私は同級生の仁王くんのことが1年生のときから好きだった。大好きだった。綺麗な顔、大人っぽい雰囲気。 そんな不思議な魅力を持つ彼に、平凡な私はずっと憧れていた。けれど、同じクラスになれたことはないし、もちろん喋ったことなどない。彼は私の存在なんて知らないだろう。

それに彼にはいつだって綺麗な彼女が絶えずいたし、私もべつに好きだからといって仁王くんと付き合いたいなどという大それた希望は持たないようにして、ただみんなと一緒に遠くから眺めていられれば、それで十分幸せなのだと自分に言い聞かせていた。





...fish in the pool...






あの日、美術部に所属している私は、放課後みんなが帰った後も遅くまで美術室に残って、期限の近い作品を仕上げていた。そしてそこにはなぜか仁王くんの姿もあって、静まり返ったその教室には私と彼の二人だけがいた。

私一人だけになった教室に突然ふらりと現われた仁王くんは特に何をするわけでもなく、窓際のイスに座ってぼんやり外を眺めているだけだった。まさかこんなとこに来ると思わなかったのでかなり驚いてしまった。

何してるんだろうとか、やっぱり綺麗な顔立ちだなあとか、テニス部はどうしたんだろうとか、私の頭の中にはいろんな思いがめまぐるしくめぐっていたけれど、そんなこと本人に言えるはずもなく、私はただ黙々とキャンバスに向かうフリをしながら、たまーに仁王くんのことをチラっと見ることしかできなかった。


作品が大体仕上がったので、続きはまた明日にしようと道具をみんな片付けて帰ろうとしたとき、ふと仁王くんに「さん」と呼ばれたような気がして振り返るとすぐ後ろに仁王くんが立っていて、それにも驚いたけど一番驚いたのは仁王くんが私の名前を知っていることだった。

「え……、なに……?」
「お前さん、さんっていうんじゃろ」
「あ、は、はい……」
「そう怯えんでも、なんもせんよ」

仁王くんがその時、ふっと笑ったので私はなんだかどうしようもなく恥ずかしい気持ちになった。
きっと今の私の顔は赤くなっているに違いない。心臓が今にも口から飛び出しそうだ。

「……あ、いえ……そんなつもりじゃ……」

初めて、こんなに近くで聞いた彼の声。
しかもそれは他の誰のためでもなく、この私のためだけに。

「のう、さん。俺と付き合ってみる気ないかの?」
「え……?」


夢なのではないのかと、一瞬すべてを疑った。

今そこにいる彼は本物なのか。
今ここにいる私は現実なのか。


「どうして……?」

どうして私なの?

理解できない。震える声でそうたずねても、仁王くんは何も言わず、じっと私の目を見ているだけ。


「……私、でいいの……?」

嘘でもいい。それを真に受けて馬鹿にされて笑われてもいい。
でも、仁王くんは少しも笑わず、ただ「いいんよ」とだけ答えた。

それが夢でも嘘でもないとわかると、私はあまりの嬉しさに気絶しそうになったのだ。




あれから2週間。

仁王くんと付き合い始めてからは、そこらじゅうから私のうわさが聞こえるようになって、今までこんなにも人の話題になったことなどなかったからはじめはかなり驚いた。 それも、付き合っているのは私が仁王くんを脅したからだとか、仁王くんが立海の美人はみんな喰い尽くしたからだとか、ロクなものじゃなかった。

私はそれがどうしようもなく嫌で、恥ずかしかったけど、仁王くんはそんなの全然気にしない様子で誰に何を言われても顔色ひとつ変えなかった。


それによく女子生徒に呼び出されたり、ときには廊下などで突然腕を掴まれてそのまま間髪いれずに頬をぶたれたりもするようになった。それもしょっちゅうのことで、相手も1人や2人なんてもんじゃない。それは仁王くんの元カノなのか今カノなのか、または仁王くんのことがただ好きな人なのかはわからないけど、私はその人たちにとくに何にも言えないでいた。

そして仁王くんにも、何も言わないでいた。







廊下を歩いていると仁王くんに名前を呼ばれたので、声のした方を見ると私を手招きしている。
私は嬉しくて思わず顔がほころびそうになったけど、周辺の女子たちからの視線が突き刺さるようだったので、それを我慢しながら仁王くんのそばへかけて行った。

「えっと、何かな?」
「……んー、べつに。何となく……」

相変わらず仁王くんは何を考えているのか、よくわからない。
不思議な人だけれど、私は彼のそんなところが大好きだった。

それから仁王くんは私の片方の手をひっぱって、そのまま人の滅多に通らない階段に連れて行った。階段の下から4段目に座ると私から手を離して、その隣を”ここに座れ”と言わんばかりにポンポン、と叩いたので私は仁王くんの促すとおりにそこへ腰掛けた。

「……」
「……」

始業のチャイムが鳴っても、仁王くんは動かない。だから私も動かない。
こんなに学校が静かに感じたのは、初めてかもしれない。


(……何にもしゃべらないな……)

(……どうしよう……)


付き合っているとは言っても、あまり話をしたことがない。というよりか、何を話したらいいのかがさっぱりで、話題自体がない。仁王くんはけっこう無口なところがあるし、あんまり自分のことも話さないから、何が好きで、何が嫌いで、誰と仲がいいのかなんてことも全然知らない。

前の彼女はみんな、そういうこと知っているんだろうか。仁王くんの好きな食べ物とか、どこに住んでるのとか。もしかしたら、仁王くんの家にも行ったことあるのかな……。

(一応、私も彼女なのにな……)

でも、考えてみれば私が仁王くんの彼女だなんて可笑しな話だ。誰がどう見たって釣り合うわけがないし、この顔をぶちたくなる女子たちの気持ちもわかる。

……なんて、そんなことを考えると、なんだかとても悲しくなってきてしまう。

仁王くんはいつだって、私を悲しくさせる。仁王くんの顔を見ただけで、声を聞いただけで、仁王くんのことを考えただけだって、私は泣きそうになる。胸が苦しくなる。

「あの、仁王くん……」
「雅治でいいんよ」
「……雅治、くん」
「ん?」
「あ、えっと、なんでもない……」

そう言うと、雅治くんはちょっとだけ笑ってくれた。

その笑顔が今まで見たこともないような優しい顔だったので、嬉しかったからなのかどうなのかはわからないけれど、目頭の辺りがジーンとしてきて私はまたちょっと泣きそうになってしまう。

本当はどうして私なんかと付き合おうと思ったのか。私のどこがいいのか。ただの気まぐれなのか。根掘り葉掘り小一時間問い詰めたかったけれど、結局何も聞けないまま。

「ほっぺた、ちょっと腫れとるんよ」
「あ、ああ、うん。それね、さっき転んだの」

頬に触れた雅治くんの手が冷たかったので、私は少しビクッとしてしまった。すると雅治くんは不思議そうに私の顔をのぞき込んだ。あまり近づいたら、この今にも張り裂けそうな心臓の音が聞こえてしまうのではないかと、心配になる。

私は思わず左胸をおさえた。


「何しとるんじゃ」


心臓が飛び出さないように抑えてるの。


「……何でもないの」



- - - - - -



あれからよく、夜10:00頃になると雅治くんから電話がかかってくるようになった。内容は他愛もないただの世間話で、話下手な私はただそれにウンウンと頷くだけなのだけれど。

もしかして、もしかしたら、私のことを気遣ってくれているのだろうか。
頬が腫れていたから?胸を押さえていたから?

でも、そんなことはどうでもいい。
彼が少しでも私のことを気にかけて思い出してくれるのなら、私はそれで幸せだった。



、補講とるんか?」
「あ、うん。私、数学苦手だから……」
「……ふーん」

3年生になると放課後に希望者を募って授業補講が行われるようになる。数学が苦手な私は高等部に上がる前にどうしても克服しておきたくて、補講を受けることにした。

補講がある日の放課後、事前に指示された教室に行くとそこにはなぜか雅治くんがいた。
教室の一番奥で、だるそうに窓ガラスにもたれ掛かっている。

(あれ、なんで……?)

不思議に思ってしばらく遠くから様子を見ていると、私に気がついたようでこっちに向かってヒラヒラ手を振っている。やっぱり雅治くんも補講のためにここにいるのだろうか。私は控えめに手を振りかえしながら近づいた。

「雅治くんも、補講?」
「おう。奇遇やの」

そうなんだ。……あれ?でも確か、雅治くんは成績が優秀だって聞いたことがあるような。授業なんか全然聞いてないし、そもそも出席すらしてないのになぜか成績はいいとか。……?
ちょっと考えているとすぐに先生がやってきて、席順を黒板に張り出したので、他の生徒に混ざって見に行く。

「……あれ」
「よろしくの、

振り返ると雅治くんが軽く笑う。まさか、隣の席になれるなんて思わなかった。

それぞれ席について、補講が始ると、先生がチョークで黒板に書いていく膨大な量の数式を私は必死でノートに書き写していた。ふと、横を見ると雅治くんは黒板を書き写していないどころか、教科書も出していなかった。何にも置かれていない机の上に肘をついて、ぼんやり外を見ている。

(……、な)

私は非常にびっくりした。そして同時に、そんな雅治くんに気づいた先生が彼のことを叱らないかどうかヒヤヒヤしてしまって、補講どころの話ではなくなってしまった。

「ま、雅治くん……教科書は?」

先生に気づかれないようにとても小さな声で話しかけると、雅治くんは目線を外からこちらに移した。なんだかずいぶん眠たそうな目をしている。

「あー……忘れた」
「わ、忘れた……?!」

当の本人よりも私のほうがオロオロしてしまい、周囲の何人かに見られてしまった。雅治くんはというと、そんな私を見て微かに笑っている。結局その日は私が教科書を見せたものの、妙に動揺してしまってあまり身に入らなかった。


次の日、学校で休み時間に廊下で雅治くんとすれ違うとき、「ほれ」と何やらノートを渡された。

「……?」
「ま、がんばりんしゃい」

と言うとそのまま去っていってしまった。何だろう、と思って中を見てみるとそこには昨日の補講の内容がわかりやすくまとめられていた。まさか、これは雅治くんが……?とにかくお礼を言おうと振り返ると、もう彼の姿はそこにはなかった。

「……どうして?」

補講なんか聞いてなかったんじゃなかったの?

雅治くんはとても不思議な人だ。いつも、何を考えているのか私にはよくわからない。
でも、すごく優しくしてくれるので、その度に、私は彼のことをもっと好きになってしまう。


いつでも振られる覚悟をしておかなければならないのに。私は。



……だけど放課後、どうしてもお礼が言いたくて、部活が始まるよりも前に私は男子テニス部の部室の辺りをストーカーのようにウロウロしていた。まだ来ないな、それとももうコートに行っちゃったのかなあ、などとグルグル考えていると、突然誰かに肩を叩かれて驚く。

「きゃあっ!ごっごめんなさい!」
「まだ何も言っとらんぜよ」
「あ、ごめんなさい……。その、真田くんかと思っちゃって……」

てっきり鬼副部長と有名の真田くんに見つかって叱られるかと思った。

「あの、ありがとう……。ノート、とっても参考になったの」
「それ言うために来たんか?」
「ごめんなさい……」
「なんで謝るんじゃ?怒っとらんよ」
「……でも、」

それを言うためだけに、ストーカーのように、うざったかったなと我ながら思ってしまった。私は校内で必要以上に雅治くんに関わらないようにしようって、自分で決めたのに。きっと、雅治くんの迷惑になるから。だから、もう一回謝ろうとしたとき、

のためになったんなら、よかった」

その瞬間、ふと見せた仁王くんの笑顔はすごく柔らかくて、透き通るように優しかった。

でも、苦しかった。

今まで、何人の女の人にその笑顔を見せたのかなんて、考えてしまう自分はあまりにも鬱陶しくて。
他に女の人が何人いたっていいって、何股かけられていても、そんなの気にしないって、自分に言い聞かせたのに。遊びでもいい、気まぐれでもいい。ある日突然捨てられたって構わないって、

(……決めたのに……)


「……?どうしたんじゃ」


仁王くんが校内で色んな女子に話しかけられているところだって、毎日見るけれど、仁王くんはいつだって笑うわけでも、けど疎ましがるわけでもなく、ただその女子たちをぼんやり見ているだけ。体に触られたりしてもその手を振り払ったりはしない。

見たくない。

胸が、くるしい。

うつむくと、そっと雅治くんが私の頭に手を置いた。それはそのまますべり落ちて、耳の辺りを通ったあと頬を撫でた。相変わらず体温の低い手だけれど、この前みたいに冷たくは感じなかった。

「また、腫れとる」
「……虫に刺されたの」

無理やり笑ってみたけど、ちょっと引きつってしまったかもしれない。
もう、頬をぶたれることにも慣れてしまった。

「すまんのう、
「……?」

見上げて目の合った雅治くんは、悲しそうな苦しそうな、顔をしている。

「俺のせいなんじゃろ」
「ち、違うよ」
「俺と付き合わんかったら、ぶたれんかったよな」
「違う、ぶたれたんじゃないの」

首を振って否定して、うそをついても、もう雅治くんにはみんなわかってしまっている様子だった。勘のいい彼のことだ、気が付かないはずはないと思っていたけれど、でも、知られたくなかった。恥ずかしかった。私がもっと彼に釣り合うような人間だったなら、ぶたれることもなかったはずだ。

「俺とおらんほうが、のためじゃろうな」
「……!なんで、そんなことないよ」

それは一番聞きたくなかった言葉だった。

いつ振られてもいいと思っていた割には、ずいぶんと取り乱し、私は足が震えていた。お願いだからもう一度考え直してとすがりつこうとしたところ、雅治くんが口を開いた。

「でも、俺、別れたくないんじゃ」

まさかそんなこと言われるとは思いもかけなくて、びっくりして、私は目を見開いた。


「俺、1年のときから、お前さんのこと知っとった」
「……えっ?」

まさか。ありえない。だって、話したこともないのに。

「2階の廊下に、絵が飾ってあるじゃろ」
「絵……」
「あれ、俺気に入っとるんよ」

それは私がまだ1年生の時に、絵画コンクールに出品してありがたくも賞をもらった作品だった。せっかくだからと先生が廊下に飾ってくれたのだけれど、数人の友だちが「見たよ」と言ってくれた程度で、他の生徒にとっては気が付かないくらい、目立たない場所にあった。

「見てくれたの……?」

青い水の中で泳ぐ魚たち。その中に一匹だけいる銀色の魚は雅治くんをイメージしただなんて、恥ずかしくて誰にも言えなかったし、まさか、それが本人の目に入るなんて夢にも思わなかった。

「横にお前さんの名前があって、同じ学年って知って。どんな子なんじゃろって、探した」
「……」
「そんですぐ見つけたが、ずっと、話しかけられんかった」
「……な、なんで?」

まるで次回のドラマ放映がもう待ちきれないみたいに、私は雅治くんの一語一句に食いついていた。
そんな私たちのことを、たまに近くを通りかかるテニス部員の人たちが不思議そうな顔で見ては、いなくなっていく。

「俺みたいの、相手にしてくれんと思った」
「……えっ、なんで」

思いもかけない言葉に、私はなんでなんでを繰り返してばかりで。あまりの急展開ぶりに私の頭がついていかず、今にもショートしそうな状態だった。雅治くんが1年生のときから私のことを知っていただなんて、でも話しかけられなかっただなんて、そんな夢みたいな話、ありえない。

でも思い切り自分の腫れた頬をつねってみても、さらに痛くなるだけだった。

は俺みたいの、嫌いそうじゃ」
「そんなことないよ!だって、私もずっと……ずっと雅治くんのこと、好きだったの」

自分も、勝手に雅治くんは私みたいな女子は嫌いだと思い込んでた。

雅治くんの近くにはいつも綺麗な女の子がいっぱいいて。それなのにどうしてわざわざ私を選ぶ必要があったのか、いつも不思議だった。せっかく彼女なれたのに、もっと顔の可愛い子と、もっとスタイルのいい子と、付き合えばいいのになんて、思ってしまう自分が嫌だった。


「誰かと付き合ってみても、いつも、あの絵が頭を離れんかった」
「……」
「不思議じゃった。よく、あの魚になって水ん中泳ぐ夢を見たんよ」


ふわりと吹く風がさらさらと雅治くんの綺麗な銀髪を揺らす。


「3年になって、お前さんが俺のこと好きかも知れんって誰かの噂で聞いて、だから、あん時……」

放課後の教室に二人きり。私の名前を呼ぶ声。偶然ではなかった。気まぐれではなかった。
視界がぼんやりする。自分で目頭を押さえるよりも先に、雅治くんの細くて白い綺麗な指が私の瞼に触った。


「気付いて、くれてたんだね……」


ひっそりと飾られた絵。
みんなの中に紛れた私。


「ずっと、見とったよ」



もう、私があの銀色の魚を見つめて泣くことはないだろう。