの中で少し眠ってはまた起きるのを繰り返していた。

(……誰だろう)

浅い眠りの中、遠くで誰かがドアを閉める音が聞こえて、意識がぼんやりと目覚める。
パタパタという小さな足音が僕の部屋の前を通り過ぎ、きっとこれはだと思う。こんな夜中に、トイレにでも起きたのだろうか。

起き上がって、ベッドの横の小さいランプをつけるとそのオレンジの淡い光をぼんやり眺めていた。するとしばらくして再びさっきの足音がこちらに帰ってきたので、立ち上がって静かにドアを開くと、少し驚いたような顔をしたと目が合った。

「……、どうしたの」

薄暗い中でもの目のあたりが赤くなっているのが見える。泣いていたのだろうか。けれどは何でもないと言って行ってしまおうとする。呼び止めても何でもないとしか言わない。

心配だけれど、あまりしつこくするのも嫌だろうから、気になりつつも僕はが部屋に入るのを見届けてからドアを閉めてまたベッドに入った。

(……さて)

目を閉じても一向に眠くならない。のことを考えると、睡魔は余計にどこか遠くのほうへ逃げて行ってしまうようだ。どうしたものかと思っていると、遠慮がちに僕の部屋のドアを叩く音が聞こえた。

それは開ける前からだとわかっていた。眠れないからだともわかっていた。
中に招いてベッドに寝かせると、きっとは僕と一緒に寝たがるだろうと、それもわかっていた。

「でも二人で入ったら、ちょっと狭いよ」

そうしたら彼女は何て返すだろう。そうだね、と言うだろうか。それとも。

はいつまでも可愛い妹のまま。体は日に日に成長しても、その心はいつまでも幼くて、お兄ちゃんお兄ちゃんと僕を慕ってくる。誰にも渡したくない。ずっとそばにいられるものなら、そう、いつまでだって。

だけど、僕は知らなかったんだ。

「じゃあ、お兄ちゃんは、がお兄ちゃんの妹じゃなかったとしても、のこと好きだった?」

がそんなにも悲しそうな表情を隠し持っていたなんて。そんなことを心の中で考えていただなんて。顔には出さなかったけれど僕は一瞬動揺した。

可愛い。きみが何をそんなに不安に思うことがあるの?

きみを傷つけるどんな苦しみからも悲しみからも、僕が守ってあげるのに。きみはただ、安全で温かい籠の中で穏やかに過ごしているだけでいいのに。どうして泣いたりするの?



「…………おはよう」

翌朝、先に起きてダイニングで朝食とっていると、しばらくしてパジャマ姿のが目をこすりながら階段を降りてきた。右隣に座っていた由美子姉さんが「どうしたの、目が赤いわよ」と心配するけれど、なんでもないの、と言って洗面所へ行ってしまった。

「何かあったのかしら。周助、あなた知らないの?」
「……さあ」

とぼけて笑って見せると、姉さんはそう?と少し不思議そうな顔してからコーヒーカップをカチャリとソーサーに置き、「行ってきます」と出かけて行った。少しして、外で姉さんの車のエンジン音が聞こえる。

、クロワッサン焼いたの。食べるでしょう?」

戻ってきたに、にこにこと話しかける母さんに彼女は小さく「うん」とだけ答える。そのまま僕の向かいの席にちょこんと座るけれど、こちらは見ない。紅茶にサラサラと砂糖を入れて、 それからクロワッサンにジャムをつけて食べるところを眺めていたけれど、目が合うことはなかった。




「不二おはよー!……どったの、元気ないじゃん」

部室の前で後ろから、英二にポンと肩を叩かれてはっとする。僕はそんなに落ち込んでいる風だったろうか。いけない、と思い「何でもないよ」、と無理に笑ってみせた。

それから朝練を終えて校舎に向かって英二と歩いていると、校門の辺りにちょうど登校してきたところのを見つけた。

「あ、不二の妹だ」

校門を入ってきたの周りには、数人の女の子がいる。中にはこの前僕に挨拶をしてきた二人の女の子もいた。その子たちに何事かを話しかけられて、はそれに笑ってうなずくようにしながら歩いている。

「たしかにちゃん可愛いよにゃー」
「そう?」
「不二は家族だから、よくわかんないんだよ。あれは学校の中でもそーとー目立ってるぞ!」
「……そうなのかな」
「あーあ幸せだなあ、不二は。あんな可愛い妹がいてさあ」

うちなんてさあ〜、と愚痴っぽいことを話し始める英二に、少し苦笑いをしながらあいづちを打ちつつも、頭の中では違うことを考えていた。

が可愛いと褒められる。それはありがたいことだ。素直に、妹を褒められれば兄として嬉しいし、それに人間はきっと本能的に、可愛いものを保護したくなるだろうから。

だけど、なぜだろう。少しだけもやもやした。

僕がみんなからを可愛いと思ってもらいたいのは、いわば小動物や赤ちゃんのような可愛さであって。でも英二の言っているそれは僕の理想とは少し違うような気がした。

まるで、異性に対する恋愛感情が絡んでいるような、……。

おそらく僕の妹としか思っていない英二でさえ、そうなら、きっとと同じクラスの男子生徒なんて。
好きではないまでも、そんな風に思っていても不思議ではないのではないか?

(…………)


「……じ、不二、おーい!どうしたんだよ」
「え、あ、ごめん。僕、ぼうっとしてた?」
「してたよ、思いっ切り。よく考え事しながら歩けるなあ」

気が付くと、もう教室の入り口のところまで来ていた。英二にもう一回謝ったあと、中に入って、自分の席に着く。それからじきにチャイムがなると、担任がやってきて朝のホームルームが始まった。

今まで何となく不安に思っていた、誰か知らない男が現れてを連れていってしまうというぼんやりとした思案について、現実的なはっきりとした方程式がわかってしまったような気がした。


(…………に、さわるな)

いらいらしている自分に気がつき、なんて可笑しいんだろうと思う。自分は彼女を持っているくせに、にはそうあって欲しくない。こんなのただのエゴでしかない。


英二。僕は、いい兄なんかじゃないよ。