ネオンアクア





聞き覚えのある、威厳に満ちた低い声。彼が一言発するだけで、辺りがピンと張り詰めた空気になるのを、肌で感じる。

真田弦一郎。彼が私やせいちゃんと同い年だなんて、やっぱり信じられないのだけれど、事実なのだから仕方ない。

「あ、……はい」

学校の廊下で呼び止められた私は、返事をしながら歩いていた足を止めた。上を見上げると、迷いなくじっとこちらを見つめるまっすぐな目と視線が合う。彼と話すのは、なんだか、先生と話す時よりも緊張してしまうのだ。

「今も幸村の見舞いには通っているのか」

何を言われるのだろうか、私は何かしてしまっただろうか、と少し不安だったけれど、せいちゃんの名前が出てほっとした。でも、思い出してみれば、これまで彼にせいちゃんの話題以外を振られたなことなど、なかったのに。

「うん、行ってるよ。時々行けない日もあるけど……」
「うむ。俺もこの頃は大会に向けた練習のスケジュールが詰まっていてな、なかなか顔を出せないでいるのだ」
「そうなんだ、大変だね」

男子テニス部は、運動部の中でも練習が厳しいので有名だ。今年も全国大会優勝に向けて、真田くんはもちろん、部員のみんなも随分と頑張っているみたい。

みんなが汗を流すテニスコートの中に、せいちゃんの姿はないけれど……。

「幸村の様子はどうだ」
「うん。最近はだいぶ顔色も良さそうだよ」
「そうか」

せいちゃんの話をする時の真田くんは、気のせいか、少しだけ表情が柔らかくなるみたい。小さい頃からずっと一緒にテニスをしてきたから、やっぱり、仲が良いのだろう。同じ部活の部長と、副部長だし。盟友、みたいな感じだろうか。

普通に学園生活を送っていたらまず話すことのないタイプの彼だけれど、こうやって話し掛けてくれるのはせいちゃんのおかげだろう。もしかしたら、私はせいちゃんの幼なじみだから、ほんのちょっとだけでも親近感を感じてくれているのかな。

「また近々寄ると伝えてくれ」
「うん……」

人間の小さい私は、真田くんや、他のみんながいなくればいいとさえ思っていたのに……。

「む、丸井か」

うつむきかけると、真田くんが発した言葉に私は思わずぱっと顔を上げてそちらを見てしまった。

たまたまそばを通り掛かった様子の丸井くんは、私の存在に気付いているはずだけど嫌そうな顔をするでもなく。両手をズボンのポケットに突っ込みながら、ただフーセンガムを丸く膨らませるだけ。

「もう調子は戻ったのか」

真田くんの問いかけに、小さく頷く。丸井くんはあれから、何日か学校を休んでいたみたいだ。体の調子を聞きたいのは私もだったけれど、そんなの、口に出せるわけない。

あれからどうしたかな。家族は迎えに来てくれたのかな。ずっと、気になってた。

真田くんはまだ何か言いたげだったけれど、丸井くんはさっさと通り過ぎていなくなってしまった。たった一瞬だけ、私と目が合ったけれど、気のせいかなと思うくらいにすぐ逸れた。

「まったく」

ため息交じりの真田くんの言葉だけがその場に残って、私も、それから何も言えなかった。







病室のドアを開けると、いつもみたいに優しい声で名前を呼ばれてほっとした。真田くんに呼ばれるのとはまた違うな、と思う。私はいつもの椅子に腰掛けると、鞄を膝の上に置いた。

「今日は少し遅かったね」
「うん、ちょっと委員会の仕事があって……ごめんね」
「ううん。忙しいのに、来てくれてありがとう」

ふわりと笑うその顔は、いつもどこか儚げに見えて。私は安堵する一方で、不安にもなった。真田くんに言ったみたいに、この頃せいちゃんの顔色がいいのは確かでも、やっぱり、不安が消えてなくなることはない。

ある日突然、いなくなっちゃうんじゃないか。明日、この部屋のドアを開けたら、もうそこにせいちゃんの姿はないんじゃないか。時々そんな風に考えてしまっては、夜、ベッドの中で涙がぽろぽろとこぼれてくる。

「学校の方は、どう」
「えっと……、普通かな」
「もうじきテストだろ。俺、勉強見てあげようか」
「だ、大丈夫だよ」

私は慌てて首を振って断った。以前はよく教えてもらっていたけれど、さすがに今はそんな訳にはいかない。入院しているせいちゃんに、そんなことまで面倒を掛けられるわけがない。

「じゃあ、他に、何か困ったこととかない?」

以前にここでうっかり泣いてしまったからだろうか。あれからせいちゃんは随分と私のことを気にして、心配してくれるようになった。せいちゃんは今、自分のことで大変なのに。こんな時まで余計な心配ばかり掛けてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「ないよ、大丈夫」

精一杯笑って見せたつもりだけれど、どうだろう。

「俺にできることがあったら、何でも言ってね」
「……ありがとう」

それを言うなら私の方なのに。私は小さい頃からいつも、せいちゃんに甘えてばかりだ。優しくされるのが、嬉しかった。お兄ちゃんみたいに、面倒を見てくれるのが嬉しかった。でも、本当はそれじゃだめだったんだ。

また泣きたい気分になって、涙がにじみそうになるのを必死に我慢する。


「どう、あれから丸井とは話したりするかい」

”丸井”、という言葉に、体がぴくりと反応した。

校舎で見た、顔色の悪い丸井くん。雨の降る交差点で倒れた丸井くん。病院のベッドで眠る丸井くん。廊下で通りすがり、こちらを一瞥する丸井くん……。一瞬のうちに色んな彼がよみがえって、そして消えていった。

「……ううん」

気が付けば私は小さく首を振っていた。何て答えたらいいのかわからなかったから。話したと言えば話したかもしれないし、話してないと言えば、そうだとも思う。

丸井くんの目の前にいたって、私はいつも、彼の目には入ってないんじゃないかと、そんな風に感じていた。

「そう。ここ何日かさ、丸井の奴、顔を出さないんだ」
「……」
「どうかしたのかな」

せいちゃんは首を傾げる。喉まで出掛かって、私は、答えるのをぐっと堪えた。べつに隠すようなことじゃないのに、この前丸井くんとの間にあったことをせいちゃんには話せなかった。

……きっと、丸井くんは私に助けられたの、嫌だったろうな。

『もういいから、帰れよ』

こちらを見ずにそう言う丸井くんの、素っ気ない言葉が記憶をかすめて、少しばかり胸が苦しい。私は余計なことをしただろうか。助けない方がよかっただろうか。あれから彼の容体が気になりながらも、罪悪感みたいな、もやもやとした気持ちが薄っすらと残って消えなかった。

「丸井には話しておいたから」
「……、え?」
のこと」

そういえば以前に、彼に意地悪を言われると伝えてしまっていたのだった。

「だから、もう大丈夫だよ。あいつも、決して悪い奴じゃないんだ」
「……」
「許してやってくれないか」

せいちゃんは、目元を少し緩めて微笑む。それを見つめながら私は、そうかなあ、とちょっとだけ思った。丸井くんが悪い奴なんかじゃないっていうのは、きっと、そうなんだろう。それを否定するつもりはない。

でも、丸井くんは私のことが”嫌い”で。だから、あんなことを言うの。
私のことが、邪魔なの。

「もし、また何か言われたら、すぐ俺に言って」
「……」
「ね、」

原因は丸井くんじゃなくて、私にあるのだと思う。

うん、と聞こえないくらい小さな声で頷きながら、今、自分の中で答えを見つけた。丸井くんの、視線、言葉、態度……どうしてそんなことを言うの。と、泣きたくなるような冷たさの先には、いつだって私に対する鬱陶しさがあった。

やっぱり、丸井くんはせいちゃんのことが好きなのだと思う。そこには友情とはまた別の感情が確かに存在して、それが何かは、丸井くんにしかわからないけれど。

私がせいちゃんに対して想っているようなことを、丸井くんもまた、想っていたりするのだろうか。「彼女」という言葉に、胸がえぐられるような痛みを覚えて、眠れなくなったりするだろうか……。

「あら、丸井くんじゃない」

突然ドアの外から聞こえた女性の声に、心臓がドクンと大きな音を立てる。

「そんなところに立っていないで、入ったらどう?」

病室のドアを開けながら、顔見知りの看護師さんがそんなことを言う。三分の一くらい開いた隙間からは、丸井くんの姿は確認できなかったけれど、看護師さんの首の向きからそこにいるのだろうことはわかった。

それから、離れて行く靴音と、「あっ」と声を出す看護師さんの様子でここから立ち去ってしまったことも、わかった。

「丸井が、いたんですか」
「ええ。病室の前にね、立ったままいたの。どうしたのかしら」

不思議そうにする看護師さんと話すせいちゃんの横顔を黙って見つめながら、どきどきと音を立てるこの胸の音は、なかなか落ち着かなかった。

いつからいたのだろう。私達の会話は、聞こえてしまっていたかな。どうしよう、と思っても、もうどうすることもできないけれど。でも、開き直るほどの勇気もまだ持てなかった。



「じゃあ、。もう暗いから、帰り気を付けてね」
「うん」
「俺、下まで送ろうか」
「いいよ、大丈夫。ありがとう」

「またね」と手を振って病室を出ると、白い床を眺めながら廊下を歩く。そのままエレベーターに乗って、ふわりとする浮遊感の中でも、頭にはずっと丸井くんの姿ばかりが浮かんでいた。

1階について、出口に向かって歩いているとだんだん雨の音が近付いて来る。すっかり暗くなってしまったな、と思いながら傘を広げ、夜の冷えた空気の中を歩き出した。

傘にぽつぽつと雨が落ちる音を聞きながら、ぼんやりと雨の街を眺める。どうしてだろう、もう遅いのだから少しでも早く家に帰らなきゃいけないのに、今日は、なんだか真っ直ぐ帰る気分にはなれなかった。

私は近くにあったドーナツショップにふらりと立ち寄ると、適当に飲み物とドーナツを一つ、注文した。トレーを持って空いてる席を探し、窓際の端の、カウンター席に腰を下ろす。雨に濡れるガラスに映った自分は、随分と浮かない顔をしていた。

私は一つ溜め息をつくと、鞄の中から、今日せいちゃんから受け取った交換ノートを取り出してペラペラとページをめくる。そこにはせいちゃんの綺麗な字で、私を気遣う言葉ばかりが並べられていた。

優しいせいちゃん。いくつになっても、どれだけ時が経っても、ずっとずっと優しい。大好きなの。あなたのことが、この世界の誰よりも、大好きで、大切なの。

ずっと、そばにいたい……。

せいちゃんにもそう想う人がいるのかな。それは私じゃない誰かで、もっとずっと美人で聡明で。私はただ、小さい時からそばにいるというだけ。家が近かったから、ただ、それだけ。

歳を重ねるごとに、私とせいちゃんとの距離は遠くなって、その背中は小さくなっていく。

胸の内で独りでに大きくなっていく想いを口には出せないまま、強く美しいあなたを見つめ続けてきた。どんなに近くにいても、あなたはずっとずっと憧れのまま。まぶしくて、綺麗で、泣きたくなる。

友達だっていい。少しでもそばにいられるのなら。……なんて、思うふりをして心の奥では本当はそんなのじゃやだ、と言っている。もっと特別になりたい。せいちゃんの一番になりたい。そんな声が聞こえる。

「……はあ、」

胸の苦しさから、私はまた一つ小さく溜め息をついた。

せいちゃんと一緒にいるときは平気でも、離れると、いつだってこんな風にせいちゃんへの想いが溢れ出て止まらなくなる。見たこともない”彼女”の顔を思い浮かべて、勝手に泣いたりする。

せいちゃんを「好き」と言う人はたくさんいるから。決して私だけのものじゃないことは痛いくらいにわかっていても、どうにもできない。せいちゃんにとったら、こんなの、迷惑かもしれないのに。そう、思うのに。

……その時、近くでカタ、と椅子を引く音が聞こえた。となりの席に誰か座ったらしい。他にも空いている席はあるのに、なぜだろう、と思って視線だけ横に向けるとそこには見慣れた赤い髪が見えた。

「……丸井、くん?」

名前を呼んでも、その人は返事をしなかったけれど。でも、人違いということはない。だって、立海の制服を着ているし、大きなテニスバッグを持っているし。腕には、パワーリストだって……。そんな人、他にいない。

丸井くんの前に置かれたトレーにはいくつかドーナツがのっているけれど、それに手を付ける様子はなく、ただ黙って窓の外を眺めているだけ。なんでだろう、と思っても聞けなくて、私もなんとなく同じようにして黙ったまま。

時々、店の自動ドアが開いた時に聞こえる雨の音とか、少し離れた席に座っている学生の笑い声とかが、店内のBGMに混じって、聞こえる。賑やかでも、なぜだか、私にはとても静かに感じた。

「なんで、俺のこと助けたんだよ」

それは聞き間違いだったろうか。そう思って、ずっと黙っていた彼の口から出た言葉に、私はすぐ反応することができなかった。

「……え、?」

だけど、こちらを向いた丸井くんと目が合って、気のせいなどではないことにすぐ気付いた。

「……なんでって、あの、だって倒れてたから……」
「お前、俺のこと嫌いなんだろ。ならほっとけよ」

やっぱり、さっき病室の前で私達の会話は聞こえてしまっていたのだろうか。

不機嫌そうな大きな目にじっと見つめられて、鼓動は早くなるのに、それなのに私はその時、初めてちゃんと彼の目に自分の姿が映って認識をされたような、そんな気がしていた。

「ほっとけないよ、具合が悪いのに」
「俺なら、お前が道で倒れててもほっとくね」
「……、べつにいいよ」

正直そこまで言われると少しショックだったけど、彼のこういう物言いは今に始まったことじゃない。嫌われていることは前から知っているし。確かに、あの時は私が勝手に助けただけで、彼に頼まれてやったわけじゃないし。

余計なお世話だ、と言われるなら確かにそうだったかもしれないな、と思った。

「助けたこと、誰にも言わねえのかよ」
「……」

私は、声には出さず小さく頷いて返事した。

「幸村くんにもかよ」
「……うん」

言う機会はあった。でも、口には出せなかった。きっと丸井くんは、嫌だろうと思ったから。

「なんでだよ。言えばいいだろ、いいことしたんだから。そしたらみんな、お前のこと褒めてくれるのによ」
「べつに……いいじゃない、そんなの」
「……ああ、そうかよ。まあ俺だって、お前みたいなのろまに助けられたなんて知られたくねえしな」
「……」

顔色が悪くて、具合が悪そうだった丸井くん。ついてくるなと怒られたけど、嫌われてるって知ってたけど、どうしても心配で、私は学校帰りに校門で見掛けた彼のあとをこっそり追いかけていた。

もう、誰かが苦しそうにしているのは見たくない。それを我慢して何でもないようにしているのは、もっと見たくない。自然とせいちゃんの姿に重ねてしまって、だから……。

「お前、なんで俺にそこまで言われて怒らねえんだよ」
「……え……?」

私は、いつの間にかうつむいていた顔を上げた。そこにあるのは、相変わらず不機嫌そうな丸井くんの顔。思いの外、長い睫毛がまばたきとともにふわりと動く。

「なんでって、……」
「言えばいいだろ。なんでそんなこと言われなきゃなんないんだって」
「……」
「なんで、お前、いつも怒らねえんだよ」

急に、どうしたんだろう。丸井くんは、私が怒らないことを怒ってる……?よくわからなくて、苛立っている様子に少し混乱した。

「丸井くん、どうしたの……?」

窺うように尋ねても、答えない。丸井くんは、怒っているはずなのに、どこか悲しそうだった。なんでだろう、そう不思議に思っても、その時の私にはわからなくて。

彼は、いつだって表面上は勝気そうに見えても、その内にはどこか脆さを含んでいるように感じた。まるで、弱いところを隠してるみたいに。

これまでも、丸井くんが私に冷たく当たっていたのは、もしかしたら自分を守るためだったのだろうか……。彼の姿を思い返して、私はその時、急に、そんな風に思ったのだった。