ベイビー・ドール 「……お兄ちゃん」 私は、玄関で靴を履いているお兄ちゃんの後ろ姿に向かって小さく声を出した。するとそれに反応して、お兄ちゃんはこちらを振り返る。 「。起きてたの」 まだ起きたばかりでパジャマ姿のままの私とは対照的に、周助お兄ちゃんはもうすっかりと支度が整っていた。 「どこに行くの……?」 そんなの、聞かなくても知っていた。お兄ちゃんがお休みの日の朝に「ちょっと出掛けてくる」と出て行く時は、彼女とデートの日なんだって。 それでも、わかっていても、私は聞いた。 ママはみんな知っているみたいだけど、でも、いつだって私は知らない。詳しいことを教えてはくれない。私は、それが悲しくて苦しくて、いつも泣きたくなる。 「友達と遊びに行くんだよ」 そう返すお兄ちゃんの表情はいつも通り穏やかで、落ち着いていた。だけど、私は本当のことを知っているから。優しい笑みが、グサリとこの胸に刺さる。 (……嘘だ) その人は”友達”じゃ、ないのに。 「そうだ、帰りにの好きなケーキを買ってくるよ。駅前の、あの人気の店のさ」 「……」 「夕方には帰るから。楽しみにしてて、ね」 私は何も言えなくて、ただこくりと頷くしかできなかった。 それから「じゃあね、」とお兄ちゃんが玄関のドアを開けて、そしてそれが閉まって一人残されてからも、やっぱり黙ったままだった。 「ただいま、。ケーキ買ってきたよ」 言っていた通り、お兄ちゃんは夕方には帰ってきた。 「まあ、よかったわねえ」 にこにこと私を見つめるママとお兄ちゃんに、笑い返したつもりだったけれど、上手くできていたかはわからない。 いつもなら嬉しいはずのケーキも、今日はなんだかそう思えなかった。だって、朝から一日中お兄ちゃんのことばかり考えていて、ずっとずっと、もやもやとしていたの。 お兄ちゃんが帰ってくるまでの時間が、まるで、永遠のように感じた。 今頃どうしているだろう。何を話してるんだろう。手を繋いでる?キスをしてる……? お兄ちゃんは、私よりも、その女の人のことの方が大切で、好きなのだろうか。 そう思えばこぼれるのは溜息と、涙ばかり。考えたって仕方がないのに。それでも、何度も頭の中をめぐりめぐって。 お兄ちゃんは私のことを世界で一番好きと言ってくれた。大切な妹だって、言ってくれたのに……。 それならどうして、彼女なんて作ったりするの。 「、こっちにおいで」 リビングのソファに座るお兄ちゃんに手招きされて、私は黙ったまま近付いていくとゆっくりとなりに腰掛けた。 テーブルの上に置かれた紙の箱の中にはキラキラと、まるで宝石みたいにデコレーションされたケーキ達。 「どれがいい?が最初に選んでいいよ」 優しく背中に手を当てながらたずねられて、私は、少しの間まばたきばかりを繰り返していた。ケーキを眺めながら、頭の中では違うことを考えてしまう。 ケーキを買う時も、彼女は、そばにいたのだろうか。このお店が駅前なら、今日は電車でどこかへ行ったのかな。それとも……、 横目でちらりとお兄ちゃんの顔を見ると目が合って、にこりと笑ってくれる。 「どうしたの、。どれにするか悩んでる?」 「うん、……」 「どれがいいの」 「えっと……、これと……これ」 ケーキを迷っていたわけではないけれど、本当は彼女のことを考えていたなんて言えず、私は可愛らしい見た目のケーキを二つ、指差した。 「それなら、僕の分もにあげる。どっちもが食べていいよ」 「……」 「ね、それなら悩まなくて済むでしょ?」 微笑んで私の顔を覗き込むお兄ちゃんから、思わず視線を逸らしてしまった。 箱の中のケーキをじっと見つめながら、優しく包み込むように私の背中に回されたお兄ちゃんの手の温もりに、この心臓はどきどきとやけに大きな音を立てる。 「でも……、」 「いいんだよ。のために買ってきたんだから」 「……」 「が食べてくれた方が、僕も嬉しいな」 私は俯いてしまって、嬉しそうな笑顔が作れなかった。本当は嬉しいと思ってる。優しくされて、大事にされて、幸せなはずなのに。 ただ呟くように小さく、「ありがとう」と返すのが、精一杯だった。 (……お兄ちゃん) 他の誰にも笑わないで、優しくしないで。ずっと、私だけのお兄ちゃんでいて欲しいのに……。 それからいくらか経った日の夜、私はお兄ちゃんと一緒にリビングでドラマを観ていた。すると、お兄ちゃんの携帯に、誰かから電話が掛かってきた。 お兄ちゃんは携帯を持つとそのままリビングを出て、廊下でその誰かと話をしている。 「……うん、わかった。じゃあ、明日ね」 全部は聞き取れなかったけれど、それでも、明日誰かと出掛けるらしいことはなんとなくわかった。 明日……。 明日は、お休みの日だ。以前なら、休日でも部活ばかりだったけれど、秋になって引退した今はそれももうない。 部活の話じゃない。それなら、…… あの電話は彼女からだろうか。また、彼女とどこかへ行くのかな。 途端に胸がざわざわとし始めた。こんなことはべつに初めてではない。これまでにいくらでもあった。それなのに、いつまで経っても平気になんてならない。 そうなれば、さっきまで観ていたドラマの内容なんて、もう少しも頭の中になんて入ってこなくなった。 電話が終わって戻ってきたお兄ちゃんは、またさっきと同じように私のとなりに腰掛けた。その横顔はやっぱり穏やかで、ちっとも変わった風なんかない。 誰から、何の用事。明日、どこへ行くの。 聞いたところで、きっと私には、本当のことを教えてはくれないのに……。 「お兄ちゃん、」 ドラマが終わると、私は、堪え切れずに声に出していた。少しフライング気味で、まだ、次回予告が終わり切っていなかったけれど。 「なあに、」 優しく笑い掛けるその瞳と視線が合うと、また少しどきどきとした。 「あの、……明日、どこかに行くの」 お兄ちゃんは、私とだってよく一緒に出掛けてくれる。新しくできたカフェとか、話題の映画とか。私が行きたいと言えば、すぐに「いいよ」と頷いてくれるし、お兄ちゃんから誘ってくれることも多い。 私はそれがすごく嬉しかった。手を繋いで街を歩けば、まるでお兄ちゃんを独り占めにできているような、そんな気持ちになれて心地よかったから。 彼女もきっと、そんな気持ちになっているだろうか。 だから、嫌なのかもしれない。 「ああ、うん。友達と出掛けるんだ」 「お友達……、って?」 「同級生の子だよ」 お兄ちゃんは、慌てた様子もなければうっとうしがるわけでもなく、至って普段通り。穏やかな声で、優しく答えてくれる。 「いっぱいで行くの……?」 「ううん、二人だよ」 二人……。その言葉に、胸がきゅっとなる。それなら、それは女の人だろうか。 どうせ隠すのなら、全部全部、嘘を吐いてくれればいいのに。部活が一緒だったみんなとだとか、本当は違っても、そうだと言ってくれたらよかったのに。 「どこに、行くの」 「水族館に行くんだ」 「……」 これ以上聞いたって仕方ない。だってもう答えは出てるでしょう。 そう思っても、胸の中でヤキモチみたいなもやもやした気持ちはどんどん大きくなっていく。 「……も、行きたい」 ぽろりと口からこぼれ落ちた言葉に、お兄ちゃんは少しだけ驚いたような顔をして、ぱちぱちとまばたきをした。 私、何を言ってるの。 「も一緒に行きたいの」 どうしちゃったんだろう。今まで、ずっとそう言いたくても我慢してきたのに。 「、水族館に行きたいの?」 「……うん」 違う、お兄ちゃんと一緒がいいだけ。誰か女の人が、お兄ちゃんのそばにいるのが嫌なだけ。 こくりと頷く私の頭を、お兄ちゃんは優しくそっと撫でる。 「それなら、は来週僕と一緒に行こう」 「……明日がいい」 「明日は、友達と一緒なんだ」 「がいたら、だめなの……?」 上目遣いをして、じっとその目を見つめた。お兄ちゃんは珍しく、うーん、と言って困った顔をしてる。困らせたくなんかないのに、ずっと押さえていた感情が、言うことを聞かない。 彼女とのデートについて行って、一体、どうするつもり。 私、二人の邪魔をしたいのかな。 「……ごめんなさい」 「?」 「やっぱりいいの。わがまま言って、ごめんなさい」 お兄ちゃんが彼女と一緒にいるのは嫌だけど、でも、そんなことしたって仕方がない。無理言ってついて行ったところで、綺麗な彼女の顔を見たら、きっと、もっとつらくなる。 「ごめんね、。来週必ず一緒に行こう。ね、約束するから」 「うん……」 違うの、べつに、どうしても水族館に行きたいわけじゃなかったの。ただ、お兄ちゃんをとられるのが嫌だったから。 私だけのお兄ちゃん。生まれた時から、だけの大好きなお兄ちゃんなのに……。 「ほら、見てごらん。ペンギンだよ、可愛いね」 次の週のお休みに、約束通りお兄ちゃんは私のことを水族館につれて来てくれた。 二週も続けて同じ場所に来るなんて、お兄ちゃんには悪いなと思ったけれど、あんなに一緒に行きたがる振りをしておきながら今さら水族館でなくてもいいとは、とても言えなかった。 「うん、可愛い」 「いっぱいいるね。あの子はまだ子どもかな?」 つい先週同じものを見たはずなのに、お兄ちゃんはちっとも飽きた様子なんて見せなくて、ずっとにこにこと私に話し掛けてくれる。 手を繋いでゆっくり歩きながら、家族連れとかカップルとか、色んな人達と並んで大きな水槽の中を眺めた。 薄暗い建物の中にはあちらこちらに珍しい魚や海の生物がたくさんいて、眺めるのは楽しかったけれど、以前に彼女と一緒に来た場所なのだと思い出してしまえばなんだか少し苦しくなる。 「。ここは暗いから、気を付けて」 「うん……」 このエリアでは、暗闇の中で色とりどりのライトに照らされながらふわふわと、たくさんのクラゲが漂っている。 ずっと手を繋いでいたお兄ちゃんの握る力が、少しだけ強くなった。 水槽を眺める人達は、みんなうっとりとした目をしている。綺麗だね、と私達のすぐ近くで話しているカップルの女の人に、勝手にお兄ちゃんの彼女の姿を重ねてしまう。 二人も、こんな風に手を繋いで、綺麗だねって言い合ったのだろうか。 「クラゲも色んな種類がいるんだね。ね、見て。このクラゲなんか、小さくて可愛いよ」 「……うん」 せっかくお兄ちゃんが連れて来てくれたのに、私はずっと上の空だった。水族館の中に彼女の面影を探しては、勝手に傷付いてる。 (何やってるんだろう……) もっと明るくしなきゃ、楽しそうにしなきゃ。そう思うのに、ガラス越しに泳ぎ回るきらきらと輝く魚達を眺める度に、なんだか泣きたくなる。 「、大丈夫。ちょっと疲れちゃった?」 「え、あ、ううん。そんなことない……」 「ちょうどあそこに椅子があるから、少し休もうか」 私達は隅の方の、小さな生き物がいるコーナーの近くにあった椅子に、二人並んで腰掛けた。 かえるとかトカゲとか、小ぶりな水槽が並んだ辺りには、時々ちらほらと通りかかる人がいるくらいで、随分と静かだった。 「、楽しい?」 「……うん」 「そう、ならよかった」 ちっともそんな風には見えてないかもしれないけど、いつだってお兄ちゃんは私を責めたりしない。だけど、一緒に来られて嬉しいのは本当だった。 「次はどうしようか。は何が見たい?」 「えっと、……」 入り口でもらったパンフレットを広げて眺めながら、うーんと考える。そんな私の様子を、お兄ちゃんは優しく笑いながら見守っていた。 「アザラシが見たいな」 「へえ、アザラシか。もう少し先に行ったところだね」 近付いて一緒にパンフレットを覗き込んでくるお兄ちゃんの髪がさらりと揺れて、シャンプーのいい香りがする。自分だって同じものを使っているのに、なんだかお兄ちゃんの香りは特別のような気がする。 その長い睫毛に見惚れていたら、目が合いそうになって、慌てて視線を手元に戻した。 「もうちょっと休む?」 「ううん、平気」 「じゃあ、そろそろ行ってみようか」 少しの間そこで休んだ後、私達はアザラシが展示されている場所まで移動した。 アザラシ達はみんな丸々としていて、目もくりんと大きい。私は、可愛いね、と言うお兄ちゃんの言葉に頷いた。 「見て、アザラシの赤ちゃんがいるよ」 「ほんとだ」 「小さいね。みたいで可愛いな」 まだ模様が出ていなくて、白くふわふわしたアザラシの赤ちゃんを眺めながら、お兄ちゃんは目を細めて言う。私は、「みたい」という言葉に反応して、思わずぱっと横顔を見上げてしまった。 「に似てる……?」 「うん。ちっちゃくて可愛いよ、ほら」 「……は、……赤ちゃんなの?」 お兄ちゃんは、からかったりするつもりなんかなくて、きっと本当に可愛いと思ってそう言ってる。まるでぬいぐるみみたいに愛らしい姿に例えられて、褒められてるはずなのに、なんだかチクリと胸が痛い。 「、どうかした?」 「……。ううん、なんでもない」 小さく首を振って、いつも通りの顔をした。 やっぱり、お兄ちゃんにとって私は「妹」でしかなくて、ずっとずっと子どもに思われているんだ。どんなに大切にされても、結局は、だって妹だから。 それはとっくに理解したつもりの事実だった。彼女になれない代わりに、私はずっとお兄ちゃんのそばにいられる。優しくしてもらえる。大切にしてもらえる。だから、それでもいい。そう、思っていたのに……。 「ちゃんの鞄についてるキーホルダー、可愛いね」 「あ、ほんとだ。アザラシ?」 週明け、休み時間にクラスで友達と話していると、一人が途中で気付いたらしく私の鞄を見てそんなことを言った。すると、他の子もそれに反応する。 「お兄ちゃんに買ってもらったの」 「へえ〜、どこか行ったの?」 「うん。一緒に水族館へお出掛けしたんだ」 「えーいいなあ!ちゃんのお兄ちゃんて、ほんとに優しいね」 みんながお兄ちゃんのことを、かっこいいとか、優しいとか、褒めるのを口元だけ笑みを作りながら黙って聞いていた。 優しいよ。には、誰よりも優しくしてくれる。だっては、妹だもん。 「あ、ねえ、あれちゃんのお兄ちゃんじゃない?」 誰かがそんなことを言って、みんなが一斉に窓へと視線を向ける。それから近付いて行って、身を乗り出すようにして校庭にいる3年生達を眺めた。どうやら、お兄ちゃんのクラスの次の授業は体育らしい。 「ちゃん、毎日あんなかっこいいお兄ちゃんと一緒にいられるなんて羨ましいなあ」 「ほんと!私もお兄ちゃんいるけど、全然違うもん」 楽しそうに笑う彼女達と並んで、遠くに見えるお兄ちゃんの姿を黙って眺める。学校の中で見掛けるお兄ちゃんは、いつも家で見るお兄ちゃんとは少し違うように感じて、いつも不思議な気持ちになった。 しばらく見つめていると、気が付いたのかお兄ちゃんはこちらに向かって手を振った。 「あっ、ちゃんに手振ってるよ」 みんなが、きゃあきゃあと騒ぐ。普段なら振り返すけれど、今日はそれができずに手は窓枠に置いたまま。なぜだか急に恥ずかしくなって、体が熱くなってくる。そのままお兄ちゃんの姿から目を逸らして、俯いてしまった。 「ちゃん、どうしたの」 お兄ちゃんのことが好き。優しいお兄ちゃん。だけの、お兄ちゃん。 だけど、どんなに好きでも、お兄ちゃんには私が子どもにしか見えない。妹でしかない。大好きと想う気持ちは、胸の中で大きく膨れ上がって、もう、行き場なんて見つからないの。 「。今日僕が手を振ってたの、わかった?」 夕ご飯を食べている時、向かいに座っているお兄ちゃんが笑顔でそう言った。私はそれに、「うん」とだけ答えて頷く。 「周りにいたのは、お友達?」 「うん、……」 昼間の、どきどきとした気持ちを思い出してしまって、まっすぐに顔が見られない。あんなにみんなが騒いでいたお兄ちゃんが、今、同じ家の中で目の前にいると考えればやっぱり不思議に感じる。 「なあに、周助。あなたまだ学校でにそんなことしてるの」 小さく頷くしかいられないでいると、今日は仕事から早く帰って一緒に夕食をとっていた由美子お姉ちゃんが、お兄ちゃんにそんなことを言った。 「いけない?」 「だってもう中学生なんだから、いつまでも兄に構われるのは嫌でしょう」 「手を振っただけだよ」 なんでもない顔をして答えるお兄ちゃんに、お姉ちゃんは少し呆れた様子で小さく溜め息を吐く。 「わかってないわね。周りに友達もいるのに、そんなことされたら恥ずかしいじゃない」 「どうして?」 「そういうものなの。裕太だって、そういうの嫌がってたわよ」 「え、そうなの」 「あなたねえ……」 終始不思議そうなお兄ちゃんと、それをたしなめようとするお姉ちゃんの会話を、私は何も言えずに黙ったまま眺めていた。ちらりと横目でママを見ると、ママは聞こえているのかいないのか。いつも通りにこにこと笑いながらキッチン立っている。 「でも、姉さん。は違うよ」 「言わないだけよ。ねえ、」 急に二人の視線が私に集中して、思わずお箸を動かしていた手が止まってしまった。 お姉ちゃんに同意を求められていることはわかっても、素直に「うん」とは頷けない。私は二人の顔を目線だけで交互に眺めながら、体は、固まったまま動かせなかった。 「、本当……?」 お兄ちゃんは、少し不安そうな表情を浮かべてる。私は今日、手を振り返してあげられなかったことを、今になって後悔した。いつだって学校でお兄ちゃんが、私のことを気にしてくれれば嬉しいのに。 「とにかく、やめたほうがいいわよ。に嫌われる前に」 そんなことないよ、って言葉が出るより先に、由美子お姉ちゃんがそう言った。だから、もうそれ以上私は何も言えなくて。ただ、黙ってお皿の上の料理を眺めるしかできなかった。 |