春の住人




「せんせい」

私は、白い雲たちがのんびり青い空の上を流れていくのをフェンスに寄りかかりながら眺めていた。屋上はいい所だ。春のおかげで、頬に当たる風だってもうすっかり暖かくなった。

とても眠たい。

そうだ、いっそこのまま眠ってしまおうか。


「ねえ、せんせい」

そんなことをぼんやり考えながらまどろんでいると、私は誰かの声によって現実へ呼び戻されてしまう。そこで、ああもう少しで夢の国へ行けたのに、残念。などと思う自分が少し可笑しかった。

寝てもいないのに、寝ぼけているのかな。

違う、きっと春の所為だ。



「何かしら、芥川くん」

顔を見なくても声だけで分かった。天気のいい日はいつもここでお昼寝をしている、3年生の芥川慈郎くん。いつからここに居たんだろう、ちっとも気が付かなかった。

そう思って声のした方へ振り向くと、芥川くんは屋上の入り口からだいぶ離れた場所の壁にもたれ掛かって、眠たそうにしている。もう授業はとっくに始まっているはずなのに、彼は何故かここにいた。

またさぼっちゃったのかな。

「ねえせんせいなにしてんの?」
「少し空を眺めていたの」
「ふーん……」

芥川くんはひとつあくびをすると面倒くさそうに立ち上がり、そしてこちらへやって来て私と同じようにフェンスへ寄りかかった。すると、ギシリと軋む音がした。

「芥川くんは何をしていたの?」
「んー……寝てた……」
「そう。いいお天気だものねえ」

今日という日は、ちっとも彼を叱る気にはならない。いや、なれない。
だって春の陽気がとても心地よくて、怒りなどという感情はまるでどこか遠い世界へ捨ててきてしまったかのようだ。

たまには授業をさぼったっていいじゃない。

もしそんなことを口にでもしたら、きっと先輩教師たちからは大目玉を食らうんだろうけど、でも今なら怒られても平気かな。なんとなく、そう思った。

春って不思議。



「授業は楽しくない?」
「うん、つまんない。なんか眠くなるし……」
「……そうだね。でも、それはみんな同じだと思うよ」
「うん、わかってる」

じゃあ授業に出なさい、とは言えなかった。さぼるのは決していいことだとは言えないけれど、だけど悪いことでもないような気がする。中学生だもの、色々思うことがあるのよ。
……私はそんなことを考えてばかりいるから、だからいつも他の先生にまだ大学生気分でいるのかと注意されるのね。

教師に向いてないってことは、自分が一番よくわかってる。


「芥川くんは3年生だから、今年で卒業だね」
「そうだよ」
「そっかあ、やっぱりちょっとは寂しい?」
「んーべつに……みんなどうせ一緒に高等部いくんだし」
「あ、そういえばそうだね」
「うん」

このやわらかい風が、このまま私をどこかへ連れ去ってくれればいいのに。
そう思って、なんだかまた眠たくなってくる。

見上げると、青を泳いでいく白たちがこちらへ手を振っているような気がして、私は少し嬉しかった。そして目を瞑るとそこに広がるのは一面の大草原で、私はそこを楽しそうに駆け回っているのだ。白い羊たちと一緒に。


「せんせいはどうして、せんせいになったの?」
「……どうして……?」

その言葉に一瞬、ギクリとした。

幼いころから私は、周りに促されるまま生きてきた。 高校や大学は両親に決められたところへ進学し、そして卒業後は周囲に勧められるまま教職に就いた。いわゆる親に敷かれたレールの上を歩くことに、私は何ら疑問を抱くこともなかった。

それが、一番幸せな生き方だと信じていた。


だけど、気がついてしまった。
私は親の言うことをよくきくいい子なんかじゃない。

ずっと、誰かの所為にしたかっただけなんだ。そう、何もかもを。



ちらりと芥川くんの方を見ると、私のことをぼんやり見つめながら先程の質問の返答を待っている様子だった。彼の金色の髪が風に揺れているのをとても綺麗だと思いながら、私は苦笑いを返すことしかできなかった。

「……変なの」

そう言って芥川くんはフェンスから離れ、またさっきの場所に戻るとそこへ腰を下ろした。そしてこちらへ向かって2、3回手招きをする。私はゆっくり彼のそばに寄っていって、そっと隣に座った。

芥川くんは私の肩に頭を乗せると、嬉しそうに笑った。

「俺、せんせい好きだよ」

不意の言葉に驚いてしまい、私は何にも返事を出来ずにいた。芥川くんはしばらくして静かに寝息を立てながら眠ってしまった。そっと顔を覗き込むと、彼の長いまつ毛が微かに震えている。

どうしてだろう。嬉しいはずなのに、なぜか涙が溢れてくる。
なんだか私の方が年下のようだ、と思った。




もうすぐあの暑い夏がやってくる。そうして気が付けば秋になって、冬になって、そしてまた春になる。来年の春も、今とはさして変わらないのだろう。

ひとつだけ違うのは、彼が私の隣にはいないということだけだ。



春は彼を連れて行ってしまう。



私だけをここに残して。