紫陽花の波紋



私は、遠くから聞こえる雨音で目を覚ました。カーテンの隙間から漏れるぼんやりとした光を見れば、もう朝になったのだということがわかる。

昨日の夜は結局、寝たのか寝なかったのかもよくわからないような、浅い眠りだったのでどうにも頭がはっきりとしない。

夜中に何度も目を覚ましては、昨日の丸井くんの言葉を思い出した。せいちゃんに彼女がいるだなんて、どうせまたいい加減なことを言ったのだ。と思いたくても、まさかという考えが頭をよぎる。

(……)

もう何も考えたくなくて再び目を閉じようとした瞬間に、ちょうどセットしてあった目覚まし時計のアラームが鳴る。何の温もりも感じない単調な電子音が、薄暗い部屋の中に響いた。

毎日聞いているはずなのに、この音はちっとも好きになれない。仕方なくのろのろとベッドから起き上がってアラームを止めた後、カーテンを開いた。

今日も世界は雨模様だ。それを見て、思わず小さくため息が出る。梅雨なんて、早く明けてしまえばいいのに……。



早く忘れたいと思いながらも、ちっともそんなことはできないまま。今日は朝からずっと授業に身が入らず、どこか上の空で。気付けば、いつの間にか学校が終わってしまっていた。

下駄箱の前で靴に履き替えながら、今日は病院に寄っていこうかどうしようか、考える。

以前はあんなにも、せいちゃんのところへお見舞いに行くのが楽しみだったのに。度々丸井くんと話すようになってからは、なんとなくためらうようになってしまった。前はこんな風じゃなかったのに。

また、会ってしまったらどうしよう。また何か、嫌なことを言われたらどうしよう。……そう思えば、怖くなる。

丸井くんにしてみたら、ただからかっているだけなのかもしれない。けれど、彼の表情からは到底そんな風には思えなくて。冷たさを含んだ視線は、ただひたすらに私のことを「邪魔」だと、語っているように見えた。

『お前が嫌いだから』

彼がはっきりとそう言った記憶が頭の隅でよみがえれば、やっぱり心がズシンと重くなる。知っていた、わかっていたはずなのに。それでも……なんだか泣きたい気持ちになった。

私は校庭へ出ると校門へ向かって歩く。少し離れた先を男子生徒が歩いていたけれど、傘を差しているから後ろ姿では判断できない。誰かな、なんてなんとなく気になっていると、じきにその人は私の向かう方向から逸れて曲がっていった。

(……)

その時、一瞬……赤い髪が見えた。そして口元で膨らませるフーセンガム、も。思わずどきりとして足を止めると、息を潜めてその動向を窺う。

彼の視線はちっともこちらなど見てはおらず、私の存在に気付いてはいないようだった。向かう先には運動部の部室があるから、そこに用があるのかもしれない。

その姿が視界に入れば、昨日言われた言葉をまた思い出してしまった。胸がどきどきして、次第に呼吸が浅くなってゆく。

気になることや聞きたいはたくさんあるのに。それでも、面と向かって嫌いと言われた人に話し掛けることなんてとてもできなくて。

私はなるべく、足音を立てないように歩いた。このまま黙ってさえいれば、気付かれることはないだろうと思ったから。

「おーい。ブン太」

その時、後ろから声が聞こえた。その人は、誰かの名前を呼んでいる。そういえば、確か丸井くんの下の名前はブン太というのじゃなかっただろうか……。思い出してしまうと、途端に鼓動が速くなる。

丸井くんは声に反応して、立ち止まる。彼のことを呼んでいたのは、同じ3年生のジャッカル桑原くんだった。話したことはないけど、せいちゃんや丸井くんと同じテニス部に所属していることは知っている。

早くこの場を去ろうと思った。丸井くんの、視界に入る前に。

けれど、私の足が動くより、視線がそこから離れるより……丸井くんの振り返る方が速かった。当然、彼の目視する対象は桑原くんだけなのだけれど。それよりも先に、近い位置にいた私と目が合ってしまったのだ。

「……」

たったの一瞬。視線は、すぐに逸れた。それなのに、この胸にはじりじりとした痛みが広がる。

どうしてなのかはわからない。ともかく一刻も早く逃げ出したくて、私は歩き出した。頭の中には、昨日丸井くんに言われたことが勝手に思い出されて、何度も何度も繰り返される。

やめて、と呟いてみても傘を打つ雨の音があっという間にそれを掻き消してしまう。

(せいちゃんに、……彼女)

違う。嘘だ。

校門を出て、何かを振り切るように、ただひたすらに歩き続けた。違う、違うと心の中で何度呟いてみても。悶々とした思いは、どこにもいなくならない。

……バチャ、

急に聞こえた水音にはっとして、立ち止まる。足元を見ると、そこには大きな水溜りがあって、ローファーはすっかり雨水に浸ってしまっていた。それなのに、私はすぐには動けない。

水面に映り込んだ信号機の赤い色は、歪み、ぼやけながら……チカチカと、点滅している。 視界に入ったその色に、誰かの姿が脳裏をかすめていった。

(……)

思わず、ぎゅっと目をつむる。思い出したいのは、大好きなせいちゃんの優しい笑顔や、穏やかな声なのに。どうして……、丸井くんばかり。

どうして。私を「嫌い」と言った……、丸井くんのことばかり。





「乙葉。来てくれたんだ」

私が再びせいちゃんの病室を訪れたのは、それから数日後のことだった。扉を開いてすぐにせいちゃんの笑った顔が瞳に映ると、ほっとしながらもどこか落ち着かない気持ちがする。

この時間帯に丸井くんはいないとわかっているのに、一応、部屋の中を見回した。

「どうかしたの」
「ううん……、なんでもない」

私達の他には誰もいなくて、それでやっと小さく息を吐く。それから手に持っていた物を、おずおずとせいちゃんに向かって差し出した。

「あの、これ……お見舞い」
「いつもありがとう。ああ、紫陽花か。綺麗だね」
「……うん」

今日は、病院へ行こうかどうしようか。せいちゃんの顔が見たいのに、会いたいのに。とまどわれる思いがして、迷ってばかり。自分のことが嫌になりながら、放課後に雨の街をとぼとぼと歩いている時、ふと花屋の前で足を止めた。

(……綺麗)

瞳に映ったのは、淡い青の花びら。綺麗だけれど、どこか儚くて。……せいちゃんみたい、と思った。

花を眺めて優しく微笑む彼の表情を想像すれば、なんだか急に恋しくなって、会いたいという思いがどんどん膨らんで大きくなった。

少しの間悩んだけれど、たとえ病院へ行っても顔を見てすぐに帰れば、きっと鉢合わせずに済むだろう。私はそう解決することにして、紫陽花をアレンジメントにしてもらい、お見舞いに持って行くことにした。

それでも、すぐには病室のドアをノックできなかった。その手前で立ち止まると、一つ息を吐き、数秒の間無言で紫陽花を眺めてから……よし、と思い切ってノックをしたのだ。

「いつもごめんね。そんなに気を使ってくれなくてもいいのに」
「……ううん」
「でも、嬉しいな。飾らせてもらうよ」

せいちゃんはベッド横のキャビネットに紫陽花を置くと、にこやかにそれに眺める。そんな様子を黙って見ていると、ふと、そのそばにこの前渡した千羽鶴も飾ってくれてあることに気が付いた。

自分で渡したというのに、こうして見るとなんだか恥ずかしいような気持ちになる。

「どうしたの、座りなよ」
「あ、うん。でも私……」
が来てくれるの、待ってたんだ」

そんな風に微笑まれては、すぐに帰るから。なんて、とても言えなくなってしまった。私は小さく頷くと、結局は勧められるままに、大人しく椅子へと腰掛ける。

「忙しかったのかい」
「うん、……まあ」
「なんだか、毎日の顔見ないと落ち着かないんだ」
「……」

変だろ?と笑ってみせるせいちゃんの言葉に、心の中で「ごめんね」と謝りながら、目を伏せた。そんな風に言ってくれて、嬉しいはずなのに。

「そうそう、このノート書き終わったよ」

はい、と言ってせいちゃんが渡してくれた交換ノートを受け取ってパラパラとめくり、最後のページだけをちらっと見てみる。綺麗な文字で綴られた文章は、最後の最後の行まで残さずに書き込まれていた。

そういえば、次はキティちゃんのノートにするんだっけ。机のどの引き出しにしまってあったかな、などと考えながらノートを鞄の中へしまう。

「どう、あれから丸井とは仲良くなれた?」

予期せず突然そんなことを聞いてきたものだから、私は驚いて思わず顔を上げ、何度か瞬きをした後、黙ったまませいちゃんの顔を見つめてしまった。

きっとせいちゃんは、単なる世間話のつもりで言っているに違いない。だから、べつに普通に答えればいいだけのこと。……それなのに、鼓動が妙に速くなってなんだか落ち着かない。

「……ううん」

私は、俯きがちにそれだけ言って小さく首を振った。一度、自分から話し掛けたけれど。あの時、そうしなかった方がよかったのか、今でもよくわからない。彼に言われた言葉が、ずっと頭を離れなくて。それは、今も。

「学校で会ったりしないのかい」
「……」

そんなの。会ったところで。

こちらに向けられるあの冷たい眼差しと、物言いを思い出せば、泣きたくなる。その代わりに、目の前のせいちゃんはとても優しいから、余計に。

「丸井くんは……、私のことが嫌いみたい」

そんなの、誰かに話すつもりなかったのに。それでも、本当は打ち明けたかったのかもしれない。気が付けば、口から出てしまっていた。

(私、なに言ってるんだろう)

せいちゃんは、それを聞いて不思議そうに首を傾げる。

「丸井が……?」
「……」
「何か、言われたの」

窓の外を見れば、薄暗い中をまだ雨がしとしとと振り続けている。二人きりの空間とわかっていても、彼の話をするのはいくらか緊張して鼓動が速くなるのを感じた。私は少しためらった後に、それでも結局は口に出してしまう。

「……意地悪を言うの」
に?」
「うん……」

なんだか、告げ口をしているみたいだ。勝手に丸井くんのことを悪く言ったりして。頷きながら、胸がチクリと痛かった。

「変だな。そんな奴じゃないのに」

どうしたんだだろうね、と不思議がるせいちゃんの言葉にますます苦しくなる。やっぱり話さなければよかった、と思っても、もう今さら。……だって、この頃は丸井くんの言った言葉ばかり気になって仕方ない。

私のことが好きじゃないって。彼女がいる。って……本当なの、……?

気にすることはないとわかっていても。どうしてだか、夜も眠れない。私にとってはせいちゃんだけがすべてで、何よりも大切な人で。小さい頃からずっと近くにいても、それでも、なんでも知っているわけじゃない。

『お前ってさ、いつも幸村くんにまとわり付いてるくせに何も知らねーのな』

熱を持たない丸井くんの言葉に、不安が募る。

いつの間にか、私の視界はじんわりとにじんで見えた。鼻の奥がツンと痛くて。泣くつもりなんてなかったのに、私の意思とはべつに勝手に込み上げた涙は溢れ出すとぽろりとこぼれ落ちて、頬を伝ってゆく。

……?どうしたの」

それに気が付いて、せいちゃんは少し驚いたような顔をした。泣いたって仕方ない。止めなきゃ、と思っても、ちっとも収まってはくれなかった。心配なんて掛けてはいけないのに。

せめて指で頬の涙を拭うと、せいちゃんの手が私の頭をふわりと優しく撫でた。

「大丈夫だよ、
「……」
「丸井には俺から言っておくから。ね」

違う、と思っても声にならない。違う、丸井くんが悪いのじゃない。そう思うのに、心を乱すのはいつだって彼ばかりで、あながち違ってはいないのかもしれなかった。

「だから何も心配しないで」

せいちゃんに丸井くんのことを話したりして、私は一体どうするつもりだったのだろう。こうなることを望んでいたのだろうか。自分でも、もう……よくわからなかった。とにかく誰かに助けて欲しくて堪らなくて。だから……。

泣き止ませようとして優しく微笑み掛けるその顔と、温かい手の平の感触に、胸が張り裂けそうな思いがした。



その日の夜。私は、ベッドの中で眠る前に眺めていた花言葉の本の中に、紫陽花を見つけた。

花言葉は……「移り気」。私は、反射的に本を閉めるとすぐに明かりを消して布団を頭まで被り、ぎゅっときつく目をつむった。