お兄ちゃんに嫌われてはいけない。ずっと私のことを守ってくれていたお兄ちゃんに見捨てられてしまったら、私はこの先どうやって生きていけばいいのかわからない。

だから、まさか「彼女になれたら」なんてそんな馬鹿な考えは早く捨てて、一日も早くお兄ちゃんにとって自慢の妹になれるように努力しなくてはいけない。私は「不二」として生まれたから。お兄ちゃんの妹として、生まれたから。それ以外にはなれない。

この顔で生まれたのでなければ、きっとお兄ちゃんは私のことなんて一生知ることもなくて、話すこともなくて、どんなに私が好きと思っても、私のことなんて気付いてもくれないで、そのまま死んでいったのに違いない。

だから、生まれたときからずっとお兄ちゃんがそばにいてくれて、守ってくれて優しくしてくれて、これ以上一体何を望むというの?

(……ごめんなさい)

この前の夜、お兄ちゃんにあんなことを聞いてしまって、呆れてしまっただろうか。馬鹿だと思っただろうか。お兄ちゃんの妹でなければ、私がこの世に存在できるはずもないのに。

嫌いにならないで。どこにも行かないで。
もう、そんなことは言わないから。思ったりしないから。





、今日もテレビは観ないの?」

夕ご飯を食べ終わったあと自分の部屋に戻っていたら、誰かがノックする音が聞こえたので開けたらそれはお兄ちゃんだった。微笑んでいるけれど、ちょっと私の様子を伺うような、そんな感じに見えた。

「……うん、いいの。宿題やらなくちゃいけないから」
「そうなんだ。よかったら、僕、みてあげようか?」
「…………」
「一人でやるより、早く終わるんじゃないかな。ね、。その方がいいよ」
「……うん」

本当は、勉強だって自分で頑張っていい点をとらなきゃと思うのに、いつだってお兄ちゃんに甘えてしまう自分がいた。こんな風に優しくしてくれるのは、もしかしてこの世界で私だけなんじゃないのかなと思う度に、この胸は「嬉しい」と言いながら、「苦しい」とも言っていた。


「……で、xとyがこうなるんだけど、ここまでわかる?」
「……うん……」

お兄ちゃんはいつも私にもわかるように丁寧に教えてくれて、それで解けるとすごく褒めてくれる。自慢の妹とはまるで程遠いのに、そんな私にでも、お兄ちゃんはいつだって優しくしてくれる。良くしてくれる。

それは私がお兄ちゃんの妹だから。不二だから。

「どうしたの、。ちょっと疲れちゃった?」
「ううん、大丈夫。ごめんなさい、続けてください」
「そう?無理しないで。疲れたら、そう言っていいんだよ」
「ほんとに大丈夫なの……」

(お兄ちゃんの妹じゃなければ、私のことなんて、知らない……)

会っても、きっと目も合わせてくれない。名前も呼んでくれない。話してくれない。優しくしてくれない。
ただ遠くから眺めるしかできない私のことを「誰?」って言うお兄ちゃんを想像してみたら、感じたこともないような悲しみが襲ってくるようだった。

(……そんなの、いや……)


「……どうしたの。大丈夫?」
「……え、」

気がつくと、私の頬をお兄ちゃんが撫でていた。なんで?と思ったけれど、やけに視界がにじんでいて、しばらくしてから自分が泣いていることがわかった。

「あ、ごめんなさい……なんでもないの……」
「何でもなくないよ。どうしたの、何かあるなら僕に話してみて」
「……ほんとに、なんでも……」
。お願いだから、もっと僕を頼って。何でも言ってくれていいんだよ」
「…………」

お兄ちゃんの妹でなければ、生きてはいけないことくらいわかっているはずなのに、それなのに「妹」と呼ばれる度に苦しくなるの。だってその名前は、一生お兄ちゃんの彼女にはなれない、結婚することはできないっていう意味だから。

は妹。

それは生まれる前から決まっていたこと。


「……は、お兄ちゃんの妹なの……」
「……?うん、そうだよ。僕の大事な妹だよ、

もう、そんなこと考えないようにしようと思っていたのに。いけないことだとわかるのに。それでも、お兄ちゃんの瞳を見つめる度、どうしたらいいのかわからなくなる。お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなければいいのに、なんていう不思議な感覚が襲ってくる。

いつか見た夢みたいに、お兄ちゃんは本当はのお兄ちゃんではなくて、の騎士だったらいいのに。そうして、白馬に乗って私のことを迎えに来てくれたらいいのに、なんて考えたこともあるけれど。

(だけど)

妹でなければ、お兄ちゃんはどこか遠くへ離れていってしまう。失われてしまう。もう二度とお兄ちゃんとお話しできないくらいなら。それなら、そんなの、望めるはずがない。

「……お兄ちゃん……」

微かに震える手を伸ばすと、お兄ちゃんは優しく包むように私のことを抱きしめてくれた。生まれた瞬間から手に入れていたこの温もりを、他の誰にも渡したりしたくない。これは、私のもの。全部全部、私の。

「お兄ちゃん、のこと好き……?」
「うん、のことが世界で一番好きだよ」

お兄ちゃんの「妹」と呼ばれるのを許されたのは、この世界中で私一人だけ。だから、「妹」と呼ばれ続ける限り、私はずっとずっとお兄ちゃんのそばにいられるし、みんなそれを認めてくれる。誰にも邪魔なんてできない。

「……どこにも行かないで……ずっとのそばにいて」
「僕はずっとのそばにいるよ。どこにも行ったりしないから、泣かないで」



私は、永遠にお兄ちゃんの恋人にはなれない。

けれど、

私は妹だから、永遠にお兄ちゃんを手に入れたの。



−−−−−



は僕の妹であって、家族だ。だからいつか、をどこの誰とも知れない他人に渡さなければいけなくなったときも、僕にはそれを否定する権利がある。

これまでずっと守り続けてきた大切な僕の妹を、少しでも傷つけて悲しませるようなことがあっては許さない。には、これからも温かい場所でただ幸せに暮らし続けて欲しいから。

(……簡単には渡さない)

願うなら、どこにも行かずにずっと僕のそばにいて欲しい。を、誰の手にも触れさせたくない。
たとえそれが無理なことだとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。の兄として生まれた以上、僕は、を守り続けたい。だってそれは、生まれたときから決まっていたことだから。

けれど、はそれを望んでいるだろうか?

もし、僕の妹でなかったとしても、自分のことを好きだったかと聞いてきた悲しそうな。それは、どういう意味なのだろうかと、あれからもずっと考えていた。は、僕の妹でなかった人生のことを、考えていたりするということなのだろうか。

の兄でない僕は、一体、どんな僕?彼女は、僕が兄ではなかったほうがいいと思うのだろうか?

(……、そんな風に思わないで)

のいない僕の人生なんて、考えたくもない。可愛い妹がいてくれて、僕は本当に幸せだった。守るものがあるということは、こんなにも幸福なことなのだと身を持って知ることができたから。

だから、どうか僕を置いていかないで……





、今帰るところ?」
「あ……お兄ちゃん」

今日は部活がいつもより早く終わって、英二たちはどこかで何か食べて帰ろうと話していたけれど、僕は校門の辺りでを見かけたので誘われるより先にそれを断って、急いでそばまで行った。

「僕もちょうど今帰るところなんだ。一緒に帰ろうよ」
「……うん」

が僕の部屋に来たあの夜からも、彼女のどこか遠慮がちな態度は変わらなかったし、むしろその傾向が強くなったような気がする。僕は極力いつも通りにしているつもりでも、やっぱりそんな風にされると、少し悲しくなるのも事実だった。

、僕を嫌わないで)

裕太のように、遠くへ離れていってしまわないで。そうなったら、僕は今度こそどうしたらいいのかわからない。今の僕には、だけが心の支えだから。それを失っては、生きていく術を見失ってしまう。

「今日は遅かったんだね。部活のある日だったの?」
「……ううん、今日はない日なの」
「そうなんだ。じゃあ、残ってお友達と話でもしてた?……でも、その割には一人だよね」
「…………」

本当は、もう中学生になったにあれやこれやと問い詰めるのはよくないことだとわかるのに、それでも僕は妹のことが気がかりで、色々と聞いてしまう。いつもなら女の子の友達と一緒に帰るはずのが、遅い時間に一人でいることが不思議だった。

「…………となりのクラスの男の子が、放課後に話があるから残って欲しいって……」
「……話?何の話?」
「…………」

僕のとなりを歩きながら、は小さな声でそう言った。本当は言いたくなかったようだけれど、嘘をつくのが苦手なは、結局は話してくれた。でも、肝心のその「話」とやらの詳細をたずねてもしばらくは何も答えなかった。

そんなこと、聞かなくたって本当はわかっていたけれど。それでも、ギリギリまで信じたくない。なんだか無性にイライラする気分で、テニスバッグを持つ手の力が強くなった。

「…………のこと、好きって……」
「……そうなんだ。それだけ?」
「ううん……。それから、付き合って欲しいって、言われたの……」
「…………」

どこの誰だか知らないけれど、随分な身の程知らずがいたものだ。を彼女にしたいだなんて、勘違いも甚だしい。何て厚かましいのだろう。お前などには、あまりにも勿体なさすぎる。

(気安くに話しかけるな)

「そう。それで、は何て答えたのかな?」

たしかに、僕も中学一年の頃に女子生徒にそんなことを言われた記憶がある。そして、特別その子に気があったわけでもないけれど、べつにいいかという気持ちで承諾した記憶も。

一緒に下校したり、休みの日に映画を観に行ったり。俗に言う恋人同士になるということに、僕は大した感動もなければ、愛着も依存もなくて、結局最初に付き合ったその子とはじきに別れてしまった。

それからそんなことを同じように繰り返し続けて、今に至る。どんな綺麗な子に「好きです、付き合ってください」と言われても、この心は揺らぐことはなく、ただただ、どうでもいいと思いながら流され続けてきた。

「……なんにも……」
「……何も?」
「なんにも言ってないの……。どうしたらいいのかわからなくて、そのまま逃げて来ちゃったの……」

はその男子生徒に悪く思っているようで、後悔するかのようにそう言った。もしも、が僕のように興味もないのに承諾していたらどうしようかと思っていたので、その回答に心底安堵している自分がいた。

「そうなんだ。そんなの気にすることなんかないよ、
「…………でも、」
「悪いのはその男子の方だよ。急にそんな話をするなんて、失礼だもの」
「……そうかな……」
「そうだよ。だからもう、その子のことなんて忘れていいんだよ。今度また何か言われても、聞かなくていいからね」
「…………うん」

は誰にも渡さない。それがたとえの好きな相手だったとしても、僕は絶対に認めない。所詮は他人に、の何がわかる?僕の大切な妹を、そう易々と渡したりなんてするものか。





「……で、xとyがこうなるんだけど、ここまでわかる?」

そんな話を聞いてから、僕は今まで以上に妹のことが心配で、何かと理由をつけてはそばにいるようになった。今日も夕食をとったあと自室に戻ってしまったが気になって、宿題を教えるという口実で部屋に入れてもらった。

けれど、問題を説明して聞かせてもやはりはどこか上の空で、何か考え事をしてばかりいる。疲れたかと聞けば、大丈夫と答えるけれど、相変わらずその表情は浮かないままだった。

の元気のない様子というのは、どうにも痛々しくて可哀想で、見ているのもつらく思える。彼女を苦しめるものがあるのなら、どんなことをしてでも守ってあげたい。周りに非難されようと、僕は、のためなら何でもできる。

いつだって、そう思っているのに。の目から透明な涙が、ぽたりと一粒こぼれるのが見えた。

。お願いだから、もっと僕を頼って。何でも言ってくれていいんだよ」

もっと僕を必要として欲しいのに、はいつだって何も言わないで我慢してばかり。どうしてなのと思いながら、その濡れた白い頬をそっと撫でることしかできない自分が歯痒く、なんて不甲斐ない。

兄でありながら、何もできない僕を許して。


「お兄ちゃん、のこと好き……?」

けれど僕の腕の中では、あの夜のように小さく震えた声でそう聞いた。
……それならは、僕を必要としてくれているのだろうか?もしかしたら、僕はにいらないと思われているのではないだろうかと思っていたので、そう言ってくれることが本当に嬉しかった。

その小さな体を抱きしめる力が少しだけ強くなった気がする。

「うん、のことが世界で一番好きだよ」

。僕には、この世でよりも好きなものなんて、ないんだよ)

誰より何よりが一番大切だから。それはきみが生まれたときからずっと決まっていたことだから。
僕はを守るために生まれ、そして生きてゆく。これからも変わることなんてない。

「……どこにも行かないで……ずっとのそばにいて」

人形のように可愛い。あどけなくてか弱くて、素直で、どこまでも無垢な笑顔。僕からそれを奪おうとする者はたとえ誰であろうと決して許さない。どんな手段を使ってでも、絶対に渡したりなんてしない。

「僕はずっとのそばにいるよ。どこにも行ったりしないから、泣かないで」


(…………)

けれどいつからか、を守りたいという意識について、そんな考えは本当はただ自分のためのエゴイズムであることに気がついていた。僕は、がいなくては生きていく理由がわからないから。を失うのは、死ぬことよりも怖いから。

のいない僕に、守るもののない僕に、一体どんな価値があるというんだ……?


(……誰にも渡さない。永遠に)





英二。僕は、いい兄なんかじゃないんだ。

そんなの、なりたくもないよ。