プール



この頃は毎日雨続きだ。どうやら、本格的に梅雨入りをしたらしい。

雨が降ると屋外にあるテニスコートが使えないので、最近の部活はもっぱら屋内での筋トレメニューのみだった。筋トレだけだと普段よりも部活が終わるのが早い。まあ、真田あたりはまだしごき足りなさそうな顔してるけど。

うちも氷帝みたく屋内コート完備されてればいいのにな。まあとにかく、部活が終わるのが早くなればおのずと帰り掛け病院を訪ねる時間も早くなる。

早めの時間に行くと、大抵いつもあの女がいる。俺はあの女が好きじゃない。

出来れば会いたくなかったけど、あんな奴のためにわざわざどこかで時間を潰すのも面倒で、結局俺はいつもように幸村くんの病室の前までやって来ていた。

少しの間立ち止まったまま考えていたけれど、次第にそれもくだらなく思えて、小さくため息を吐く。仕方なく適当にノックをしてから返事も待たずにドアを開けて中に入ると、視界には立海の女子の制服が目に入ったので、やっぱりまたあの女が来ていたのかと思った。

「やあ丸井。よく来たね」

だけど、いつも通り俺を笑顔で迎え入れた幸村くんのとなりに座っているのはあの女じゃなくて、また別の女だった。そいつは俺と目が合うと、愛想のいいにっこりとした笑顔で「こんにちは」と挨拶する。

……誰。


「じゃあ精市、私そろそろ帰るね」
「うん、ありがとう。気を付けて」

幸村くんのことを親しげに「精市」と呼ぶその女は、通りすがり俺に向かって軽く会釈をするともう一度幸村くんに「じゃあね」と言い、手を振りながら帰って行った。

立海の制服を着ているから、うちの生徒なんだろうけど。人数が多いから、たとえ同学年だったとしても同じクラスにでもならなければ未だに知らない奴も多い。顔を見たことがあるような気もするけど、気がするだけだ。

「そうだ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」

さっきの女のことには一言も触れず、幸村くんは思い出したように言うとベッドから手を伸ばしてそばにある棚の引き出しを開ける。俺はその間特に何もせずに、ただぼんやり幸村くんのことを眺めているだけで、あえて何にも言わなかった。

「これ、学校でに渡してくれないかな」

そう言って俺の前に差し出されたのは、なんの変哲もないただの大学ノートが一冊。ノートの表紙には、何の文字も書かれていない。

「昨日が来た時に渡し忘れちゃってさ。何日か用事で来られないって言ってたから」
「……何だよ、これ」
「まあ、交換日記みたいなものかな」

中学生にもなって交換日記かよ、と思いつつも一応は黙って受け取っておいた。あの女に渡すなんて、はっきり言って嫌だったけど、今の俺にはこれといって断る理由が思い付かない。

まさか、その乙葉とかいう奴が嫌いだからなんて言えるはずもないし。

俺は勝手に椅子に座ると、首を動かして窓の外を眺める。雨が上がる気配はない。相変わらずのどんよりとした薄暗い、雨模様だ。

「この前はのこと、すまなかったな」
「……あ?」
「ほら、駅まで送ってくれるよう頼んだだろ」
「ああ、……べつに」

正直送ってやるつもりなんてなかったし、あいつだって途中で勝手にどっか行くだろうと思ってたのに。足音はずっと近くで聞こえていて、黙ったまま俺の後ろをついて歩いていると思えば、なんだか鬱陶しくて仕方なかった。

「ありがとう。助かったよ」
「……」
「あ、そうだ。お菓子があるんだ。丸井、食べるだろう」

なんなんだ、あの女。思い出せば、また苛々とした感情がよみがえってくる。……それとも、俺はもしかしたらこの落ち着かない、苛立つ気分をとにかくあいつのせいにしておきたいだけなのだろうか。

先ほどの、別の女の顔を思い出せば同じような感情が湧いてくる。そんな思いを抱いたところで何の意味もないというのに。くだらなさに思わず椅子から立ち上がると、静かな部屋の中にはガタ、という音が響いた。

「丸井?」
「……いい」
「え、?」

そのまま足早に病室の出口まで直行して、ドアの取っ手を掴む。すると後ろから、「もう帰るのかい」と言う幸村くんの声が聞こえたので、少しだけ首を動かして振り返った。

「ゆっくりしていけばいいのに」

残念がっているようなその表情と声に、チクリと胸が痛んだ。俺が「また来るよ」と言えば、幸村くんは小さく「そうか」と返事をして、それから少しだけ寂しそうに笑った。


病院を出て駅まで歩き、ホームで電車を待っている間。さっき預かったノートの存在をふと思い出す。

今どき交換日記とか。ださ過ぎるだろ。べつに興味もないしどうでもいいけど、俺は気が付けばノートをカバンから取り出して、退屈しのぎにパラパラとめくって見ていた。プライバシーなんてどうでもいい、俺の知ったことか。

ノートには数ページずつ交互に違う字体が並んでいる。片方の文字は見慣れた幸村くんの字だ。じゃあ、もう一つの方があの女の字なのか。

たまたま目を留めたのは幸村くんのページで、そこにはその日に読み終わった本の内容と、感想。それから小児病棟の子どもと話をしたことなど、他愛もない出来事ばかりが整った綺麗な字で綴られている。

その次はあの女のページだった。丸っこくて、柔らかい文字。今日は庭の紫陽花が咲いたとか、飼っているペットの餌を変えたとか。前に幸村くんが薦めてくれた本は少し難しいとか。

そんな同じ様な内容ばかりが、ラリーのように。何度も紙面上で繰り返されていた。

(……つまんねー)

退屈しのぎのつもりが、余計に退屈してしまいあくびまで出てくる。元々なかった興味をさらに失い、さっさと閉じるとまたカバンの中へと押し込んでしまい、もうその後は二度と開かなかった。





「……このクラスにっていう奴、いる?」

次の日の昼休み。俺は正直嫌だったけど、幸村くんに頼まれたから仕方なくあの女にノートを届けることにした。

昨日幸村くんがクラスを教えてくれたけど真面目に聞いていなかった。頭の片隅に残ったわずかな記憶を頼りに訪ねてみると、とりあえずその辺にいた女子を適当に捕まえる。するとそいつは、不思議そうな顔をして何度か瞬きをした。

……?ああ、さんね」
「……?」
さんでしょ。違うの」

あいつの名字なんか知らない。知るわけない。幸村くんはいつも「」としか呼んでなかったし。

「あー、じゃあ多分、そいつだ」
「多分?」
「いや、そいつ。。いる?」

若干首を捻りながらも、その女子生徒は「ちょっと待って」と言うと教室の中へと入って行った。そのまま待っていると、少ししてまた戻ってくる。

「教室にはいないよ。でも、視聴覚室の方に行くの見た子がいるって」
「試聴覚室?」
「そう。もしかしたらそこにいるんじゃない」

その情報が本当に正しいかどうかはわからないけど、アテもなく探すのも面倒くさいし。俺はとりあえずそいつに礼を言うと、教えられた視聴覚室へと向かった。

人気の少ない寂しい廊下を歩き続けて、その一番奥に視聴覚室はあった。こんな場所、普段なら授業でも滅多に使わないから、ほとんど来ることもない。

窓から覗いてみると、教室の中は明かりも点いていなくて随分と薄暗かった。遮光カーテンのせいもあるだろう。誰もいないんじゃないのかと思いつつも一応ドアを開けて中に入ってみると、窓際の一番後ろの席に一人分の人影が見える。

そこからだと誰かまではわからないので少しずつ近付いて行くと、次第に見えてきたその誰かはやっぱり、さっきクラスの女子生徒が言っていた通りだった。

こいつ、こんな所で一体、何をしているんだ。は俺に気が付くと、なぜここにいるのかと聞きたそうな顔をしながらこちらを見上げている。

黙ったままその机の上に軽くノートを放り投げると、何かのかたまりがふわりと宙に浮いた。よくよく見てみればそれは小さな折り鶴で、その周囲にはたくさんの折り鶴と、これから鶴になるのを待っている折り紙が束になっている。

「……」

は散らばった折り鶴とノートを無言で眺めたまま、固まったように何も言わない。疑問に感じているのだろうけど、べつに聞かれないから俺がノートを持っている理由も、この場所がわかった経緯も話さない。

こいつを見ると、いつだって苛立つ感情が広がってゆく。

窓を打つ雨や、風に揺れる木々のようにざわざわと心は落ち着かないまま。こんな奴に当たったところで、仕方のないことは初めからわかっているはずなのに。

とにかくもう用事は済んだことだし、さっさとこの場を去ろうとして俺は踵を返した。さっき扉を開け放したままの入口まで戻ると、後ろから名前を呼ばれた気がして一瞬立ち止まる。

「……ありがとう」

それに振り返ったりしなければ、返事もしない。俺はただ幸村くんに頼まれただけだから、べつにお前のためにやってやったわけじゃない。だけどそれすらも口に出すのは億劫だ。

幸村くんは、なんでこんな奴と仲良くしているのだろう。

「あの……。せいちゃん、何か言ってた?」

一刻も早くいなくなりたくて、再び足を動かすとまたの声が聞こえた。おずおずと遠慮がちに尋ねるその声には、俺に怯えている様子さえ窺える。

あの日もそうだった。俺と視線が合うと、あいつは委縮して不安そうな顔をする。

それを見ると余計にいらっとするのは、本当はあいつのせいではなくて、そんな態度ばかりしかとれない自分の対してなのかもしれない。と、なんとなくは感じていても認めたくはなかった。

教室から出て後ろ手で扉を閉め切る瞬間、一瞬だけそちらを振り返る。

俺がこいつを嫌いなように、きっとこいつも俺を嫌いなのだと思った。べつに好かれたくなんかないし、それでいいけれど。それでも怯えながらもそんなことをわざわざ尋ねるくらいだ。こいつは本当に幸村くんのことが好きなのだろう。

だけど残念だったな。たとえお前にとっての一番が幸村くんでも、幸村くんにとっての一番はお前じゃない。

幸村くんが好きなのは、お前じゃない。


「お前のことなんか、好きじゃないって」

それだけ言うと、反応も確認せずにピシャリと扉を閉めてさっさと歩き出した。制服のポケットに両手を突っ込んで、時々、口の中で噛んでいたガムを膨らませる。

5限目の予鈴が校舎の中に響き渡ると、その辺にいた生徒達はみんな急いで去って行くけれど俺は慌てることもなく悠然と歩き続ける。

(……どうでもいい)

傷付けばいいと思った。悲しませたくて、わざとそんなことを言った。今頃あいつは、あの薄暗い教室の中で泣いてたりするのだろうか。

窓の外を眺めると、今日も雨はざあざあと音を立てながら地面に打ち付けている。校庭のグラウンドは大きな水たまりになって、まるでプールのようだ。このまま雨が降り止まなければ、いずれは辺り一面海にでもなってしまうのだろうか。

(……)

『お前のことなんか、好きじゃないって』

なぜだ。あいつを悲しませるために言ったことなのに。

思い出せば、それはなんだか自分に言われているかのように感じた。まるでブーメランみたく俺の方へ戻ってくると、この胸に突グサリと突き刺さって、鈍い、痛みを感じた。