「リョーマ、お姉ちゃん起こしてきて頂戴」 「え……」 俺は母さんに頼まれたから、本当はいやだったのに仕方なくを起こしに階段を上った。の部屋の前まで来たところで俺はいったん立ち止まり、一応ドアを軽くノックする。 案の定返事がないのでドアを開けて中をのぞいてみると部屋の中はカーテンが閉ざされたままで薄暗く、はまだベッドの中にいた。俺は床の上に散らばった雑誌や何かを、わざと踏みつけてやりながらベッドまで近づいて行った。 「ねえ」 とりあえずの肩を軽く揺らしてみると、は潜っていた布団からゆっくり顔を出してぼんやり、枕元にある目覚まし時計に目をやった。 「もう起きれば」 普段はあんなに寝起きの悪いがあっさり目を覚ましたのに内心驚きつつも、俺は無駄に手をわずらわせず済んだことに安堵していた。 さっさと一階へ戻り、「起こしてきてくれた?」と聞く母さんに「まあね」と答えてからしばらくして、やっとが二階から降りてきた。しかし洗面所には向かわずにそのままふらふらとリビングのソファに座るとだるそうにうな垂れた。 「、早く支度をしなさい」 母さんがわざわざ傍まで寄って行って、をたしなめる。するとは小さい子どもが駄々をこねる時のような声で「やぁだぁ」と言うとそのままソファに寝転んだ。 ああ、いつものことだ。は毎朝のように学校へ行きたくないと言い、そしてそのいつものことに母さんは「何言ってるの、行かなきゃ駄目よ」と少しきつく言い放つ。しかしまだパジャマ姿のままのはいやだいやだと、めそめそ泣き出して抵抗するのだった。 「全く、本当にあんたはワガママなんだから」 は昔から泣き虫で、甘ったれで、俺より2つも年上だというのにひとりじゃ何にもできないような奴だった。いつだって人に頼ることしか知らないは、母さんの手を焼かせることが得意だ。 「おう、どうした。朝っぱらから」 そんな騒ぎを聞きつけたのか、どこからともなく親父がやって来た。親父はソファの上でグズグズ言っているを抱き起こすと、「いいじゃねえか、今日くらい休んだって」と母さんに向かって適当なことを言う。 「駄目よ、この間もそう言って休んだのだし……もう!あなたがいつもを甘やかしてばかりいるから」 大体、がワガママな生き物になったのは大半が親父のせいだ。娘は甘やかすものだとか何だとか訳のわからないことを言っては、ずいぶんを可愛がってきた。 「しょーがねーなあ。じゃあ、今日は父ちゃんが送り迎えしてやっから」 それでどうだ?とにたずねると、親父に言われたのでは仕方ないと諦めたのか、あいつはしぶしぶ頷いた。 同じ青学に通っていたって、一年から入学した俺と三年から編入したとじゃ大分差があるだろう。もしかしたら編入するというのは俺の思っている以上に大変なことなのかも知れない。 だけど俺には何にもしてやれないし、こればかりは自身で解決しなければならない問題だと妙に冷静になりつつ、俺はそんなアイツを尻目に早々と家を出た。 -------- 「越前」 「……なんだ、手塚部長。何か用?」 昼休み。購買にパンでも買いに行こうと思って廊下を歩いていると、誰かに呼び止められて振り返れば、そこには手塚部長が立っていた。 「いや……お前のお姉さんの姿が三校時目から見当たらなくてな、今探していたところなんだが……」 「……は?」 「どこかで見かけなかっただろうか」とたずねてくる部長に(…なんでアンタが)と思ったところで、そういえばと部長は同じクラスだったことを思い出した。 前に、「おんなじクラスの手塚くんていうひとがね、すごくしんせつで、いいひとなの」とが親父に楽しげに話していたのを聞いた。 普段はあいつの話なんかどうでいいのに、が誰かの話をするなんて珍しいと思ってなんとなく覚えていた。大抵あいつは自分のことしか話さないし。(なぜなら自分のことしか考えていないから) 「さあ……知らないスけど」 「……そうか、呼び止めてすまなかったな」 そのまま立ち去るのかと思えば、部長はじっと俺のことを見たままだった。 「(……気持ち悪)何すか、人のことジロジロ見て……」 「あ、いや……すまない。……お前は、お姉さんによく似ているな」 部長は眼鏡の位置を左手の人差し指で直しながら、しみじみと呟いた。姉弟なんだから当たり前だろうと思いつつも、口には出さなかった。他人から見ると俺たちは面白いほど似ているらしい。 「まあ、性格は全然似てないけどね」 「ふ、そうだな。お姉さんはお前と違って、とても温厚な人柄だ」 「……温厚?誰が?(っていうかお前と違ってって何)」 「いいお姉さんじゃないか、越前」 部長はそう言って来た道を帰ろうとして、背を向ける。 「……ねえ。まさか、好きなの?」 「何をだ?」 その言葉に律儀に振り返った部長は、はぐらかすとかそんなつもりじゃなくて本当に何のことだかわからないような顔をしていた。(しまった、この人天然だった) 「アイツは止めといたほうがいいっスよ」 「アイツとは誰のことだ」 「自分のことお姫様か何かとでも思ってるから」 話の内容をいまひとつ理解していない部長にそれだけ言い放つと、俺はその場を離れた。それから 購買でパンを買い、昇降口を出て校舎伝いに歩いていく。だいぶ校舎から離れて人影もなくなったような場所にはいた。きれいに整えられた緑色の芝生の上で、小さくうずくまっている。 「」 声をかけるとはゆっくりと顔を上げる。俺は一体何をしているのかとため息をつきつつも、のとなりに腰を下ろした。 「何してんの?こんなとこで」 「……なんで?」 ……全然返事になってない。はボキャブラリーが少ないから、誰かに何かを問い詰められた時うまくいい訳が出来ずに「なんで?」と「だから?」しか言えない。これはもう昔からだ。 「まだ親父は来ないと思うけど」 のことだ、どうせ親父が迎えにくるのでも待っていたんだろう。あいつは困った時にはいつだってうずくまったまま、誰かが手を差し出してくれるのをじっと待っている。子どもの頃はそんなに苛立ったり、疎ましいと思ったりもしていたけれど。 「ねえ、とりあえず何か食べれば?」 さっき買ってきたパンを一つ、に向かって放り投げる。パンはに当たるとポサ、という音を立てながら芝生の上に落ちていった。は興味なさそうにそのパンをちろりと見てまたすぐ顔を元の向きに戻した。 はどうも日本の食べ物が口に合わないらしく、こっちに来てからロクに食事を摂っていなかった。昨日なんて、オレンジジュースを飲んだだけらしい。母さんが冗談半分に「そのうち死ぬんじゃないかしら」と言っていたが、このまま誰も構わず放っておけば本当に死んでしまいそうだ。 明らかに以前よりも痩せたのことを見ながら、本当に馬鹿な奴だと思った。 俺たちは確かに日本人だけど、それでも自分たちの国といえばやはりアメリカだと思ってしまう。だから俺たちは日本人であって、日本人じゃない。だけど、アメリカ人でもない。俺はが昔からそのことで悩み、悲しんでいることを知っていた。 「……何か、また嫌なことでもあったの?」 まるで小さな子どもにでも話しかけるようなしゃべり方で尋ねてみる。するとの目からは涙が溢れてきて、俺はそれが頬を伝っていくのを静かに眺めていた。 「……かえりたい……」 今にも消えそうな声で、そう呟いた。 ああ、だけど俺にはそれを叶えてやることができない。 たとえそれがのたった一つの願いだったとしても。 不機嫌なピンク |