イン・ザ・レイン



「せいちゃん、これ……お花」
「ありがとう

せいちゃんは、にっこりと笑った。

私は毎日こうやって、学校帰りにお見舞いに来ている。そのうえ休みの日は面会時間が始まってすぐにやって来るので、もしかしたらせいちゃんはいい加減うんざりとしているのかもしれないけど、いつも笑顔で迎えてくれるからつい甘えてしまっていた。

せいちゃんがいるのは個室だから、いつも一人ぼっち。病院の中はすごく静かで、どこもかしこも真っ白だ。独特な薬品の匂いや、白衣の医師達。人々の表情は、いつもどこか憂いを帯びていて……。

だからなのか。私は、毎日毎日、せいちゃんの顔を見に来ないと気がすまない。

「夜一人で寂しくない?」
「ふふ、もう慣れたから大丈夫だよ」

この前も同じ質問をしたというのに、せいちゃんは嫌な顔一つせず何度でも答えてくれる。私はその優しい目が昔から大好きで、いつも見つめていられたらと思っていた。

……寂しいのは私の方だよ、せいちゃん。

せいちゃんが入院すると聞いた夜は不安と恐怖で眠れなかった。どこまでも続く、終わりのない白い世界。あんなところへ行ってしまったら、もうせいちゃんは二度と帰って来ないような気がしていた。

(お願い……、私を置いて行かないで)



「今日ね、真田くんに会ったよ」

私はさっき自分で買ってきた花を花瓶に移していた。水をあまり強く出すと音が大きくなってせいちゃんの声が聞こえなくなってしまうので、できるだけ音を立てないように水を入れる。

「そう、なにか言ってた?」
「うん。せいちゃんの調子はどうかって」
「真田ってば、自分だって試合前なのにね」

鏡に映ったせいちゃんの顔は困ったように笑っていた。私は、そんなせいちゃんの顔を見るとなぜだかいつも胸が苦しくなる。今日はその穏やかで優しい声が、いっそう私の胸を締め付けた。

「せいちゃんのことが心配なんだよ」

真田くんとはべつに友達、というわけではないけれど。私が毎日、せいちゃんのお見舞いに来ていることを知っているらしい。時々、廊下ですれ違うと呼び止められて、そんなことを尋ねてくる。

しかしその会話も至極簡単なものだ。端的に話す彼に対して、私も一言二言でしか返さない。時には、頷くのみで声すら発さないことさえある。我ながら、その様子を客観的に考えてみるとなかなかに不思議な光景だ。

あの時の、彼のあまりにも真っ直ぐ過ぎる眼差しが、今も胸に突き刺さるようで。


水を止めると、蛇口から何滴かしずくがしたたり落ちた。その間せいちゃんは何もせずにずっと私の方を見ている。……ただでさえ細身なのに、パジャマなんか着てるから余計に痩せて見えるんだ。

花瓶を棚に置くと、せいちゃんはその花をにこにこしながら見つめた。そんな彼の細い腕に点滴の針が刺さっているのがあまりに痛々しくて、私はいつもそれから目を逸らしてしまう。胸が、変にどきどきとした。


この部屋は耳がキーンとなるほどに静かで、一滴ずつゆっくりと落ちる点滴の音までもが聞こえてきそうだ。

「せいちゃん」
「なに?
「……雨だね」

私がそう言うと、せいちゃんはゆっくりと窓の方へ首を動かした。

「あ、ほんとだ。降ってきちゃったね」
「うん」
、傘は持って来たの」
「……ううん、忘れちゃった」

私は、雨が大嫌い。雨が降るとせいちゃんの体調が優れなくなる。私は苦しそうにしているせいちゃんを見るのが、死ぬほど嫌だった。

それなのに、私には何もできない。
何も、してあげられない。

「雨が強くならないうちに、早く帰った方がいいんじゃない」
「……止むまで待ってる」
「多分、この雨は止まないよ」
「……」
「俺の傘、貸すからさ」

本当は、傘を忘れた、というのは嘘だった。少しでも長くここにいたくて、せいちゃんのそばにいたくて……いけないとは思いつつも、そんな嘘を吐いた。自分の折り畳み傘は、ちゃんと通学バッグの中に入っているのに。

(……まだ、帰りたくない)

せいちゃんとは幼なじみで家もすごく近かったから、昔はいつも一緒に遊んでいた。

私は優しくて面倒見のいいせいちゃんのことが大好きで、同い年だというのにまるでお兄ちゃんのように思っていた。だから私はご飯もお風呂も寝る時も、とにかくいつだってせいちゃんにくっついていて、一時も離れたりしなかった。

近所のおばさん達からは「本当の兄妹みたいね」と笑われていたけれど。

せいちゃんが立海に行くと聞いた時は、私も同じ学校に行きたくて必死に勉強した。けれど、追いかければ追いかけるほど、成長すればするほど。せいちゃんは、私から遠くなっていった。

テニスが上手くて、勉強も得意だし、友達だって多い。次第に私達の身長差が広がるのと比例して、なんだか、距離も遠くなっていくような錯覚に陥って。

私はあの頃のまま、ずっと変わらず一緒にいたいと願っていたのに。

(帰りたくない)


その時、がらりと病室のドアが開いて、部屋の中に急に冷たい風が入り込んでくる。見ると、それは丸井くんだった。

丸井くんも毎日のようにせいちゃんのお見舞いに来ているらしい。らしい、というのは人から聞いただけで私がこの目で見たわけではないから。

なにしろ普段ならば丸井くんがやって来る前に私が帰るので、滅多に顔を合わせることはなかった。けれど、今日は私も来るのが遅くなってしまったので、どうやら時間帯が被ってしまったみたいだ。

「丸井」

せいちゃんが名前を呼ぶと丸井くんは適当な返事をして、窓際の椅子に腰掛けた。 私がいたからなのか、なんとなく、丸井くんは不機嫌そうに見える。

「部活の調子はどうだい」
「……ん、まあまあ」
「明日、真田に会ったらよろしく伝えてくれないか」
「……ああ」

丸井くんは、話を聞いてるんだか聞いてないんだかよくわからない。

私は窓の外の様子をうかがいたかったけど、でもそうしたらきっと丸井くんと目が合ってしまう気がして、ずっと俯いては自分のスカートばかりを見つめていた。よくわからないけれど、なんだか申し訳ないような気分になった。

シンと静まり返って、やんわりと張り詰めた空気になんだか呼吸が苦しくなる。それでも黙ったまま身動きせず、物音すら立てないようにしていると、しばらくしてカタリと椅子を立つ音が聞こえた。

……丸井くん、もう帰るのかな。

そう思ったらどこかほっとして、感じていた息苦しさが急に楽になった。……けれど、次の瞬間。

「丸井。帰るんだったら、ついでにのこと駅まで送っていってあげてくれないかな」

突然そんなことを言い出すせいちゃんの言葉にびっくりして、私は思わず顔を上げた。せいちゃんは、丸井くんに向かっていつもどおりの穏やかな笑みを浮かべている。

な、……なんで。

なに言ってるの、と言葉にならない声が喉の奥の方で燻っている。丸井くんは黙ったままドアの前まで移動し、立ち止まるとじっと私のことを見た。するとうっかり目が合ってしまい、胸がどきりと音を立てる。

私は一人で帰れるから大丈夫、と言おうとしたけれど。でもそれではなんだか丸井くんに失礼な気がして、言い出せなかった。せいちゃんに視線を送ってみても、わざとなのか気が付いてくれない。

「もう暗いし、危ないから。ね」

せいちゃんは、いつだって私のことを子ども扱いする。普段ならばそれを嬉しいと思えるのに。今は、なぜだか苦しいだけのような思いがした。

(……やだ)

そう言ってしまいたいのに。言い聞かせる様な優しい声音に、結局何も反論できずにいると、丸井くんは無言でガラリと病室のドアを開ける。よくわからないけど、その音に反応して私も慌てて椅子から立ち上がった。

肝心の丸井くんは、一切の返事をしていない。頷くことすら。それなのに。



名前を呼ばれて振り返ると、せいちゃんは私に折り畳み傘を差し出した。見覚えのある、懐かしい色。いつも彼が通学時に持ち歩いていた傘だ。

「気を付けてね」
「……うん」

嫌だ。まだ、帰りたくなんてないのに。

いつだって、せいちゃんの元から離れる時は子どもみたいに泣きたい気持ちになる。それが雨の日ならばなおさら。けれど、そんな我儘、口に出すことすら許されるわけがない。

仕方なくぎこちない笑顔を作って、小さく頷くと「ありがとう」と言った。

それから部屋の外に出て中を振り返ると、いつものようにせいちゃんが手を振っていたので振り返す。でも、当然丸井くんは振らない。「またね、丸井」というせいちゃんの言葉にすら、何の返答もなかった。


私がドアを閉める頃には、丸井くんはずいぶんと先へ進んでしまっていたので、それを早足で追いかける。

これまでに丸井くんとは話す機会もなくて、同じクラスになったこともない。なんとなく顔と名前を知っている程度だった。だから彼がどんな人なのかはよくわからないし、それはきっと彼にとっても同じだ。

私のことなんて、知る必要もないだろうけど。

丸井くんは、どんどん先に行ってしまう。一度も振り返ったりしない。私は白くて長い廊下を、ただ、丸井くんの背中ばかりを眺めながら歩いた。

病院の外に出ると、雨はしとしとと街や人々を濡らし続けている。私は、自分のではなくさっきせいちゃんが貸してくれた方の傘を開いてその中に入った。丸井くんは自分のらしき傘をバッと差して、雨の中さっさと歩いてゆく。

振り向きもしない彼に、話し掛ける勇気などなく。「丸井くん、」という呼び掛ける声は、情けないことにただこの頭の中だけで何度も繰り返されるばかり。

……きっと丸井くんは、私のことが嫌いなんだろうな。

そんなこと、彼は一言も言っていないのに。その背中を追い掛けながら、勝手にそう決め付けていた。なんだか苦手だ、と思えるほど、まだ知り合ってもいないのに。それでも、なんとなく、その雰囲気からそうなのではないか、と感じてしまっていた。

(……)

この時間は、いつまで続くのか。時々赤信号に立ち止まり、こっそりと眺めるその後ろ姿はせいちゃんよりもいくらか小さく感じる。傘の間から覗く鮮やかな赤い髪の色が、薄暗く陰鬱な夕方の街には随分と不釣り合いで。

雨が、傘を打つ音。通り過ぎる車の水しぶき。靴下が濡れて、ローファーの中にもじんわりと水がにじむ。

あの時、せいちゃんの言葉に丸井くんは頷かなかった。だから、彼にしてみれば送っているつもりなのではなくて、私が勝手に後をついて歩いているだけなのかもしれない……と、次第に不安になってくる。

べつの道を行こうか……、それとも、わざとはぐれてしまおうか。

色々な思いが脳裏を駆け巡っても。それでも一つすら言葉にはできずに、ただ、雨の中その背中を見つめ続けて黙々と歩いた。


疑問と不安がこの心の中を満たしきった頃、横断歩道を渡り終えたところで急に丸井くんが立ち止まったので思わずぶつかりそうになり、私も慌てて足を止める。それまでずっと俯いていた顔を上げれば、いつの間にか駅の前まで来ていた。

何も言わない彼と目が合うと、その表情は怒っているわけでも、笑っているわけでもない。けれど視線は冷ややかに感じ、どこまでも私には興味のなさそうに思えた。

「……えっと、……その、ありがとう」

一度も振り返ることはなかったし、口も利かなかったけれど、彼なりに送ってくれていたつもりなのだろうか。確信は持てないけれど、きっとそうなのだろうということにして遠慮がちにお礼を言った。

けれど丸井くんは何も答えなければ、頷きもしない。

それじゃあ、とここから離れたくても、丸井くんが立ち止まったまま動かないので私も動くことができない。私は傘の柄をぎゅっと握りしめながら、どうかしたのだろうか、と思いながらも。やっぱり、そんなこと聞く勇気がない。

……私のことが嫌いなのではないか。

そう思えば、何も言えない。何かを言うのが怖い。黙ったままただじっとしていると、ふと、丸井くんの口が開くのが見えた。


「お前、幸村くんの何なんだよ」

その声は、低く、どこか不機嫌そうだった。

初めて、彼が私に対して口にした言葉。今まで、お互いの存在を認識してはいても、一度も会話したことなどなかった私達。それなのに、最初のそれがそんな言葉で。

私はしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。なぜ丸井くんはそんなことを聞くのか。これまで何も言わなかったのに、急にどうして。理解が追いつかずに、頭の中が混乱した。聞き間違いだろうか、と思ってもやっぱりそんなはずはない。

傘から覗くこの街は、雨に濡れてぼやけて見える。行き交う人々の表情も浮かない様子で、次第に大きくなる雨音は、まるでノイズのように思えた。


「……わかんない」

だって。今までそんなこと、考えたこともない。

まるでこぼれ落ちるかのように勝手に口から出た言葉に、丸井くんは怒るだろうかと思った。けれど、実際には彼は黙ったまま。熱を含まぬその視線に、わずかな胸の苦しさを覚える。


私って、せいちゃんの何なのだろうか。