やわらかい棘



今日は久しぶりに雨の降らない日だったので、私は一人昼休みに屋上へ来ていた。

雨が降っていないとはいっても、空まるで鉛色のようにどんよりと曇っていて、いつ滴が落ちて来てもきてもおかしくはない。じき夏になろうかという時分なのに、風は随分と冷たくて肌寒かった。

少し冷たいフェンスを両手で掴んで、その網目越しに景色を眺める。

この学校からでは遠すぎてせいちゃんのいる病院は見えないけれど、この方向の先にせいちゃんがいるのだと思うとなんだか心が落ち着いて、安心する。せいちゃんは、今頃、どうしているだろうか……。

(……)

いくら考えたところで仕方がない。なるべく早く忘れようと思っているのに、この前丸井くんに言われた言葉は、いつまでもこの頭に張り付いて、離れずにいた。

『お前のことなんか、好きじゃないって』

うそだ。せいちゃんがそんなこと言うはずない。

だけど、そう口にした丸井くんの声のトーンは、面白がってからかっているような風でもなくて。どこまでも素っ気なくて、冷たかった。躊躇いもなくピシャリと閉まった教室のドアの音が、今も耳の奥に残っている。

丸井くんは、なぜあんなこと言ったのだろう。

彼から向けられる言葉は、いつだってこの胸に引っ掛かってばかりだ。その原因はきっと私のことが嫌いだからのではないかと勝手に推測してみたところで、根拠も証拠も存在しない。

(せいちゃんは、私のこと……)

そんなわけない。……そう、信じたいのに。

本当は、心の奥で私は、いつもそのことを心配して怯えていたのではないだろうか。ただ、知らない気づかない、鈍感な振りをしていただけで。ひたすら逃げていた。テニスコートから背を向けていたのと、同じように。

せいちゃんのことを好きと想う感情は、いつだって切なさや苦しさと背中合わせで。大好きなのに、どうしてか涙が出そうになる。それは、今にも泣き出しそうな色をした薄暗い梅雨の空に……似ている気がした。



夕方、学校帰りに病院へ向かう途中、ポツポツと雨が降り始めたかと思えばあっという間に本降りになった。

持って来ていた傘を差しながら、薄暗い街中でたくさんの人とすれ違う。そのまま病院の入り口前までやって来るとふと立ち止まり、その白く大きな建物を傘の中から見上げる。

それから少しの間、せいちゃんのいる部屋の窓から見えるオレンジ色した柔らかい明かりを、一人黙ったまま眺めていた。

。来てくれたんだ」
「……うん」
「待ってたよ」

用事があって来られなかったのはたったの数日だというのに、せいちゃんの笑顔がとても懐かしく感じる。

丸井くんにノートを渡されて……あんなこと言われた日から、ここへ来るのは初めてだったから。ドアをノックをする時私は、少し緊張していた。

勧められるままに椅子に座り、来られなかった間のことを尋ねられたのでそれには素直に返答する。ちょっとどきどきしていることを悟られないように、なるべくいつも通りを装って。

もしかしたら今日も丸井くんに会ってしまうだろうか、と思えばどこか落ち着かない。ちょっとした物音にも、ピクリと反応してしまっていた。

、どうかした」
「う、ううん。なんでもない」
「そう?」
「うん。あ、そうだ。これ」

私は笑って誤魔化しながら通学カバンの中に手を入れておもむろにノートを取り出すと、不思議そうな顔するせいちゃんの前に差し出した。

「ああ。ノート、丸井から受け取った?」
「え、……うん」
「俺が頼んだんだ。この前、渡しそびれちゃったからさ」
「……そうなんだ」

やっぱりそうだったのか。どうして丸井くんが持っているのか不思議だったけれど、そんなこと、彼には聞けるはずもなくて。

もしかしたらせいちゃんに頼まれたのかな、と思ってお礼を言ったけれど丸井くんは何も答えなかった。それに、……。

丸井くんの顔を思い出せば、その口から出た言葉も一緒に思い出してしまう。穏やかな笑顔でパラパラとページをめくるせいちゃんの横顔を黙ったまま眺めていると、急に不安になり、なんだか泣きそうな気持ちになった。

「このノートももう終わりそうだな」

手元に向けていた視線を上げながらせいちゃんがこちらを見たので、はっとする。慌ててノートを覗き込んでみると、あと残り1、2ページといったところだろうか。

「次にせいちゃんが書いたら、終わっちゃうみたいだね」
「うん。次のノートは、どうしようか」

この交換日記は、せいちゃんが入院してから二人の間で始まったものだ。初めにやろうと言い出したのは、意外にもせいちゃんの方だった。

もしかしたら、とても寂しがっていた私のことを気遣ってくれたのかもしれない。せいちゃんがそう提案してくれた時、本当に嬉しかった。不安と後悔に押し潰される毎日の中で、この交換日記をすることだけが、私の支えになっていた。

これまでに、何冊使っただろう。書き終えたノートの数は、故に時間の経過を表している。せいちゃんのためを思えば、その数は少ない方がいいに決まっているのに。

交換日記が終わる日は、来るのだろうか……。

「私、使ってないノートあるよ。キティちゃんの」
「はは、キティちゃんかあ」
「あ……、やっぱりキティちゃんは嫌かな」
「ううん、嫌じゃないよ。いいよそれにしよう」
「うん、それにねピンクなの」
「ははは」

せいちゃんが楽しそうに笑って、そんな様子を眺めればすごくほっとした。大丈夫、全部いつも通りだ。この白くて殺風景な病室も、大好きなせいちゃんの優しい笑顔も。何も、変わらない。

「えっと……、あとね。これ」

私はタイミングを見計らって、おずおずと紙袋を差し出した。渡そうか、ちょっと悩んでいたけれど、これまでこつこつと折ってきて、やっと完成したから。どうせなら、一目だけでも見て欲しくて。

「ありがとう。なんだろう、見てもいい?」
「うん……」

返事をすると、せいちゃんはにこにこしながら袋の中を覗き込み、小さく「うわあ」と驚きの声を出した。それから千羽鶴を袋の中から取り出して、まじまじと眺める。

そんなにじっくりと見られたら下手くそなのがばれてしまう、と若干ハラハラしながらも、何も言えずに唇をきゅっと噤んだまま見守った。

「これみんなが作ったの、一人で」
「……うん」

こくりと頷けば、せいちゃんは「へえ」と関心しきりの様子でまた千羽鶴を眺めた。思わず、もうそんなに見ないで、と言いたくなる。なんだかすごく恥ずかしくて、それを隠してしまいたい気持ちになったけれどぐっと堪えた。

「すごいなあ。とっても上手にできてる。は小さい時から手先が器用だったもんな」

にっこり笑いながらせいちゃんに褒められたのがとても嬉しくて。優しいその言葉に何と返そうか迷っても、結局、うんと頷くしかできなかった。自分で渡しておきながら、照れてしまって俯きがちになる。

……私には、何もできないから。何の役にも立てないから。だからせめて、せいちゃんの不安で憂鬱な気持ちを、少しでも紛らわせることができるなら。

「こんなに折るのは大変だったろうに」
「……ううん、」
「ありがとう、。大切にするね」

それなのに、いつだって彼に励まされているのは私の方だ。その微笑みを見つめれば心が落ち着いて、縛り付けるような苦しさや悲しみが和らいでゆく。

優しいせいちゃん。何もよりも誰よりも大切で、大好きな人。もしこの人に嫌われてしまったなら……、私は、どうしたらいいのか。どう生きていけばいいのか、わからない。

『お前のことなんか……、』

突然、彗星みたくヒュンと脳裏を横切るあの言葉に、胸の鼓動が速くなるのを感じた。

やめて。違う、丸井くんの言ったことなんてそんなの嘘に決まっているじゃないか。 だって今日だってせいちゃんは普段通りで、いつもと変わらずにとても優しくしてくれる。

私のことが好きではないと。……嫌いだと。
せいちゃんの口から直接聞くまでは。私は、信じない。


「また来るね」

私は笑顔を作ってそう言うと、それにせいちゃんが頷くのを確認した後、ゆっくりと病室のドアを閉めた。

廊下を歩いている途中、顔見知りの看護師さんに会って挨拶をする。それからエレベーターに乗って、下の階へ降りると、出口に近付くにつれて次第にざあざあと雨の音が聞こえてきた。

すると、外から傘を差した誰かがやって来るのが見える。その人は、屋根の下に入ると傘を下ろして畳み、傘立てに差す。ウィンと自動ドアが開いて中へ入って来た時、顔を上げたその人と目が合った。

赤い髪。立海の制服。肩には、テニスバッグが掛かっている。

(……丸井、くん)

思わず固まってしまった私とは反対に、丸井くんはまるで私なんて見えていないかのように一瞬で視線を外すと横を素通りして中へと歩いて行く。

あの日、視聴覚室で言われた言葉を思い出せばなんだか足がすくむけれど。ずっと気になっていた私は事の真意が確かめたくなって、くるりと振り返ると思い切って呼び掛けた。

「丸井くん」

それでも、彼は立ち止まってなどくれない。聞こえていないのだろうか。少しもこちらを気に掛ける素振りなどなく、早足で歩いて行ってしまう。

気が付けば、私は歩き出してその背中を追い掛けていた。そんなことするつもりなどなかったのに、どうしてだろう。彼の背負った黒いテニスバッグを眺めながら、自分の行動を不思議に思う。

「丸井くん、待って」

エレベーターではなく階段を使って上がって行く彼に追い付いた時には、もう今ここが何階なのかわからなくなっていた。あまり人通りのない階段は、やけに静かで声が通る。

私が息を切らしながら彼の名前を呼ぶと、ようやく立ち止まってくれた丸井くんは無言のままこちらを振り返った。数段上からじっと見下ろすその視線は冷ややかで、鬱陶しいという気持ちを物語っている。

呼吸を整えつつ、頭の中で何と聞こうか少し考えた。何度か話してみても、やっぱり丸井くんのことはなんだか苦手だな、と思いながら。

「……その。嘘、だったんだよね」
「何がだよ」
「せいちゃんが、私のこと嫌いって……」
「……」
「どうして、あんなこと言ったの」

嘘だと言って欲しかった。違うと、冗談だと。彼のことを必死に追いかけて、問い詰めてまで、そんな答えを求めたところで意味などないとわかっているはずなのに。この胸の中に潜む不安を、どうしても拭い去りたくて。


「お前が嫌いだから」

それでも、彼の発した言葉は私の期待になんてこれっぽちも応えてくれない。丸井くんは少し間を置いてから、わずかにも表情を変えずにそう言った。

予想していた返答とはまるで違っていたこと。それから、こんなにもはっきり面と向かって誰かに「嫌い」だと言われたのは生まれて初めてだったから。私は半ば呆然としてしまい、その言葉に何のリアクションも出来なかった。

「……。……そう、なんだ」

彼に嫌われているのは、ずっと前からわかっていたことじゃないか。それが言葉となって直接投げ掛けられただけのこと。だからそんなにショックを受けることはない……と、心の中で自分に言い聞かせてみても、動揺は隠せなかった。

私だって、彼のこと、苦手だと思っていたはずなのに。

「なあ、」
「……」
「幸村くん彼女いるぜ」

彼の声にぴくりと反応して、黙り込んで俯いてしまった顔を恐る恐る上げると、私はわずかに震える唇をきゅっと噤みながらその目を見た。

「……」

何を、言っているのだろう。いつだって突然、よくわからないことばかり発する彼の言葉に、私の思考はちっともついていかない。素っ気ない言い方でこちらの反応を愉しんでいる様子でもないから、それはなおさら。

「何のこと……?」

なんだかめまいがする。棘みたいに、チクチクと心臓が痛い。泣きそうになって、自分で追い掛けて来ておきながら、今すぐにここから立ち去ってしまいたいと思う。

「お前ってさ、いつも幸村くんにまとわり付いてるくせに何も知らねーのな」

反応も返答もせずに固まっていると、丸井くんはそれ以上何も口にせず、そんな私のことを一瞥してさっさと階段を上がって行ってしまった。

私は段の途中で足を止めたまま。追い掛けることも、戻ることもできない。どこまでも静かで、誰もいない、まるで天国にでも続いているのじゃないかと思うくらい長い階段に一人残されて、沈黙が耳に刺さる。

思わず両手で耳を覆ってみても、痛みは消えない。痛いのは耳か、それとも、心か。聞きたくない言葉が耳に入ってくる度。この胸の中に降る雨の量は、増すばかりだった。