ヒトリジメ −前編−






am 0:41

すっかり電気の消えた暗い家のカギを開けて中へ入ると、そこはシン、と静まり返っていて家族の姿は見当たらない。それはいつものことなので特に気にせず、俺は部屋に行く前に一杯水を飲もうとキッチンに立ち寄った。

コップに水を汲んでいると、廊下をスリッパで歩く音が、だんだんと近づいてくるのが聞こえる。


「……雅治?帰ったの?」


玄関のドアの閉まる音でも聞こえたのか、姉のがそこへ顔を出した。小さなランプが点いただけのこの薄暗い部屋で、パジャマを着た彼女の姿だけがぼんやりと見える。

俺は水を飲みながら、そちらを見るだけで何も答えなかった。


「おかえり。夕ごはんは、食べてきたの……?」


のその声は怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなく、どちらかと言えば穏やかだった。いつもそうだ。叱るつもりなんかなく、ただ、俺が何事もなく無事に帰ってきた事に対して安堵している。


「……ああ」
「そう」
「もう、寝る」


カタ、とコップを流し台に置くと、キッチンを出る途中で、擦れ近い様そう言って階段を上がった。そうして自分の部屋のドアを閉める時、「おやすみ」と言う声が聞こえたような気がしたけれど、返事をしたりはしなかった。


ただ一人、姉を除いて、もうこの家で俺に関わろうとする人間はいない。

両親に至ってはすでに諦めているという風で、放任というのだろうか。何を言っても無駄とわかっているから、もう何も言ってこない。半ば見捨てられているとも言えるかもしれない。

弟については元々、さほど仲がいいというわけでもないので、別段会話をすることもない。

誰にも干渉をされないというのは、普通この年頃の人間であれば多少なりとも寂しく思うのかもしれないが、俺はさほど気にならなかった。あれやこれやと口出しをされたりするのは昔から苦手だから、むしろ、その方が気楽でいいとさえ思った。

けれど、姉のだけは俺のことを切り捨てることなく、気に掛け続けていた。

それは、ダメだと叱るわけでも、こうだと諭すわけでもなく。時折、他愛ないことを話しかけてくる程度なので、鬱陶しいと思うほどでもなくて、だから冷たく当たる必要もなかった。

いっそ、だって放っておいてくれればいいのに、と思っても口に出すのまでは何となく億劫だった。







am 5:48

朝、家を出るのはいつも家族が起き出す前にしていた。家族が寝た後に家に帰り、起きる前に家を出る。そうすれば顔を合わせずに済むし、彼らにとってもきっとその方がいいだろうと思ったから。

しかしそのまま学校に直行したのでは、いくら朝練に力を入れているうちの部と言えど早すぎる。だからいつもどこか適当なところで朝食をとり、公園などでしばしぼんやりしたあと、やや遅れ気味に学校へ向かう。

そうすると、柳生あたりに「仁王くん、たまにはもう少し早く家を出たらどうですか」と小言を言われるけれど、「そうじゃな」と適当に相槌を返すだけだった。



「雅治」


そうして今日もいつもの様に、まだみんな寝静まっているこの家を出ようと玄関のドアに手をかけたところ、突然後ろから名前を呼ばれて俺は後ろを振り返った。


「早いね。今日も部活?」
「……ああ」


そこにはまだパジャマ姿のが立っていた。普段なら、まだ寝ているはずの時間にどうして起きているのだろうと少し気になったけれど、わざわざ口に出して質問する気にはならず、何も聞かなかった。


「どこかでごはん食べるんでしょ?これ」
「……なんじゃ」


は、手に持っていた財布から一万円札を二枚取り出すと、俺に差し出してきた。


「そんなん、いらん」
「でも、部活で必要なものとかも色々あるでしょ。ガットとか、グリップとか」
「いらん」
「いいから、持ってなよ」


いらないと言っているのに、無理やり俺の手に紙幣を握らせる。これはもういくら抵抗しても無駄な雰囲気で、だからもうそれ以上断るのも面倒くさくなり、結局そのままその金を持って家を出た。

はいつもそうだ。自分だって、まだ大学生なのだからそんなに金など持っているはずはないのに、時々こうやって、せっかく稼いだバイト代を俺に渡してくる。いらないと断ってもさっきの様に無理やり押し付ける。

それが嫌だからなるべく顔を合わせないようにしているというのに、結局は深夜も早朝も、向こうの方からやって来るので俺がいくら避けようとあまり意味がなかった。


(……もう、放っておいてくれんか)


わざわざそんなこと言わなくとも、他の人間は勝手に俺から離れて行った。呆れた顔をされるのにも、変わったものを見る様な視線を向けられるのにも、何とも感じなかった。

「好き」と言われるよりも、「嫌い」と言われるほうがよかった。そのほうが気が楽だった。 俺はただ、放っておいてくれればそれでいい。べつに何もいらない。

金だって、どうせ俺に持たせたってロクなことに使わないことくらい百も承知なはずだろう。それならが自分の好きなものを買ったほうがよほどいい。服だってアクセサリーだって、あの歳なら欲しいものは山とあるだろうに。


(なんでじゃ……)


普通、姉にとっては弟なんて鬱陶しいと思うような存在ではないのだろうか。それも俺のような奴なら尚更。素直に言うことを聞いたこともなければ、姉を慕うような態度を示した覚えもない。

それなのに、はいつも下の弟よりも俺のことばかり気に掛けている気がする。俺としては末弟の方を可愛がったほうがよほど有意義ではないだろうかと、いつも思っていたけれど、口に出して意見するのまではやっぱり面倒で、何も言わないままだった。







pm 12:43

「仁王。それって、最新モデルの腕時計じゃね?」
「……ああ」


昼休み、自分のクラスの窓際でぼんやりしていると、話し掛けてきたのは丸井だった。というか、丸井以外で俺に話かけてくるクラスメイトはあまりいない。よほどの急用でもない限り。


「すげえな、お前って何でも新しいの持ってんじゃん。親が金持ちだといいよなあ」
「そんなんじゃないぜよ」
「そうかあ?俺なんか、小学生んときとこづかいほぼ一緒だぜ?ありえねーっつーの!」
「はは……」
「あーあ、新しいスニーカーも欲しいのになあ。羨ましいぜ、仁王ー」
「……」


本当は全部、親の金ではなくて、姉貴に貰った金で買ったとは言えなかった。

初めの頃は、貰っても使わずにとっておいたけれど、またしばらくすると次の金を寄こしてくるので貯まっていく一方だった。いらないと断っても聞かないし、あまつさえ、「足りなかったら言って」とも言ってくる。

次第に積み重なっていく万札を見るのも嫌になって、いつの頃からか、少しでも欲しいと思うものは買うようになった。新発売の、ゲーム機、音楽プレイヤー、スニーカー、腕時計……。

周囲の同級生たちが欲しいと言う物を、俺は何でも手に入れることができたけれど、それにどんなに羨望の目を向けられたところで、優越感に浸る気分にはなれなかった。

結局、自分は姉貴がいなければ何もできないのだと、言われているように思えた。







am 1:13

いつもなら真っ暗のはずのリビングに明かりがついていたので、きっとがいるのだろうと思ったけれどやはりそうだった。

玄関を上がって階段に向かおうとすると、パジャマ姿のがリビングから顔を出した。この頃では、彼女以外の家族とは顔を合わせていない気がする。


「おかえり、雅治。夕ごはんは、食べてきたの?」
「……ああ」


何度も繰り返される、同じ会話。俺がこの家で食事なんてとるわけがないのだから、そんなことを聞いたところで無駄と思うのに、それでも他に話題がないのか、はいつも同じことを聞く。

彼女の意図するところはわからない。けれど、ロクデナシの弟をどんなに世話やいたところできっと未来に何の得もないだろうことだけはわかっていた。


「……姉貴」
「なに?」
「もう、俺のことは、放っておいてくれんか」
「……え?」
「そういうの、もういい加減、息苦しいんじゃ」


それだけ言うと、は少し驚いたような顔を見せたけれど、それ以上俺に何かを問い詰めたりはしなかった。そのまま彼女を残してその場を離れようとした時、後ろから小さく「ごめんなさい」という声が聞こえたけれど、それに続く言葉はなく俺も何も答えなかった。



(…………)


自分の部屋のベッドの上で、天井をただぼんやりと眺める。

なぜ、がいつもそんなに俺のことを気に掛けるのか、小さい頃からずっと不思議だったけれど、どうせいつかは彼女も俺のことを見限るだろうと思っていた。なのに、いくつになってもそんな様子はなく、むしろ年々過剰になっていくような気さえする。

我ながら、可愛い弟だとは到底思えない。憎まれる覚えはあっても、可愛がられる覚えなど、まるでなかった。


(こんな俺のことなんか、はよう見捨てればええんに)


そうしなければ、の優しさがただ無駄になってゆく。俺といたって、何の得もないだろうに。


(…………)

(……いや、違う……。本当は)


姉貴がいなければ、何もできない人間になっていくのが嫌だった。

優しくされることに甘えて。守られることに依存して。心のどこかで姉だけは俺のことを見捨てないだろうと踏んでいる自分にも、心底うんざりする。これ以上一緒にいたら、俺は本当に無しでは生きていけなくなる。を、誰にも渡したくなくなる。

そうして、が、だめな奴になっていく。

……俺のせいで。


(そんなん、嫌じゃ……)







am 2:05

「雅治」


まさか、こんな場所でそんな風に自分の名前を呼ばれることがあるとは思わず、俺は少し驚き、雑誌を眺めていた目を声のした方向へ向けた。


「……雅治」
「……」


そこに立っていたのは、だった。少し瞳を潤ませながらもう一度俺の名前を呼び、その後に何か言いかけた様子だったけれど、結局は立ち尽くしたままで続かず、俺も何も言わなかった。

深夜2時のファミレスは意外にもまあまあの客入りで、それなりに騒がしく、俺たちを気に掛けるような人もいない。近頃俺は今日の様に学校へ出たまま家に戻らず、朝までこうやってファミレスや漫画喫茶で適当に過ごしてまたそのまま学校に向かい、また家に戻らず……ということを頻繁に繰り返していた。学校にはシャワーだってあるし、特に何が不自由というわけでもない。

2、3日家へ帰らなくても両親は何も言わない。俺になんて関心はないだろう。

唯一、姉のだけは俺に何度も電話を掛けてきたりメールを送ってきたりしたけれど、それらはすべて無視していた。残された留守電のメッセージも、聞かないまま消去した。

どうしてここがわかったのか。こんな真夜中に一人でいるのか。気になっても言葉にまではしなかった。


「……よかった」


安堵したように今にも泣きだしそうな声で小さく呟くの声は、か細く弱々しいのに、俺の胸はまるで突き刺さされたかのような強い痛みを感じた。そうしてそれから、今度は頭にジリジリとした鈍い痛みが走る。


「ねえ、一緒に家に帰ろう」


近づいてきて俺の腕の辺りを弱い力で触れるの体温に、思わず頷いてしまいそうな自分がいる。けれど、軽く腕を振ってそれを払い、思った以上の小さな声で「嫌だ」とだけ答えるので精いっぱいだった。

に連れられて家に戻ったのでは、一体何のために帰らないようにしていたのかわからなくなってしまう。俺は、こいつから離れるためにこうしているというのに。

俺のせいでがダメになっていくのを見るのは嫌だから、もう俺に構わないで欲しい。


「もう、放っておいてくれと言ったじゃろ」
「……」
「俺に構うな」
「……雅治」


ぽた、と生温かいものが俺の手の甲に落ちるのを感じて、見上げればやはりその目からは涙がこぼれていた。昔から、人の涙を見るのは嫌いだ。それも、それが俺に対してなのならなおさら。その度に言い様もない罪悪感にさいなまれ、自己嫌悪に陥る。

誰かの、「何故なのか」と叱りつけながら泣く姿も、「ひどい」と責め立てながら泣く姿も、もう見たくない。聞きたくない。誰も、俺のために泣くな。


「帰ってくれ。俺がおらんほうが、みんな喜ぶじゃろ」
「……」
「俺は家には帰らん」


俺は手元の雑誌を眺める振りをしながらそう言った。そちらを見ることのないままだったから、彼女がどんな表情をしていたかはわからないし、わかりたくもなかった。

しばらくして、ここを去っていくその足音を聞きながらも、ずっと目線は下に向けたまま。彼女のためには、これでよかったのだとわかっていても、何でか胸の辺りが痛んだ。

もう二度とがこうして俺を迎えにくることなはいのだと思えばその痛みは増すばかりで、そんな自分のことが鬱陶しかった。







pm 7:28

あれから数日経っても、俺は家へは戻っていなかった。学校には普通に通っていたからか親からは相変わらず連絡も何もなく、それはからも同じことだった。

このままこんなことを続けて、どうするつもりなのか、自分でもわからない。そんなこと、俺が一番聞きたい。

日が暮れて暗くなった夜の街を、眩しいくらいのネオンが照らす。行き交う人々は、疲れた様子のサラリーマンだったり楽しそうに腕を組むカップルだったりする。

居酒屋の呼び込みの声や、店のスピーカーから流れる流行りの曲。騒がしい雑踏の中を、時々肩がぶつかりそうになるのを避けながら、アテもなく歩いた。 今夜はどこで過ごそうか……とぼんやり考えていたところ、ふと視界に見覚えのある顔が視界に入って思わず立ち止まる。


(……姉貴?)


それは間違いなく、だった。そういえばこの辺りは通っている大学の近くだったかもしれない、と思いながら見ていると、そのとなりに誰か並んで歩いていることに気付く。

それは見知らぬ男だった。よりかはいくらか年上に見えるそいつと腕を組んで、楽しそうに笑っている。

べつに驚くことなんてない。当然、そいつは彼氏だろう。から彼氏がいると聞いたことはないが、べつに話す機会もないし、そんなこと知らなくて当然だ。女子大生なら、彼氏の一人や二人いたって何おかしくない。

だけど、俺の胸の中では何かがざわめき立っていた。言い様もないその気持ちは決して良いものなんかじゃない。自分ですら気分の悪くなるような、嫌悪感だった。

明るく楽しそうな音楽の流れる街中で、俺の心の中はそれとはまったくの正反対。通り過ぎる人が笑顔であればある程、苛立ちにも似た感情が湧き上がってくる。

放っておいてくれと自分で言っておきながら。姉貴に甘えてダメな奴になっていくのが嫌だと思いながら。その一方ではきっと、いつもにだけは気に掛けていて欲しいと思っている自己中心的な自分がいた。

構うな、帰れ、と口では言いながら。いつだって、本当はその逆だった。


(俺のことを放っておいて、こんなところで男と楽しそうに笑っとるんか)


そう思って、の笑った顔を思い起こせば無性に腹が立った。いつも俺のことを心配していて欲しい。探して欲しい、と心の中の俺はを独占したがっていることに、自分ですら今の今まで気が付いていなかった。

そして、こんなやり方でしか甘えることのできない自分を棚に上げ、何故だとを責める。何故探さない。何故、連絡しない。理不尽で一方的な感情は、騒がしい雑踏の中で消えていくことなく、大きく膨れていくばかりだった。