水よりも透明な 目を閉じても、消えてくれないあの横顔。白い紙の上で凛と遠くを見つめる彼女は一体誰なの。 知らなければ、傷付かずにいられる。苦しんだり、嫉妬せずにいられる。それなのに、そうわかっていても、やっぱりどうしても気になってしまう自分がいた。 (知って、どうするつもり……?) 何度繰り返しても、答えは出ない。もしかしたら、彼女でも何でもない、ただ見掛けただけの知らない人……という結果にでも淡い期待を抱いてる? 「……はあ、」 この頃はため息ばかり。私はまた小さく息を吐きながら、校舎の中の廊下を力なく歩いた。 あれから、何度かせいちゃんの所へはお見舞いに行ったけれど、聞くことなんてとてもできなかった。だって、そもそも私は勝手にせいちゃんのデッサン帳を盗み見したんだから、まずその告白から始めなければならない。 べつにわざとじゃなかったし、せいちゃんはそのくらいで怒るような人じゃない。そんなことわかってはいても、やっぱり勇気が出なかった。 「あの……、丸井くんって、いる?」 あの日。丸井くんに傘に入れてもらってから、なぜだか、少しばかり親近感を持っていた。 私はB組の前までやって来ると、近くにいた生徒に話し掛ける。今日こそ、丸井くんと話そうと決めて登校したのに。いざとなると、なかなか校内で出会えなかった。だから、わざわざ彼のクラスまでやって来てしまったけれど、なんだか段々と気が引けてきた。 少しして顔を出した丸井くんは、私の顔を見ても表情を変えず、何も言わなかった。すでに自分の行動を後悔していた私は、もしかしたら若干青ざめていたかもしれない。 「ごめんなさい……、急に」 とりあえず謝罪が先に出てしまう。周囲に生徒は何人かいても、あまり関心がないのか、私達のことを気にしている人はいなかった。 「その、ちょっと丸井くんと話がしたくて」 「……」 「あの……、べつに、無理にじゃないんだけど」 無言でまばたきだけを繰り返す丸井くんの顔を窺うように見ながら、次第に声が小さくなっていく。だるそうに少し首を傾ける丸井くんと数秒の間目が合った後、彼は口を開いた。 「いいけど」 聞き間違いかと思った。けど、どうやら本当らしい。誘っておきながら、OKをもらえたことに驚いてしまう。頭の中で勝手に想像していた彼は、「は?やだね」と冷たく答えたけれど、実際にはそんなことはなかった。 「え、えっと……ほんとに?」 「なんで嘘つくんだよ」 「ごめん、……そうだよね」 思わず確認してしまい、丸井くんはそれに眉をひそめる。だって、これまでの丸井くんの態度なら、断られるのが普通かと思ったから。なんて、言えないけど。 そう思っていたなら、なぜ、ここまで来たのかは……自分でもよく、わからない。 「なに」 「あ、その。実はちょっと聞きたくて……」 私達は教室の入り口から避けて、窓際に寄った。周りはみんな楽しそうに笑い合って、賑やかな声が廊下に響いている。ここで話すのもどうかな、と迷ったけれど、誰も私達の会話なんて聞いていないみたいだからいいかな、とちょっと考えた後に口を開いた。 「前、せいちゃんに彼女……がいるって言ってたでしょ」 「……」 「あれって本当……?」 窓の外は、今日も雨模様だ。丸井くんは片方の腕をポケットに突っ込みながら、フーセンガムを膨らませる。それが丸くなって、弾けてなくなるのを、どきどきと心臓の音がうるさい中、黙ってじっと見ていた。 「聞いてどうすんだよ」 少ししてから、丸井くんは平坦なトーンでそう言う。 「べつに、どうもしないけど……。気になったから」 「そんなの知らねえよ」 「え、だって前、そう言ってたでしょ」 「忘れた」 「……」 はあ、と思わずため息をついてしまった。私はあれからずっと悩んで、眠れない日もあったのに。嘘か本当か、それすらもよくわからない。 なんだか丸井くんには相談できそうな、そんな気がしていたけれど、やっぱりそれは私の一方的な思い込みだったのかもしれない。勝手に期待して、傷付いて。 だって丸井くんは私のことが嫌いなんだから。そんなの、彼にしてみたら、迷惑な話だ。 「わかった……。ごめん、ありがとう」 色んな想いが押し寄せて来たら、なんだか途端に悲しくなってきて、泣きたい気分になる。こんな所で涙が出たら嫌だな、と思ってとりあえずその場を去ろうとしたところで、丸井くんに「おい、」と呼び止められた。 「なんかあったのかよ」 その時、私は初めて、丸井くんのどこか心配そうな表情を見た。 つらくて、切なくて、誰かに話してしまいたかった。あのページに描かれていた女の子は、もしかしたらせいちゃんの好きな人かもしれなくて。でも、本人には聞けなくて。 見なければよかった。あの日、病室に行かなければよかった。そうしたら、今も、何も知らずに過ごせていられたのに……。 涙が、勝手にじわりと滲んで、片目からぽろりとこぼれる。 何でもない、と言いたくても喉が熱くて苦しくて、言葉が出なかった。そのまま何も言わずに立ち去って、自分の教室に戻るまでに、手の甲で涙をこっそり涙を拭った。泣いたって仕方ないと思うのに、この頃は気付けば涙ばかり出てくる。 自分の席に着いて、次の授業の用意をしながらゆっくり呼吸して、気持ちを落ち着けていた。なるべく関係のない、違う事を考えるようにしたけれど、結局、せいちゃんのことばかり。窓を濡らす雨も、今日はなんだか、泣いているみたいだった。 「」 放課後、帰ろうとして玄関で傘を手に持ったところで、誰かに名前を呼ばれて振り返る。するとそこにいたのは、丸井くんで、少し驚いた。 薄暗い中、開いている扉からは雨の音が聞こえる。固まったまま何も言えないでいると、近付いてそばまでやって来た丸井くんの方が、先に口を開いた。 「お前、何の用だったんだよ」 なんで、丸井くんがここにいるんだろう。わざわざ、私のこと追い掛けて来たのかな。頭の中に疑問は湧いても、声に出してまで質問はできない。 「なんか話したいことあったんじゃねえの」 「……」 あったけど……でも、それは。聞いたって、とても真剣に答えてくれるとは思えなかったから。だから、やめたの。 「おい。何とか言えって」 黙ったままの私に、丸井くんばかりが言葉を続ける。 彼の声は、べつに、苛立っているという感じでもなくて。初めて話した時の、感情を持たない冷たさみたいなものも、今はない。普通に、せいちゃんとか、友達なんかと話しているトーンみたいで。 (……どうしてだろう) だからなのだろうか。気付けば私も、とつとつと、話し始めていた。 「……私、この前、見ちゃったの。せいちゃんの、デッサン帳」 「デッサン帳?」 不思議そうな顔をする丸井くんに、私は小さく「うん」と頷く。 「知らない、女の子が描いてあった。同い年くらいの、……」 まぶたの裏に焼き付いた、あの絵。あの、横顔。思い出して話をするだけで、心臓の音がどきどきと速まって、苦しくなる。 「だから……あの子がそうなのかな、って」 「……」 「……それだけ」 詳しいところは全部飛ばして、言いたい事だけ話したから、丸井くんには訳がわからないかもしれない。でも、今はそれ以上説明する元気もないし。言いながら、私、何を話しているんだろう……とも考えていた。 丸井くんになら、理解してもらえると、思った……? 「せいちゃんの……好きな人、なのかな」 すっかり消えたはずの涙は、いつの間にかまた戻って来る。泣いたって仕方ないのに、不安や悲しみは、いつだって水の固まりとなって現れた。 こんなに苦しいのなら、いっそ、本人に聞いてしまえばいい。そして、自分の想いも、何もかも全部、伝えてしまえばいいのに。こんな所で、関係のない誰かの前で、泣いているくらいなら。 「お前……、」 丸井くんはそれ以上何も言わなかった。雨だけが、ずっと、私と一緒に泣いていた。 とぼとぼと病室の廊下を歩いて、途中何度も引き返そうかと悩んだけれど、結局はいつもみたいに今日もせいちゃんの部屋の前まで来てしまった。 「あれ、じゃないか」 入ろうか入るまいか悩んで、立ったままでいると、ふいに後ろからせいちゃんの声が聞こえたので、それに驚いた自分の体が、一瞬硬くなったのがわかった。 「どうしたの。そんなところにいないで、中に入りなよ」 どこかから戻って来たところだろうか。いつも通りパジャマ姿のせいちゃんは、優しく微笑んでくれる。 「?どうかした」 「……ううん」 小さい頃からいつだって私は、せいちゃんの顔を見ればどんなに落ち込んでいることがあっても元気を取り戻すことができた。他の誰がいなくなっても、せいちゃんさえいてくれればそれでよかったから。 でも、今は違う。 せいちゃんの顔を見ると、丸井くんや、あの女の子のことが頭に浮かんできて、胸が苦しくなるばかり。今だって昔と変わらず大好きなのに、大好きなはずなのに、そう思う度に泣きたくなる。 何でもない、と小さく首を振って、私は促されるまま部屋の中に入った。 「座りなよ」 病室に入れてもらってから、私は促されるまま椅子へと腰掛けた。それから、ベッドの上で上半身だけを起こしているせいちゃんからの視線を感じつつも、しばらくは何も口に出せず、ただうつむいたままだった。 「、最近はどう。体調崩したりしてない?」 「……うん」 「そう。おじさんやおばさんも、変わらずかい」 「……うん」 何も言わない私に気を遣ってか、他愛もない世間話をしてくれるせいちゃんの言葉にも、ただ頷き続けることしかできない。 「……」 なんともいえない沈黙が続いて、ふと上げた目線がせいちゃんと合った時。そのそばに、あのデッサン帳のあることに気が付いて、胸がチクリと痛かった。 「……その。この前、せいちゃんがいなかった時のことなんだけど……」 「ん?ああ、うん」 「あの時は、どこにいたの?」 せいちゃんは少しの間だけ、思い出すみたいに視線を巡らせたあと、またいつも通り穏やかに笑う。 「人と会ってたんだ」 「人……?」 「そう。お見舞いに来てくれて、見送る途中で少し話をしていたんだよ」 なら、談話室とか、ロビーとかにいたのかな。通り掛かったはずだけど、ちっとも気付かなかった。 時々、せいちゃんの病室には私があげたのじゃないお花が飾ってある。だから、他にお見舞いに来てる人がいるんだろうとわかってはいても、それが誰かまでなんて知らなかったし、聞くこともなかった。 みんなに好かれているせいちゃんなら、きっと、訪ねてくる人も多いだろう。 「テニス部の人?」 「ううん。クライスメイトの子だよ」 「……ふうん」 平静を装っても、胸の音はどきどきと大きくてうるさい。 「女の子……?」 そんなこと聞いて、どうするんだろう。でも、聞かずにはいられなかった。ちらりと窺うようにして顔を見ても、せいちゃんは至って落ち着いた様子だった。 「うん、そうだよ」 「……。私の、知ってる人?」 「さあ、どうかな」 「名前は……?」 隠さずに、せいちゃんがさらりと答えてくれたその人の名前は、聞いても知らなかった。立海はクラスが多いから、未だに顔も名前も知らない人が、結構いる。 だから、多分、その人と会ってもわからないかもしれない。もしかしたら廊下で何度か、すれ違ったことはあるかもしれないけど。 でも、なんでかな。私はきっと、その人があの絵の女の子なのだろうと思った。 「よく来るの」 「うーん、時々かな。委員会が忙しいみたいだから」 「……へえ」 「それが、どうかしたのかい」 このまま聞いてしまえばいいのに。そうしたら、楽になれる。一人で悩んで苦しんで、泣いてばかりいるくらいなら……いっそ。 (その子のこと、好きなの……?) 誰かのことが羨ましくて、嫉妬している自分は、みっともない気分がして恥ずかしかった。これまで、せいちゃんのそばにいたいのなら、そういう感情とは無縁でいなくちゃいないと勝手に思っていた。 せいちゃんは誰にでも優しいし、分け隔てなく接することのできる人だから。そんなせいちゃんのことが好きなのなら、私はいつだって何でもない振りして、ヤキモチなんて焼いちゃいけない。そう、思ってた。それなのに……。 いい子でいなくちゃ。 素直でいなくちゃ。 せいちゃんに、少しでも好きと思ってもらうためには……。 「……仲良いんだね」 「うん、まあ、そうかな。同じクラスだから、よく、届け物とかしてくれるんだ」 「へえ」 「授業の内容を、上手くノートにまとめてくれたりさ。すごく助かってるよ」 私は自分で聞いておきながら、胸には何か鋭い物がぐさぐさと突き刺さった。彼女はどうやら、美人のうえにとても聡明な人らしい。 聞いたこともない二人の会話を想像しただけで、泣きたい気持ちになった。 「そうだ、。いただきもののお菓子があるんだよ」 これ以上何か言葉にしたら涙が出そうでうつむいたまま黙っていたら、また気を遣わせてしまったのか、せいちゃんはそう言いながらどこからか箱を取り出した。 「色んな味があるよ。、どれがいい」 ほら、と箱の中身を見せてくれる。それは一つずつ包装されている、パウンドケーキだった。ピンクとか茶色、オレンジ……たくさんの色がある。 「いちご?バナナもあるよ」 大好きなお菓子も、今日はいつもみたいに喜べなかった。この頃は、ちっとも食欲が湧かないのだ。それでもせいちゃんに悲しい思いはさせたくないから、「じゃあ、これ」と一つ選ぶと、なんとか口角を上げて嬉しそうな顔をする。 「……ありがとう」 私がもらったのは、いちごの味だった。そのまま持って帰ろうかと思ったけれど、きっとせいちゃんは、今私に食べて欲しくて出したのだろうな、と察した。 「美味しい?」 フィルムから出して二口くらい食べると、せいちゃんは優しく笑いながらそう尋ねたので、小さく「うん」と頷く。 「よかったね。バナナもチョコも、みんなが食べていいよ」 (…………) 私は……妹、なのだろう、と思った。 本当の妹がいるせいちゃんは、そのせいか小さい頃からすごく面倒見がよかった。子どもっぽい私は、同い年のせいちゃんをまるでお兄ちゃんみたいに慕っていて。せいちゃん、せいちゃんとまとわりつく私のことも、ちっとも嫌がったりせずに、優しくしてくれた。 だから、きっとあの頃の”兄妹ごっこ”が、今も続いているだけ……。せいちゃんが優しくしてくれるのは、私が妹みたいな存在だから。 柔らかくて、甘い生地が口の中いっぱいに広がって、美味しいはずなのに涙が出てくる。遠い記憶の中には、幼い日の後ろ姿がぼんやりと浮かび上がって、胸が苦しくなった。 「……?どうかした」 あの日、私は、本当の妹のことが羨ましくて泣いていた。私も、せいちゃんがお兄ちゃんなのがいい、と泣いていた。 「大丈夫、どこか痛いの」 心配そうに聞くせいちゃんに、「なんでもない」と首を振る。いい加減、泣き止みたいのに、涙はちっとも消えてなくならない。まばたきをすると、透明なしずくが、ケーキを持つ手にぽたりと落ちた。 あの日の私は、あんなにも妹になりたがっていたのに……。 |