きみは友達



雨の音がざあざあ聞こえてくる部室にはまだ他に誰もいない。その薄暗い部屋の中で俺は、ロッカーのプレートに書かれた「幸村」という文字をじっと見つめていた。

幸村くんは不思議な人だ。優しいけれど冷たいような、近いけれど遠いような、そんな人だ。彼も腹の底から笑ったり、怒ったりすることがあるのだろうかと、たまに考えたりする。

俺達の前では、いつも穏やかで落ち着いているけれど……あの女なら知ってたりすんのか。あの、いつも幸村くんのそばにいるうざったい奴。さっきもここに来る途中に会っちまった。

「……なんなんだよ、あいつ。どこにでも現れやがって」

ていうか、なんであんな奴のことなんか。俺は自分で勝手に考えておきながら苛立ってきた。誰かの開いているロッカーを、足で蹴るようにして閉めると派手な音が部室に響く。こんなところを真田に見られたら、きっと叱られるんだろう。

『お前が嫌いだから』

あの日そう言って、予想通り傷付い表情を浮かべた高瀬の顔が、あれからずっと目の奥に焼き付いている。そうなればいいと思って、わざと言ってやったはずなのに。

幸村くんに彼女がいるって言ったのだって、本当はそんなこと知らない。きっとただの八つ当たりだ。

行き場のない、どうしようもない感情を、あいつにきつく当たることで解決しようとしてる。自分以上に傷付ついて悲しむ奴を見れば、この陰鬱な気分も少しは晴れるような気がして。

それなのに、ちっとも明るい気持ちになどなれない。むしろ、どんどん底の方へ落ちて行くような感覚がする。それは、高瀬が悲しそうな顔をすればするほど。苛立ちとともに、気分は滅入っていった。

窓の外を見れば、今日もどんよりとした色をしてる。まるでちっとも晴れない、俺の心みたいに。




その日幸村くんの面会に行った頃には、外は随分と暗くなっていた。万が一にもあいつと時間が重ならないようにと、いつもより遅めに病院を訪れたからだ。

面会時間ぎりぎりの静まり返った廊下を抜け、病室のドアをガラリと開けると、幸村くんは横になっていたところを起き上がって小さく「丸井」と言った。

「今日は遅かったな」
「そうか?」

とぼけて適当な返事をしながら幸村くんの前を通り過ぎると、窓際の椅子にぼすっと腰を下ろし、ちらりと外を窺った。

暗い夜の街に灯る明かりが、雨ににじんでぼやけて見える。外の世界はあんなにも騒がしかったのに、この建物の中は行って帰ってくるほどに静かだと思えばなんだか不思議な気持ちになる。まあ、病院なんだから当然だけど。

「何か飲むかい」
「いや、いいよ。すぐ帰るし」

そんなに急がなくても、と言う幸村くんの横の棚に飾られている紫陽花は泣き出しそうな色をしている。ぼんやり眺めていると、そんな俺の様子に幸村くんが気付いたらしい。

「これ?がくれたんだよ」
「……べつに聞いてねえし」

またあの女の話か、と思って溜息を吐く。

「丸井。のことなんだけど」
「もういいよあいつの話は」
「そう言わないで。仲良くしてやってくれないか」
「やなこった」

即答する俺に、幸村くんは困ったように笑う。思わずあいつの浮かない顔を思い出すと、苛立ちとともになんだか胸がジリ、と痛む気がした。

そもそも、あいつは俺のことが嫌いなんだろう。嫌い同士で、どうやって仲良くなるっていうんだ。

「優しくていい子なんだよ」
「知るかよ」
「あんまり、いじめないであげて」

あいつの父親かよ、と言い掛けたけどやめた。それから、きっとが幸村くんに何か言ったのだろうことも察したけど、やっぱり口には出さない。

俺はひたすら何も答えず、頷くこともしない。あいつがいい子だろうと悪い子だろうと、そんなの関係ない。幸村くんにまとわりつく限り、俺にとってはどっちだって同じことだ。

なんで幸村くんは、そんなにもあの女のことを気に掛けるのだろう。

いつか、やけに親しそうだったから気になって幸村くんにのことを尋ねたら「友達なんだ」って笑ってた。友達、かよ。あいつ。幸村くんのこと「せいちゃん」とか呼んで、毎日病室に来て、交換日記もして、それって友達って言うのかよ。

あいつに聞いたら、「わかんない」と泣き出しそうな顔してたけど。あの、紫陽花の色みたいに。

「それより、この前ここにいた女は誰だよ」
「この前……?ああ」
「彼女かよ」
「はは、友達だよ。クラスメイトなんだ」

やっぱり。そう言うと思った。

ざあざあと音を立てる雨は、胸のざわめきに似ている。何でもないという風に笑う幸村くんに対して、言いようもない感情が募ってゆく。

幸村くんにとっては、きっと誰もが「友達」なんだろう。ずっと一緒にテニスをやってきた俺や真田だって、ただの友達何号かに過ぎない。だから、今日初めて会った奴だったとしても幸村くんにとっては等しく「友達」で。

友達、友達、友達。

友達、ってなんだよ。


「そんな訳ねえだろ」
「……丸井?」
「なんでそんな嘘つくんだよ、彼女なんだろ」
「どうしたんだ」

誰かに俺のことを聞かれて、「友達なんだ」って笑って答える幸村くんを想像したら、悲しくなった。「わかんない」って震える声で答えたあいつのことを思い出したら、泣きたくなった。

俺なら何て答えただろう。あいつに「せいちゃんの何なの」って聞かれたら、何て答えただろう。

――”友達”なんて、そんな簡単な言葉で片付けるな。

「……帰る」

椅子から立ち上がって、幸村くんが呼び止めるのも無視して、病室を出た。そのまま足早に廊下を通り過ぎて階段を降り、外に出ると、雨は来た時よりも強くなっていた。

傘立てに置いてあった傘を掴んで来たけれど、差す気になれず、ひたすら濡れながら歩く。跳ね上がる泥が制服のズボンの裾を汚しても、ちっとも気にならない。

ネオンの明かりがぼやける薄暗い街中を、黙々と早足で進んだ。雨に濡れた世界はなんだかやけに悲しくて、こんな季節、早く終わって欲しいと心底思った。





次の日、学校で授業を受けても頭がぼんやりしていつも以上に内容が理解できない。俺は一人になりたくて、昼休みはメシを食った後、校舎をふらふらと歩いていた。

雨の日の学校の中は薄暗い。たまたま鍵が開いていてふらりと入った教室は、よくよく見ればこの前と会った視聴覚室だった。

げ、と思ったけれどどうやら今日はいないようだ。今さらどこか他へ移るのも面倒で、俺は窓際の席に腰掛けると雨に打たれるガラスを、頬杖をつきながらただぼうっと眺めた。

…………。

それから、どれくらい経っただろうか。始業のチャイムは鳴ったのだろうか。それすらもわからないくらい、俺は何も考えられず、眠っていたのかどうかさえ、覚えていなかった。

携帯電話を開いて確認すると、5時限目をとっくにすっとばして、もう6時限目が始まろうという時刻だった。

けれど、まずい、と思ったのもほんの一瞬。すぐに、まあいいかという気持ちになる。どうせ出たところで、内容なんて頭に入ってこないわけだし。

とりあえず、6限目には顔を出すか……と思うけれどなかなか体が動かない。立ち上がろうとしても、ドスンと椅子から転げ落ちて、床の上に尻モチをついてしまった。仕方なくそのままだらりと壁にもたれて、ため息をつく。

「……ハア、」

なんだか今日は朝から体が重い。だるくて、何もやる気が起きない。

そのまましばらくぼんやりしていると、ふと耳の奥に入って来たチャイムの音に少しばかり意識がはっきりする。それはてっきり6限の始業のチャイムだと思ったのに、時計を確認してみれば終業のチャイムだった。

いつの間にか、そんなに時間が経っていたのか……?

結局午後の授業全部サボっちまったなあ、と大した罪悪感もなく考える。それから、そろそろ部活の時間だと思えば、だらりと重たい自分の体を何とか起こして、近くの椅子につかまりながらふらふらと立ち上がった。

雨はまだ止んでいないようだ。辺りは、相も変わらず随分と薄暗い。俺は、こんなに重かっただろうか、と感じながら教室のドアを開けて廊下に出ると、ふらふら歩いた階段の踊り場で、誰かとぶつかった。

「あ、悪りい……」

顔を見れば、それはだった。は、俺に驚いたのか瞬きするだけで何も言わない。思わずこいつに謝っちまった、自分に腹が立った。ただでさえ苛立つ気分の時に、こいつの顔は見たくない。なんで俺はいつも偶然、こいつに会うのだろうか。

「何だよ」
「……べつに」

じろりと睨むと、はまたいつもみたいに少し俯いて、体を小さくする。いつもこうだ。俺のせいだということはわかっていても、そんなこいつの態度にいらっとする。今にも泣き出しそうなその声も、顔も、何もかも。

こんな奴もう無視して、この場から立ち去ろうとするけれど体が上手く動かない。足元がふらついて、ろくに力が入らない。俺の体は真っ直ぐに進めず、近くの壁にぶつかってベタリと音を立てた。

「痛て、……」

視界もなんだかぼんやりとする。なんだこれ、俺、一体どうしたんだ……?

「丸井くん、具合が悪いの……?」

現状がよく理解できずにいると、そんな俺の様子を黙って見ていたが、おずおずと声を掛けてきた。

「あ?んなワケねえだろ」
「でも……、」
「うるせえな、何でもねえって言ってんだろ。ほっとけよ」

こいつが鬱陶しくて、俺は無理やりにでも体を動かしてその場を離れようとした。けれど、階段を降りようと足を踏み出したところで、足がもつれてバランスを崩し、思わず踏み外しそうになる。

それは、まるでスローモーションみたいに感じた。時間はやけにゆっくりと流れて、俺は絶対に転げ落ちると思ったのに、いつの間にかが俺の制服のシャツを掴んでいて、転ぶことはなかった。

「……大丈夫?」

本当に心配そうな顔をして、は言った。それなのに、この頭の中に浮かんでくるのは感謝の言葉なんかじゃなくて。

「余計なことすんなよ」

俺のことなんか嫌いなくせに。

掴まれた手を振り払うようにして、その場を離れた。意識が朦朧としながらも、階段を降りると、なんだか後ろからもう一つ足音が聞こえるような気がする。それが誰のものかなんてことはもう、わかりきっていた。

「ついてくんな」

振り向いて冷たくそう言い放てば、は小さく「……でも」と言った。

「関係ねえだろ、ほっとけよ」

俺はお前に心配なんてされたくない。そんなの、される必要もない。無理して足を引きずりながら早歩きをして、とにかくあいつから離れようとする。しばらくしてから振り返ると、もうそこにの姿はなかった。

(……やっといなくなった)

『そう言わないで。仲良くしてやってくれないか』

記憶の中で繰り返される幸村くんの言葉に、俺は苛立ちながら心の内で舌を出した。

(絶対いやだね)



一応、そのあと部活には顔を出したけれど、相変わらず体には力が入らない。真田には「たるんどる」と叱られるし、他の連中には「早く帰って休め」と追い返されるし。俺は仕方なく学校を出ると、雨の中駅の方角に向かって歩いた。

青信号の点滅する横断歩道を渡ったあと、立ち並ぶ店を越えた先の角を曲がった。時折、何もないところで足がつかえて転びそうになる。頭がくらくらして、次第に、なんだか眩暈もするような気さえした。

俺の体、一体どうしちまったんだろうなあ……。普段あまりこんな風にならないから、自分が今どんな状態なのかよくわからない。

ふらふらと歩き続けると、道の向こうにやっと駅が見えてきた。いつもならここまですぐなのに、今日はやけに遠く感じる。ぼんやりと赤信号が変わるのを待っていると、ふと一瞬、意識が遠いた。

耳の奥に、車のクラクションの音が鳴り響く。

ゆっくりまぶたを開くと、雨に濡れたアスファルトが視界中に広がっていた。どうやら、気を失って倒れたらしい。世界がぐにゃりと歪んで見えるのも、雨のせいなのだろうか。

「丸井くん!」

俺の名前を呼びながら、誰かが駆け寄って来る。冷たい雨から庇うように差されたその傘の中でぼんやりと見えたのは、なんだか見覚えのある制服だった。

お前がどうして。ここにいるんだ、……

浮かんだ疑問は声にならない。は、どうやら車道へ倒れ込んでいたらしい俺を抱き抱えるようにして歩道へと引っ張り込むと、少し先に飛ばされていた、俺の傘も回収した。

「丸井くん、大丈夫っ?!」
「……おまえ、……なんで」

随分と動揺した様子のの腕の中で、俺はこれが夢なのか現実なのか、よくわからなくなっていた。

「すぐ病院に行こう」
「……いい、ほっと……けよ」
「だめだよ、ちゃんと診てもらわなきゃ!」

は今にも泣き出しそうだった。聞いたこともないような大きな声を出して、俺は、それ以上何も言えなくなった。

とにかく頭が重くて、もう目を開けていることさえできない。俺は深い溜め息とともにまぶたを閉じると、意識がどんどん遠くなっていく。そしてぼんやりと消えゆく意識の中でかろうじて聞こえたのは、タクシーの運転手らしき男と話すの声と、雨の音だけ、だった。



(…………)

随分と長い間眠っていたような気がする。俺は重いまぶたを開くと、視界には白い天井が映った。

ここはどこなのだろうかと思う。俺の部屋じゃ、ない。白い壁、白いカーテン。見ると俺の腕から繋がっている細いチューブは、透明な液体の入ったパックが吊るされている先へと繋がっていた。

(点滴、……)

病院、か。
ゆっくりと首だけを少し横へ動かすと、すぐそばにある椅子に誰かが座っている。

「……お前……、」

そうだ、思い出した。雨の中、が道で倒れた俺を助けたこと。タクシーを拾って病院まで連れて来たこと。

「……あ。気分は、どう……?」
「……」
「その、風邪みたい。よく休めば治るって、先生が」
「……へえ」

ずっと、目を覚ますまでここにいたのだろうか。俺はその労わるような眼差しが居たたまれなくて、思わず目を逸らした。

「もういいから、帰れよ」

の方を見ないまま、俺はできる限り素っ気なくそう言った。自分がどんなにひどい態度をとっているかはよくわかってる。それによって、あいつがどういう顔をするかも、わかっていて。それでも。

「でも……。丸井くん、」
「帰れって言ってんだろ」

少しの沈黙が続いたあと、ゆっくりとが椅子から立ち上がる音がした。次第に離れていく靴音に、なぜだか胸の奥にはジリジリと、焼け付くような痛みが広がっていく。

「……

黙ったまま立ち去ろうとする背中に、俺は、気が付けば声を出していた。そうすれば当然、あいつは立ち止まってこちらを振り向く。だけど瞬きだけを繰り返して、やっぱり何も言ったりしない。

「何でもねえよ」

自分から引き止めておきながら不機嫌そうな声を出す俺に、はべつに腹を立てるわけでもなく。小さく「じゃあ」とだけ言うと、そのまま帰って行った。


誰もいない真っ白な空間に一人取り残されて、俺はなんだか急に息苦しくなる。幸村くんも、いつもこんな苦しい思いをしていたのだろうか。

…………。
……なんでだ。目を閉じても、思い浮かぶのはあいつの姿ばかり。

俺のことなんか、嫌いなくせに。放っておけばいいだろ。なのになんで、あんなに必死になってまで俺のこと助けたりするんだよ。お前のことなんか、嫌いだって言ってるだろ。

『優しくていい子なんだよ』

その時なぜだか、俺は幸村くんの言葉を思い出した。穏やかな眼差しとともに語られた言葉が、今になって、この胸にツンと。まるで消毒液みたいに染みてくるのはどうして。

がいなくなった後、空になった椅子を眺める。あいつはどれくらい長い間、黙ってそこに座っていたのだろう。何を、考えていたのだろう。

雨の中で俺を抱き抱える、今にも泣き出しそうなの姿を思い出せば、やけに胸が締め付けられる思いがした。

そのままぼんやりと窓を打つ雨の音を聞いていたら、次第にこの目からはじわじわと、温かいものが湧き出てくる。構わずに放っておくと、それは目の端からぽろりとこぼれて、そのまま枕へと吸い込まれていった。