「おい」 後方から、怒りを含んだ男の低い声が聞こえた。はそれが自分に向けられているものとわかっていながら、あえて無視をして歩く足の動きを止めない。 「お前だよ!」 しばらくの間呼びかけに無視を続けていると、痺れを切らしたのか突然グイと肩を掴まれて、それに痛みを感じ眉をひそめた時には男の顔はすぐ間近に迫っていた。 どうやら随分と憤っている様子で、今すぐにでも殴り掛かってきそうな雰囲気に見える。 「比嘉中のマネージャーだろ」 「……だったらなんだば?」 「さっきの試合!お前ら、汚ねえ手使いやがって!」 その男は、先ほどの試合で比嘉中に負けた学校の生徒だった。興味がないので、部長だったかどうかまでは覚えていない。 「あんなことやっていいと思ってんのかよ」 「……」 「怪我人が出たんだぞ!てめえ、どう落とし前つけてくれるんだ」 試合後に相手校からケンカを売られるのはいつものことだ。べつに珍しくもなんともない。だから別段聞かずとも、にはこの男が何を言いたいのか初めからわかっていた。 「知らん」 「あ?」 「いったーが弱いのが悪いさあ」 「なんだと、」 気が付けば、いつの間にか相手校の人数が増えていた。たくさんの目が、恨みを持ってギロリ睨み付けてくる。一人で数人の男子生徒に取り囲まれていても、は臆さずに平然と言い放った。 「悔しかったら勝ってみれ」 「……ってめえ!」 男は激昇し、ジャージの襟元を勢いよく掴んできた。それでもは臆さない。抵抗もせず、どこか冷めた目でその動向を眺めているだけ。しかし、それはますます火に油を注いでしまうだけのようだった。 馬鹿にされていると感じた男の手が握り拳を作り、いよいよ振りかぶろうかというその時。 「うちのマネージャーに何か用ですか」 突然、何者かの声が割って入り、男は思わず動きを止めた。それから、その声の持ち主を認めてぎょっとする。 「お前は……!」 「話なら、私が代わりに聞きますよ」 永四郎、とその人物の名前を小さく呟いたのはだった。 その途端、先程まで威勢よく突っ掛かってきていた他校の男子生徒達はみな血相を変え、次々に慌てた様子でこの場から我先にと走り去ってゆく。 「クソッ、覚えておけよ!」 の襟を掴んでいた男も、悔しげにその手を離すと捨て台詞と共に最後の悪あがきとばかりにこちらを睨み付け、そして逃げ去った。 その後ろ姿を数秒眺めてから、永四郎と呼ばれた男はの方へと向き直ると、ゆっくりとした手付きで眼鏡の位置を直す。 「サンの新しいお友達ですか」 「んなわけないやっし」 「そうでしょうね」 期待通りの不機嫌そうな表情を浮かべるの様子に、男は微かに笑みを漏らした。 ――木手永四郎。沖縄、比嘉中男子テニス部の部長を務める男で、勝利のためならばどんな汚い手段もいとわない。そのため、比嘉中は試合をする先々で相手校の恨みを買うこともしょっちゅうだった。 「余計なことすんや、永四郎」 「なにがです」 「わん一人でも大丈夫だったさあ」 卑劣な手を使えば使うほど、相手の怒りの矛先は部員内唯一の女子生徒である、マネージャーのに向かうであろうことを木手は予想していた。 だから試合の際にはなるべくから目を離さないようにしていたものの、さすがに四六時中というわけにはいかない。すると奴らはいつも決まってその僅かな瞬間を狙い、へと絡むのだった。 今日もなかなか手洗いから集合場所へ戻らないが気に掛かり、木手が様子を見にやって来てみれば案の定、相手校の生徒達に取り囲まれていた。 いくら気の強く、さらには沖縄武術の心得があるからといって、やはりが女である以上は心配に思う。そんな木手の視線を察したのか、は余裕気に笑ってみせた。 「べつに。なんともないやし」 とは沖縄武術の習い事を通して、幼い頃から知り合いだった。木手は彼女の負けん気の強さと根性を見込んで、男子テニス部のマネージャーにスカウトしたのだ。 期待通り、監督の過酷なしごきにもは涙一つ見せることなく、弱音を吐くこともない。どんな苦行にも耐え、他の部員達と共に乗り越えてきた。 それでも、女だからといってまるで容赦などない監督の当たりの強さを見かねて、時には庇いに入ることもあった。その度、は先ほどのように何でもないような顔をして笑ってみせる。それが木手には、なぜだか苦しく思える時があった。 「さあ、みなさんが待ちくたびれていますよ。戻りましょう」 「うん」 ここまで耐え抜いたのは、ただ一つの悲願のため。 ……”全国優勝”。 木手の志を、はよく理解してくれた。必ず優勝して、沖縄の力を全国に見せつける。そのためならば手段すら選ばない。誰になんと罵られようと、勝利を掴む。心を痛めている暇などない。 「もうちょっとやさ……、永四郎」 そう言って、は空を仰ぐ。どこまでも突き抜けて、透き通るような青い空。その手はきつく握り拳を作り、まるで言葉にはできない思いを押し殺しているようにも見えた。 「……ああ」 木手が小さく頷くと、……びゅうと強い南風が吹いた。夏を知らせる、温かい風だった。 「あいっ、、その怪我どうしたんばあ?」 ある日の部活途中、突然聞こえた甲斐裕次郎――彼もまたテニス部員であった。の声には思わず立ち止まる。両手には、ジャージやタオル、ドリンク、ボールなどが山のように入った重たいカゴを持ったまま。 「血ぃが出てるやっし」 足や腕の辺りをぐるりと見回してみても、血など出ていない。なんのことかとが不思議そうな顔をすると、甲斐の手が伸びてそっとその頬に触れた。 「顔。怪我してるさあ」 「……顔?」 カゴを地面に下ろし、自分の手で遠慮なしに顔を触ってみると、確かに指先には赤いものがついた。 「んな擦んなやさあ、」 甲斐は少しばかり顔をしかめた。 いつの間に、とが血を眺めながら記憶を辿ってみると、どうやら先ほど海で崖の上から落とした岩を避ける訓練をしていた時に、砕けた岩や、石が飛んできたのかもしれなかった。 けれど、べつにこのくらいの怪我、ちっとも気にはならない。他の部員達の方がよっぽど辛い思いをしているのだから。心配そうな様子で早く手当てをしろと言う甲斐の言葉にも、は首を縦には振らずあっけらかんと笑った。 「このくらい平気やっし」 「やしが、」 「いったー何してるんばあ」 その時、ちょうど二人の近くを通り掛かった、同じくテニス部員の平古場凛が気の抜けた声で話し掛ける。 「凛。の奴、顔怪我してるさあ」 「……じゅんに?」 甲斐の言葉に、平古場はの顔を覗き込む。肌の上に滲む赤い血を見つけて、その端正な顔をわずかに歪めた。ジャージのポケットに突っ込んでいた手を出すと、の頭に手を置いて軽く撫でる。 「かわいそうになあ。救急箱、どこにあった」 「持ってくるさあ」 振り向いた平古場の言葉に、甲斐も頷きながら走り出そうとする。それにが「待って」と止めようとした時、地面にもう一人分の影ができた。 「甲斐クン、平古場クン。監督が呼んでいましたよ」 そこへ現れたのは木手だった。いつも通りの落ち着いた口調で二人にそう告げると、甲斐と平古場はあからさまに嫌そうな顔をする。 「げえーっ!なんの用だばあ」 「裕次郎、俺の分も聞いといてくれやさあ」 「なんでよ」 ああだこうだとお互いに押し付け合ってちっともこの場を離れようとしない二人の様子に、木手は軽く溜め息を吐く。 「早く行きなさいよ。ゴーヤ食わすよ」 「ゴーヤは勘弁やっし〜」 同じくらいゴーヤも嫌いな二人は、結局はぶつくさ言いながらも監督の元へと向かった。すると途中、思い出したように甲斐が振り返り「、怪我してるさあ!あと頼んだばあ」とだけ言い残して行った。 「……怪我?」 木手は手で眼鏡のフレームを持ち上げながらの方を見る。それから、その顔に滲む赤い色を認めて、一瞬目を見開いたように見えた。 「早く手当てした方がよさそうですね」 「べつに大したことないさあ」 「いいから。早く行きますよ」 がけろりと笑って見せるのも無視して、木手は柔らかい力で背中を押す。それを逃れようと思えばできたはずだったのになぜだかにはそれができなかった。 ベンチに座るよう指示されて、大人しくその通りにすると木手は手際よくそばにあった救急箱の中から取り出した消毒液で傷を消毒する。 ピンセットで摘んだ綿は、消毒液をたっぷりと含んでいて、傷口に当てるとジンと染みた。 「……あがっ、」 痛みに思わず声が出ると、木手は口元を緩めて微かに笑ったので、は思わずそれにドキリとしてしまった。それから、やけに至近距離であることに気が付いてしまうと、途端に自分の心臓の音が大きくなったような気がする。 「かわいそうに」 「……」 「せっかくのちゅらかーぎーが台無しですね」 木手の低く艶を含んだ声に、冗談とわかっていながらも心の内では動揺してしまう自分がは不思議だった。 「……冗談ばっかしやさあ」 視線の合うのに耐え切れず、思わず目を伏せながら出た言葉は思いの外小さかった。 「冗談じゃありませんよ」 大きな手が頬に触れて、傷のできた場所にそっと絆創膏を貼る。はその間も木手の顔を見られないまま。なぜだか頭の片隅では、これまでにあらゆる場面で自身のことを庇ってくれていた木手の様子が、静かに思い出されていた。 「……永四郎。わったー、負けたんばあ……?」 勝利を讃える大きな歓声は、比嘉中に向けられたものではなかった。 試合終了が告げられた後も、にはとても信じられなかった。必ず全国優勝を果たすと誓ったのに、そのためにどんなに苦しい訓練も耐え続けて来たのに。今、目の前の現実は夢がついえたことを告げている。 は茫然としたまま、コートのそばに立ち尽くしていた。視線の先には、 髪型の乱れた木手の姿。その間を、甲斐や平古場は目を合わせることなく、通りすがりに軽く頭を撫でて去っていく。 「……ええ」 しばらくしてから返って来た声は、低かった。 ――そんなお前の勝利を、部員達は望んでいるのか。 相手校の部長がそんな言葉を放った光景が、まるで焼き付いたように離れなかった。 傷付き、苦しそうな表情を浮かべる相手校の生徒。目的を果たすためなら、手段を選ばない比嘉中のプレイスタイル。すべては、勝つためだったのに。見ない振りも平気な振りも、すべては勝つために……。 これまでのことを思い返せば思い返すほどに呼吸は浅くなり、その視界は次第にぼやけてゆく。入部してから一度も泣くことなどなかったの目に、この日初めて、涙が浮かんでいた。 「わったー、……間違ってたんばあ……?」 縋るような思いで尋ねてみても、それに返ってくる言葉はなかった。木手を見上げるの目からは静かに涙がこぼれ落ち、よく日に焼けた頬をするりと滑り落ちた。 黙ったまま近付いて来た木手の手がゆっくりと伸び、そっと涙を拭う。真夏のまとわりつくような生温い風に包まれて、は、無性に生まれ故郷の風を恋しく思った。ハイビスカスの香りを含んだ、爽やかで優しい風。 気が付けば、は木手に抱き付いて泣いていた。頭の中では、幼い頃からともに過ごした日々が勝手に思い出されて、その何もかもが愛おしく、そして切なくて仕方ない。木手がどれほどに努力し、そして苦労したか、にはよくわかっている。 頭を撫でる木手の、大きく優しい手の平に胸の苦しみは増すばかり。見たかったのは、勝負に負けた背中などではなかった。 「あなたは何も悪くありませんよ」 落ち着いた木手の声に、は黙ったままジャージに強く顔を埋めた。勝利のためならば、悪者になろうと、後ろ指を差されようと平気だったはずなのに。木手の夢を叶えるためならば、それくらいのこと。 「沖縄に、帰りましょう」 澄んだ空、透明な海、見渡す限りのさとうきび畑。東京へ来てまだいくらも経っていないというのに、その何もかもがひどく懐かしくて、子どもみたいに泣きたくなる。は木手の胸に顔を押し付けたまま、小さく頷いた。 帰ろう、生まれ育ったあの島に。みんなで一緒に過ごした、大切な場所。そこでは今も、優しい風が吹いているはずだ。いつの間にか忘れてきたものも、きっと、取り戻せるはずだ。 と、……そう思った。 |