渚 私は毎日のように朝早く海へと歩いて行って、砂浜に座り、ぼんやりと波が寄せては返すのを眺めるのが好きだった。 ここには、まだ他に人もおらず、静かで、心が落ち着く。 波の音には、癒しの効果でもあるのだろうか……。 そんなことを考えていたら、急に近くでハアハアという荒い息遣いが聞こえて、何事かと首を動かしてみれば大きな犬が2匹、私に近付いて来ていた。 「きゃあっ!」 その2匹は遊んで欲しいのか、尻尾を振りながら懐こく鼻先を体に擦り付けてくる。私は突然犬が現れたことと、その大きさに驚いて、思わず悲鳴を上げてしまった。 なんで、犬が?!なんで、リードついてないの?! じゃれているだけとはわかっても、まるで襲われているかのような錯覚に、身を縮込ませて半泣きになっていると、 「リッキー!ジェイク!」 誰か、男の人の声が聞こえた。その人は、すぐに駆け寄って来ると2匹にリードを繋ぎ、それから少し離れた場所に立っているポールへ紐を結ぶとまた私の元へ戻って来る。 「スマン、スマン!大丈夫か?」 どうやら、犬達の飼い主らしい。大丈夫なわけあるか、と思いながらも押し黙っていると、心配した様子で何度も「平気か?」と聞かれた。 「人がいると思わなくてよ」 「……」 「あいつら、人間が好きでな。すぐ寄って行っちまうんだよ」 何も答えない私に、困ったような顔して笑いながら、頭を掻く。随分と背の高い、ガタイの良い人だ。そういえば、時々、この浜辺で犬を散歩させているのを見掛けたことがあったかもしれない。 「ほんとに、悪かったな」 「……」 その人は何度も謝ると、じゃあ、といなくなった。体は大きいけれど随分と若そうで、もしかしたら同い年くらいなのかもしれない。……と、犬を連れて走り去る後ろ姿を眺めながら思った。 (……げ、) それから数日後のまた同じ時間帯に、同じ場所で、私はそいつに出会ってしまった。 「おー、また会ったな」 あの時の、犬男。 あれだけ何を言われても無視していたというのに、あっけらかんとした笑顔で気軽に話し掛けてくる。咄嗟に犬の首元を確認すると、今日はちゃんとリードを付けていた。 「この前は悪かったな」 「……」 近付いてくるな。話し掛けるな。そう思っても、そいつは前みたいに犬を少し離れた場所に繋ぐと、また私の元へやって来る。 「ここには、よく来るのか?」 「……」 「俺もしょっちゅう来るんだよ、犬の散歩でさ」 聞いてない。どうでもいい。 勝手に私のとなりに座り込むと、あれこれと話し掛けてくる。こんなにも、私に構わないでくださいオーラを出してるというのに、気付いていないのだろうか。鈍感?無神経?それとも馬鹿なの。 「俺、黒羽春風ってんだ。よろしくな」 「……」 ……べつに、よろしくされたくないんだけど。 「お前の名前、聞いてもいいか?」 どうせこのあと、私の名前を聞いてくるのだろうと思っていれば、やっぱり。私の名前なんかどうでもよくないか。そんなの聞いたところでなんの意味があるというのだ。しかも、お前って。 「……」 それなのに、私はうっかり答えてしまっていた。なぜだろう。 「か。下はなんてえんだ?」 「……」 「そうか。んじゃ、って呼んでもいいか?」 「……べつに、いいけど」 なに、この人。 なんでこんなにグイグイくるの。私がどんなに素っ気なく返しても全然気にしてないみたいだし。……変な奴。それなのに、ちっとも嫌な感じがしない。なんで。 「お前も、俺のこと好きに呼んでくれ。ダチからは大体バネって呼ばれてるがな」 ……あっそ。 じゃあ、バネでいいや。ていうかどうでもいい。 「朝の海ってのは、いいよな。人もいなくて、静かでさ」 「……」 「波の音聞いてると、こう、心が落ち着くっていうか。癒されるよな」 ほんとかよ。 「……バネでもそんなこと思うんだ」 「ん?」 「べつに……」 「なんだよ、俺が感慨深くなってたら可笑しいか?」 バネは屈託なく笑った。 ……不思議だ。まだ会ったばかりだというのに、となりにいると、海みたいに心が落ち着く。 なんだかこの人は、他人との距離が近いみたい。私がいつも周囲の人間に感じている、見えない壁みたいなものが、バネにはないように思えた。 バネとは、それからも何度か会った。私を見掛ける度に笑顔で気さくに話し掛けてくる。そんな人は、今までいなかった。私は初めは戸惑いながらも、それでも次第に嬉しいと感じるようになっていた。 今日は、バネは来るだろうか。 いつの間にかそんな風にまで、思うようになり。そんな自分が、不思議だった。 「そういや、はここから家が近えのか?学校はどこ行ってんだ」 「……。六角中」 「なんだ、じゃ俺と一緒じゃねえか。学年は?」 「……2年」 「へえ、そっか。俺は3年だ。3年A組。ちなみにテニス部な」 ……こんな人、同じ中学にいたんだ。 ていうか歳上だったのか。当たり前のようにずっとタメ口で、しかもバネとか呼び捨てにしてた。今さらだけど、先輩相手にちょっとまずかったかなと思う。 でも……まあ、いいや。バネが好きに呼んでいいって言ったんだから。タメ口は、知らないけど。 「2年なら、B組に天根って変な奴いんだろ」 「……アマネ……?」 「背のでけえ、やけの彫の深い顔立ちした奴」 「さあ……、知らない」 「そーか?あいつ、かなり目立つと思うがなあ」 バネは首を捻って、不思議そうにしてる。 でも私は本当に知らない。わからない。だけどそれはそのアマネって人の存在感が薄いわけではなくて、ただ単に私が知らないというだけだ。 だって、私は……。 「、お前昨日学校来てたか?」 「……」 「いや2年の教室に用があって、ついでに探してみたんだがな。どーも見当たらなくてよ」 「……」 ある日の朝、またいつものように海で会うとバネにそんなことを聞かれて私の心臓はドキリと音を立てた。 だから、学校の話をするのは嫌だったんだ。 「ダビデにも聞いてみたんだけどよ、アイツものこと知らねえって言うし……」 「……」 「あ、ダビデってのは、この前話した天根って奴のあだ名な。ダビデ像みてえだから」 「……」 「しっかし、おっかしいなあ。見落としたか?」 バネがいくら学校中を探そうと、誰かに尋ね回ろうと。見つかるわけない。 だって私は……、学校に行っていなかったから。それも昨日だけじゃなくて、おとといもその前の日も、その前の日も、ずっと。ずっと、学校には通っていない。 「?どうかしたか」 バネが、不思議そうな顔する。 言いたくない。知って欲しくない。こんなこと話したら、バネは一体どんな顔するかなって考えただけで胸がどきどきしてきて、息が苦しくなるけど。 ザザザ、と音を立てる波を眺めながら、それでも。誰にも言いたくないことでも、なぜだかバネになら話してしまえる気がした。 素直に名前を答えてしまったあの時みたいに。 なんでかなんて、そんなの、自分でもわからない。 「……バネ。その、私……」 「ん?なんだ」 「私……学校、行ってない。だから……、探してもいない」 「……え?」 ぱちぱちと瞬きしながら、私のことを真っ直ぐに見つめる。まさか、そんなこと言うとは思っていなかったのだろう。いくらか、驚いた様子だった。 「一年の時から、不登校……だから」 「不登校……?」 「……そう。だから、アマネも知らない。会ったことない」 あれはいつからだったのだろうか。学校へ行かなくなったのは。そんなの、もう覚えていない。……ちがう、本当はちゃんと覚えている。だけど、思い出したくないだけだ。 記憶に蓋をして、見ない振りばかり続けていた。誰に何も言われても、知らない。聞こえない。 時々自宅を訪ねて来る担任の教師と、親の話し声が耳に入ってくる度に耳を塞いだ。居たたまれないような申し訳ないような、そんな衝動が全身を駆け巡って。 いっそここからいなくなってしまいたくなる。そんな日々の繰り返し。 「オイ、まさかいじめじゃねえだろうな」 ……はっきり言い過ぎでしょ、この人。 バネは眉間に皺を寄せて、そんなことを口に出した。物事をオブラートに包むということを知らないのだろうか。デリケートな話にも、迷いのない豪速ストレート球を投げてくる。 「……違う」 「ほんとかあ?」 「……」 「隠す必要なんかねえぞ」 原因は、いじめではない。……少なくとも、ここでは。 元々、私は違う場所に住んでいて、そしてべつの中学に通っていた。そこで、時々、クラスメイトから軽い嫌がらせのようなものを受けることがあった。 当人達にとっては、ただからかって遊んでいるつもりだったのだろう。それでも私はそれが嫌だった。そんなことが繰り返されるうちに、もしかしたらこれはいじめ、と呼ばれるものなのではないかと悩み、担任の教師に相談した。 けれど、その教師には「いじめではない」と言われた。 私の考え過ぎだと。思い込みだと。そして、私がそんなことを訴えるので件の生徒達に事情を聞いてみれば、「そんなことはしていない」と答えたと話す。 そうなのだろうか。私は、べつに、いじめられているわけではないのだろうか。 ……こんなにも、嫌なのに。 我慢して通っているうち、次第に教室に向かうの足取りが重くなって、いつしか腹痛とか吐き気がするようになって。そうして早退したり欠席したりが続くと、学校へ通う回数は日に日に減っていき、最終的にはゼロになった。 勉強したい気持ちはあっても、学校へはどうしても行けずに、結果家に閉じこもってばかり。 すると、見かねた両親が中学1年の3学期に、引っ越しとともに転校をさせてくれた。私が、海を好きということを知っていたからか、今度は海の近くの学校に。それが、六角中学校だった。 けれど、せっかく六角中に転入したというのに、私は何日か通っただけでまたすぐに通えなくなってしまった。 いじめられたわけではない。クラスメイト達はみんな良い人だったように思う。それでも、教室の中にいると息が苦しくなって、逃げ出したくなる。嫌な記憶ばかりがよみがえり、また同じ目に合ったらと思えば、どうしても学校にいたくない。 これでは、同じことの繰り返しだ。このままではいけない。両親の思いを無下にすることになる。やっぱり、あの時我慢してでも通っていればよかった。 先生の言った通り、考え過ぎだったのかもしれないし、自分にも何か原因があったのかもしれない。そうすれば 引っ越なんて、する必要なかったのに……。 毎日、そんなことばかりが頭の中を巡って、行きつく場所もなく、悶々と。 学校へ行かなければという気持ちはあっても。……今さら、どうしたらいいのかわからなくて。どうやって通ったらいいのか。あの場所で生活したらいいのか。そんな簡単な方法すら、もうわからない。 だから知らないうちに2年に進級した今でも、学校へは行けないままでいた。 「……なんだよ、それ。許せねえな」 誰にも言いたくなくて、ずっと黙って隠していた過去のことを、気付けば私はバネに全部話していた。 バネは真剣に話を聞いてくれて、そして、すごく怒っていた。以前の学校であったことに腹を立てて、場所も知らないのにそいつらに説教して来てやると立ち上がろうとしたので、慌てて腕を掴み、抑えた。 「だってよ、お前はなにも悪くねえだろ」 「……さあ……、そうなのかな」 「そうに決まってんだろ。いじめなんてな、ずるくて弱え奴がすることだ。この世で一番くだらねえ遊びだ」 「……」 「いいか、お前はなんにも悪くねえ。だから自分を責めんのはもうやめろ」 バネは真っ直ぐな人なのだろう。いじめなど、したこともないだろう。私はそれを感じ取っていたのかもしれない、初めて会った時から。だから、嫌と思うこともなく、なぜだか心が落ち着いた。 それでも、彼の言うことは正しいとわかってはいても。私はこれまでずっと自分を否定し続けてきたから。だから、そんな考えをすぐには受け入れられなかった。 「、学校に来いよ。六角は良い奴ばっかだし、楽しいぜ」 「……」 「なんなら、俺が教室まで一緒に行ってやるからさ」 「……無理だよ」 「なんでだ?」 「だって……もう、今さら行けない」 「今さらとか、そんなん関係ねえだろ」 関係あるよ。だって、これまでずっと通っていなかったのに、急に「おはよう」なんて、教室のドア開けられるわけない。その時、クラスメイトはどんな顔するかな、なんて。考えただけでお腹が痛くなってくる。 そもそも、私、クラスメイトに誰がいるのか知らないし。顔も名前も、わかんないし。 「私は……クラスにいちゃいけない、と思う」 「んなことねえだろ。ちゃんとお前の席があんだからよ」 「……」 「いていいんだよ。だから、なんも心配すんな」 そう言って笑うと、クシャリと頭を撫でられた。 ……バネには、わからない。 みんなが当たり前にできることが、私にはできないのだ。朝起きて、学校へ行って、部活動をして。そんな当然の日常が、私には送れないのだ。だから、みんなと一緒にいてはいけないと思うのに。……それなのに。 本当は、本当は、みんなみたいになりたい。 制服を着て、鞄を持って、学校に通いたい。友達と他愛ないくだらない話して盛り上がって、笑い合って過ごしてみたい。ごく当たり前のことが……してみたいよ。 気が付けば、私の目からはぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちていた。 慌てて手で拭ってみても、それは止まることなくもう一粒、二粒と静かに頬を濡らすばかり。誰かの前で泣いたのなんて、いつ以来だろう。最後は、もう記憶もないくらい、ずっと小さい頃だったかもしれない。 どんなに嫌がらせをされても、私は泣かなかった。泣いたら負けだと思った。泣けば、あいつらはそれを面白がってもっといじめるだろうと思ったから。 悲しくても苦しくても、悔しくても……唇をきゅっと噛んで耐えた。教師の前でも、誰の前でも。心配して優しい言葉を掛けてくれる両親の前でさえ。私は、泣かなかった。 「泣いてもいいんだよ」と言われても。絶対に、死んだって泣くものかと。思っていた。 ……それなのに。 涙はちっとも止まらずにぽろぽろとこぼれ続ける。まるで、これまで抑え込んでいた感情とか、後悔とか、よくわかんないけどそんなものが涙とともにブワっと溢れ出してきたみたいだ。 周りの同級生のように、当たり前に学校に通えなくてごめんね。いじめられたりなんかして、ごめんね。私のせいで引っ越しなんてさせて、ごめんね。 ずっと両親に謝りたかった。私のことを責めることは決してないけれど、それが、なんだか時々苦しく感じた。ありがたいと思うのに、優しさが温かいのに、どうしてなのだろう。 胸の中に仕舞い続けた想いは言葉にはならず、ただ涙に形を変えるだけ。 私、何してるんだろうと思ってもどうしても止められなかった。バネは、無理に泣き止ませることもなく。黙ったままずっとそばにいてくれた。 どれほどの間泣いていたかなんて、そんなのわからない。まだ僅かに暗かったはずの辺りは、いつの間にか随分と明るくなっていた。私とは違ってバネは、学校に行かなきゃいけないはずなのに。それでも、ずっとそばにいてくれた。 「」 「……」 「学校に来いよ。な?」 バネは潮風に吹かれながら笑う。 私は、ずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。仕事で事務的に発する大人の言葉などではなくて。 もっと歳の近い、”誰か”に。いっそこちらの心情などまるでおかまいなしに、あっけらかんと、笑いながらそう言って欲しくて……仕方なかった。 「…………うん」 しばらくの沈黙ののち、私は小さく頷いていた。 私には、彼のその笑顔があまりにも眩しく感じて、嬉しいはずのなのに、胸が苦しく思う。なぜだろう、照り付ける朝陽のせいだろうか……。 それまで、ずっとずっと遥か遠くに感じていた、「学校」という場所が。 その日、はじめて。自分の近くにあるような……、気がした。 久しぶりの学校には、バネが一緒に登校してくれた。 もしも一人だったなら、校門をくぐる前に走って逃げ出していたかもしれない。だけど、となりには明るく笑うバネの笑顔があったから。その横顔を眺めていたら、「きっと大丈夫だ」と。自分でも不思議なくらいにこの心は、落ち着いていた。 はじめのうちは保健室や別室で自主勉強をして。それに慣れたら、今度は少しずつ、教室でみんなと一緒に授業を受ける時間を増やしていった。それでも毎日登校はできずに、ちょくちょく休んだりもしていたけれど。 クラスメイト達はみんな優しくて、親切な子ばかりだった。バネの言う通り、六角中の生徒はみんな良い奴ばかりなのかもしれない。緊張してまだすぐには打ち解けられなくても、いずれは……と、彼らの笑顔を眺めながら心底ほっとする思いがした。 (……B組) C組の私は、自分の教室へ向かう途中にB組の前を通り掛かることになる。そしてその度に、「2年B組」と書いてあるプレートを眺めながらもつい素通りしてしまっていた。 けれど、今日は勇気を出して立ち止まり、教室の中を軽く見回してみる。 (……背が高くて、彫が深くて、変な奴……) バネの言っていた特徴を思い出しながら探してみても、そんな感じの人は見当たらなかった。今は、どこかへ行っているのだろうか? 何度かそんなことを続けていると、ある日B組の教室の中に初めて見る顔があった。そいつは随分とガタイが良くて、椅子に座っていても背が高いのだろうとわかる。それに顔立ちがくっきりとしていて彫が深い。 さらには、少しの間こっそり眺めていると何事かをブツブツと呟いては自分でそれにウケて、吹き出している様子だった。周りの人はそれが聞こえているのかいないのか。それとも慣れているのか。特に反応はない。 ……変な奴。 (もしかして……) 「……アマネ?」 何をやっているんだ私は。気が付いた時には、私は勝手にB組の教室の中に入っていて、アマネと思わしき人物の席のところまで来ていた。 すると当然彼は「誰?」とでも言いたげな不思議そうな顔して私のことを見上げてる。 「なんだ」 「……」 返事した。やっぱり、アマネだ。 なぜだろう。今日初めて会って、初めて話すというのに、妙に親近感を感じる。私は、もうすでに、勝手にアマネが自分の友達であるかのような気がしていた。 あんた、バネと仲良いんだってね。幼なじみで昔から一緒にテニスやってて、今も同じテニス部に入ってるって。色々聞いたよ。 それにダジャレ好きで、しかもそれがあまりにくだらないもんだから、いつもバネに飛び蹴り食らわされてるらしいじゃん。 私はあんまりダジャレって知らないし、べつに興味もなかったけど、あんたがどうしてもって言うなら聞いてあげないこともないけど。 ……と、頭の中の妄想ではどんどん勝手に会話は進んでいるけれど、現実にはまだ一言も発していない。そして、当たり前だけど話し掛けたから、アマネはさっきからずっと私が何か話すのを黙って待ってる。 まずい。何か言わなきゃ。何か。 えーと、えーと、 「……ふ、」 「ふ?」 「ふとんがふっとんだ」 違う。そんなことが言いたかったんじゃなくて。などと心の中で言い訳してももう遅い。 ぽかん、とした顔してるアマネを置いて、私はそれだけ言い放つと動揺と恥ずかしさのあまりその場所から逃げ去っていた。 アマネが、ダジャレ好きだっていうから。私も知ってるのあるよ、って言いたかっただけなのに。うっかり前置きを忘れた。あいつ、驚いた顔してたな。まあ、誰でもそうなるか。 ……あーあ、という後悔は消えないまま。 放課後、下駄箱の前で上履きを脱いでいた。 「お前だろ。って」 急に誰かに名前を、それも下の名前を呼ばれてはっとして振り返った。そして、そこにいたのはまさかのアマネだったので、さっきの出来事がフラッシュバックして一瞬で恥ずかしさがよみがえる。 「……ち、違う」 「名札に書いてあるぞ」 思わず反射的に嘘を吐いてしまうと、すぐにばれた。けれど、私は頑なに認めず「違う」と再度否定し、名札をむしり取るとスカートのポケットへねじ込む。 「バネさんから聞いてる。仲良くしてやれ、って言われた」 「……」 アマネは私のことをじっと見下ろしている。背が高くて、スタイルが良くて、顔立ちもくっきりしてるし。まるでモデルみたいな人だ、と思った。それにしても、バネ、アマネにそんなこと言ってたのか。 「お前、変な奴だな」 顔を眺めながらぼんやり考えていると、アマネは真顔でそんなことを言ってのけた。そして私の頭の中には「は?」という言葉が浮かぶ。 変じゃないし。 なんなら、アマネの方が絶対に変だし。バネだってそう言ってたし。だってさっき自分の言ったことに自分でウケてたじゃん。だからあんたにだけは言われたくない。 「……へ、」 「へ?」 「……」 変って言う方が変なんだよ。って言いたくても、上手く口に出せない。また妙なことを口走るかも、と思えば躊躇ってしまう。 「なんだ、”へ”って」 「……」 「ヘリコプターか?それとも、ヘモグロビンA1cか?」 「なんでそのどっちかなんだよっ!」 やっぱり変なのはどう考えてもそっちだろ! 真顔でそんなことを口にするアマネはボケているのか天然なのか、だたのアホなのかはよくわからない。私はなんだか混乱してきて、それだけ言い返すと逃げるようにその場から校庭へ向かって走り出した。 「わ!」 すると、突然、ぼすっと大きななにかにぶつかって足を止める。 「ん?おー、じゃねえか」 「……バネっ」 それは、バネの背中だった。一瞬、柔らかめの壁かと思ったけど、違った。バネはこちらを振り向くと、いつもみたいに明るく笑う。 「お前、今日は学校来れたのか。えらいえらい」 「……う、」 「どうした、随分はしゃいでんな」 「は、はしゃいでなんかないっ」 まるで小さい子どもみたいにバネに頭を撫でられながら、それでもその手を振りほどくことはできなかった。大きくて温かい優しい手に、どうしようもなく安心してしまう。未だに緊張の続く学校生活の中で、いつも変わらないバネの笑顔だけが、心の安らぎだった。 すると後ろから足音が聞こえて首を動かしてみるとそこにはアマネがいて、私は思わず声を上げた。 「ぎゃ、出た!」 「ダビデか。なんだ、お前になにかしたのか?」 「べつに。なにもしてない」 アマネは少しも表情を変えずにしれっとそう答えた。しただろ!と思いつつも声にはならず、私は黙ったままとなりに立っているバネのYシャツの生地をぎゅっと掴む。 そんな私のことを、アマネは長い睫毛の生えている綺麗な色した目でじっと見下ろした。不思議な感覚を抱く、まるで吸い込まれそうなその瞳に見つめられて、たじろぐ。 私は、思わずバネの背に隠れた。 「バネさん、こいつおかしくないか?」 こともあろうに、アマネの口から出たのはそんな言葉だった。この男、この期に及んでまだそんなことを。アマネは、ぱっと私から視線を外すと、そのままバネの方を見る。 「はは、面白れえだろ」 バネはけらっと笑い、アマネはそれに「ふうん」とだけ言うと、またちらりと私のことを見た。この二人と一緒にいると、まるで自分のことが小人のように思えてくる。 どうしたらこんなに大きくなれるんだ。一体何を食べているんだ。アサリか?ハマグリか? 「、俺達これから部活なんだけどよ。よかったら見に来ないか」 それからバネにそんなことを言われて、私は数秒ほど考えた。部活……テニス部か。バネが練習してるとこは見たい気がしなくもないけど、でも他の部員もたくさんいるんだろうし。 まだ、あまり生徒の多いところには行きたくない。それに、なにより、アマネもいるし。 「……行かない」 「そうか。ま、気が向いたら来てくれ。毎日やってるからな」 「……」 せっかくの誘いを断ってしまったというのに、バネは少しも気を悪くした様子など見せずにニコ、と笑って手を振りながらいなくなった。 だけど、アマネはそのまま動かずにじっと私の顔を見てる。遠くで振り返ったバネが、「おーいダビデ行くぞー」と呼んでいるのが聞こえる。 「な、なに」 背の高さ、ガタイの良さ、彫の深さ。まじまじと眺めているとなんだか気後れしてしまう。べつに怖い訳じゃないけど。バネとはちっとも、タイプが違うから。なんだか戸惑う。 「……。べつに」 勇気を出して何かと尋ねてみても、アマネは無表情でそれだけ言うとサッと離れて行ってしまった。あいつ、バネに聞いていた通り、やっぱり変な奴だ。 それでも、嫌な気持ちはしなかった。……初めてバネと会った時みたいに。 「おー、来たか」 「……うん」 あれから少し経った頃、なぜか私は男子テニス部の練習を見にテニスコートを訪れるようになっていた。 せっかく誘ってくれたバネに悪いから。なんて、もっともらしい理由をつけていたけれど本音はきっと違う。 相変わらず朝の海で会うバネや、時々廊下で話し掛けてくるアマネ。……話し掛けてくるっていうか、よくわからないダジャレを通りすがりに言ってくるだけなんだけど。 二人は、テニスをしている時、どんな顔をしているんだろう。どんな風に試合をしているんだろうと思えばいつも気になってしまっていた。 (どうして) 一時は、もう友達なんて一生いらないとさえ思っていたのに。 今は、二人のことが気になって、知りたくて仕方ない。 二人が紹介してくれたテニス部の人達も、みんな良い人ばかりだった。昔から友達で、幼馴染らしい。だから、先輩後輩関係なく、フランクにタメ口で話しているんだな。 みんな仲良さそうで、大事な友達同士なのだと思えば……少し、羨ましかった。 段々と空がオレンジ色に染まり、カラスの鳴く声が聞こえて家に帰りたい気持ちが高まってきても我慢して部活の練習が終わるのを待っているのは、バネと一緒に帰りたいから。 バネのとなりにいるとなんだか心が落ち着く。楽しくて、嬉しい気持ちなる。自分でも不思議なくらい。 願うなら、毎日ずっと一緒にいたい。それほど。 だけど一つ問題がある。それは、バネと一緒に帰ると必ずといっていい程、アマネも一緒についてくることだ。それは今日も同じことだった。 「俺の家も、こっちだから」 バネのことを挟んで歩きながら、時々ちらりとアマネの顔を見ていると私の言いたいことがわかったのか、まだ何も口にしていないというのにそんな風に言ったのでどきりとした。 「……あ、そう」 べつに興味ないしどうでもいい、という振りをしながら私は若干動揺していた。にぶそうに見えて案外、鋭い奴だ。 そのまま歩きながら、アマネにこの前、じっと見られていたことを思い出した。あれからも、そんな感じのことは度々あった。そういう時、あいつは何を考えているんだろうか。何考えてるんだかよくわからない顔で、何考えているんだろうか。 (……もしかして、) 元々アマネはバネとすごく仲良いみたいだから、だからそんな二人の間に急に私みたいな奴が現れて”邪魔だ”と思っているんじゃないのか。どっか行けよ、と思ってるんじゃないのか。 だって、きっと私ならそう思う。仲の良い友達との間に突然、よくわからない奴が割って入ってきたら、良い気分になんてならない……。 「どうしたよ、お前らあんま喋んねーな」 「……」 「……」 「せっかく同じ2年なんだから、仲良しろよ。な?」 微妙な空気になっている原因の当の本人はそんなのちっとも気が付いていない様子で、明るく場を盛り上げようとする。鈍感ということをこんなにも羨ましいと思ったのは生まれて初めてだ。 「まあ、それにしても。が毎日学校来られるようになって、よかったぜ」 「……」 「なんかあったらすぐ俺に言え。遠慮なんかすんなよ」 「……うん」 今まで、こんな人に出会ったことがなかったから。嬉しくて安心して私は、バネの優しさと大らかさに、つい甘えてしまう。 だけど、アマネはそれを面白く思っていないんじゃないだろうか。嫌なのではないだろうか。なら、私はいつまでもバネにべったりではなくて、早く、一人でも大丈夫にならなくてはいけないのでは……。 アマネは黙ったまま、何も言わないけれど。 時々、ちらりとその横顔を眺めながら、下校中ずっと。そんなことばかり考えていた。 「リッキー、ジェイク。おはよう」 今日もいつものように早起きして海へ行くと、先にやって来ていた彼らが私の姿を見つけるなり尻尾を振りながらこちらへ駆けて来る。大きな頭を順番に撫でてやると、嬉しそうにクウン、と鳴き声を出した。 「もうすっかりダチだな」 そんな様子を眺めていたバネが、笑いながらそう言う。初めの出会いは衝撃的だったけれど、あれから何度も顔を合わせているうちに2匹に対しての恐怖心はなくなり、この頃では随分と仲良しになっていた。 「……うん」 朝陽を反射してきらきらと輝く水面や、少し強いけれど温かい潮風。大空を自由に飛び回る鳥。そして、波の音が聞こえる中、そこにはバネの笑顔があって……。 そんな景色を眺めていたら……、 私は、本当に、ここへ越して来てよかったと。心から思った。 「……バネ、その。あのさ……、」 「なんだ?」 「私……ここに来てよかった。バネと出会えてよかったよ」 「……」 「……ありがとう。ありがとう……、バネ」 最後の方はなんだか涙声になってしまって、上手く伝えられたかはわからないけれど。それでも、バネは何度かパチパチと瞬きをした後に「そうか」と頷いて、そして笑ってくれた。 楽しいことなど、これからもう一生ないと思っていたあの頃が嘘みたい。苦しいことやつらいことは確かにあったかもしれないけれど、未来の私はとても幸せだよって、昔の自分に教えてあげたい。 これからはもっと強くなって、ずっと明るくなって、一人でも大丈夫なくらいにならなきゃ。そう、ならなきゃいけない……と、密かに考えていると……。 「……さん、バネさん」 なんだかちょっと離れたところからアマネの声が聞こえた気がしたけれど、でも、まさかそんなはずない。幻聴か?と思っても何度か繰り返し聞こえるし、しかもそれは段々と近づいて来る。 「バネさんほら、見て。でっかいワカメ」 なぜかでかいワカメを手に持ちながら登場したのは、やっぱり間違いなくアマネだった。なんでこいつがここにいるんだ。そしてなんで、でかいワカメを持って近付いて来るんだ。 「おい、そんなのどっから拾って来たんだよ」 「向こうの辺りに落ちてた。バネさんにプレゼント」 「いらねえよ」 「遠慮すんなって」 「してねえ」 「味噌汁に入れて飲めばいいのに」 「お前が飲め、馬鹿」 アマネは、バネに軽く蹴りを入れられている。 一体、どうしてこうなったというのか。わけのわからないことが多過ぎて、私は何も言えずに茫然と二人のやり取りを眺めていた。わけがわからない、わけが……。 わけワカメ。 (違う) そうじゃなくて。 「わけワカメ」 「……え、?」 「とでも言いたそうな顔だな」 「……」 アマネが私の方を見ながらそんなことを言うので、まさかうっかり口に出してしまったかと一瞬心配したけれど、やっぱりそんなことはなかった。 「……なに言ってんの。ていうか、なんでいるの」 「……」 聞いてみてもアマネは何も答えないので、代わりにバネが答えてくれた。今日の朝いつも通りに海に来てみたら、じきにアマネがやって来たのだと言う。確かに、朝の海で私と会っていることは以前に話して知っているはずだけど。 「ダビデも、と仲良くなりてえんじゃねえのか」 「……」 「な?んなとこだろ」 本人が喋らないうちにバネは勝手にそう決めつけるとアマネの背中をバシッと叩き、そして、ちょっと犬達を遊ばせて来ると言って2匹を連れこの場所を離れて行ってしまった。 まさか。そんなはずない。アマネが、私と仲良くなりたいだなんて。 (……その逆だ) 「……」 今までマトモな会話などしたこともないというのに、突然二人きりにされて、私はどうしたらいいのかわからずに立ち尽くす。それはアマネも同じことなのか、しばらくの間、そのまま動かなかった。 だけどじきに無言大会にも疲れて、私は砂浜に腰を下ろし、「座れば?」とアマネのことを見上げる。するとアマネは黙ったまま、ワカメを砂浜に置き、言われた通りにとなりに座った。 お互いに口を開かずに、ただ波の音が聞こえ続ける……。私は、アマネの方を見ないまま思い切って声を出した。 「……その、アマネ。……ごめん」 ぼそりとそれだけ言うと、俯いて自分の着ている服の生地を眺めていた。すると少し経ってから、アマネが低い声で「なんのことだ」と聞いたので、思わず首を動かしてそっちを見てしまう。 「……えっと、私がバネと仲良くしたりして……ごめんってこと」 「?、よくわからない。だからってなんでお前が謝るんだ」 「え、だって、アマネはずっと昔からバネと仲が良いでしょ……」 「だから?」 「……だ、だから?」 「俺がバネさんと昔から仲良いから、だから、なんだ」 「……」 アマネはわざとそう言っている風でもなく、本当に、なんで私が謝っているのかよくわからないといったような様子だった。 「面白くないでしょ?急に、私みたいのが現れて……」 「べつに」 「……。邪魔だ、って思ったりしないの」 「しない。なんで、そんなこと思うんだ」 「……」 アマネの言葉はあまりにもはっきりとしていた。嘘偽りなく、真っ直ぐで、一点の曇りもない。それはまるでバネと、同じように……。 「バネさんに新しい友達ができて、楽しそうなら、俺も嬉しい」 「……」 「だから、そんな風に思ったことない」 「……」 私は、心の中で勝手に、アマネは私を嫌って邪魔と思っているに違いないと思い込んでいた。そんなことアマネは一言も言ったことなかったのに、勝手に自分でそう決め付けていた。 あんなに優しいバネの友達なんて、同じに優しいに決まってる。だから、そんなこと思うわけなかったのに。 「……ごめん、アマネ」 「だからなんで謝るんだ」 「ごめんなさい」 不思議そうな顔するアマネを眺めながら、私は、自分自身に対して反省した。もう相手を勝手に疑って、決め付けるのはやめよう。そして私も、バネやアマネのように、優しい人間になろう、と。 今さら、かもしれないけれど……。アマネは、私と友達になってくれるだろうか。 『ダビデも、と仲良くなりてえんじゃねえのか』 さっきバネの言い残していった言葉が、ふと頭の中によみがえる。あれがもし、バネの適当に言った言葉じゃなくて。本当だったとしたら。もしも、そうだったならいいのに。 「あ、アマネ……あのさ」 「なんだ」 「その……わ、私と……と、友達になってあげても、いいよ」 「……」 緊張のあまりだいぶ噛んでしまったし、なんか、随分と上から目線な感じになってしまった。まずい、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。 どきどきとしながら冷や汗をかいていると、アマネは怒りもせず、そんな私のことを見つめながらゆっくりと瞬きするだけ。 「お前とは、会う前からもう友達だったけどな」 「……え、?」 「バネさんの友達は、俺の友達だから」 「……」 まるでそれが当然のことみたいな顔して、アマネはそう言った。まだ顔を見たこともない、話したこともないうちから、私のことを友達だと思ってくれていたというのか。 ……だからだろうか。初めてあったあの時も、私はもうすでにアマネが自分の友達であるかのような気持ちになっていた。不安など、少しも感じなかった。それはアマネが、そう思ってくれていたから。 それって、すごいことだ。そんなの、私にできるだろうか……。胸の奥がジーンとして、なんだか……温かい。 「……アマネって、良い奴だね」 「お前は変な奴だけどな」 「なんだと」 思わず眉間に皺を寄せたところで、バネが犬を連れて「おー、お前ら仲良くやってるか」と呑気な声を出しながら戻って来た。 「あっバネ!ねえ聞いてよ、アマネってば」 「バネさん、って変だよな」 「変なのはそっちだろ!違うの、バネ聞いて!」 「わかった、わかった。二人とも落ち着け」 バネを間に挟んであーだこーだと言い合っているうち、足元に置いていたでかいワカメにすべってアマネが転ぶと、連鎖してバネまで転んで……。 はじめバネは怒ってたけど、最終的にはなぜだか三人で大笑いしていた。 そしてひとしきり笑った後、そろそろ戻るかとバネが言い、波打ち際を3人と2匹で歩く。時折振り返ってみれば、そこにはたくさんの足跡が残っていた。 初めてこの海へやって来た時には、何度振り返ろうとも自分一人の足跡しかなかったのに。 「どうかしたか?」 バネに聞かれて、声のした方へ首を向けた。並んで私のことを見ている背の高い二人の表情は、陽の光の中、優しく微笑んでいる。 「なんでもない」 私も、笑って返した。 足元を濡らす渚は、きらきらと眩しく美しくて。 遠く遠く、遥か、どこまでも続いて見えた。 |