始発で新幹線の窓際の席へと乗り込んだ僕は、まるで風のように走る車体の中で、時間が経つにつれてだんだんと太陽の位置が変わっていくのを、窓からぼんやりと眺めていた。本を読んだり、眠ったりという気にはならず、かといって何かの物思いにふけるわけでもない。ただ、走り去っていく風景を見送るだけ。

何時間か経ったあと終点に着いた新幹線から下車し、そこから今度は鈍行へと乗り換える。車内はさほど混んでいなかったけれど座らずに、荷物だけを近くの網棚にのせて扉の前辺りに立った。

『閉まるドアにご注意ください……』

ガタゴトという音とともに揺られながら、窓の外に見える景色は一面の緑。見渡す限りの田園風景で、普段見慣れている日常とはまるで別世界のようにも感じる。





カントリー・ロード






久しぶりの帰省だった。

田舎へ帰る途中、いつも僕はなんだか不思議な感覚に襲われる。何となく、このままどこか別の世界へ迷い込んでしまいそうな、そんな錯覚。こんなこと、誰かに話したら笑われてしまうだろうか。

(…………)

ふと気がつくと、電車はすでに僕の降りるべき駅に止まっていて、開いたドアからは生温い外気が滑り込んできていた。……降りなければ。急いで荷物を上の網棚から下ろし、ホームへと降り立つ。

まだ自動改札機が導入されたばかりの、こじんまりとした古めかしい駅。帰省シーズン真っ只中だというのに、人はまばらであまり活気もない。

ピッというSuicaのタッチ音がまだ耳に残ったまま外へ出ると、照りつけるような午後の日差しに思わず顔を歪ませた。蝉たちの鳴き声がせわしなく少々耳障りにも感じるが、これを聞くと帰って来たのだという気分になる。


「はじめちゃん」


聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、はっと我に返る。そしてそちらに顔を向けるとそこにはよく見知った顔があった。惜しみなくTシャツと短パンからむき出しになっている、手足の日焼けが何とも眩しい。


「おかえりなさい」
「……ただいま戻りました」


僕の二人いる姉のうちの、二番目の姉だった。名前は。歳は三つ離れていて、自宅から地元の高校に通っている。いつも実家へ帰ると、一番僕を歓迎してくれるのもこの姉だ。

一番上の姉は僕やこの姉よりもずっと年上で、短大を卒業したあとすぐに見合いで結婚して家を出てしまい、今は遠くに暮らしているので正月くらいにしか帰らない。


「今ちょうどバスが来るところだよ。あ、荷物貸して」


いいと断っても姉は自分が持つと言ってきかない。長旅で疲れたでしょう、と微笑む姉の横顔は去年の夏よりもずっと大人びたような気がする。冬にも春にも帰ってきたのに、思い出すのはいつも夏のことばかり。

きっと、姉には夏が似合うのだ。


「空いてるねえ、後ろのほう行こっか」


停車しているバスに乗り込むと、姉は奥のほうへと進んでいく。急に車内のクーラーの涼しさに包まれて、外気の暑さとの差を肌で感じる中、こっちこっちと手招きをする姉がいる。今年はゴールデンウィークに帰ってこられなかったので、春休み以来なのがよほど嬉しいのだろう、まるで子どものようにはしゃいでいる。


「みんなはじめちゃんが来るの待ってたんだよ」
「……そうですか」


待っていたのはあなたでしょう、と思えど口には出さない。正直なところ本当は嬉しかったから。こんなにも僕が帰ってくるのを喜んでくれるのなんて、彼女しかいない。他の家族は、「ああ帰ってきたね」くらいにしか思っていないだろう。


「あ、着いた着いた。降りよう」


バスを降りて、また熱気と蝉の鳴き声の海に身を投じる。普段なら何なのだこの暑さは、と機嫌の悪くなるところだけれど、この姉のそばでは自然と微笑んでしまう。このうだるような暑ささえ、よいもののような気がしてくる。夏はこうでなければ、などと柄にもないことをうっかり言ってしまいそうになる自分が可笑しかった。


「ちょっと痩せた?はじめちゃん、ちゃんと食べてるの」
「ええ。きちんと栄養管理はしていますのでご心配なく」
「そうかなあ、……あっおばあちゃーん!はじめちゃん帰ってきたよー」


家の近くを歩いていると、遠くに祖母の姿が見えるなり姉は大きく手を振ってそちらへ走っていく。それから今度は手招きをして「早く早く」と僕を急かし立てる。

大抵言われることは決まっているのだ。「大きくなったなあ」とか「学校のほうはどうだ」とか。僕はそれを笑いながら聞き、ただ頷く。いつだってそれの延々繰り返し。姉はその間僕のとなりに立ってずっと笑っている。



「お腹すいた?」
「いえ、途中で食べてきましたのでまだ大丈夫です」
「そう?あ、スイカ冷やしてあるよ、食べようよ」
「はいはい」


あのあと両親にも挨拶をすませ、やっと家の中に入ることができた。大きな平屋の家には僕たち以外には誰もいない。長い廊下を、姉がはだしでペタペタと歩いていく。

「いいから座ってて!」と言われ、仕方なく居間の畳の上に腰を下ろす。窓際に吊るされている風鈴の涼やかな音色を聞きながら、外の景色を眺める。と言ってもすだれがかかっているので正直よく見えない。

少し遠くでカラン、という氷の音が聞こえたかと思えば、じきに姉が盆に麦茶とスイカをのせてやってきた。


「ごめんねえ、今クーラー壊れちゃってて。暑いでしょ」
「いえ、大丈夫ですよ。それに、たとえクーラーがついていても、あれ大して涼しくなりませんしね」

それもそうだ、と姉が笑う。
僕の実家はただただ大きいばかりの、田舎の古い平屋。門も大きく、少し離れたところには蔵もある。歴史がどうのとか格式がどうのとか、祖父母などは言うけれど、僕らにとってはたとえ小さくたって新しくてクーラーでキンキンに冷やせる家のほうが有り難い……、などと言えるわけもないけれど、帰ってくるたびそう思ってしまう。


「どれくらいこっちにいられるの?」
「そうですね、一応夏休みいっぱいいるつもりです」
「ほんと?!嬉しいなあ」
「ええ。もう、大会の予定もないですし」
「……あ、」


そっか、と姉はばつの悪そうな顔をする。結局、僕が中学校で所属しているテニス部の夏の大会では全国制覇どころか全国大会にも進出できず、僕は、「頑張ってね」と電話越しに応援してくれた姉の期待に応えることができなかった。

あのとき一番つらかったのは、負けたことよりも何よりも、優しい姉に泣かれたことだった。


「あっそうだ、明日の夜花火大会があるから一緒に行こうよ」
「ええ、いいですよ」
「浴衣着て行こうね!おばあちゃんが作ってくれたの。私のと、はじめちゃんの分」
「ええ、そうですね」


わざとらしく話題を変え、姉は無理にでも雰囲気を明るくしようとする。そしてスイカを食べ終えると、川に遊びに行こうとまるで小学生の男子のようなことを言い出して、無理やり僕の手を引っ張り、家の外に連れ出された。

家の裏を少し行くと、浅い川がある。小さい頃は、この姉とよく魚やザリガニなどをとって遊んだ。忙しい両親や年の離れた長姉に代わり、彼女がいつも僕の遊び相手になってくれていたのだ。


「あっ、ほらザリガニがいるよはじめちゃん」


もう来年には大学生になろうというのに、姉は昔と変わらず無邪気なまま。優しいまま。可愛らしいまま。一体いくつなのですか、と時折たしなめながらも、そんな姉のことが僕は本当は好きだった。


「ねえ東京って楽しい?」
「なんですか、その質問は」
「んー、なんだろね。なんか楽しいのかなって!」


彼女は、一度もここを出たことがないのに、方言を使わない。理由は、よくは知らない。小さい頃は僕も彼女も訛り放題だった、はずなのに、僕がここを出て東京に行き、実家に帰省するといつのまにか姉は僕と同じように標準語を話すようになっていた。


「こちらは退屈ですか」
「そんなことないけど……。でも、退屈かなあ!」


いつの間にか靴を脱いで、姉は川の中に入っていた。足を大きく振って、水滴を遠くに飛ばしながら、無邪気に笑っている。長姉も僕も家を出て、きょうだいたった一人でここに残り続けるのは、僕が思っている以上に寂しいのだろうか。

帰ってくる誰かを待ち続ける人生は、寂しいのだろうか。



「……私さあ、音大受けるの辞めようかと思って」
「え?」


ジャブジャブ水を切りながら石ころだらけの岸に上がってきた彼女は、少しかげった笑顔でそう言った。この姉は小さい頃からヴァイオリンをやっていて、地元の小さなコンクールで賞をとったこともある。いつからか、将来は音大に行きたいと言っていたし、周囲もそれを応援していた。


「どうしてですか」
「…………」
「……さん?」
「…………サイノウがさ、ないの。私には」


才能?


「こんな田舎じゃあ、ヴァイオリンやってる子なんて滅多にいないし、ちょっと上手ければ賞もとれたけど、いざ都会に出れば、私はなんて馬鹿な思い違いを、って気付くの」
「そんなこと、……」


ありませんよ、と言いかけて言葉に詰まる。何だか、姉が自分に重なって見えて、まるで心の中の自分の声を聞いているようだった。テニスが上手だとみんなに褒められて、ならばと東京に出ていって、……ああ、これはきっと僕だ。僕の分身だ。


「お母さんは有名なとこじゃなくたって、この辺にもあるからそこでいいじゃないって言うんだけど。でも、何でだろうね。なんか、悲しくなっちゃった」


石の上でひざを抱えるように座りながら、「べつに全然悲しくなんてないのにね!」と姉は笑った。僕は姉が毎日何時間も練習し、週に何回もレッスンに通い、朝も夜も、寝る間も惜しむほど一生懸命だったのを知っていた。その姉が、今、己の才能の無さに絶望している。


「僕は……。さんのヴァイオリン、好きです」
「みんなそう言ってくれるの。でも、それじゃだめなの。一番をとらなくちゃいけないの、誰にも負けないくらい、上手くならなきゃいけないの」


そこにはもう、ただただヴァイオリンを弾くことが楽しくて好きだった頃の姉の横顔はなかった。いつの間にか、周囲と自分との技量の差に気が付き、もっと上手くならねばとまるで何か追われるようになり、そして楽しくてはじめたことがいつのまにか苦痛以外の何者でもなくなってゆく。


「……もう楽譜も見たくない。弓も握りたくない」
さん……」
「何も弾きたくない」


顔を膝のあたりにうずめながら、姉の声は次第に涙混じりになっていった。


「いいんですよ。弾きたくなければ弾かなくたっていいんです」


となりに座って、姉の髪の毛を指で梳かしながら僕は言った。それは、果たして姉に対して言った言葉だったのだろうか。僕に言った言葉だったのだろうか。それとも、本当は誰かに僕が言って欲しかった言葉だったのだろうか。







「……忘れ物はない?」

あっという間の夏休みだった。この間帰ってきたばかりだと思ったのに、僕はもう荷物をまとめて再び今度は東京へと帰ろうとしている。家の玄関で、スニーカーの紐を結んでいる僕を見下ろしながら、姉は少し寂しそうだった。


「ええ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、そろそろバスが来るから行こっか」


来たときと同じように、姉が僕の荷物を持って、前を歩く。けれど、行きと違って帰りのその足取りは重い。心なしか、口数も少ないような気がする。

(……まあ、いつものことですが)

この休みの間、僕は姉がヴァイオリンを弾いているところをついぞ見ることはなかった。音大どころか、いっそヴァイオリンすら辞めてしまうのだろうか。聞きたくても、聞けなかった。

僕は、本当に姉のヴァイオリンが好きだったのだ。気休めなんかで言ったのではない。日に焼けることに無頓着な姉の健康的な腕が奏でるその旋律は、あまりにも繊細で、時折胸が苦しくなるほど。



「空いてる」


このバスはいつも空いている。姉がまた後ろのほうの席へと歩いていくのに、僕はついていった。

「…………」
「…………」


このバスも、クーラーが壊れたのだろうか。この前はたしかついていたけれど、今はただ開いた窓から生温い風が吹き込んでくるだけ。横を見ると、姉は、何も言わずぼんやりと外を眺めたまま、風に吹かれていた。


「……ここは退屈」
「え、なんですか?」


突然何か口にした姉の言葉は、吹き込まれてくる風と、バスのエンジン音に邪魔されてよく聞き取れなかった。それからしばらく黙ったあと、こちらに首を向けた姉は悲しそうな顔をしていた。


「……さん?」
「はじめちゃんがいないもの」


黒く長いまつ毛が震えているのに、僕は、何も言えなかった。ただバスに揺られ、通路越しの反対側の窓から景色を眺めるだけで、何も言えなかった。






「……さん。また、すぐに帰ってきますから」
「…………」


他にはあまり人のいない駅の改札の前で、姉から荷物を受け取った僕はそう言った。でも彼女は少しうつむいたまま何も言わない。そんなの、ただの気休めだと知っているのだろう。本当は、まだしばらく戻ってこれるはずがないと、気付いているのだろう。


「私にはもうヴァイオリンもない。はじめちゃんもいない。ここはつまらない」
「……そんなこと言わないで」
「ここはいや」


ぽろりとその目から涙のこぼれた姉を、僕は軽く抱きしめる。寂しいのは僕も同じだと思えど、残される辛さは僕にはわからない。


「……ごめんなさい」
「……」
さん、ごめんなさい」


標準語を使うようになった姉は、もしかしたらいつか東京に出たいと思っていたのだろうか。ここのことをみんな忘れて、どこかに行きたいと望んでいたのだろうか。
きっと、姉を寂しくさせたのは僕だ。そんな憧れを抱かせたのは僕だ。


「……さんも、東京に来てください」
「……」
「そうして一緒に暮らしましょう」
「……ほんとう?」
「ええ。ずっと、二人で、一緒に暮らしましょう」


顔を上げた姉の目からぽたりと落ちた涙が、僕のTシャツに染みを作る。
ホームを見ると僕の乗るべき電車がもうホームに入ってきていたので、「帰ったら必ず連絡します」と言って、そっと手を離し改札を通って一番近くの扉から乗り込んだ。

「きっとだよ!」

遠くで叫ぶ姉の声を掻き消すように、プシューと音を立てて扉がしまり、ゆっくりと車体が動き出す。改札の向こうで手を振っている姉は、泣いているのか笑っているのか、僕にはよく見えなかった。


さみしいのは、きっと僕のほうです。さん。

都会は、あまりにも退屈です。




「……さんが、いないんです」


うつむくと、僕のTシャツにはまた染みが増えていった。