にじむ世界 結局、あの後、丸井くんは一言も言葉を発さなかった。 どうして、とそれ以上しつこく追及する勇気もなかったし、ただ隣で黙ってドーナツを食べている彼をじっと眺めているわけにもいかず、私は自分の分を食べ終えると早々にお店を後にした。 丸井くんは、何か私に言いたいことがあったのかな……。 雨で濡れたアスファルトに、ネオンがキラキラと反射する夜の街をとぼとぼと歩きながら、ぼんやり考える。 彼はなんだか、苦しそうに見えた。 そう思ったら、これまでに言われた意地悪なことも、今は忘れて、なんだか心配になる。私は丸井くんのことをよく知っているわけなじゃないけど、きっと、あれは普段の彼の様子とは違うと思った。何かを悩んでいるような、そんな感じ。 嫌いな私のそばにまでわざわざやって来て、話し掛けてくるなんて。 (……どうしたのかな) ずっとそんなことを考えながら、電車に乗って、気付けば最寄りの駅に着いていた。また傘を差して道を歩き、しばらくして自分の家の明かりが見えて来た頃、携帯が鳴った。ポケットから出して画面を見れば、それはせいちゃんからの電話で、私は慌ててそれに出る。 「も、もしもし」 「?もう、家には帰ったの」 「あ、えっと……」 せいちゃんが夜に電話を掛けてくるなんて珍しくて、どうしたのだろうと、話しながらもどきどきしていた。 「まだだけど」 「え、今、どこにいるの」 そう言うせいちゃんの声は、いつもの優しい穏やかなトーンとは違って、少し張り詰めた様子に感じたのでことさらにどきどきが増す。 「家の、すぐ近く……」 「そう」 恐る恐る答えた私の返事を聞いたせいちゃんの声は、安堵したかのように、少しため息が混じっていた。病院を出た後、真っ直ぐ帰らなかったことを叱られるかと緊張していたけれど、それ以上は聞かれなかった。 「ごめん、俺、のことが気になって」 街灯の明かりだけが、ぼんやりと暗闇を照らしている。雨は今も、傘に当たってはポツポツと音を立てて、ちっとも止む気配はない。 「あの後、ちゃんと帰れたか心配だったんだ」 耳に当てる携帯から聞こえてくる、せいちゃんの落ち着いた声になんだかとてもほっとして、無性に泣きたくなった。 「うん、大丈夫だよ」 「そう。よかった」 「あの……、ありがとう」 何も責められたりなんかしていないのに、私は、勝手に寄り道したことを反省していた。せいちゃんはいつも私のことを心配してくれていたのに。 「せいちゃん、その……」 「なに?」 いっそ本当のことを話して、謝ろうかとも思ったけれど、でもできなかった。丸井くんのどこか悲しそうな目を思い出して、何も、言えなくなった。 「ううん、ごめん。なんでもない」 「そう。じゃあ、気を付けて帰るんだよ」 「うん」 「またね、」 「うん、また」 その日、私は眠る前のベッドの中で、何度もせいちゃんとの通話履歴の画面を眺めては、その穏やかな声を思い出していた。 せいちゃんの優しい笑顔は、安心するような、それでいてどこか切ないような。言葉にできない想いが、いつも胸の中に広がっては、消えていくのを繰り返す。 (……大好き、……) 小さい頃から、何度そう思ったかわからない。すると、なぜだか涙がじわじわとにじんできて、溢れると、それは静かにこぼれ落ちていった。 「……、せいちゃん?」 病室の前で、何度かドアをノックしてみても返答がない。そろそろと開けてみるとやっぱり、部屋の中には誰もいなかった。もしかして、診察の時間だったりするのかな。 私は、どうしよう……と、くるりと部屋の中を見回した。 まあ、すぐに戻ってくるかも、と思いとりあえず椅子に腰掛けて、窓の外の雨を眺めていたけれど、しばらくたっても戻って来る気配はない。時計の針の音だけが聞こえる部屋の中は、息をするのも戸惑うくらいだった。 一つため息をつくと、それは、静けさの中に吸い込まれていく。 (……せいちゃんに会いたいな) 毎日のように顔を見ているのに、いつだってそう思ってしまう。きっとせいちゃんは違うだろうけど、私が考えるのは、いつだってせいちゃんのことばかり。せっかく来たのに会えない日は、泣きたいくらいに悲しくて、夜も眠れない。 もう少し待って、来なかった帰ろう。もう少し待って、来なかったら帰ろう、……を何度も繰り返して、やっと帰る決心が着いた。私は仕方なく、持ってきた交換ノートをバッグから取り出すと、ためらいがちにベッドテーブルの上に置く。 「……あ、」 するとそこで初めて、デッサン帳の置いてあることに気が付いた。ちょうど開かれているページには、病室の花瓶に飾ってある花の絵が描かれている。 絵が上手なせいちゃん。せいちゃんは、入院してから運動ができない分、絵を描くことが前よりも増えたと言っていたので、このデッサン帳を私がプレゼントしたのだった。 絵を描くことで、少しでもせいちゃんの気が紛れればいいな、と思ったから。受け取った時のせいちゃんは、いつものように優しい笑顔で、ありがとう喜んでくれた。 (使ってくれてるんだ……) あの後、いつも近くに置いてあるのは知っていたけれど、中を見たことはなかった。見せて、と言うのも厚かましいような気がして、言えなかった。だから嬉しくて、しばらくの間、黙ったままじっと絵を眺めていた。 その時、少し開いていた窓の隙間から急に強い風が吹き込んできて、デッサン帳のページがぱらぱらと、めくれた。すると、ちょうど止まったページに現れたのは、今度は人物画で。女の子の絵みたいだった。 「これって、……」 もしかして、私……?突然心拍数が上がって、どきどきという心臓の音がうるさいくらいに耳の奥で聞こえる中、じっと絵を見つめる。この目、この髪型……。きっと、ううん絶対に私に違いない。 せいちゃんが、私の絵を描いてくれてたなんて。あまりにも嬉しくて、急に体中が熱を持ったようだった。鉛筆の柔らかなタッチで描かれた私は、目を細めて微笑んでいる。せいちゃんの目に、私はこんな風に映っているのだなあ、と思ったらすごく不思議な気持ちがした。 嬉しい、嬉しい。せいちゃんに会えなくて寂しいという気持ちはいつの間にか消えていて、私は、しばらくの間その絵を眺めていた。 (……あ、) ふと流れた、院内放送にはっとする。いい加減、そろそろ帰らなくちゃ。そう思って立ちあがったところで、もう一度、部屋の中に強い風が吹き込んでくる。 私は窓を閉めるついでに、カーテンも引いた。今日は珍しく雨じゃないけれど、空は相変わらずのどんよりとした色で。そんな一日も、じきに陽が暮れる。 置いてあったバッグを持って部屋を出ようとすると、さっきの風で、再びスケッチ帳のページがめくれてしまったらしく、そこにまた違う絵が広がっていることに気が付いた。 今度は何だろう、と思って軽い気持ちで覗き込んでみた。けれど、その絵を認識した瞬間、私は固まってしまった。 (…………誰?) それは、さっきと同じく、女の子の絵。でも、モデルが違う。これは、私じゃない。凛とした横顔、くっきりとした目鼻立ち……。どこかで見たことのあるような、ないような。 私は、思わずデッサン帳を閉じてしまった。さっきまで感じていた言いようもない高揚感はすっかりなくなって、今はまるで、突然南極の氷の海にでも突き落とされたかのように凍り付いた気分だった。 逃げるように病室を出ると、茫然としながら廊下を歩く。せいちゃんと会ってしまう前に、早くいなくなりたくて、急いでエレベーターに乗った。 階数のランプが下に向かって点滅していくのを眺めながら、私はさっき起こったことがまだよく理解できておらず、混乱していた。あれは見間違いだったろうか、それとも、夢だっただろうか。 ……違う。そんなわけない。 せいちゃんは、私を描くみたいに、あの人のことも絵に描いたんだ。横顔を眺めて、そして、それを鉛筆で優しくスケッチした。 『幸村くん、彼女いるぜ』 丸井くんのあの言葉が、今、頭の中で何度も繰り返される。それはきっとまた、私に意地悪をしたくて、そう言っただけのことだと思い込むようにしていた。けれど、もしかしたらそうではないかもしれないと気付けば、苦しくて、仕方なかった。 考えないように、忘れるように、していた。それなのに、今はその言葉しか浮かんでこない。 エレベーターを降りて、真っ直ぐに出口まで進む。周囲の人の顔も、声も、何も見えない。聞こえない。とにかくここからいなくなりたくて、早歩きして病院を出ると、少し行ったところで誰かと肩がぶつかった。 「すみません、」 目が合ったその人は、丸井くん……だった。 私はさっと目を逸らすと、その場から走り出した。しばらくそのまま走り続けて、信号が点滅して赤信号になったところで、やっと足を止める。胸に手を当てながら、何度か、深い呼吸を繰り返した。 なんだか視界がぼやけて見えるから、雨が降ってきたのかと思ったけれど、違った。一体いつから、泣いていたのだろう……。 手で涙を拭いながら、ひとり、薄暗い街を歩く。そのまま電車に乗って、ドアの付近で立ったまま流れていく風景を眺めていたら、ガラス窓に映る自分の目からは、時折ぽろりと滴がこぼれた。 ただ、自分ではない女の子の、絵が描いてあっただけのことなのに。それなのに、どうしてこんなにもショックなのだろう。悲しくて、苦しくて、夕ご飯を食べる元気もなくて。家に帰ってからも、私はベッドの中でずっと泣いていた。 せいちゃんは、あの子のことが好きなのだろうか……。これまで私達は、恋愛の話しなんて一度もしたことがなかった。誰を好きかなんて、怖くてとても聞けなかった。 周囲の女子生徒は、好きな人の名前にせいちゃんを挙げる子も多くて、私はその度に胸が苦しくなった。誰が好きなの、と聞かれても、せいちゃんの名前なんて答えられない。だからいつも、「べつにいないよ」と首を振るだけ。 せいちゃんは、誰かにそうやって聞かれたら、なんて答えるのかな。いないよって、笑うのかな。それとも……。 その時、携帯の通知音がしてのろのろと画面を見ると、せいちゃんからのメッセージだった。 ”今日はせっかく来てくれたのに、いなくてごめんね” 「…………」 画面が、じわじわとにじんで、段々見えなくなる。”大丈夫だよ”って、返事をしたいのに。ちっとも大丈夫なんかじゃなくて、しばらくの間携帯を握ったまま、ぽろぽろ泣いていた。 「……はあ、」 昨日の夜はほとんど眠れなくて、いつのまにか朝になっていた。泣き過ぎと睡眠不足の状態でふらふらと登校したせいか、授業中もずっとぼんやり上の空で。口から出るのはため息ばかり。 やっと昼休みになって、どこか静かな所で一人になりたかった私は、人気のない校庭の隅のベンチでお弁当を広げる。昨日の夜から何も食べていないから、お腹は空いているはずなのに、食欲がない。 木の葉が風に揺られて、さわさわと音を立てた。空の色は今にも泣き出しそうで肌寒いけれど、そんなの関係ないのか、遠くの方ではサッカーやバスケをしている生徒もいて、賑やかな声が聞こえる。 私はなんとかお弁当の中身を口の中に運び終わると、一つ息をつく。そしてポケットから携帯を取り出すと、昨日せいちゃんがくれたメッセージを眺めた。せいちゃんは、あの時、どうしていなかったのだろう。今日、聞いてみようかな。……。 彼女がいるかどうかも、聞いたら答えてくれるだろうか。こんなに苦しんでいるくらいなら、いっそ、聞いてしまえば楽になるのかもしれない。でも、もし「いるよ」なんて、言われたらその時はどうするの……? (あ、) ポツ、と一粒雨が落ちてきたかと思えば、それはたちまち増えていって、あっと言う間に本降りになった。すぐに走ればなんとかなったかもしれないけれど、すっかり出遅れてしまった私は、すっかり木の下に取り残されてしまった。 ランチバッグを抱き締めたまま少し待ってみたけれど、午後の授業が始めるまでには、止みそうもない。運の悪いことに、ここから校舎まではだいぶ距離があって、びしょ濡れになることは必至だった。それでも、ずっとここにいるわけにもいかない。 仕方ない、諦めて走って行こうかな、と思ったところで、誰かがそばを通り掛かった。 (……丸井くん) もう少し先にはテニスコートがあるから、用事でもあったのか、丸井くんは傘を差して校舎へと向かっていく途中だった。私は、何かにつけて、彼と巡り合う運命なのだろうか、と思う。 一応顔見知りではあるけれど、でも、ちょうどよかった傘に入れてなんて、とても言える間柄などではない。声を発する勇気もなく黙ったままでいると、こちらなどまるで見ていない様子だった丸井くんが、急に立ち止まって私の方を見た。 「何やってんだよ」 少しして口を開いた彼の声は、呆れたようなトーンだった。それでも何も言い返せずにいると、今度はちょっと苛立った感じで、近付いて来る。それに思わず身構えると、彼は私の上に傘を差し出した。 「一生ここにいる気かよ」 入れてくれるつもりなのだろうか……?初めてこんなに近づいた丸井くんの顔を直視できなくて、私はうつむき加減に「ごめんなさい」としか言えなかった。 それからは二人とも傘の中で黙ったまま、何も喋らずに校舎の入り口に着くと、丸井くんはすぐに傘を畳んで離れていってしまう。 「あ、あの……ありがとう」 慌ててお礼を言っても、振り返ったりしない。 丸井くんは、私が道で倒れていても、助けないのじゃなかっただろうか。 予鈴のチャイムが鳴っていても、動けずに、、彼の背中を見つめるだけ。怖いと思っていた。苦手だと思っていた。そんな丸井くんが、ほんの少しだけ近くなったような、そんな気がした。嫌われていることには変わりなくても、確かに前とは違う。 もっと、丸井くんと話せたらいいのに……。彼に対してそんな風に思う日が来ることが、不思議だった。 誰にも相談できないでいたことも、丸井くんになら、話せそうな気がする。わかってもらえそうな、気がする。……気がする、だけだけれど。そんな、雨の日の午後。 |