水色の沈黙 あいかわらず、今日も朝から雨が降り続いていた。 私は学校にいる間すらも、せいちゃんの体の具合が気がかりで仕方なくて授業なんてちっとも頭に入って来ない。終了のチャイムが鳴ると早々に教科書をカバンに詰め、すぐに病院へやって来た。 ノックをしても何も返事がなかったので、ゆっくりドアを開けて中を覗いてみるとせいちゃんはベッドの中で眠っている様子だった。それが目に入って私は一瞬、どきりとする。 音を立てないようにそろそろと病室の中へと入ると、ゆっくりとベッドに近づいて行き、せいちゃんの顔を覗き込んだ。 せいちゃんは昔から寝相がいい。ぴくりともせずに、とても静かなのだ。だから眠っているだけだとはわかっていても、そんな様子を眺めているといつも不安になってしまう。 その口の辺りに手を当ててみると、ちゃんと呼吸をしていたのでやっと安心することができた。そんなの、当然だと思うのに。 ……どうかしてる。 私はベッドのすぐ近くにある椅子に腰掛けると、一つため息を吐いた。 (せいちゃん……) 微かに震える手で、せいちゃんの手に自分のをそっと重ねてみたら、それは思った以上に温かかった。生きているのだ。今、ここに、存在しているのだ。おかしいとは分かっていながらもいつだってそう確認せずにはいられない。 静かな白い部屋の中には、雨の音と、せいちゃんの静かな寝息だけが聞こえる。 まるで俗世界から切り離されてしまったかのような、酷い孤独感にさいなまれるこの部屋で。せいちゃんは毎日を過ごしているのかと思えば、胸が苦しい。いつだって、優しい笑顔で迎えてくれるけれど。 せいちゃんは、どんなに寂しいだろう。 大切な体を、時間を、……テニスを、奪われて。 私にできることは何かないだろうか。長い間、そう考え続けたけれど結局答えは出ないまま。けれど何の役にも立たなくても、ただ、そばにいたい。たとえ、意味などなくとも。 (……ごめんね、せいちゃん) その時、ドアをノックする音が聞こえて私のぼんやりとした意識は急に現実へ引き戻された。 せいちゃんを起こさないようにできるだけ小さな声で「はい」と返事をすると、カラリとドアが開く。もしかして、また丸井くんだろうかと思って見ると、そこに立っていたのは真田くんだった。 知らないうちに身構えていたらしい体の力が抜けて、丸井くんでなくてほっとしている自分のいることに気付く。 「……すまない、邪魔をしたようだな」 真田くんは眠っているせいちゃんに気が付くと、眉をしかめながら謝った。彼は謝る時でさえ、いつも通りの固い表情なのだろうか。 「ううん、大丈夫だよ」 普段だったらテニスの強豪校である立海のテニス部の練習がこんなに早く終わるはずはないけど、今日は雨だから、屋内トレーニングをしただけで早く切り上げたのかもしれないな。 真田くんは何も言わないけれど、彼の背に掛かった重そうなテニスバッグを眺めながら、勝手にそんなことを想像していた。 「……あの、どうぞ座って」 「いや、いい。すぐに失礼する」 私は立ち上がり、彼に椅子に座るようをすすめてみても即座に断られてしまった。 すると彼は手に持っていた花束を「幸村に」と手渡してくれたので、それを受け取る。真っ白な、小振りの可愛い花で、私は真田くんでもこんなの買ったりするのか、とぼんやり思ったりした。 「どうもありがとう」 お礼を言っても、真田くんはにこりとも笑わない。そもそも私は、彼が笑ったところを見たことがない。いつだって仏頂面で、同い年だとは信じられないくらい、言いようもない威圧感がある。 いつもにこにことして、優しく穏やかなせいちゃんとは正反対の人。厳格なその雰囲気に、私は顔を合わせる度に緊張してしまっていた。なんだか、叱られるのではないかと心配になる。それは、今でさえも。 せいちゃんなら、そんな真田くんの笑ったところを見たことがあるだろうか。 二人は、小さい頃から同じテニススクールに通っていたから。私の知らない真田くんのことも、せいちゃんは知っているのかもしれない。そう思えば、なんだか不思議だ。 ずっと間接的に真田くんの話を聞いてはいても、立海の中等部に入学するまで実際に会ったことなかった。思わず、「真田くんて、なんだか怖いよね」と本音を口にしてしまった私に対して、せいちゃんは「そうかな」といつも通りの穏やかな微笑みを見浮かべていたことを覚えている。 真田くんも、せいちゃんから私の話を聞いたりしていたのだろうか。だから、時々話し掛けてきたりするのだろうか。心の中で思うだけで、本人に尋ねたりはできないけれど。 「では失礼した」 彼は少しの間、眠っているせいちゃんの様子を眺めた後に、また踵を返してドアの方へ向かって行こうとする。それをそのまま見送るつもりだったのに、私が気が付けば彼のことを呼び止めていた。 「……あの、真田くん」 「なんだ」 当然真田くんはすぐにピタリと立ち止まり、返事をしながらこちらを振り返る。私は自分で引き止めておきながら、どうしてそんなことをしてしまったのかよくわからなかったし、その目と視線が合った瞬間、少しだけ後悔した。 それでも真田くんは、私が次の言葉を発するまでずっと立ち止まったまま待っていてくれた。 「その、……丸井くんは」 「……丸井?丸井が、どうかしたのか」 いつの間にか、この口からは丸井くんの名前が飛び出していた。 あの日。丸井くんと初めて話した、あの雨の夕方から。私は彼に聞かれた言葉の意味ばかり考えてしまっていた。なぜ、突然あんなことを聞いたのだろう。なぜ、私はすぐに答えられなかったのだろう。 「……丸井くんは、せいちゃんのこと好きなのかな」 一体何を言っているのだろうか。自分でもよくわからなくて、口に出した後やっぱりやめておけばよかったと思う。けれど真田くんは少しも表情を変えることなく、「チームメイトだ。当たり前だろう」と答えた。 その真っ直ぐ過ぎる視線と言葉に、なんだか気が引けたし、きっと彼は嘘を吐いたことも人を疑うこともない人なのだろうな。と、なぜだかそんな風に思った。 真田くんは、丸井くんが毎日この病室に来ていることを知ってるのだろうか。きっと、知らないだろう。だってそうだったなら、わざわざ私なんかにせいちゃんの様子を聞いたりしない。 「……そうだよね」 真田くんはわずかに怪訝そうな表情を見せる。急にそんなこと尋ねられたら当然だ。いつだってこの人と目が合うだけで緊張して体が強張るというのに、私は一体、何を口走っているのだろう。 「ありがとう。引き止めてごめんなさい」 「そうか」 それだけ言うと真田くんは質問の意図を追求することもなく、そのまま「では失礼する」と静かに部屋を出て行った。するとまた私とせいちゃんの二人だけが残り、再び世界は、どこまでも果てしない静寂に包まれる。 『お前、幸村くんの何なんだよ』 あの時の、丸井くんの不機嫌そうな表情。低い声。睨み付ける視線。まるで私の存在を邪魔だ、鬱陶しい。と言っているようにも、感じた。 数秒間、立ったまま目を瞑り、またそんな光景が瞳の奥で繰り返される。それからゆっくりと目を開くと、そういえばさっきからずっと手に持ったままだった花束のことを思い出して手元に目をやった。 それをそっと棚の上に置くと、再び椅子に腰掛けて小さくため息を吐く。せいちゃんはあいかわらず、静かに眠ったままだ。 ……このまま、二度と目を覚まさないのではないか。窓を打つ雨の音に、不安は募るばかり。そんな馬鹿な考えはもうやめたいのに。 (せいちゃん……) テニスコートに立つ時のせいちゃんは、いつもの姿からは想像できない程、とても強く凛々しかった。憧れる人や、好きだと好意を寄せる人もたくさんいて。なんだか……違う世界の人みたいに思えた。 だから私はそんな彼を見るのが嫌で、いつだってコートに背を向けて逃げてばかりいた。せいちゃんが私から離れていくみたいに感じて、それが怖くて仕方なかったから。 そして私はいつの間にか、私から彼を奪っていったテニスと、その仲間たちがいなくなってしまえばいいとさえ思うようになっていた。それがどんなに最低なことかはわかっていても、心の中で整理がつけられないまま、時間はどんどん流れていった。 (いなくなってしまえばいいのは、私の方なのに) せいちゃんが倒れた時。私は、泣きながら何度も謝った。そんなこと考えていた自分のせいだと思ったから。けれどせいちゃんは「どうして乙葉が謝るの」、といつもみたいに困ったような笑い方をしたから余計に涙が止まらない。 私が思おうが思うまいが、結局のところせいちゃんは倒れたのかもしれないけれど。それでも私は、いつだってどうしようもない罪悪感に駆られていた。 「……ごめん。ごめんね……」 どんなに謝ったところで、あんな風に考えていたこと、許されるはずもない。気が付くと私の目には涙が滲み、一つ瞬きするとそれは雫となってポトリと零れ落ちていった。 「……?」 すると小さく穏やかな声とともにせいちゃんの目がゆっくりと開いたので、私は慌てて制服のブラウス袖で、目をこする。 「ごめんね、起こしちゃった……?」 「ううん、大丈夫だよ。目が覚めただけ」 「……そ、そっか。よかった」 「せっかくが来てくれたのに、眠っててごめんね」 私は喉が熱く苦しくなって、きっとこのまま喋ったら涙声になってしまうだろうと思ったからただ小さく首だけを振った。それでもちょっと涙腺が緩んでしまったので、私はそれをごまかすために軽く指で目を擦る。 「、どうかした」 「ううん……」 「大丈夫?目にごみが入っちゃったの」 「……平気」 それでも優しいせいちゃんの声が耳に入れば、胸の苦しさは一層増して、余計に涙がにじみそうになる。目から手を離してせいちゃんの方を見ると、視線が合った。大好きな、なによりも大好きな、優しくて穏やかな目。昔と何も変わらない。 私は、せいちゃんの何なのだろう。 どうしても、丸井くんのあの言葉が耳から離れない。家族でもなくて、彼女でもなくて、だけど”友達”という言葉で片付けてしまうことはできなかった。 せいちゃんは私の大切な人。世界中の他の誰よりも。小さい時からずっと、今でもそれは変わらない。それは、友達というのだろうか。それとも、そんな風に思っているのはやっぱり私だけなのだろうか。 答えは、出ないまま。雨は、振り続ける。 「あれ、その花。が持って来てくれたの」 「……あ、これはね。さっき真田くんが来てくれて」 「え、真田が」 「うん。すぐ帰っちゃったけど」 「そっか。今度、お礼言わないとね」 せいちゃんのことを好きで、大切に想っている人はたくさんいる。私だけじゃない。 だけどそんなのは当然のことだ。せいちゃんは優しくて、テニスの才能だってあって。とても素晴らしい人だ。私なんかがそばにいていい人だとは、到底思えないし、きっと周囲の人もそう思ってる。 だから、丸井くんはあの時、あんなことを。……。 「……せいちゃん」 「なに、」 「また、ここに来てもいい…?」 私は小さく微かに震える声で、そう尋ねていた。今だって勝手に毎日来ているというのに。てっきり笑われるかと思ったけど、せいちゃんは笑わずに「いいよ」と言ってくれた。 自分の存在が、必要ではないことはとっくにわかっている。 そばにいるからといって何をしてあげられるわけでもないし、逆に、いつも私が迷惑を掛けてばかりいる。我儘で、いつだって泣いてばかりな私が近くにいたところで、何の価値もない。 せいちゃんを必要としているのは私だけで、せいちゃんは私なんていなくても全然大丈夫で。邪魔をしてしまうから、それならいっそいないほうがましだ。だからいい加減離れなければいけないのに。でも、どうしてもそれだけはできなくて。 (……大好きだから……) そばにいたい……、何の役にも立てなくても。 「いつでも、顔見せに来てね」 「……うん」 あなたを好きで、ごめんなさい。 |