ヒトリジメ −後編−






am 1:02

この家の玄関のドアを開けるのは果たして何日ぶりだろう。以前のようにすっかり家族が寝静まった時間に家に戻ってきた俺は、物音を立てないように靴を脱いで中へ上がる。

今日はキッチンの電気は点いておらず、当然の姿も見当たらなかった。ギシ、と微かに階段を軋ませながら上がり、自分の部屋へ行く途中の部屋の前を通ったけれどドアの下の隙間から明りは漏れておらず、もう寝てしまっているようだった。

それから自分の部屋へ行き、中へ入ると真っ暗なその部屋はシン、と静まり返っている。照明のスイッチを入れるとすべて最後に俺がここを出た日のまま。床に転がった雑誌も、脱いだままの上着も、当然何一つ変わっていなかった。

とりあえずベッドに寝転んで、目を瞑る。するとそこに映るのは数時間前に見掛けた、の姿。そしてその腕が知らない男の腕と絡んでいるのを思い出せば、また苛立ちが蘇ってくるようだった。

俺の事なんて、もう忘れてしまったんか。

もう帰りたくなどなかったこの家に、また戻って来たのは、に対する当て付けのためだった。けれど、いつだって遅くに帰って来れば起きていて出迎えてくれたの姿が今日はなく、顔を見れば皮肉の一つでも言ってやるつもりだったのに、できなかった。

それもこれも全部あの男のせいなのだと思えば、憎しみにも似た感情は募っていくばかり。目を瞑ったところで眠りにつくことなどできなかった。







am 6:48

「……雅治……?」


珍しくキッチンで朝食をとっている俺のことをみて、まだパジャマ姿のは心底驚いたような顔をしていた。 そんな態度をとるのは姉くらいなもので、他の家族は突然俺が帰ってきたことにもさほど感動がないらしく、極めていつもどおりだった。


「帰って、きてくれたの」
「……ああ」
「そう……よかった」


あんな風な態度をとったというのに、はちっとも怒ってなどいなかった。

帰って来たばかりの時は、なぜ放っておいたのか責めてやろうと思っていたものの、ほっとしたように笑うその顔を見ればそんな気はすっかり削がれてしまい、どこかへ消えて行く。

それから、食べている間中となりの椅子に座り、俺がいない間の家の中の話などをされたが、それには「そうか」と適当に相槌を打つばかりだった。


「いってらっしゃい」


玄関を出るところまで見送りにきたに、返事はせずに頷いて家を出た。そのまま歩いて、途中振り返るとまだそこにいて、こちらへ小さく手を振っている。

途中コンビニに立ち寄り、何か飲み物でも買おうと思ってレジで財布を開いてみると、入っているはずの万札の枚数が多いような気がした。……が、気が付かないうちに入れたのだろうか。およそ中学生が持つに相応しくない額の金を持つことにも、いい加減慣れてしまった。

姉は昔から、いつだって俺にばかり優しい。だから、それなら当然あの笑顔も、優しさも、小さい頃からずっと全部俺だけのものなのに。他の奴にくれてやる分なんて微塵も余っていないというのに。

チャリン、というお釣りの硬貨の擦れる音を聞きながら。自分ですら知らずにいた支配欲、独占欲が俺の中に存在し、そして、もう手の付けられないくらい大きく膨れ上がっていくのを、気味が悪いと感じていた。







pm5:16

「仁王先輩って、おねーさんいるんでしたっけ?」
「……?ああ」


部活中、他の奴らの練習を眺めていたら隣に立っていた赤也が俺に向かってそんなことを言った。何故急にそんなことを、と思いつつもとりあえずそれに頷く。


「どんなヒトなんすかー?すげー美人だったりして」
「べつに……普通ぜよ」
「またまたあ〜そんなこと言ってえ。いいじゃないっすかあ」


赤也は楽しそうにへらっと笑っている。


「うちの姉ちゃんなんて、マ〜ジ〜でヒドイんっすよ!ありゃ鬼嫁ならぬ鬼姉っす!」
「……はは、そうなんか」
「仁王先輩のおねーさんは、怒ったりしないんすか?」
「ああ……べつに、せんな」
「へえーいいっすねえ、優しいおねーさんがいると!羨ましいっす」


「今度写真見せてくださいよ〜」とねだる赤也には「そのうちな」と適当に返事をして、また練習に戻った。手に握るラケットを見れば、このグリップも、ガットも、姉貴の金で買ったことを思い出す。それだけじゃない、スニーカーも、テニスバッグだってそうだ。

自分でも気付かないうちに、いつの間にか、姉貴がいなくては生きられないようになっていた俺がいた。勝手に一人で生きている気になっていたが、実際にはそんなことはなかった。

子どもの頃から、はいつも優しかった。俺がどんなにいたずらをしたって、困った顔はしても怒ったりはしなかった。

そんな姉貴に、きっと俺はずっと甘えていたんだ。







pm10:53

今日は学校が終わった後も、寄り道せずに真っ直ぐ帰宅した。そして、朝食と同じく、久しぶりに家で夕食をとる俺のことをは嬉しそうに見ていた。

自分の部屋に戻ってベッドの上で適当に雑誌を眺めていると、ドアをノックする音と一緒に俺の名前を呼ぶの声が聞こえたので起き上がってドアを開ける。


「あ、ごめんね。もしかして寝てた?」
「……いや」
「そっか」
「何か、用か」
「べつに、用じゃないんだけど……。その、いるかな、ってちょっと見に……」


どうやら、部屋にちゃんと俺がいるかどうかを確認しに来たらしいは、自分でもおかしいと思っているのか、ちょっと苦笑いをする。


「ごめんね、それだけ。じゃあ……」
「……姉貴」


去って行こうとする後ろ姿に声を掛けると、ぱっと振り返る。一体、彼女を呼び止めてどうするつもりだったのか、自分でもわからないけれど、気が付けば俺はそうしていた。


「ちょっと、話せんか」
「……え?う、うん。もちろんいいよ」


そう言えば、は不思議そうにしながらも、すぐに嬉しそうな顔になった。それから少し開けていただけの部屋のドアを大きく開いて、部屋の中に招く。適当に座ってくれ、と言うとベッドに腰掛けたので俺もその隣に座った。


「話って?」


俺のことを見つめる、のことをしばらく黙ったまま眺めていた。何を話すかなんて、そんなこと考えていなかったからだ。普段だったら、適当な世間話くらいすぐに浮かんでくるのに、今は何も考えられなかった。

あの、男のこと以外は。


「……雅治?」


の顔から目線を落として、パジャマ姿の、その体から足先まで全部を眺める。

ずっと俺のそばにいたをそいつにとられてしまった様な気がして、またイライラとした感情が湧いてくる。まるで、お気に入りのおもちゃを取られてしまった小さな子どものような気分になって、とにかく誰かに当たりたかった。


「べつに、話なんか、ない」
「……え?」


自分で呼んでおきながら、早くここからいなくなって欲しいと思う我儘な自分がいた。そうでないと、何かひどいことをしてしまいそうな気がしたからだ。は当然、驚いたような表情をしている。


「姉貴と話すことなんか、何もないぜよ」
「……でも」
「悪いが、やっぱり出て行ってくれんか」
「雅治……どうかしたの?」


自分勝手に振る舞っても、は怒るわけでもなく、それどころか心配そうな顔をして軽く俺の肩に手を置いた。それは何だかやけに温かく感じる。


「何かあるなら話してみて」
「……」
「誰にも、言ったりしないから」


いつだって俺の味方をしてくれる姉のいることに、甘えていたし、それを当たり前に思っていた。それをずっと独り占めにしたくて、だから俺は、に構って欲しくて困らせるようなことばかりしていた。

厄介に感じていた自分の寂しがりな一面は、どんなに隠して、抑え込んでいるつもりでも、いなくなってはくれずにいつだってふいに顔を出す。


「……姉貴」


手を伸ばしてその頬に触ってみると、思っていたよりもずっと柔らかかった。きょとん、とした顔をしながらもは俺のことを見つめているだけ。


「どうしたの」
「……べつに、どうもせん」


そのまま手をその背中に回して抱き締めてみても、は抵抗せずになされるがままだった。風呂から上がったばかりなのか、シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐれば、の温かく柔らかい体をこのまま永遠にこうして腕の中にしまっておきたい感情が俺を支配した。


「……大丈夫?」


しばらくの間そのままでいると、は心配そうな声でそう言った。


(大丈夫なわけ、あるか)


必死に隠し続けてきた俺の本心が、欲しがっている。姉貴が欲しいのだと、言っている。

抱き締めたままベッドに向かって体を倒すと、覆い被さる形になった。ベッドの上で仰向けになると目が合っても、相変わらず抵抗することもなくその目を少し見開いて俺のことを見上げるだけ。


「俺に優しくするんは、何でじゃ」
「……え、」
「俺の事、好いとるからと違うか?」
「……どうしたの、急に、そんなこと……」
「何でも話していい、って言うたんは姉貴じゃろ」


鬱陶しいような振りを続けながらも、姉貴が好きなのは下の弟よりも俺なのだと思えば何だかいつも気分が良かった。他には誰も持っていない、その優しさはまるで自分だけが手に入れたような、気がしていた。


「俺が好きか」


それなら、の心も体もすべて俺のものだ。俺の知らないうちに、許可もなく、誰とも知れない奴にくれてやるなんて、そんなのは許せない。面白くない。


「答えろ」


の手をぎゅっと握り、その目をじっと見つめる。

俺の事意外見れなくなってしまえばいいのに、と思った。他の誰も好きにならずに、一生俺の事だけを好いていればいいのに。昼間の赤也の質問には普通だと答えたけれど、本当は姉貴の事を昔からずっと、一番綺麗で、可愛いと感じていた。

俺のせいでだめになっていくのを見るのは嫌だと、自分を偽って思い込ませて、セーブしていたけど、べつにそんなのもうどうでもいい。

見えない様に、気付かれない様にしていても、本当は心の底でずっと姉貴の事が好きだったから。だから、二人ともこのまま、お互いだけを必要とすればいい。他には何もいらない。家族も、友人も。あいつも。


「……まさ、はる……」


このまま縛り付けておくつもりだったのに、微かに怯えるように揺れるその瞳が、この胸を刺して、そしてジリジリと痛みが広がっていく。


(…………)


しばらくの間抑え込むようにの上に覆い被さっていたけれど、俺は掴んでいた手をぱっと離し、体を起こして小夜を見下ろした。


「冗談じゃ」


そう言って笑うと、はそのままの体勢で何も言わず、俺の事を見つめている。「ほら、起きんしゃい」とその手を掴んで起き上がらせると、そのままベッドから立たせた。


「ちょっとからかってみただけなんに、本気にしたんか」


どれだけ揶揄する様に笑ってみせても、はちっとも笑わなかった。自分も立ち上がるとその背中を軽く押しながら、部屋の出口まで歩き、ドアノブを掴んで開く。


「……雅治、」
「今日はもう終いじゃ。良い子は寝る時間ぜよ」


何かを言い掛けたを、半ば強引に部屋から押し出すようにして、ドアを閉じようとする。完全に閉まる直前、僅かな隙間で目が合ったけれど、向こうも俺も何も言わなかった。


ベッドへ戻り、その上に倒れ込むようにして寝転ぶと、まだの甘い匂いが残っていた。


(……俺は、何しとんじゃ)


あのまま、を自分のものにして一体どうするつもりだったのか。力づくでなら、いくらでも俺の好きな様にできるけれど、そんなことをしたところで。

の弟に生まれなければ、彼女に優しくして貰えることもなかったというのに。 それでも今は弟に生まれてしまった自分の事が憎かった。どんな形でもいいから、他人としてこの世に存在していたかったと願ってしまう。

そうすればきっと、ためらうこともなかった。


(…………)


本当は、心の中でずっとと呼び、慕い想い続けていた。反抗ばかりするのは、それを自覚するのが怖かったからかもしれない。

だけど、はっきりと自分の気持ちを確信した今、それを本人に伝えたって何にもならないことくらい、わかっている。所詮弟である自分はどんな手段を使ったって、あいつの場所になんて立つことはできない。

腕を組んで街を歩いたり、隠されたその柔らかく温かい肌に触れ、思い通りに扱うことも。できないことくらい、全部とっくに知っているのに。



それでも……やっぱりが欲しい。

いつだって、俺だけのものに。独り占めに、してしまいたかった。